島田荘司
平成七年二月二十七日と二十八日、ぼくが阪神淡路大震災の現場へ行く気になったのは、震災の被害状況視察のためばかりではなく、秋好英明氏という死刑囚への支援のためもあった。彼の娘さんが神戸市に住んでおり、彼女の安否を、獄中で秋好氏は猛烈に心配していた。彼のために、彼女の生死の確認をしたいという目的がまずはひとつあった。
この女性は昭和四十二年の生まれで、父親の秋好氏とは二歳の時に九州で別れている。だから自分の父親が死刑囚とは知らないと思われた。秋好氏の推察では、母親もそのことを強く隠しているらしい。母親は秋好氏との離婚後、神戸市の男性と再婚して現在は中央区に暮らし、今回の震災に遭遇した。秋好英明氏は、福岡県飯塚市の川本(仮名)宅で一家四人を殺害したとして飯塚の地裁、福岡の高裁で死刑判決を受けている。しかし実際には一人しか殺していず、判決は誤判だった。平成七年二月現在、東京の最高裁の判決だけを残していて、これも死刑判決を維持すれば彼の死刑は確定する。すると基本的に、あとは執行を待つだけとなる。しかし、もしも被告の実の娘さんが最高裁の判事に向けて父親の助命嘆願の上申書を書いてくれたなら、判決に対し多少有利に働くことが考えられた。けれどもこれまで父親の現状はおろか、秋好英明とはどこの誰であるかも知らないで生活している若い女性に、いきなりこういう頼みを持ちかけるわけにもいかず、家を訪問しても鼻先でドアを閉められることが明らかだったから、秋好氏の手紙によって住所は解っても、行動には踏みきれずにいた。そこに大震災が発生した。地震は、彼女の居住地をほとんど直撃していた。もしも彼女が家を焼け出され、避難所暮らしでもしていてくれたなら、彼女は今閉めるべきドアを持たない。他人の不幸を喜ぶようで忸怩たる思いもあったが、秋好氏の命を助けたい者としては、まさに千載一隅の好機が訪れていた。
三宮市や長田区の罹災地をさんざん歩き廻って見聞したのち、残る二月二十八日一日を、彼女の捜索にあてようと考えた。このあたりだろうと見当をつけ、タクシーを停めて住宅街に降りたつと、その一帯は一見するところでは何も被害がなさそうで、ずいぶんほっとした。しかし被害が最も激しかった三宮駅前から、タクシーでほんの
十五分走っただけである。まったく無傷であろうはずもない。周囲の民家の壁の裾あたりを見ると、タイルが剥がれ落ちていたり、モルタル壁が一部崩れていたりする。行く道沿いに定食屋があったから、これに入ってまず昼食をとった。店は無傷に見えた。それから、彼女の家探しを始めた。
家はすぐに解った。一見するところ、古い大きめの二階建て民家のようだったが、そうではなくこれは集合住宅らしかった。一階にいくつも扉がついていたからだ。家の裏側は公団住宅の敷地に面していて、ここに歩み込むと、秋好氏の娘が暮らす家の裏側はすっかり望めた。表からは無傷のように見えたが、裏面は一面にネットをかぶっている。これは、壁が崩れて付近に落下物を落とす危険を意味していた。無傷のようでも、内部はかなりやられているのだろう。
彼女は名前を久美(仮名)といい、母親、つまり秋好氏のもと妻と、彼女が再婚した義理の父親との三人で暮らしている。したがって姓はもう秋好ではなく、義理の父の佐藤(仮名)になっている。結婚はまだしていないらしい。
もう一度、家の表に廻った。通りに面したこの家の扉脇の表札は、佐藤ではない。佐藤姓の表札を求めて、家の脇の幅一メートルほどの路地を入っていくと、突き当たったあたりや、カギ型に右へ折れた左側にいくつも扉がある。そして一番奥のものの脇に、佐藤の名を見つけた。そのあたりはもう陽が届かず、昼だが薄暗かった。ひと騒動を覚悟してガラス扉横のチャイムを押した。しかし、何度押しても応答はない。隣のドアを叩き、中にいた修繕工事の人に尋ねた。すると佐藤さん一家は、今は近くのF中学で避難生活をしているという。やはり外からは無事に見えても、中のダメージはひどく、危険でとても暮らせる状態ではないと彼は言う。そして彼女の家の扉は、二階だけに通じているのだとこの時知った。
