LA日記4 死刑廃止とはどういうことか

                              
LA日記4 死刑廃止とはどういうことか。(1998年、雑誌ダ・ヴィンチに発表)
                                      
                                              島田荘司。

 このコーナーでは軽い話題をと心がけるのだが、作家活動が長くなって、多少社会的発言もするようになると、どうも周辺には重い話題が多くなってしまってうまくない。社会学でもないのに多少重い話で恐縮だが、現在なかなか重大な問題なので、今回は死刑の話題にちょっとつきあっていただきたい。

 日本からこのような葉書が届いた。当方の「死刑反対」主張に反対する人からの意見葉書で、文面は印刷文字だから、大勢の死刑廃止論者、もしくは中立の立場の人たちに、啓蒙のために送付されているものと思われる。ある意味で説得力があり、読者の内にもこれに賛成されたり、または同じような異議を当方に申したてたい人も多いと想像するので、以下で全文を引用してみる。

 「国民は死刑廃止運動の実態を知らない? 死刑に反対している人たちの多くは、終身刑にも反対しています。もし死刑を廃止したら、金銭目当てに何の罪も無い人を3人も4人も殺した犯人が、仮釈放の無期懲役刑ですね。 私は死刑に賛成です!」

 この葉書の差し出し人欄には「だまされる国民」とあり、消印は灘となっているようだが、差し出し人の住所氏名がないので、こちらの意見が直接話せない。そこで、よい機会なのでこのページで意見を述べて、葉書の主以外の人にも聞いてもらいたいと思う。

 存置派の意見はさまざまな種類があるが、この人のものは主旨を以下のように要約できると思う。また、少々主張が解りづらいところもあるので、彼らの立ち場に立って、丁寧に言葉を補ってみる。彼らの考えもまた、痛いほどに解るからだ。

 死刑反対という人道者ふうの奇麗事にだまされてはいけない。われわれは廃止論者によって、死刑を廃止して替わりに終身刑を置くというように思わされているが、実は彼らは終身刑にも反対しているのだ。現在の刑体系のまま、死刑だけを取り払ってしまおうというのが廃止論者の本音なので、死刑廃止が行われると自動的に無期懲役が最高刑となり(現在の日本には終身刑という刑罰はない)、これは刑執行開始から十年経つと、模範囚の場合は仮釈放の対象となるので、金銭目当てで何の社会的落ち度もない人を三人、四人と殺した凶悪犯人であっても、早ければ十年で社会に復帰できる理屈になってしまう。こういう事実を知って、廃止論者にだまされないようにしよう、こういう主張であると思う。

 私の意見を言うと、この種の意見は、論議参加当初より正確に認識している。しかし、現在はもう司法の実態もよく認識しているので、この主張に対しては異議がある。

 しかしやみくもの反論ではない。私の考えは、この人のものと一面近いとも言える。日本の行刑の実態がこの主張の通りであるなら、これに賛成はしないが、死刑の置かれている現状を放置してもよいくらいである。つまり、事実三人四人を殺した人だけに死刑判決が出ているのなら、存廃問題の議論参加は後廻しにして、日本人の他の重要問題の方に関わってもよい。ところがこの人も、残念ながら司法の実態を正確にはご存じないようである。つまり司法は絶対に間違えないものという前提で論が組まれている。司法関係者の建前論や死刑関連の映画などに、だまされているとは言わないが、強く影響されていると指摘せざるを得ない。

 どんな理由があれ、人が人を殺していいのか、そんな権利が人間にあるのか、人命の与奪の権限は神にのみあり、人間にはないのではないか、あるいは人を殺すという罪を犯した人をわれわれが罰し、ついにはその者を殺すのでは彼と同罪になってしまわないか、そういった人命議論は重要であり、これに参加する用意もあるが、私に言わせると、特に日本では、まだまだそんな議論が行える段階に至っていない。三人四人を殺した人だけに死刑が宣告されていないからだ。刑事裁判には、きわめて間違いが多いのである。

 近年話題になった、死刑と人道の問題を扱ったアメリカ映画に、「デッド・マン・ウォーキング」と「ラスト・ダンス」がある。特に前者は評価も高く、よい映画であったとは思う。しかしこれらの映画の構造が、この葉書の主のような意見を多く産みだしたという指摘は、遺憾ながら可能である。あれは映画のマジックで、現実の死刑事案の審理は、あのようなすっきりした展開には絶対にならないからだ。

