「星の王子さまの世界」,著者;塚崎 幹夫,中公新書 638,195p.,1982年,¥400.-(2000年5月20日,18版,¥600.- + 税,ISBN 4-12-100638-0)
一番初めに推薦する解説書。それはこの本をおいて他にありません。
“芽の内に摘みとっておくことを怠ったために大きく成長して星を破滅させようとしている3本のバオバブは、ドイツ・イタリア・日本を指している。” あなたはこのような「星の王子さま」の解釈があることを知っていますか? 「解説なんて必要ない!」と言うあなたにこそ、お勧めします。是非読んで下さい。顔面にべったりとへばりついてあなたの眼を覆っているプテラノドンが剥がれ落ちて行きます。「星の王子さま」は甘ったるい“童話”ではないのです。
卒論等で「星の王子さま」を取り上げる人にとっては、「読み方くらべへの招待」や「他の作品による『星の王子さま』注解」はありがたいガイダンスになるでしょう。
「星の王子さま☆学」,片木 智年著,慶応義塾大学出版会,19 cm 四六判, 221p.,2005年12月7日発売,¥ 1,800.- +税,ISBN 4-7664-1221-4
2005年後半は、日本の Le Petit Prince を愛する者(少なくとも、収穫する意欲を持った者、落ち穂なりとも拾い集めようとする者)にとって、実に実り多い半年になりました。本書はその掉尾を飾るにふさわしい内容を持つ作品です。小振りなペーパーバックという軽装と、短く区切られた節構造が与える軽量感にそぐわない内容を蔵した本なのです。
説明不足といって良いほどに切り縮められた各節がちりばめられていますから、要約紹介はとても無理です。皆さんご自身で読んでいただくほかありません。言葉遣いが平易なのでどんどん読み進んでしまいがちですが、読者自身で掘り起こさなければならない問題が結構多いので、用心してください。
既発表のものも含めて、書きためた原稿に加筆・修正したものだと言います。そうした作品にありがちなことですが、本書も何かを主張する強力な「軸」がありません。強いて言うなら「結び」の冒頭で述べる「 . . . 改めてこのサン=テグジュペリの遺品が『児童書』とはとてもいえないものだと再確認してくださったのではないか。」がそれに当たりましょうか。でも、前面に出て本書を貫き通すというわけではありません。ブリコラージュ、といっては大変失礼な表現になりますが、細かに区切った主題ごとに、長すぎない解説文が続きます。その長短は別として、本文は全部で5つの章に分かたれます。「『星の王子さま』学ことはじめ」「『星の王子さま』と子ども時代」「『星の王子さま』とラブストーリー」「奇妙な星の住人たち」「『星の王子さま』小辞典」です。その前後に位置する「はじめに」「大人になってからの『星の王子さま』」「サン=テグジュペリ ミニ伝記」「結び」も読み逃すことはできません。 【リンク:慶応義塾大学出版会 星の王子さま☆学 内容・目次】
「すべての『星の王子さま』ファンへ!」と帯で謳います。それは無理でしょう。「星の王子さまファン」はスペクトルが広いのです。そもそも「サンテックスの読者(の多く)は高い教育を受けていない」【未完ですが拙稿大衆作家サンテックス:読者層のレベルをご参照下さい。】といわれている始末。残念ながら、日本でもその通りだと思います。
仏教界では「人を見て法を説け」といいます。「嘘も方便」(厳格な内容が良いとは限らない。相手によって省略や判りやすい例え話を考えよ)とも。対話が可能なゼミナール等ではあまり気にしなくて済むのですが、一方通行の伝達となる講演や講義では、どのような人を相手にしているのかに気を配る必要があります。出版物の場合、相手は不特定多数なのですから、どんなレベルの人に語りかけるのかを、著者が想定しなければなりません。本書の内容は、決して初心者向けとは言えないのです。
既存の作品に加筆したせいでしょうか、論旨に若干のゆらぎが認められることがあります。また、使用する単語に関しても同じことが起き、たとえば本書では、基本的には「飛行士」と言う言葉が使われますが、部分的に「操縦士」が混入します。【 本来は「操縦士」が正しいのです。】
もう一人の自己(アルテル・エゴ)という観点が繰り返し指摘され、本書の大きな特色を作り出します。水本さんが「王子の成長」を指摘したのと同じ点に、この著者も着目します。Le Petit Prince は、旅を通しての成長譚として、伝統的な構成になっているというのです。アルテル・エゴとしての王子が成長するに伴って、「飛行士」も成長する。つまり、物語の二重構造がかたちづくられます。さらに著者は、物語の進行に合わせてサンテックス自身も成長し、フランスを離れ、様々な経験を積んだ後またフランスへ戻る(p.81-82)という円環によって、三重構造が完成するのだと言います。王子もサンテックスも、同じ「sacrifice の思想」に従って行動したのだ(p.82)というわけです。作者は物語の創造主ですから、作中人物と共に成長し行動するという考え方には異論が避けられないでしょう。また、「フランス出発」をアメリカへの亡命時点に策定していますが、キャップジュビーへの出立をそれに当てるべきであると私は考えます。
第三章5項「『人間の土地』と愛」で、サンテックスが列車中で目撃したポーランド移民親子の情景が引かれます。多くの人が子供の寝顔に「虐殺されたモーツアルト」を見たことを強調するのですが、この著者は別の点に注目します。雑巾のようにくたびれ果てた夫婦の姿に、若かった頃からの愛の変遷とその変質を思ったことを強調するのです。そして、「逆説的だが、私的でささやかな幸福を守り、思い出を大切にするためにも、もっと大きな人間疎外に対抗し、時に私的な幸福よりも優先されるものがあるということだろう」(p.108)と結論づけます。このような指摘は今までなかったものだと思われます。サンテックス(=王子)の二重性に統一的意味を与える重要な鍵を提起する意見となるかも知れません。