避難所暮らしという展開は、こちらにとっては理想だった。逃げ込む家がなければ、彼女はこちらと話すほかはないからだ。その足でF中学に向かった。校門を入ると、校庭のすみにドラム缶が並び、その隣に大型のテントがあるのが目を引く。ドラム缶のあたりからは煙がたち登っているので、いったいこれは何なのかと思って寄ってみたら、風呂を湧かしているのだった。ドラム缶の中が水で、テントの中が銭湯ふうの湯船になっているのである。付近には、「なかなかいける、名物F中学温泉」、などという新聞記事のコピーが貼られている。避難民のための、これは臨時の共同風呂なのだった。
やや離れたテントの下では炊き出しをやっていて、今ようやく食事支給を終えたばかりらしい世話係の女性たちが、遅い昼食をとっていた。校舎に入ってみて驚いた。授業をやっていたからだ。避難所に提供したのだから学校は全面休校かと思っていたが、そうではない。生徒の数が多いから、おそらく生徒はふたクラスずつをひとクラスにまとめ、開けた教室を避難所として提供しているのであろう。授業をしている気配のないひっそりとした教室のドア脇には、今ここで生活をしている家族の名前が、一枚の紙にずらりと列記されて貼られている。郵便配達のための配慮だろうか。
長田区の学校の避難所に較べれば、こちらはずいぶんと様子が落ちついていた。廊下に布団を敷いたり、ダンボール紙で周囲を囲って寝ているような人はいない。避難民の数が少ないのだ。この地域では、全倒壊した民家は見かけない。大半の人たちが、無理をすれば自分の家で暮らすこともできるのだろう。
佐藤久美の名前を探して廊下を歩き廻ったが、どの貼り紙にもそういう名はない。職員室に行き、名簿を調べてもらったが、それでも見つからなかった。これはいったいどうした手違いかと思っていたら、この隣のF高校ではないかと言われた。隣接した中学と高校が、ともに避難所になっているのだ。
校庭を横ぎり、高校の校舎に入って、ここの入口に置かれた名簿を繰って見たら、名前を見つけた。家庭科、調理教室とあった。校舎各階の見取り図も添えられていたので場所もすぐに解った。一階だった。
廊下を進んで調理教室前の廊下に立ち、窓ガラス越しに中を覗いたら、ここには調理教室だけに蛇口も流しもあって、教室の中にあっては最も快適な部屋だった。ここなら煮炊きもできるであろう。もっともそういうことでほかの教室の避難民が頻繁に出入りしたり、煮炊きを頼まれたりもするであろうか。
教室の前にいた女性に訊いてみたら、佐藤さん一家は、お父さんも娘さんも仕事で出かけていて、夕刻には返ってくるはずですと言う。それではまたその刻限に出直すことにした。それ例外に方法を思いつかなかった。
もう一度三宮の市街に戻り、また歩き廻ってから、アーケイド街の喫茶店に入った。そして、万一会えなかった時のため、それとも走って逃亡されたような時のために、彼女に手紙を書いた。そういう場合はこれを近所の人にでも託しておこうと考えたのである。内容は、以下のようなものだ。
これを告げるのは心苦しいし、ずいぶん迷ったことでもあるが、事態が切迫しているので、あなたを傷つけないことを願って書く。あなたの父親は秋好英明さんという死刑囚で、今福岡の拘置所にいる。しかし一審、二審と彼の受けている死刑判決は誤判であり、後はもう最高裁の判決を残しているのみである。自分は小説家で、彼と出会い、彼の主張を個人的な調査の末に信じたこと、そのために今、彼の命を助けるべく活動していること、しかし最高裁も死刑判決となるならば、事態はきわめて悪くなること、しかし実の娘であるあなたが、父親の助命嘆願の上申書を最高裁判事に向けて書いてくれたなら、ことが有利に運ぶ可能性があること、それがどの程度効果を持つものかは不明だが、そういう可能性がある以上、私としては放置ができなかったこと、それでここまであなたを訪ねてきたこと。そして以下はできればであり、無理な要求をするつもりはないが、できることなら秋好英明氏の支援に協力してはもらえないだろうか、被災された際にこんなお願いは心苦しいか、どうか考えていただきたい、といったようなことをめんめんと認めた。これを封筒に入れて佐藤久美様と宛名を書き、喫茶店を出て、営業している菓子屋を見つけて菓子折を買った。高校の調理教室にとって返し、廊下に立って、佐藤一家が戻ってくるのを待った。だんだんに食事時になり、中で食事のしたくを始めた一家が、じろじろ見られているということで、だんだんに腹を立てるのが解った。向こうは事情が解らないから、ひたすら非常識で礼儀知らずの人間だと感じるだけであろう。その気持ちもまたよく解る。