 右のふたつの映画は、前者がショーン・ペン、後者がシャロン・ストーンの犯行であることが、回想シーンの映像によってたやすく観衆に示される。すなわち両事案は、膨大な数の観客が事件の目撃者となるわけだから、被告が実際にやったか否かに争いの余地が生じない。こんな裁判ならなんの苦労もないといえる。刑事事件の最も辛苦は、量刑の前提となる事実認定だからだ。

 作中のふたつの事件において、真実シーン提示などという魔法が使えない現実を想定してみると、間違いなく以下のようになるであろう。前者は犯行が深夜の森の中だから、まず目撃者が出ない。つまりショーン・ペンとその仲間が強姦殺人の犯人だと、法廷で証言してくれる者が出ない。被告もまた犯行を否認するだろう。するといったい誰が被告の殺人行為を保証してくれるのか。

 後者もまた深夜の民家内の犯行で、目撃者はない。ただこちらは民家の集落地であろうから、犯行に向かう彼女や、逃走中の彼女を見る人が出るかもしれない。だがこれも、深夜二十メートル彼方の闇の中というような条件になりやすい。これで彼女が犯人と確信できる証人、ひいては判事や陪審員が果たして出るか。こちらのケースもまたむずかしい。

 シャロンに死刑判決を出せば、当たっているかも知れないが、同時に真犯人は彼女によく似た別人である可能性も残る。こういう場合、つまりまず間違いがないとは思えるのだが、どうしても確信は持ち得ないというような事案の場合、被告を終身の懲役にすべきが安全だというのが当方の意見である。

 実のところ、実際の刑事事案は右のようなものばかりと言って言いすぎではない。検察の提出する犯行のストーリーが完璧に正しい場合もあるだろうし、また犯行態様の把握に多少の間違いはあっても、大筋では当たっている場合が大半とは信じている。しかし、外れている場合もまた確実に何パーセントか存在するのだ。これが問題である。この不安は、将来どれほどに司法の審理技術が磨かれようとも、未来永劫残り続ける。ジャッジは神ではないからだ。

 その場合、判決が死刑でなければとり返しがつく。誤審によって被告の残りの生涯がすべて刑務所内の労働となっても、間違えられた被告は、「驚くべき不運」という同情と、誤審が立証されれば賠償金ですむ。しかし殺してしまっては、間違いが解った際にそんな悠長な話ではすまない。司法による隠ぺい工作も当然起こるであろう。

 しかし日本の場合、それでも無理に死刑判決が出されてきたというのが、遺憾ながら現実である。軍国から高度経済成長へと続いた国民への威圧と強制の時代、勧善懲悪のけじめをつけて、滅私労働という社会秩序を維持する必要があった。犯人不明は労働意欲を削ぐ。死刑は罰則の親玉であり、この恐怖が民を真面目にしたという側面は、残念ながら発展途上時代の日本にはあった。

 死刑が確定し、執行が迫ってから再審が認められ、間違いが解った近年の事案に免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件があり、被告は獄死したが、実は冤罪だったと言われる死刑囚に、帝銀事件被告、牟礼事件被告がある。現在の死刑確定囚のうち、被告が裁判の間違いを強く訴えている事案に、袴田事件、名張毒ぶどう酒事件、三崎事件、秋好事件など多数ある。付言すると、確定死刑囚がすべて冤罪を主張しているわけではない。

 それから死廃反対論者の錯覚のひとつに、死刑にしなければ、被告がそのまま社会に暮らせると思い反対するケースがある。これはO・Jシンプソンのようなケースからの素朴な誤解だろうが、被告が殺人行為を成したという認定がなされる限り、これは起こらない。必ず懲役刑はつく。この認定がうまく成されるか否かの心配は、死刑存廃議論とは関係がない。

 また存置論者の不安に、もし現刑罰体系のままで死刑だけが消え、最高刑が無期懲役になれば、史上まれな凶悪犯でも十年で仮釈放になるという心配がある。確かに刑法典の第二八条に、「懲役モシクハ禁錮ニ処セラレタル者改悛ノ状アルトキハ(中略)無期刑ニ付イテハ十年ヲ経過シタル後行政官庁ノ処分ヲ以テ仮出獄ヲ許スコトヲ得」とある。これが多くの人の反対の理由だ。