取り立てて本書がというわけではありませんし、本書中に下記のような記述があるというわけでもないのですが、安易に「キリスト教的解釈」を持ち出すのは考え物です。中途半端で底の浅い考察になってしまう虞れがあるからです。たとえばハルマゲドンの戦いの後、サタンとそれに与した人々はゲヘナに墜とされ、残った人々は「命の書」に記された生き様に照らして最後の審判を受けます。神の御心に従順であった人々のみが永遠の安寧な命を授けられるというわけです。ハデスについては旧約と新約、そして宗派による混乱がひどいのですが、裁きを待つ留置所と思えばよいでしょう。プリンスが既に「肉」を持たない存在であれば、操縦士と出会った砂漠はこのハデスになります。まだ「肉」を有する身であれば砂漠は、そこでの行いが命の書に追加記入される現世です。そして、プリンスをイエスになぞらえるならば、操縦士自身も共にハデスもしくは現世にいることになります。プリンスが星へ還った後は復活して、バラと共にパラダイスに住むことになるのでしょう。そのパラダイスでは、肉食動物もノアの方舟時代に先祖返りして草食動物となり、人間も含めた他の動物たちと平和に共存するのだといいます。つまり、ヒツジばかりかトラもバラを食べることになるのです。「トラは草なんか食べない」という言葉を、ここまで考えた上でサンテックスが書いたのかどうかは知る術がありませんが、物語をキリスト教的に解釈するのであれば、バラに害をなすものはヒツジにとどまらなくなり、共に永遠の命を得たプリンスとバラにとって、パラダイスは救いのない責め苦に満ちたゲヘナになるというジレンマが生じます。
長くなりました。もとより語り尽くすことなぞ出来るはずはないのですが、本書を手にする読者の方々に注意して読んでいただきたい点を少しばかり、出来るだけ簡略に列記します。
「星は何より、向かうべき方角の象徴なのである。『王子さま』が戻っていかなければならない『星』にも、. . . 」(p.190)と述べますが、étoile と planète、さらには astéroïde を同一視する誤りを犯しています。移動する後2者(王子が戻って行く星を含む)は「方角の『象徴』」にはなり得ません。
母への手紙を引用(p.134)して、サンテックスが「精神の共同体」を守り抜こうとしたことの傍証にしようとします。しかし、サンテックスの手紙や(自己の行動を裏打ちとした)作品の白々しさ、または、サンテックスの二重人格性に用心する必要があります。この手紙が書かれたオルコントに駐屯した半年間で最も有名なアラスへの偵察飛行にしてからが、帰投したその夜、パリのビストロで愛人であるB夫人を交えての夕食を楽しんでいたのです。彼の「精神の共同体」はどのようなものだったのでしょう?
「俺が触れるもの . . . 」(「毒蛇との契約」 p.163-164)の「触れる」に関しては拙稿「触れる?」およびヘビの話をご覧下さい。
キツネの言葉「それが連中の唯一のとりえだね」(p.20, p.171)は、池澤訳(ありがたいのはこっちのほうだね)と同列の翻案ですが、原文に照らして、無理な意訳なのではないでしょうか。
藤田さんの著書の項でも同じコメントをしたのですが、バオバブが最初は一本だった(p.157)というのは早計です。保存されることなく捨てられてしまった膨大な描き損じのことを忘れてはなりません。紙を120°ずつ回転させることを考えついて、やっと三本のバオバブを首尾良く描くことができるようになった(Stacy Schiff, Saint-Exupéry A Biography. Da Capo Press, New York, 1996, p.378)というのですから、残された絵で初期のものに三本描かれた例がないからといって、「最初は一本だけのつもりだった」とはいえないのです。
さて、先に述べた「人を見て法を説く」話に戻ります。Le Petit Prince を児童書だと言い張るようなひとは、本書の内容を理解する能力も、示唆されたポイントに気づく感性も持ち合わせてはいないのですから、その人たちを説得しようと、無理に各節を細切れにして読み易くする必要はなかったのではないでしょうか。ボリュームが3倍ほどに膨れ上がってしまうことでしょうが、各節の論証をもっと丁寧に書き改めた『本番「星の王子さま学」』の出現が望まれます(でも、売れないでしょうね)。
最後になりましたが、拙サイトを他の著作と同列に扱っていただいたことに対し、言葉を割いて特段のお礼を申し述べたいと存じます。 インタネットの発達は「墨刷り」の書物を着実に蚕食しつつあり、やがては「生きた化石」化してしまうであろうことは確実です。ホームページの引用記載法についても定式化が提案されたりする時代になりましたが、墨刷り執筆者の世界では、ウエブサイトはまだまだ軽んじられています。無理もありません。実に気軽にページを作れますから、第三者の目を通すことなく発表され、信用に値しない質の低いものが氾濫しています。簡単に追加・訂正ができますから、優先権を主張する資格はなく、サイトそのものも、いつ消滅するか判ったものではない「はかない」存在なのですから。 そんなウエブサイトが、出版された時点で書き換え不能となるため確乎たる証拠能力を有し、永続保存性もある著作物に引用されたことは、書物と同等とは言わないまでも、その足許に及ぶ程度の存在価値を与えられたことを意味します。この栄誉に感謝すると共に、他の執筆者の方々も、これを嚆矢としてインタネットとの融合を真剣に検討していただけたらと思います。(そのためには、ウエブサイトページ作成者の方も、煩雑にならない範囲で出典を明記する等のことを実行に移す必要があろうかと存じます。) |
この出版社、商魂あれども商才なしと見受けました。この著者による新訳を、しゃにむに先行発売したことは既に述べました。早く出せば有利というものでないことは、その新訳が、新訳群売り上げ順位の最後尾に位置している(その後新訳の数が多くなるにつれて、少しずつ順位を上げてきました)ことをみれば明らかです。 | |