ずいぶん待ったが、佐藤一家の誰も戻ってはこなかった。東京に戻る新幹線に乗れるタイム・リミットが迫る。平時ではない、神戸からは乗れないのだ。そして新大阪まで戻るのに大変な時間がかかる。さらにみんな、ぼくに見られていると感じ、気分を害している。
いよいよ限界だと思い、調理教室の引き戸を横に滑らせたら、床に蓙(ござ)を敷いて正座し、座卓で食事をしている一家が見えた。佐藤の姓を口にし、みなさん間もなくこちらにお帰りですよねと尋ねると、今ここで寝泊まりしているのはご主人だけで、それも今はお勤めに出ている。夕方には帰ってくるが、奥さんと娘さんはしばらくここにいたが、先日田舎の実家に疎開した、と教えてくれた。
まったくがっかりだった。そうなら、もっと早くに訊けばよかったということだ。さっき訊いた女性は、それを知らなかったのだ。待っていたのはまるで無意味だった。父親に相談することなどは思いもよらない。妻の前夫に、それも今は死刑囚になった男などに、到底協力などしてもらえるはずもない。肉親でさえむずかしいのだ。日本の世間体というものは、そこまで強烈な拘束力を発揮する。まして勤め人なら、社内の立場にも影響する。
実家といえば九州である。一瞬、今から九州へ行こうかとも考えた。しかしそれはできないのだった。アメリカに戻る期日が迫っていたし、九州の実家の訪問なら、これまでにも考えたみとがある。家に逃げ込まれると思うからあきらめたのだ。震災があったからここに来た。九州の無傷の家なら、条件は以前と同じだ。
娘さんに会うことは、今回はあきらめるよりほかなかった。菓子折はこの一家に進呈し、手紙は託さなかった。父親についてうち明け、上申書についての相談をすることはできなかったが、無事を確かめることはできた。それだけでもよしとしようと考えて、避難所を後にした。
秋好さんの娘
それから二年後の平成九年六月十九日、最高裁の判決があって、秋好英明氏の死刑は確定した。その翌年の平成十年が明けた二月一日、帰国して三山、水月、松井、安田、南雲、大井、そして判決言い渡しの日に知り合った杉山美奈さん、それにパリ人肉食事件を起こした佐川一政君らと一緒に福岡に行く。
福岡で秋好事件の詳細と、日本の刑罰の歴史を語る講演を行い、再審の扉を開くための一般の協力を訴える。これは高橋健一弁護士の発案で、これが旅の主目的だった。そのあとは神戸や大阪に寄って、秋好事件の細部の調査をする。
佐川君を伴ったのは、彼から救済の申し出があったためで、彼が今は更正し、人助けをしようとしているというアピールをもくろんでいた。彼の著作を文庫化するように働きかけてあげる一方、一緒に旅をして、この時行った会話を書物にすることをもくろんだ。この旅で彼に秋好事件の現場を見せ、事件を語り、できれぱ救済活動に協力してもらい、また神戸の震災現場を歩き、罹災当時の様子を彼に語り、娘さんの話などをして、これらの合間には日本人や日本社会についても語り、そういうすべてを対談として一冊にまとめ、徳間書店から刊行するつもりでいた。結果は残念ながら、彼は冤罪事件には興味がなかったのだが。
講演自体は成功で、大した宣伝もしなかったのに大勢の人が聴きに集まってくれた。しかし予想していたことだが、その大半はミステリーの読者であり、支援活動に直接結びつきそうではなかった。
その後弁護士たちと食事。確定後の支援活動について話し合う。秋好氏との交通権は確定によって遮断された。今後面会と手紙のやりとりが可能なのは、弁護士を除けば夫人のみということになる。しかし夫人は沖縄の小さな街に住み、支援者とは遥かに離れている。弟の四郎氏も、家族のことがあって交流は窮屈のようだ。だから実の娘さんの協力がとりつけられるなら、という話になった。
久美さんを説得する手段として、家の所在はすでに解っているのだから、朝これを張っておき、通勤のために彼女が家を出てきたら誰かが尾行するというのはどうかという話になった。彼女が勤めているのはもう解っている。そして勤務先さえ解れば、説得の方法はあとでゆっくり考えられる。説得するなら、娘さんが一人の時がいい。そうなら勤務先付近がいい。まあそのあたりが現実的な方法か、という結論になった。
