<社会の中へ>
◇裏付けデータ有無で見極め
2月上旬、東京都町田市で開かれた講演会「元気な脳のつくりかた」(町田市私立幼稚園協会主催)。約700人の保護者に、森昭雄・日本大教授(脳神経科学)が語りかけた。脳の画像を示しながらの講演は刺激的な警告に満ちていた。
「15年間、ゲームを毎日7時間やってきた大学生は無表情で、約束が100%守れない」「ゲームは慣れてくると大脳の前頭前野をほとんど使わない。前頭前野が発達しないとすぐキレる」
森教授は02年、「ゲーム脳」仮説を提唱した。テレビゲームをしている時には脳波の中のベータ波が低下し、認知症に似た状態になると指摘。その状態が続くと前頭前野の機能が衰えると警告した。単純明快なストーリーはマスコミに乗って広がり、暴力的な描写に眉(まゆ)をひそめる教育関係者や、ゲームをやめさせたい親に支持された。
しかし、ゲーム脳はニセ科学だとする専門家の批判は強い。この日も「ニセ科学を教育に持ち込むのは問題だ」との意見が7件、後援する市教育委員会に寄せられた。市教委は「(ゲーム脳という)考え方があることを紹介する講演会。判断は聞いた人にゆだねたい」と話した。
批判される理由はいくつかある。
森教授は一般向けの本や講演を通して仮説を広めてきた。本来、仮説は他の科学者が同じ条件で試すことで初めて科学的な検証を受けるが、その材料となる論文はいまだに発表されていない。
手法にも批判がある。森教授は自ら開発した簡易型脳波計による計測で仮説を組み立てたが、複雑で繊細な脳機能をその手法でとらえるのは不可能、というのが専門家の共通した見方だ。
科学界からの声に森教授は「脳波を知らない人や、ゲーム業界の支援を受けている人の主張だ」と反発する。「電極を増やした精密計測も進めており、論文はいずれ書く」とも話した。最近になって「ゲームはいけない」との主張を「1日15分なら大丈夫。共存も考えなければ」と変えた。こうした一貫性のなさも不信を持たれる一因だ。
ゲームは脳に悪いのか。これに答える科学的材料は現時点ではない。
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東北大加齢医学研究所の川島隆太教授(脳機能イメージング)は今、最も注目される脳研究者の一人だ。97年に、ヒトだけに発達している脳の前頭前野が、人間らしい「賢さ」「理性」にかかわっているという仮説に基づき、先端計測技術で検証を始めた。国のプロジェクト「脳科学と教育」で、単純計算や音読が前頭前野を活性化させることを見つけ「学習療法」と名付けた。
03年に発表した論文では、認知症の高齢者16人に半年以上学習療法を受けてもらった結果、認知機能テストの成績が上がったと報告。何もしなかった16人の成績が低下傾向だったことから「認知機能改善に効果がある」と考察した。
こうした成果を企業が応用したのが、脳を鍛えるという意味の「脳トレ」だ。06年の流行語となり、川島教授の似顔絵が登場する任天堂のゲームソフト「脳を鍛える大人のDSトレーニング」は、続編も含め1000万本以上を売り上げた。
川島研には年間数十社から共同研究の依頼が来る。東北大が半分近くに絞って共同研究契約を結ぶ。商品化は企業が担当し、契約料や売り上げの一部は大学の収入になる。川島教授は産学連携の一方で多くの共著論文を発表し、昨年活躍した科学者を表彰する文部科学省科学技術政策研究所の「ナイスステップな研究者」にも選ばれた。
ただ、脳トレの過熱を心配する声もある。日本神経科学学会会長の津本忠治・理化学研究所脳科学総合研究センターユニットリーダーは「川島氏の研究は科学的な手続きを踏んでいるが、認知機能の改善が本当に学習療法だけによるかはさらなる研究が必要だ。『改善した』という部分だけが拡大解釈され広がることで、計算さえやれば認知症にならないと思い込む人が出てくるかもしれない」と話す。
川島教授は「(脳トレは)脳研究の重要性を理解してもらうための社会貢献の結果。もちろん、ここまできてウソだったら科学者の資格はないと覚悟しているが、社会への出方を完全に制御はできない」と話す。