センスの悪さもさることながら、一体内容を読んでいるのか?と声を荒げたくなる謳い文句。本書の足を引っ張る、なくもがなの帯です。そもそもこの5行に謳われたこと、「謎」などではありません。そして、謎解きなどはしません。著者はしっかりと腰のすわった文学論を展開します。 |
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さて、本題に入りましょう。結論を先に述べます。この解説書は、Le Petit Prince 愛読者にとって、確実に新しい時代が幕を開けたことを告げるものです。「星の王子さま」を童話として「大量の涙を流しながら」読むナイーブなレベルの読者は、内藤王子さまの許に留まれば良いのです。そうした人々に別れを告げ、文学作品としての Le Petit Prince の世界が、日本の読者の前にやっと姿を現しつつあります。この著者、カミュ研究の専門家だそうですが、鍛え抜かれた文学者の眼光がいかに鋭いものであるのかを、恐ろしいほどに感じさせます。各章別に解説をしています。それぞれの章の肝要を、鋭利に抉り出して見せます。とはいえこの本、著者自身の意見と言うよりは、文献学的な色彩が極めて強いものとなっています。
「とうとう書かれてしまった!」と、私が強いショックを受けた部分から話をはじめましょう。 例によって、読みが止まってしまった箇所を数点、指摘しましょう。 p.36:「1933年、水上飛行機のテスト飛行中での事故を初めとして」は、“1923年のル・ブールジェでの墜落事故を初めとして”です。 p.194;「彼が読むことが出来た『星の王子さま』はこの(アメリカ出発の際携えた)一冊だけだった」というのは事実に反します(それとも、Heinemann 版や Gallimard 版はまだ出版されていないという意味なのでしょうか?)。限定署名本以外に、 タイトルページに彼のサインがある本が、いくつか残っているからです。【持参した本にサインをねだられたものばかりではなく、彼が手に入れた本にサインをして贈呈したものも含まれていると考えられます。アルジェでは、レイナル・ヒチコック社はじめ、アメリカ在住者やその他の国の人々と手紙のやりとりをしていますから、本を手に入れるのは難しくはなかったはずです。】
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「『星の王子さま』を読む」,藤田 尊潮 訳,八坂書房,20 cm(B6 判), p.189,2005年10月25日発売開始,¥1600.- +税,ISBN 4896948637
本格的な解説書がまた一冊増えました。Le Petit Prince を理解しようとする者にとっては、喜ばしいことです。文学者が解説書を書くと、作品の読解指南書的な色合いが濃くなる傾向があるのですが、この本は少し違います。分野が異なりますが、たとえば歴史学者と考古学者は、かなり肌合いが異なります。前者が事実の「解釈」に立脚するのに対し、後者は主観を排し「物をして語らしむ」態度を貫きます。本書では、この二つの態度が入り交じります。著者独自のかなりユニークな考え方が披瀝される一方で、資料をあげつらって客観的な検証を指向する態度が前面に押し出されます。巻末に35ページもの注記があることからも、その資料重視の態度を窺い知ることができます。とりわけアメリカで出版された原著を精力的に蒐集したようで、レイナル・ヒチコック社版とハーコート・ブレイス社版の比較にほぼ6ページを割いています。【ただし、ハーコート・ブレイス社版の資料価値は低いので、記述内容は半ページ程度に圧縮した方が良かったのではないかと思われます。】
よく書けている解説書ですから、皆さんには是非自身の目で内容を確かめていただくこととして、見るべき特徴を列記すれば3点、「目に見えるものと見えないもの」を対比させていること、「時間の円環構造」を重視していること、Le Petit Prince とCitadelle(城砦)を過剰にオーバーラップさせていること、が挙げられます。
著者は「城砦」を極めて重視しています。それ自身は間違っていません。Le Petit Prince は「城砦」執筆中に書かれたのですから、サンテックスが言いたかったことを理解するためには、「城砦」中にそのヒントを探るのは当然のことです。しかし、城塞の話が不必要に多く、主題を乗っ取られた感があります。おまけにこの著者は、『(城砦の)執筆時期は、ほぼ『星の王子さま』と重なるのです(p.38)。』と言ってのけます。『城砦』原稿は1936年に執筆が開始され、完成しないまま死んでしまいました。それに対して Le Petit Prince は、1942年後半の半年だけで文章部分を脱稿しています。執筆期間はすっぽりと含まれているのであって、「ほぼ重なり」はしません。
p.136 その他で『城砦のための概念図(121ページ)』と書きますが、そこにあるのは箇条書きであって、「図」ではありません。「城砦」の構成概念を図式化することは誰も成功していませんし、不可能でしょう。本書の箇条書きも、酷な言い方をするならば単なる羅列というべきものであって、図式化はおろか、「まとめ」にすらなっていない代物です。『城砦』は難解きわまる代物で、解釈に異論が噴出する評価未確定の作品ですから、Le Petit Prince の解説に多くを用いることは賛成できません。本書もそのために主題を霞ませる結果となってしまいました。
物語りの時間経過が円環構造をしているという説明図です(p.55-56)。今までの解説書には見られなかった明快な図示で、とても解りやすい示説です。でも、問題があります。 | |