三日、安田、南雲、大井の各氏とは九州で別れ、残りのグループで神戸に入る。ここでグループとは別行動になり、ぼくの方は佐川一政氏と歩きながら対談をする。震災の跡地を案内しながら、ここは罹災当時はこういうふうだった、などと説明する。徳間の加地編集者がついて歩き、ずっと録音のテープを回していた。
三宮の被災地は、三年の間に見事に復興していた。街の印象は新しく、清潔だった。駅前のデパートからはネットが消えて、てんでに傾いていたビルもまっすぐになっている。割れたガラスも、落下したエアコン室外機もなく、大地震が来たことが嘘のような復興ぶりだった。
「大便お断り」の張り紙がトイレにあった喫茶店を探して入り、ここでもテープを回して地震の説明をし、日本のシステムや、犯罪について会話をした。その間、杉山さんたちのグループは別行動をしていた。
対談を終えて佐川君と別れ、彼らと合流してみると、劇的な展開が待っていた。秋好氏の娘さん、久美氏の勤務先が判明したというのだ。
グループの杉山美奈子さんは、以前アンケート調査で家庭訪問をしており、訪問調査の度胸がついていた。この時の経験を生かして佐藤久美氏の家を訪問し、アンケート調査を装って母親の常子さんから娘の久美さんの勤務について聞きだしたという。しかしアンケートで具体的な職場名まで聞くのは不自然なので、職種と、職場のおよその位置、通勤手段などまでしか聞けなかった。常子さんの物腰は、非常に柔らかだったという。
これは予想外の快挙だった。グループでぞろぞろ歩きながら話し合い、いっそこれをやってみようかという話になったらしい。職場の所在地と職種、ここまで限定できれば、あとは若干の電話調査だけで、佐藤久美さんの勤務場所は特定できると思われた。
秋好氏は三十年間会いたいと願い、ぼくもまた数年来にわたって久美氏との会見を望んできたのだが、震災で避難所暮らしになっていた時期には残念ながら会えなかった。平時の今なら会見は唐突になるだろうから、アタックは女性でなくてはうまくない。今なら女性がいる。
しかし会話ができたにせよ、現在別の父親がいる彼女が、もしもまったく事実を知らされていなかったとしたなら、彼女にとってはひどく残酷で、不快な結果になるかもしれない。しかし、杉山さんは燃えてくれているようだったし、この情熱は生かすべきだった。あと一歩まで来た今、ここで辞めてはみな不完全燃焼だろう。この勢いを逃せば、もう永久に機会は来ないかもしれない。最高裁への上申書という機会は逸したが、これからは再審の請求になる。実の娘さんが支援に参加協力してくれるなら、大きな実りも期待できる。
しばらく悩んだすえ、決断をすることにした。予定を急遽変更し、杉山さんに久美さんに会ってもらう。佐川君は今支援者たちと大阪の日航ホテルにいる。彼にはもう少し待ってもらう。久美さんはすでに三十歳を越えている。たとえ自分の実の父親がほかにあること、その境遇が死刑囚であることをはじめて知るにせよ、抵抗力は充分にあると考えた。
肉親なら確定後も面会は自由である。被告と支援者との太いパイプの確保は、肉親か妻にしかできない。また秋好氏の血液型が今、奇妙にはっきりしない。この特定のため、娘さんの血液型を知りたいということもあった。鑑定は、唾液から秋好氏の血液型をAB型としている。しかし秋好氏はA型と記憶していた。これは現場廊下に残っていた、ハイライトの吸い殻の唾液の血液型と関わる。現場廊下の煙草から、秋好氏以外の血液型Bが出ている。これは大問題だが、裁判ではなんとなくうやむやになっていた。秋好氏の血液型がABなら、B型が出た違和感を多少薄らがせる効果がある。A型ならBが際立つ。しかし、拘置所内の被告の血液型を知る方法は、支援者にはない。
しかしなにより、実の娘が仲間にいるという事実が支援グループに与える効果は大きい。また再審の扉を開いて秋好氏の命を救うという目的に照らすと、交通権をはじめとして実の娘にしかにしかできない仕事は多く、協力がとりつけられれば、どれほどのプラスになるかはかり知れなかった。
即刻書店に駈け込み、地図とバスのルート・マップを手に入れた。バス停により、地域はさらに限定される。そうしておいて、みなで手分けして、公衆電話から一定の職種に電話をかけた(プライヴァシィに配慮して、職種には触れないでおく)。すると、間もなく勤務先は判明した。あるオフィスに佐藤久美という従業員がいたのである。これにはそれほどの時間はかからなかった。問題のオフィスは、ある集合ビルの中にあった。
