■私は現実的な方ではあるが、結構ロマンチストで空想癖がある。たとえば、今、この瞬間、胡錦濤国家主席が、ダライ・ラマ14世と直接対話を行う、と発表したらいいなあ、とか。そして、対話の結果、香港やマカオのように、チベット自治区に高度な自治を認める方向で話し合いが継続される、とか。「猊下の里帰りを歓迎する」と発言してほしいなあ、とか妄想する。
■もし、北京五輪開催直前にダライ・ラマ14世がラサに帰還して、胡主席としっかり握手する映像が、世界中のテレビメディアに同時放送されたりした日が来たら、私は心をこめて、このブログで「2009年のノーベル平和賞は胡錦濤さんに差し上げよう大キャンペーン」を展開するだろう。しかし、そこまで空想して、ふと私の現実主義者的な部分が頭をもたげる。絶対ありえねぇ~。
■胡錦濤主席は20年前のラサ暴動のとき何をしたのだろう?鎮圧の指揮をとって、戒厳令出して出世コースに乗ったのだった。というわけでここで、中国共産党とチベット族の関係についておさらいをしておこう。前エントリーのコメントをみると、実は意外に知らない人も多いのではないか、という気がしてきたので。
■まず、89年のラサ暴動の話から。きっかけは1987年9月21日、ダライ・ラマ14世によるアメリカ議会での演説だった。ダライ・ラマ法王はこのとき、五項目和平プラン、というのを提唱した。
①チベット全土(カムもアムドも)を平和地帯とすること。
②民族としてのチベット人の存在を危うくする中国人の大量移住政策の放棄
③チベット人の基本的人権と民主主義自由の尊重。
④チベットの環境の回復と保護。中国がチベットを核兵器製造および核廃棄物の場所として使用することの禁止。
⑤将来のチベットの地位、並びにチベット人と中国人の関係についての真摯な交渉の開始。
■しかし、中国側はこれを独立の意志ありとみて、民族主義者8人を処刑するという形で対応した。で、これに怒ったラマ僧が独立要求デモをおこした。1959年の民族蜂起以来、初めてのデモだった。流血をともなうデモは10月、翌年88年の3月にもおきる。
ダライ・ラマ法王は88年6月、ストラスブールで開かれた欧州会議で、「独立要求撤回」としっかり言って「要求しているのは高度の自治だ」と中国側に呼びかけたが、中国側、聞く耳なし。
■当時のチベット自治区書記は伍華精というイ族の人で、チベット族の宗教と自由を比較的重視し、「ラマ書記」なんて呼ばれた。この人をチベット書記に送り込んだのは胡耀邦書記。で、胡耀邦さんといえば1980年にチベット自治区に訪れたとき、その貧困を目の当たりにして「我々の党がチベット人民の期待を裏切ったのだ(ごめんなさい!)」とチベット族に謝罪した唯一の中国指導者である。このとき、「チベット文化を否定する漢族幹部はたとえ誰でもあっても完全に間違っている」とか、非常にチベット族よりのことをいって、民族融和政策がすすめていたのだが、87年1月、胡耀邦氏は保守派の巻き返しで失脚していた。ダライ・ラマ演説の9月は、その失脚の影響がチベットに及んでいた、ちょうどその時期で、実にタイミングが悪かったのだ。胡耀邦氏が健在であれば、チベットの歴史は変わっていたかもしれない。
■「ラマ書記」伍華精は、中央の指示がないまま、僧侶らのデモにどう対応したらいいか、胡耀邦路線でそのままいくべきか、おろおろ悩んでいるうちに心労がたたって倒れ北京に搬送された。88年12月1日付で代わりにラサにやってきたのが若き日の胡錦濤氏。彼は貴州書記時代に学生運動をうまく鎮圧した手腕を買われてチベットに送り込まれてきた。
■そして鄧小平氏の期待どおり、胡錦濤氏は12月10日の独立要求デモに対して発砲し断固とした態度で鎮圧。このとき死者1人、負傷者13人。89年1月19日には88年3月のデモでとらえた僧侶を公開裁判、即刻処刑。これにラサ市民は衝撃を受け、「漢人かえれ~!」「独立だ!」と騒然となった。
■1月23日、パンチェン・ラマ10世はシガツェ・タシルンポ寺院で、文革時代に紅衛兵