別の箇所で著者は、サンシブル(感じ得る)とインテリジブル(理解し得る)の違いを指摘しています。上記二組の対比は、この物語の本質がサンシブルなものへの頌歌であり、まさしく、示されうるもの(サンシブル )は語り得ない(ノン インテリジブル)ものなのだと開き直るサンテックスの本心を強く示唆します。これが本書の、類書を超える最も優れた点なのです。 以上が、本書で最も重要な3点のあらましと、それに対する批判です。優れた解説書なのですから、早い時期に改訂版を出して、上に指摘した誤りや雑駁さを訂正・克服して戴くことが望まれます。 | |
長くなりました。てみじかにその他の気になる点を列挙します。 日本では、外国の固有名詞は「現地読み」する習慣があります。その良風に背き、Reynal をレナール,イカールをイカロス,コンスエロをコンシュエロと、耳慣れない書き方をするのには賛成できません。 『しかし、この「バオバブ」の挿絵は、はじめは一本の木でした。 . . . . . そして習作を重ねるうちに三本になっていったようなのです。(p. 72)』: 【私もはじめはそう考えていました。しかし、それは事実に反します。クシャクシャに丸めて屑篭に放り投げられた膨大な量の失敗作を考慮に入れなければなりません。はじめから三本を描きたかったがうまくゆかず、紙を回転させて描く方法を考えついて、やっと三本のバオバブを描くことができたことが判っています。捨てられずに残った絵だけを見ているから、「はじめは一本しか描かなかった」ようにみえるだけです。】 ナウマン社(私のコレクション「 ドイツ」中の「D-Mun-」とあるものをご参照下さい)に言及して「特に注目すべきは . . . . 大変に興味深い(p. 12)」と述べますが、7行も使って一体何を言いたいのか首を傾げてしまいます。点字訳も他に多くの国で発行されています(Julian Blanco さんのインデックス最後尾参照。日本でも古くから発行されています)。 『「バラ」のアレゴリーは、実在する「女性」であろうと「祖国」であろうとかまわないのです。「たいせつなこと」は、「バラ」は「王子さま」の愛する「この世でたったひとつのもの」であるということです *(p. 187)』
「キャップジュビーの飛行場長をしていたときには実際にフェネックを飼っていました。一九二八年、. . . . . . . 妹のガブリエルに宛てて . . . . . 。(p. 110)」と書きますが、もう少し確かな検証が必要なのではないでしょうか。(私は逆の意見を持っています。) |
「おとなのための星の王子さま −サンテックスを読みましたか−」,著者;小島 俊明,近代文芸社,p.200,1995年7月20日,¥1,800.-,ISBN 4-7733-4660-4
書名からも想像されるとおり、「星の王子さま」を単なる子供向きの童話としてではなく、文学作品として読み解こうという意図で書かれています。
まず始めに「シンボル」「メタファー」「アレゴリー」の3つの言葉の説明から始まるのです。この一つを取ってみても、この作品が、しっかりと腰のすわった本格派であることが想像できましょう。
内藤王子さまから消し去られた言葉の数々が洗い直されます。「よくみて...これはメスじゃなくて、オスだよ。ツノがある....」。 mouton(ヒツジ一般,去勢オス)と bélier(種雄のヒツジ)との違いが指摘されます。著者はここで筆をとめてしまいます。この先は読者の責任というわけでしょう。「ヒツジがバラを食べるかもしれない」ということの意味や、「ツノ」がペニスのメタファーであるかもしれないと言うような指摘は控えられます。もちろん、サンテックスの肉体的な不具合なぞは影すら感じさせません。
上品で謹み深いスタンスが、この書物からあくどさを抜き去ります。読んでいて抵抗感が少ないのはそのためでしょう。一方で食い足りなさも残りますが、いまひとつ踏み込みが足りないにせよ、これまでの日本にはこの種の解説書が少なすぎました。内藤王子さまの呪縛から解き放たれるために、是非とも必要な解説書の一つ。貴重な存在です。
「改訂版 おとなのための星の王子さま −サンテックスを読みましたか−」,著者;小島 俊明,近代文芸社,p.201,2000年8月10日,¥1,800.-,ISBN 4-7733-6729-6
改訂版が出ました。ザッと通読したかぎりでは、どこを改訂したのか判らないほど、基本的には変っていません。
初版から5年、2000年になっての改訂版とあれば、苦言を呈さざるを得ない点があります。「星の王子さま」の読み解きに関しては、独自の解釈を提出する貴重な存在であることに変わりはありません。問題はそれ以外の事実関係に関する誤りが訂正されていないことです。
著者として、読者に対する責任があります。資料の追加や著述内容の再チェックは欠かせません。1995年の段階でも既に明らかな誤りであったこともあれば、その後の5年間で新たに判明した事実もあります。そうしたことは、改訂版に反映されなければなりません。
ガリマール社が、初版発行が1945年であったこと、眺めた入り陽の回数は44回が正しいことを認めてから既に2年が経とうとしているのですから、未だに1946年と43回では、この種の書物の著者としては怠慢です。初めてのフランス語版が、英語版とほぼ同時にレイナルヒチコック社から出版されたことを無視しているのは、まるでガリマール版がフランス語版初版であるかのような誤解を読者に与えます。ギヨメ救出劇が題材となったのは「夜間飛行」ではなく「人間の土地」ですし、1939年に「星の王子さま」を書き始めたというのは珍しい仮説ですから、根拠を明らかにするのが妥当であろうと思われます。ドイツ軍によるサンテックス撃墜は確認されておりません。更に、神田錬蔵・畑正憲という人物名を上げて「体長20メートルの水蛇」の実在を匂わせていますが、この話は、生物学的に納得し難い内容を含んでいます。本当にそんなことを言ったのか、ご本人たちに確認されたのでしょうか?