さてそれからどうするか。まず考えたことは、退社時間まで待ち、道で声をかけるということだった。しかし巨大な集合ビルの中なのでルートは多く、すれ違う危険があった。また五時に退社するとは限らない。もっと早いかもしれないし、遅いかもしれない。突きとめた手段の関係上、いったん母親のもとに帰宅されたらもう手が出せない。
あれこれ迷って機を逃すよりもと考え、いっそ杉山さんに久美さんの勤務先に行ってもらい、当人に直接、付近の喫茶店何々で待っているから、三十分だけでも話を聞いてくれないかと伝えてもらうことにした。道で直接でなく、こういう手段をとることで逃げられる危険もあった。しかし逃げられる確率なら、道で声をかけても同じことで、彼女の判断に賭けてみることにした。
喫茶店は彼女の職場から近く、しかも広いフロアがあってテーブルも多く、われわれがそばの席で張れるような店である必要がある。みなで手分けして、そういう店を見つけた。職場から近くなければ彼女は足が向かないだろうし、もしもそうできそうなら、われわれも説得に加わる気でいたから、そのためには近くの席にいなくてはならない。しかしあまり近すぎては杉山さんがやりづらい。
壁際の二人用テーブルで杉山さんが一人待ち、われわれは離れた窓際のテーブルで待った。フロアの端と端だったが、なんとか顔も見える。もし久美さんが父の支援に協力するという話になったなら、杉山さんが手をあげて合図をくれ、われわれを紹介してもらう手はずだった。
必ず訊いてもらうこととして、支援参加の不可だけでなく、久美さん当人の血液型も忘れずに訊いてくれるようにと頼んだ。
待つ間は、なかなか緊張の時間だった。来る確率はせいぜい五分五分かと思った。来ないこともできたはずだが、久美氏はやってきた。当方からはかなりの距離があったが、秋好氏にちょっと体型が似た、小柄で可憐な印象の女性であること、泣いていたように、少しだけ目が腫れているところまでがよく見えた。
観察していると、会話は短かった。はずんでいるふうではなく、久美氏が早く椅子から立ちたそうにしているのがよく解った。杉山さんから聞いたこの時の会話を先に述べれば、久美氏は母親の常子氏によって、父親の存在も現状も、すでに知っていた。しかし母親への愛情から、支援活動にはいっさい協力できないと回答した。
そして自身の血液型はBと確答をくれたので、秋好氏の記憶の方が誤りで、秋好氏の血液型は鑑定通りのAB型である可能性が高まった。お母さんを騙してもらったようですけど、とちくりと皮肉も言ったようだから、母親ともすでに連絡を取っていたようだ。
最小限の会話をして、そそくさと店を出ていく彼女だったが、筆者の席は窓際だったから、頭を巡らせば、店の表の通路がよく見えた。彼女が出ていくと、小柄で堅実そうな風貌の青年がそこに待っていて、彼女は合流した。眼鏡をかけていたが、ぼくの目からは、秋好氏に見せてもらった若い頃の彼の写真に、こちらも少し似ていた。
不愉快な災難によって傷ついた心を、彼によって彼女は癒しているふうだった。ゆっくりと歩いていく後姿から、そんな感じを受けた。連れだって人混みに消えていく二人を見て、ぼくはよかったと思った。心を開ける存在を、彼女は持っていた。ここに行って断ってくるようにというのは、彼の助言だったかもしれない。しっかり断っておかないと、また何度も来られるぞ、とも言ったかもしれない。彼がいて、表に待っていてくれなければ、おそらく彼女は来なかったのではないか。
彼女の判断は、これはしかたのないことだが、支援のみなは無償どころか自腹で、他人である秋好氏の命のために頑張っている。しかし彼女から見れば、こちらはアンケートを装って母親を騙した非常識な人たち、というふうにしか見えていなかった。このことに多少傷つくものも覚えたが、しかしこれが日本の現実なのだった。死刑囚の支援というものは、こうした自信満々の道徳叱責との、長い長い闘いである。誰も、冤罪か否かなど聞こうとはしない。迷惑と怒りで涙を浮かべ、当然至極の拒絶の言葉を最小限言い、逃げ去っていく。誰もまだ、自分の判断では行動できない。そのくらい、この国の常識の暴力は根強い。
|