に墓を暴かれた歴代パンチェン・ラマの遺体の改葬儀式を執り行った後、胡錦濤氏も列席する宴席で、こういったそうだ。
「チベット解放40周年になるが、われわれはこの間の成果を上回る悲惨な代価を支払ってきた」
「あなた方の中には、われわれの悲劇をわすれ、同じ過ちを繰り返しているものがいる」と。この境遇で胡錦濤にいえた最大限のいやみだった。
パンチェン・ラマ10世は1月28日、悲嘆の中で心臓発作で崩御。チベット族の代弁者が失われ、事態を食い止めうる人物はいなくなった。
■胡錦濤氏はこれを受けて、2月6日、正月の「大法会」中止を発表。この翌日から、僧侶、市民らは独立のスローガンを叫びなら日々、ラサのジョカン寺あたりに集結。胡錦濤氏は、これに対応すべく、中央に対して文官出身の地方出身者としては異例の軍出動準備、軍出動命令権を要求し、鄧小平氏はOKを出す。これを電話で伝えたのは趙紫陽氏という。さらに戒厳令発令は、胡錦濤氏が必要だと思う時に中央に提言するように、ということになった。
■そして、ついに流血の1989年3月5日となる。数百人規模の市民がジョカン寺付近に続々と集結するのをみて、胡錦濤氏は午後1時40分、武力鎮圧の命令を出す。鎮圧は2日わたり、死者は、中国側公式発表は武装警官1人を含む十数人。
■7日夜、8日より戒厳令を発令すると発表。、チベット民族蜂起30周年の3月10日のデモ再発を警戒してのことだ。そして翌年4月にやっと戒厳令解除。この見事な鎮圧手腕に感服した鄧小平氏は、89年6月4日の天安門事件制圧のときの参考にしたとかしなかったとか。そして1989年10月、非暴力対話路線を打ち出したダライ・ラマ14世がノーベル平和賞を受賞するのである。
■というわけで、20年前に容赦なく鎮圧行動に出た胡錦濤氏が、今、すっかり丸くなって、対話路線にいく、というのは、やはりあり得そうにないのであった。胡錦濤氏は胡耀邦氏をすごく尊敬していたというのは本当だろうが、やることは正反対。尊敬していた人でも失脚してしまうと、保身もあってあえて反対の方向に思いっきりぶれようとするみたいだ。
■しかし、中国指導者は、なぜここまで苛烈な対チベット政策をとるのだろうか。どうして胡耀邦氏みたいになれないのか。考えてみれば、今回の騒乱も10日や11日の僧侶のデモや座り込み抗議にうまく対処できれば軍(武装警察)出動の必要があったとは思えない。2005年の反日デモだって数万人規模で一部暴徒化して、日本大使館とか総領事館とか攻撃を受けたけれど、鎮圧なんてしなかった。香港なんて50万人デモがおきていても誰も文句いわない。
■チベット族は確かに猛々しい人もいるが、基本は穏和な仏教文化の世界なので、抗議の自殺などはあっても、自爆テロとかは聞いたことがない。しかも、ほとんどのチベット族が敬愛するダライ・ラマ法王は非暴力主義者だ。こういうと怒る人もいるだろうが、いざというときは中央アジア諸国の武器庫の後ろ盾がありそうな新疆独立派とくらべると、中国にとって、もはやそんなに脅威ではないと思うのだが。
■ここで、新中国にとってチベットとはどういう土地なのか、考えてみよう。
■チベットは清を宗主国とした隷属国家であったが、清滅亡機会に独立する気まんまんだった。ただ、モンゴルと一緒に独立宣言をしてみたものの、当時の国際社会(帝国列強)はそれを承認せず、一方で中華民国は統一多民族国家ができました、と宣言していた。
■そういう宙ぶらりんの状況でも、当時の国民党は国境内戦に忙しく、チベットに本格的に手を出すひまがなかった。そうこうするうちに抗日戦争で疲弊して、国共内戦で負けてしまい、台湾に脱出。そこで勝利した中国共産党がこんどはチベットを狙う。
■中国共産党はチベットを完全に手にいれるまで、3度戦争をやっている。
一回目はチャムド(昌都)作戦(1950年10月7日)。国共内戦にようやっと勝利した中国共産党は、休む間もなく朝鮮戦争に介入。このとき、外国の干渉を警戒して、チベット政府に中国との関係を受け入れるように呼びかけた。