資料が不完全な上、この5年間追加調査を行なっていないように見受けられます。それで改訂版を出すのは、読者に対して不誠実と言うべきではないでしょうか。
「おとなのための星の王子さま」,小島 俊明 著,ちくま学芸文庫,253p.,2002年4月10日,¥950.- +税,ISBN 4-480-08687-0
文庫本になりました。手軽な価格と携行性の高さ、そして、息の長い出版の継続性を考えれば、歓迎すべきことです。さらに歓迎すべきは、全面的とよんで良い改訂がなされていることです。著者独自の翻訳と読みやすい言葉使いが、「星の王子さま」の挿し絵と相俟って読者の興をそそります。このお色直しは、「星の王子さま」文学論としての価値をますます高めての再登場として、拍手を持って迎えられるべきものと思います。
日本語で書かれた「星の王子さま」関連書としては、間違いなくトップグループの一員です。50年・100年後まで、日本で「星の王子さま論」を語るに欠かすことのできない地位を獲得したものであることは間違いありません。内藤 濯 訳に頼らず、直接フランス語版からの解釈を展開しているのは(実は当たり前のことなのですが)高く評価すべきものです。
本書の優れた点・注意深く読んで戴きたい点を挙げつらっていては、きりがありません。読者の皆さんにお任せするしかないでしょう。ここでは、本書を高く評価し、著者に敬意を払えばこそ余計に気になる疑問点について、敢えて言及させていただきたいと思います。
「星の王子さま」第7章に関しては、p.065 から「王子さまの生の秘密 − 愛のモチーフ」と題する節が始まります。この「生の秘密」は、「五日目に、やはり羊のおかげで、王子さまのあの生の秘密がわかりました。」(p.066),「さて、花のメタファーによって暗示された王子さまの愛情問題、それが冒頭の「王子さまの生の秘密」であることがわかった。」(p.074)と繰り返され、後者に至っては、聖書のマルタとマリアの話まで持ち出して(世俗の諸事や生死の問題に対する)「魂の問題」の優越性を述べますから、このあたりに著者の言いたいことがあるのかとも受け取られます。
本書の中では、聖書が幾度も引用されます。無批判と言ってよいほど聖書に対して寛容ですから、著者はクリスチャンなのかも知れません。しかし、この部分での引用は、読者を混乱させる役割しか果たしません。キリスト者でないものにとっては、イエスに熱をあげてマルタの手伝いをしないマリアの方こそ困った存在であり、それを擁護するのは、自分にいれあげる軽佻な女のかたを持ち、日々を必死に生きてゆく人々の常識をないがしろにする、イエスの身勝手なジゴロぶりに過ぎません。また、キリスト者であっても、この部分で著者が何を主張したいのかは全く理解できないことでしょう。そして、福音書のくだりを無視したとしても、話の内容はいっこうにスッキリしません。この引用だけではありません。極めて重要な主題を扱っているにも関わらず、この節で著者が何を言いたいのかは不分明なままに終わってしまいます(「生」という表現がいけないのだと思います)。何度読み返しても論旨がつかめないフラストレーションだけが残され、落丁でもあるのかとページ番号を確かめてしまうほどの乱れぶり。この著者にしてこれほどの消化不良を起こさせる重いテーマなのだ、と言うことを再認識させられます。
著者は言います。「星の王子さまは . . . . . われわれ人間とは別種の存在なのである。別の言い方をすれば、ファンタジーであり、詩的現実(リアリティー)なのである。それなのに、われわれ同様に肉体を持っているように信じこませてしまう。作者のすばらしい「言葉の技量」をまざまざと感じないわけにはいかない。」(p.182-183) これは悪い冗談です。特に断らなければ、われわれ同様に肉体を持っていると考えるのが当たり前でしょう。これを「すばらしい『言葉の技量』」と感ずる人が、世界中に何人いるでしょう? この点に関する限り、「詩」でも「文学の精髄」でもない、単なる「はぐらかし」に過ぎないと私は思います。
とはいえ、著者の裁量に関わることでケチをつけても始まりません。余計なお節介と言うべきことです。最後に事実関係についての誤りを指摘しましょう。せっかくの著作に残る瑕疵とよぶべきものですから、次の機会には是非訂正をお願いしたいものです。
ウワバミのくだりでは、「ここで余談になるが . . . 」と段落を割いて、20メートルもの大蛇の実在を匂わせます。(p.028) 前の版でも指摘したのですが、未だにこの文章が残されていることは、とても残念なことです。たしかに神田錬蔵氏は医師としてアマゾンで住民の治療と熱帯医学の研究に当たり、しっかりとした文章で綴られたその見聞記(アマゾン河)は信頼性の低いものではありません。しかし、すべてが信用に足るものと言うわけでもないのです。恐怖感は正常な判断を狂わせます。三メートル程と噂されたヘビを捕らえてみれば1メートルに満たなかったというのはよくあることです。水上で身をくねらせるヘビの大きさを正確に推測するのは、場数を踏んだ人でも極めて困難です。20メートルに達する蛇の存在を信ずる専門家はいません(体長 10 m の記録は殆どありません。肋骨が柔軟なので、太いヘビは自重による窒息の危険が極めて大。自重によって身体が押しつぶされる心配がない水上でも、呼吸器の死腔のため呼吸困難を起こすでしょう*)。ヘビが獲物を骨折させたり、呑み込みかけた大きな獲物を吐き出したりすることは、体の構造上『 不可能』です。神田氏の、このアナコンダの記述に関する限り、全くのホラ話と断定して差し支えありません。
ここでゾウを呑むほどの大蛇の実在を主張する必要がどこにあるのでしょう。「. . . . の絵を見たのが、はたして六歳だったかどうか、などという詮索はしないことにしよう。」(p.024)と言える著者と同一人物とも思われません。足を描き加えて蛇の絵を駄目にしてしまうのは避けるべきです。
* ジュラ紀・白亜紀の巨大恐竜が呼吸困難を起こさなかったのだから、20m のアナコンダが死腔に悩まされるはずはない、と考える人もいるでしょう。でも、彼等は、空気中の酸素濃度が現在よりも1.6倍も高かったあの時代だから生きていられたのであって、現在の地球大気中では窒息死してしまうことでしょう(ジュラシックパークは実現不能ということです)。 ヘビは、あの特殊な体形でも死腔過大による呼吸困難を起こさないように、特殊な呼吸器構造を発達させていますが、それでも20mは無理であろうと思われます。