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脳に関する仮説が性急に応用される傾向は各国にあり、「神経神話」と呼ばれる。OECD(経済協力開発機構)教育研究革新センターは01年の報告書で神経神話を取り上げ、教育者、マスコミ、政策立案者、企業の勇み足をけん制した。
「脳研究はしばしば間違って解釈・簡略化される」「大衆紙は研究の報告を単純化しすぎる」--。報告書は日本でも根強い「右脳教育」「早期教育」「3歳までは豊かな環境で」という三つの神話を挙げて「やっても問題ないが、科学的根拠はない」と結論づけた。
議論に参加した小泉英明・日立製作所フェロー(分析科学)は、光を使った脳計測の第一人者で、国のプロジェクト「脳科学と社会」の研究総括も務める。「脳のように身近な問題には社会の関心が高い。しかし、今の脳科学は、社会の関心に十分応えられる段階に達していない」と指摘する。
小泉さんから見れば、視覚野、前頭前野など個別の部位について語れる専門家はいても、脳全体を語れる専門家はいない。「脳ブームでは、論文も書かない非専門家がマスコミにまつり上げられ、脳で何でも分かるかのように社会は受け止める。そんな単純なものではないし、そう言った途端、脳科学は進歩を止めてしまう」
日本では今、さまざまな人が登場し「脳ブーム」を演出している。ブームに惑わされないためには、裏付けとなる科学的データの有無を見極める必要がある。【元村有希子、西川拓、永山悦子】
◇独り歩きする分かりやすさ--「うまい話」はない
◇「あるある騒動」で浮き彫りに 「お墨付き」、専門家は責任持って
「分かりやすさ」は誤解を生む余地となり、独り歩きから社会を揺るがす事態も起こす。実験的手法を取り入れて健康情報を紹介した「発掘!あるある大事典2」(関西テレビ)は、短い言葉で言い切る分かりやすさを追求するあまり、ねつ造により打ち切られた。
「少しオーバーかな、と思う表現もあったが、多くの人を引き付け、健康や食物・栄養に関心を持ってもらうきっかけになればと協力しました」
この番組に10回以上出演した昭和女子大の中津川研一教授は言った。中津川さんは食用油脂研究の専門家で、食品・栄養学全般に詳しい。ねつ造が発覚した「納豆ダイエット」にも、コメンテーターとして出演した。
視聴者の興味を引くために、学術的な正確さという点で内容に問題があることには気付いていた。しかし、「無味乾燥に知識を並べても一般の人は振り向いてくれない。研究成果に関心を持ってもらい、大ざっぱでもいいから理解してもらう方法も必要です。『論文のような正確さを追求する番組以外には、科学者は協力すべきではない』という考え方は、少し極端に感じる」と話す。
その一方で、紹介した食品が放映後に売り切れる現象は「おかしい」と感じたという。「私が言うのは変かもしれないが、これ一つですべてうまくいくという『うまい話』はありえない。視聴者も、情報を冷静に取捨選択することが必要だと思う」と語る。
「あるある」の手法に批判的な小波秀雄・京都女子大教授(計算機化学)は「視聴者が簡単に答えだけを求めた結果、非科学的な内容にも簡単にだまされる。『世の中にはウソやごまかしがたくさんある』という社会的常識がないことも背景にある。分かりやすい答えに飛びつくのではなく、自ら考え行動することを心がけてほしい」と言う。
協力する専門家にも小波教授は注文をつける。「科学的な味付けが番組の信頼性にお墨付きを与えている。特に『大学教授』という肩書は信頼できるという社会的合意があるのだから、教授たちはそうした責任を負っていることを自覚すべきだ」と指摘する。
研究者はどのように科学的成果を伝え、市民はどう受け止めるべきか。模範解答はないものの、今、一人一人が自らの問題として考えることが求められている。
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毎日新聞 2007年3月1日 東京朝刊