■この時、交渉勧告団をラサに何回も派遣したが、青海交渉勧告団団長は中国側にとらわれの身であったダライ・ラマ14世の実のお兄さん、クンブム僧院院長・タクツェル・リンポチェ。お兄さんは弟の法王を中国に従うように説得する役割を担って、説得が成功しなければ、オマエが法王を殺せ、みたいなことを中国側に言い含められているのが映画「クンドゥン」であったな。チベット側が妥協せずにいたら、解放軍第2野戦軍が、チベット東部チャムドに侵攻。
■チベット軍8000人が応戦したが抗日ゲリラ戦で鍛えた中国軍の敵ではなかった。これを中国語でいうと昌都解放。チベット側からみれば侵略。実はこの作戦の成功は、この地のチベット族カムパ(カムの人々)の協力があったことが大きいといわれている。カムの人々は当時のチベット政府の役人と兵隊の横暴をきらって、解放軍の通訳や補給を支援したそうだ。このころのチベットは僧侶を頂点とする身分階級制だったから、チベット帝国支配をきらう人もいたわけだ。
■これをみて、チベット側は妥協せざるをえなくなって政府代表団を北京に派遣、軍事力を背景に一方的にチベットが中国の一部であることを認めさせる17条協定をつきつけられ、調印。これをたてに、1951年10月26日に解放軍2万がラサ進駐。いわゆる「チベット解放」、チベット側からみれば武力侵略が完了した。このときダライ・ラマ14世は16歳にしてチベットの命運をその両肩に背負わせていた。
■2回目の戦争は、1956年~62年のチベット族民族放棄、中国側からいうと反乱鎮圧。中国共産党は、チャムド作戦を成功させまんまとチベットを手にいれたはいいが、チベット文化・宗教というものを分かっていなかった。社会主義改造として、僧院を含む封建勢力を打倒し、農民にその財産を分配しようとしたのだが、尊敬の対象の僧侶を虐めて逆に農民から恨みを買った。一方、集団農場、政治学習会、宗教行事の禁止など、上からの改革の押しつけ、漢族幹部の横暴と差別に、もともと 自由奔放、性格も激しいチベット族の抵抗がはじまる。
■このセブン・イヤーズ・イン・チベットのピークが1959年3月10日におこったのがいわゆるチベット動乱、ラサ市民武装決起の日。今回の騒乱の発端であったデプン寺僧侶デモが制圧されたのも同じ日だった。
■中国共産党のチベット動乱鎮圧は拙速で苛烈を極めた。貴族、僧侶ら支配層を残虐な方法で公衆の面前で処刑した。ダライ・ラマ法王は3月17日、インドへ脱出したのだった。ダライ・ラマ法王脱出後、チベットは阿鼻叫喚の混乱におそわれ、民族浄化にも似た苛烈な政策がとられ、、今にいたるまで癒えることのない傷をチベット族の心に残した。このあたりを詳しく公の場でいうと、「反国家分裂法」に牴触しそうなので控えるが、この歴史を詳しく知ると、チベット族に同情的になる人が多い。
■3度目の戦争は1962年10月の中印国境紛争。インドがダライ・ラマ法王とチベット難民を受け入れたことで、中印の対立も先鋭化し、国境問題が浮上、両軍が衝突。毛沢東の大躍進の失敗による激しい飢餓の中で勃発したこの戦争で、劉伯承率いる中国軍は、ヒマラヤ各地のインド軍を分断、カシミールの東アクサイチンを抑え、ヒマラヤ南麓アルナチャル・プラデシまで進出、アクサイチンを保持し、アルナチャプル・プラデシを放棄して、この国境が暗黙の了解ということになった。
■この3度の戦争で、中国軍もかなり血を流した。なにせ、標高4000㍍とか6000㍍のハイランドでの戦闘である。チベットを手に入れるのはすごく苦労したのだ。というわけで、漢族にとってチベットは、漢族の血であがなって勝ち取った領土、ということになる。だから、チベット族に対しても心の底には被占領地民、といった差別意識があるかもしれない。漢族文化の洗礼を受けず、社会主義市場経済に適応できず、中華民族の大家庭に入ろうとしないチベット人は、犬と同じ、くらいに思っているかもしれない。