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「ドイツ軍により撃墜」は単なる想像の一つであって、根拠がありません(⇒ 2004年の残骸発見でほぼ完全に否定されました)。本文・年表中に現われる「1996年になって『星の王子さま』オリジナル版がガリマール社から出版された」のは「1999年」の誤りでしょう。「『1932年』『南米チリ』のサン・ラファエル湾で遭難」に至っては、声を失ってしまいます。
「星の王子さまのプレゼント」,小島 俊明 著,中公文庫,258p.,2006年2月25日,¥590.- +税,ISBN 4-12-204658-0
あとがきで述べているとおり、上記のちくま学芸文庫版「おとなのための星の王子さま」を手直ししただけのものです。「手直し」の内容は、著者が新訳を上梓したので、引用文をそれに合わせただけ。実質的な内容は、全く変わりません。(巻末の高野喜久雄氏の解説も、事実上同じです。)価格が安くなった点を評価すべきでしょうか。
出版社が変わる以上、新たに版を起こしたはず。せめて、上記で指摘した「アナコンダ」と「ベタニアのマリア」の部分を削除するくらいのことはして欲しかったと残念です。コンピュータでの写植製版であることを思えば、製版の手間はまったく変わりません。
「「星の王子さま」の見えない世界」,著者;水本 弘文,大学教育出版,172p.,2002年6月10日,¥1,600.-,ISBN 4-88730-482-X
どのようにこの本を紹介したらよいものか . . . . . . 。書き出しの言葉が見つからず、困っています。
書名にある「見えない」が「かんじんなことは目に見えない」という「星の王子さま」の一節をとったものであることは、わざわざ指摘するまでもないでしょう。この題名からも判るように、本書は「星の王子さま」の解説書です。ふつうの読者が読み過ごしそうな点、とりわけフランス語の原文を読むことのない読者には気づこう筈もない隠れた部分を、分かりやすく教えてくれます。でも、解説書というよりは、清冽な読後感想文を読み進む気分にさせられます。「星の王子さま」の世界にのめり込んでしまった著者の思いのたけが、文の端々・章の節々に滲み出てしまっているからです。「星の王子さま」をテキストとして、人生の機微をそっと窺い覗くスタイル。第三者としての評論ではなく、一緒になって「星の王子さま」を読み進んでいるような、そんな気分にさせられる優しい本です。
著者は、フランス文学・フランス文化を専門とする大学教授です。講義テキストとして永年「星の王子さま」を使い、学生達と一緒になって読み進み読み返した蓄積をもとに、読者を「見えない世界」へと案内します。解説はしますが、注釈書ではありません。読者に読みやすいように、気を配ってあります。さして分量もない7章への分かち書きですから、蘊蓄を存分に披瀝しての研究注釈書にするわけには行かないのです。骨身を削る思いで各項目のスリム化をはかった努力の跡が、行間に見え隠れしています。
とはいえ、入門書というわけではありません。本当は、上級者向きです。超上級者向き、というべきかも知れません。著者が言おうとしていることを本当に解る人は、暗唱できる程「星の王子さま」を読み込んだ人です。読み返せば読み返すほど新たな発見に遭遇する、奥の深さをもっています。うなずきながら読み進むだけではもったいない本なのです。「『星の王子さま』でも『星の王子様』でも同じことだ」と言い放つような人にはお勧めしません。「さま」と「様」がどれほど違うかを感じ取れない人には、この本の価値は(そしてもちろん「星の王子さま」の価値も)判らないでしょう。
本書を貫き通す軸は、「王子の成長」と「バラと王子」です。すべての項目で、バラとの関わりが語られ、随所で王子の成長振りが指摘されます。類書に例を見ない徹底したこだわり、といってよいでしょう。これが、ひときわ際立つ本書の特色になります。
心髄は、もちろん、「王子とパイロットの絆」であり「井戸の水」の意味です。「王子が答えない」ことの意味を鍵に、この問題に迫ります。
「『一度』だけ姿を見せた王子の星は、天文学者が自分にとっての真実を他の人にとっての真実と交換してしまったとき、消えてしまったのです。」という慧眼ぶりは、著者ならではのものです。最後のシーンの「一輪の花」の意味も、今までに指摘されたことのないものです。そして、「王子が現われるのはサハラ砂漠とは限らない」という結びの言葉に、著者の心情が凝縮されています。
しかし、私がここで生半可な解説をすることは不要でしょう。本書の内容は、あなた方ご自身で読んで戴くことがいちばんです。
もっと早く、この紹介記事を書くべきでした。やっと読み通す時間を見つけたのは正月休み。発刊から半年も経ってしまいました。私事になりますが、台風と大地震が手を携えて刻々と近づいてくるような状況に取り巻かれ、焦燥と混乱が渦巻くひどい忙しさに流されてついつい後回しにしたことを、とても後悔しています。このサイトを訪れて下さる皆さんには、一刻も早く紹介するべきでした。
お勧めします。ぜひ読んで下さい。そして、読み返して下さい。何度も何度も、「星の王子さま」と読み較べながら . . . . . . 。 「見えない世界」の、他の解説書が開けてくれなかった新しい扉を、この本が開いてくれるであろうことをお約束します。
「フランス語で」という一語に身を退いてしまってはいけません。フランス語を知らなくても大丈夫です。「品詞だの文法だのは頭が痛い」と思ったら、そこは飛ばして読みましょう。それでも充分です。そして、そのようにして拾い読みするだけの価値のある書物です。内容は難しくはありません。文法以外の部分はとても読みやすく、一つ一つの単語を取り上げながらそのニュアンスを説明することで、「内藤王子さま」では日本語に訳しきれなかった言葉の広がりが、あなたの王子さまの世界に染み込んでくることでしょう。読み終えたときあなたはきっと、もう一度「星の王子さま」を読み直してみようと思う筈です。あなたが読み解く、あなただけの「星の王子さま」の世界が広がり始めることでしょう。 |
文庫本になりました。若干の加筆訂正がなされているとのことですが、基本的には変っていません。文庫シリーズに納められたということは、この後も長く出版し続ける価値があると評価されたことを意味します。この名著にとっても、「星の王子さま」ファンにとっても、とても喜ばしいことだと思います。 |
「こころで読む『星の王子さま』」,著者;柳沢 淑枝,成甲書房,p.,2000年6月10日,¥1,300.- +税,ISBN 4-88086-105-7
表紙に巻かれた帯には「サン=テグジュペリ生誕100年」「独自の訳だから、初めてわかった「星の王子さま」の謎」とあります。