■チベットはウラニウム、金はじめ稀少鉱物の宝庫であり、水資源の源(中国だけでなく全アジアの)であり、対インドの軍事的要衝であり、最高の観光資源であり、世界で一番宇宙に近い世界の屋根である。というわけで、こんなおいしい土地をなぜ、活用の仕方も知らないような坊さんや蛮族のチベット族にやらねばならないのか、と思っているかもしれない。
■翻って中国国内をみれば、耕地は砂漠化し、資源は枯渇ぎみで、経済は発展しているように見えて矛盾だらけで、アクセル・ブレーキの壊れた、いつオーバーヒートするかわからない車で爆走しているようなもので不安だらけ。腐敗、汚職は蔓延し、農民は相変わらず搾取され、貧富の差は拡大し、インフレで家計は苦しく、、環境破壊、公害で、癌村だの異常出産だの急増していて、北京だけ五輪だ!と華やいでいるが、地方財政は真っ赤っ赤である。
■反日感情の根っこもそうなのだが、日本相手に戦争に勝ち、国民党を相手に戦争に勝ち、ちょっと動くだけでめまいのするような空気の薄いハイランドをあまた血を流して勝ち取った漢族がなにゆえ、こんなに惨めな境遇に甘んじなくてはならぬのか、という恨みと不満の感情が、実はかなり広い庶民層にある。この不満、ねたみ、恨みの感情はともすると、「政府・共産党が悪い」という風に矛先が転換することがある。2005年の反日デモが、一瞬、そうなりかけたので、当局は途中から徹底的に抑えたのである。
■中国が本当に恐れているのは、凶暴なチベット族の暴動でもチベット独立分子の決起でもない。もちろん欧米諸国の五輪ボイコットでもない。13億人民の党に対する求心力が失われ、党への批判が表面化することなのである。それは政権・共産党王朝の存亡に直結する。チベット族540万人なんて、13億人人民の不満爆発とくらべれば屁でもなかろう。
■ここで、中国は国内世論を重視する。もともと、チベットは俺たちが鮮血で勝ち取った土地、という意識をもち、チベット族に対して差別意識もある中国人民の前で、中国共産党がチベット族ごときに弱気になれようか?ダライ・ラマ14世と対話できようか?対話したとしても、妥協など一切ありえない!というわけだ。
■共産党政権は銃口から生まれた政権であり、その本質は軍事独裁政権である。もちろん今は洗練された衣装をまとい化粧をほどこしている。だから、共産党の求心力維持の基本は軍事行動、軍事行動の結果の誇示にある。中国がかつて反日教育を政策に取り入れてきたのは、抗日戦争こそ、共産党政権の正統性を誇示できる軍事的成果であり人民の求心力の源だったからだ。同様に、共産党が軍事力で勝ち取ったチベットの支配の強化と、独立分子への断固とした態度は、人民の望む「強い共産党」「強い中国」の姿であり、その姿勢は何をおいても維持しつづけねばならない。これは台湾問題の根っこにも共通する。
■最近、中国のテレビドラマをみると、解放軍を主人公にした連続ドラマが多い。女の子が鬼畜日本兵にレイプされそうになったとき、白馬にのって解放軍がやってくるのだ。日中関係改善のおりのこの種のドラマは、けっして反日感情をあおるのが目的ではない。これは解放軍のヒーロー化、共産党のヒーロー化プロパガンダ・ドラマである。
■今度のラサ騒乱も、ネット世論の反応をみるに、すばやく反乱分子を鎮圧し優れた働きをみせた軍への賞賛がある。中国は、庶民に向かって「まだまだ強い中国共産党軍」健在ぶりをひさびさにアピールできたのである。これで、社会保障整備もままならぬ中国において国防予算17・6%増というのも言い訳がたつ。
■こういう状況で、軍事主席委2期目の胡錦濤氏が〝しっぽを巻いて逃げいていったダライ・ラマ14世〝に、間違っても対等に話し合おう、とはいえない。100歩譲って、全面降伏するなら、命は助けてやってもいい、くらいだろう。たとえ五輪が吹き飛んだとて、そこは譲れないはずだ。だいたい、中国市場にこれほど経済を頼り切っている欧米諸国が、いくら虚勢をはっても、中国様にむかって五輪ボイコットなんていえるはずもなかろう。そのあたりは100%見越されている。
■ああ、残念だ。中国人がノーベル賞受賞する日はまだ当分さきなのだ。
by toko
胡錦濤主席にノーベル平和賞を…