S'il vous pl永t...dissine-moi un mouton! を著者は「おねがいします....ぼくにヒツジの絵を描いて...」と訳してみせます。そして、前半が丁寧表現、後半が親密表現で、通常の文章としては誤りとされる文体が混在していることを指摘するのです。でも、これがこの文章にとって意味を持つのだと解説します。内藤王子さまを読んでいたのでは、読み取ることのできない言葉のニュアンス。翻訳文学は、こうしたさまざまな訳を読むことによって多面的な切り口を理解しないと、本当の作品を識ることはできません。
とても軽やかで、一気に読めてしまいます。逆に言えば、フランス文学者であるからには、もう少し掘り下げて欲しかったという恨みが残る出来映えです。
「大人のための『星の王子さま』 − 愛の旅人 サン=テグジュペリが本当に伝えたかったこと −」,著者;鳥取 絹子,監修;北 杜夫,KKベストセラーズ,p.200,2000年11月15日,¥1,400.- +税,ISBN 4-584-18559-x
「北 杜夫 監修」とありますが、これは余計だったと思います。本当に筆を入れたとは思われませんし、この本の価値を下げる役割しか果たしていません。ないほうがよいのです。
内藤 濯さんがそうだったように、北 杜夫さんも航空技術に関してはさっぱりのようです。
サン=テグジュペリが.....乗っていた戦闘機 P38 は........本来、副座戦闘機で二人乗りなので、一人で運転するのは困難を伴っていました。 .....やはり彼は忠実に任務について行方不明になりました。 |
そして、その後に偶然残されたのが『星の王子さま』です。これは反永久的に読み続けられる偉大な童話だと思います。 |
さて、本文の検証に移りましょう。著者はこう始めます。
内藤 濯氏のセンスがいちばん光っているのは.......そのまま訳すとただの『小さな王子さま』なのに、....素晴らしい発想に拍手をお送りしたいところである。 |
意訳そのものは素晴らしいにしても、これではサン=テグジュペリが伝えようとした意味から少しズレてしまうのではないだろうか? |
.....この本は、こどものための童話というジャンルを、はるかに超越しているといえる。 |
名訳にケチをつけるのは、神を冒涜するようで心苦しいのだが、こんな素敵な本を子どもだけに読ませておくのはもったいないと思う....。本当は大人になってこそ読むべき本なのだ。 |
.....こんな細かいところに子どもの方が正しいというような意訳がわりと多いのは残念だ。 |
.....「探しに行こうとしていたんです。でもあなたはぼくに話していたじゃないですか!」。....最後に「!」マークまでつけて怒っている。細かいことだが、この「!」マークが日本語では省略されているので、王子さまの動転ぶりがよく伝わってこない。 |
不注意な点もあります。“Cape Juby”を、一貫して「キャップジュピー」(Cape Jupy)といっているのは感心しません。原書を読んでいれば起き得ない誤りですから、「日本語訳しか読んでいないのではないか」との不信を抱かれてしまいます。
貴族、とりわけサンテックスのような没落貴族に関しては誤解があります。経済的に逼迫すれば、貴族であろうと堕ちるところまで堕ちてしまうのは洋の東西を問いません。父親が死んでも一家が路頭に迷わなかったのは、「さすが貴族」だからではなく、母親の叔母(父母の結婚をすすめた人物です。貴族ですが、この場合貴族であろうとなかろうと話の根本に関わりがありません)が大金持で、母親を気に入っていたため、窮状を見兼ねて助けてくれただけのことです。
入り陽を眺める回数が43回のままだったり、ガリマール社の初版が1946年だったりするのは、他人の著作から糊と鋏で切り張りしたのではないかと疑われかねません。
(サンテックスが)....コンスエロにこう言って潜水艦に乗り込んだ。 |
きつい批判を書かねばならぬのは、気が重いものです。延びのびになりましたが、読み返しても結論が変わるわけではないので、そろそろアップロードします。
「サハラ砂漠に不時着した」(p.3, p.4, 他)と繰り返されます。「不時着」と「墜落」の区別すらついていないのでは、先が思いやられます。そして、p. 12-13 で、ヒツジの絵にまつわるプリンスとパイロットの間でのやりとりが述べられます。パイロットには、中に入っているヒツジのイメージが全くありません。箱を描いた当人が苦し紛れにいった「中にいるヒツジ」をプリンスはありありと見ます。「心で見る」ということが、実はまったく一方的な独断に過ぎないことを示す極めて重要なシーンなのに、この筆者は素通りしてしまいます。これで「哲学する」といえるのでしょうか? 結局はこの筆者も、「批評」ではなく「解釈」をしているに過ぎないという寒々とした実態が早くも姿を現してしまいます。 展開される哲学者とその思想の解説にも不満があります。哲学者の顔ぶれに関していえば、ショーペンハウエルやニーチェが抜けているのは、内容のバランスを欠きます。また、それぞれの解説も一考を要する点が少なくありません。たとえば、「星の王子さま」に関してフロイトを引くのであれば、リビドーや夢判断ではなく、物語の全編を通して流れるエロスとタナトスの相剋についてちゃんとした解説が欲しかったと惜しまれます。 「論理学はトートロジー(同義語反復)である」と喝破し、師であるバートランド・ラッセルをして哲学に対する絶望の淵に沈み込ませたヴィトゲンシュタインの言葉を服膺するならば、「星の王子さま」を「解釈」することは可能でも、それを「哲学する」ことは元々不可能なのではないか、と思うのです。 |
素人目にもコンピュータグラフィックス(CG)と判る砂漠と星空を描いたカバーはなかなかの出来。遠目には素敵なカラーコントラストで人を惹きつけます。夜空には、ちりばめられた星々の間を縫って彗星が尾を曳き、星雲が浮かんでいます。砂漠にはシムーン機と思しき、プロペラがひん曲がった不時着機が擱座し、そこから孤独な足跡が画面を斜めに横切ります。アイキャッチとしては良い出来映えといえるでしょう。よく見ると、星空は同じ構図の繰り返しだったり、足跡と歩幅が不自然に大きかったりと、皮肉屋の私にはとても象徴的なカバーデザインに思われます。 |
著者は5章61項目の「謎」を取り上げて、その「謎解き」をします。そこに述べられるのは著者の見解です。説得性に乏しく、「なるほど。そうだったのか!」と膝を打たせるような答は用意されていません。 でもこの本、お勧めします。 解説を嫌う人は別にして、行間の読み解きに挑戦してみたいと考えている人には、格好の入門書になります。61項目もの「謎」をあげつらった本は他にありません。半分近くは、既に誰かが論じた内容を素直に取り入れています。従って、どのような問題点があるのかを知るためには、あれこれ本を読むよりずっと楽です。基本的には、サンテックスを賛美し、その影の部分からは目をそらす立場が貫かれますから、嫌味がありません。これを踏み切り板にして独自の読み解きを始めるためには、読み易くて良い本です。著者は童話作家なのだそうですが、明るくて、しつこい追究をしない性格が目に浮かぶようです。 この本に限ったことではありませんが、書いてあることを鵜呑みにしたり、そのまま受け売りに使ったりしては駄目です。自分の意見は自分で構築しなければなりません。その事を判っていただくために、若干の異見を述べておきましょう。 「<砂漠>は大いなる悩みの象徴です。」と著者は言います。私は賛成できません。むしろ“浄化”の象徴であると私は考えています。それでなくては、作品の読み解きがすんなり行かないのです。それかあらぬか、読み進むと著者は一貫した解釈を維持できなくなります。
転轍夫と王子との会話の場面で、「機関車に乗っている男」が運転士であることを認めながら、運転士が乗客の行き先や目的を知っているはずはないのだからと言う理由で、これは「乗客」をさしているのだと断じて、乗客が自分自身の行き先や目的を判っていないのだという人生論を展開します。内容の理解は、作品に即して進められるべきものです。自分の望む結論に読者を誘導するために、作品の語句をねじ曲げたりすり替えたりするのは困ります。 「サンテックスの祖国フランスでは、バオバブとウワバミの発音は“ボワ”と言います。言葉の意味は違いますが発音は同じです。“ボワ”は、偶然が呼んだ哀しい発音です。その発音の意味することも同じなのです。」と著者は述べます。フランス語を勉強したことがない人のようです。フランス語を知らなくとも、辞書をひいてみれば間違いに気づくはずです。なぜこのようなことになったのか、大体の想像はつきます。ある人の議論を誤解して、それを基に内容を膨らませてしまったのでしょう。結論はおかしなものになってしまいます。だいいち、文の前半と後半は矛盾しています。 著者の責任ではないのでしょうが、本の装丁には苦言があります。著者紹介や、通常は奥付に記述する発行年月日をカバーの折り返しに印刷してあります。古書を蒐集してみれば身にしみることですが、カバーは簡単に逸失します。重要な情報は本体に印刷すべきです。まさか、返品されてきたものを、カバーだけ刷り替えて第2刷として出荷しようというわけではないでしょう。 |
「『星の王子さま』を読む」と副題があります。講演会での講演を元に加筆された解説書。『星の王子さま』をロマンチックに読み取る立場での、極めて標準的な解説書です。他の解説と較べて特色があるとすれば、キリスト教的な基盤が随所に指摘されていることでしょうか。「我流で読んできたけれど、もう少し深く読み込んでみたい」と思い始めた人にはお勧めの読みやすい本。 |
「星の王子さまの本」,星の王子さまクラブ 編,宝島社,127p.,2005年6月24日,¥1500.- +税,ISBN 4-7966-4638-8
実際の発売は6月10日(主要都市部)でした。帯にある「初めてのファンブック」という文言は正確とは言えません。帯のインクは極めて粗悪。手指の脂によって、一日もたずに色移りと色禿げが起こります。表紙も含めて、挿絵がガリマール社の旧版からとった「雑な」(つまり サンテックスが描いた絵ではない)ものであるのは、がっかりです。生誕100年を目前にして、ついにガリマール社が「自社の挿絵は『偽物』であった」と認めたのが1999年のこと。それから6年が経とうというのに、「偽物」の色を塗り替えて使用する神経を疑ってしまいます。無料で会員に配布する星の王子さまクラブの景品とは違うのです。お金を出して買った読者になんと言い訳するつもりなのでしょう。それとも本物の挿絵を使う権限は持っていないのでしょうか。
扉を開いた見開きの砂漠の写真が、機関誌プラネッツ第1号からのリメイク(判形が違うのでそのままでは使えません)であることが、とても象徴的です。多分そうなるだろうと予想していたとおり、プラネッツに掲載されためぼしい記事の殆どが再録されています。いってみればプラネッツのバックナンバー縮刷版。こういう場合、それぞれの記事の出典を明記するものです。
なかには、結構読み応えのある文章も混じっています。読むに耐えない駄文から、高度の読解ヒントまで、幅広い難易度のオムニバス。プラネッツを持っていない人には一読のお勧めです。倉橋由美子さん生前のインタビュー記事が2ページあり、新訳に関する抱負等が語られます。もうじき発売されますから、それを待てばよいでしょう。
サンテックスの写真の説明に、「ドイツ軍の戦闘機に撃墜されたものと推定された」とあるのも、今となっては許される範囲を逸脱しています。(自殺 ・事故・過失、のうちのどれかです。)
「サン=テグジュペリのミュージアムがフランスに出来ない理由」というコラム記事で、暗にリケルミ氏とサン・モーリス・ド・レマンス村の住民を中傷しているのは、読み過ごすことは出来ません。サンモーリス城(現サンテグジュペリ城)を巡って「足を引っ張り合っている」「複数の団体のせめぎ合い」は、ダゲイ家が運営するサンテグジュペリ財団とリケルミ氏が主催するリヨン・サンテグジュペリ・センターの、ふたつの間の確執のことでしょう。設立を阻害する重要な問題は2点。館の持ち主であるリケルミ氏が資金難で困っていることと、財団が著作権や商標権を独占していることです。村民はリケルミ氏を信頼し、氏が村にミュージアムを設立することを応援しています。私をリケルミ氏に紹介する電話をしてくれたのは村民ですし、「リケルミ氏に会いに行くのならついでに」と、氏の青少年育成プログラムへの寄付金小切手を初対面の私たちに託すほど、氏やサンテグジュペリファンへの信頼は厚いのです。「年間何十万人もの観光客」は財団の勝手な構想でしょう。村民がそれを望んでいないことは事実です。リケルミ氏もそのような構想は抱いていません。内実を知らない読者がこの記事を読めば、いくつもの団体が利権がらみで泥仕合を演じ、そのせいでミュージアムが建たないのだと誤解してしまうことでしょう。いかに財団の代理業務者とはいえ、このような形で日本のファンをミスリードするような筆法は、フェアな書き方ではないと思います。
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