  しかしそういう奇跡が万一日本の刑務所に起こったとしても、十年というのは仮出獄許容の起点であって、本格的判断はこれ以降である。いかに改悛の状があっても最短で二十年程度、通常は三十年以上というのが行刑の通例である。

 あるいは、犯人が二十歳で死刑相当の犯行を成したような場合、即刻逮捕されて無期になれば、それからたとえ収監が二十年でも仮釈放時まだ四十歳ではないかという不平がある。これは、逮捕から刑の執行までに長い裁判、そして拘置所での裁判待ちの時間がはさまるという事実が、忘れら去られるか、故意に隠されている。

 ただし死刑が廃止され、無期が最高刑になったとしたら、一審で無期をもらい、上級審で争っても懲役期間を減ずる見込みが乏しいと考える被告は、控訴をせず、一日も早い仮釈放をめざして確定、即刻懲役をスタートすることになるだろうから、現在の二、三十年もかかる三審の裁判は確かに短縮になることが予想される。述べたような状況が多発すれば、一審の比重は今以上に増すから、地裁の審理時間はおそらく延びることになる。複数殺人の事案は、すべからく十年程度をかけることになるものと思われる。

 この計算なら、二十歳で犯行したものも最短で仮釈放は五十歳くらいとなる。三十歳は六十歳。このあたりが現実的な推察だ。したがって、無期まででは仮釈放があるという不平は間違いではないが、存置論者が主張しがちなほどに短期間ではない。またこの人は、社会に出ても罰金刑以上の違反で即再収監となる。

 ただし、これでは不充分と考える人の気持ちもまたよく理解できるので、私自身、十年という仮釈放発生の数字はまったく不充分と考えている。つまりもっと延ばすべきと思う。そこで多くの人と議論してくる結果になった。実のところ死刑存廃論議の中心議題は、人命論ではなくこれである(人命論など不要という意味ではない)。

 葉書の主が主張するように、死刑廃止論者が、終身刑代替に対しても反対しているのは事実である。私に関しても、終身刑代替に賛成か反対かと問われるなら、反対と応える。この案は、現場を知らない人が言うことで、発狂者や自殺者を多く出し、監獄運営をむずかしくすることがあきらかだからだ。しかし現刑罰体制のまま、死刑という「頭」だけを取り去るなどということは、私などは夢にも考えたことはない。そういうことを言う人もおそらくはいるだろうが、ごく少数派である。昭和三十一年に、羽仁五郎氏によってそういう議員立法案が国会に提出されたことがあるが、歯牙にもかけられなかった。

 私に関してだけだが、死刑を置くか廃止するかという問いに関しては、ほとんど議論の必要を感じていない。将来に廃止が起こることは必然であり、一年後か百年後かの違いがあるだけだ。一番の難問は代替案の内容である。すなわち、死刑を廃止したのちにどんな替わりの刑罰を置くか、という問題である。近日刊行予定の、もと内閣補佐官錦織淳氏との対談本「死刑の遺伝子」も、死廃に関する限りはそれが中心論題であり、秋好英明氏との場合もそうであった。われわれの頭にあるものは、どんな凶悪犯罪を犯しても、一定以上の高齢になったら社会に戻してほぼ無害であるという発想で、逆に言うと、現死刑相当の重大犯罪者は、老人になるまで社会復帰させてはいけないという考え方である。

 すると改善のポイントは、現在の無期懲役が持つ、仮釈放の対象となる「刑期十年経過以降」、という言葉と数字になる。これを二十年とするか二十五年とするか、あるいは三十年とするかだが、そのような単純な数字の長短でによらず、被害者の逸失利益の総量で考えるべきであるというのが秋好英明氏で、つまり被害者が生きて人生をまっとうしたなら、いくらの金額を稼いだかを推定計算し、複数人なら彼らのこれを総合した金額を、獄内労働によって死刑囚に返済させ、終わった順に仮釈放するのはどうかというアイデアである。合理的な考え方だが、そうなると現在の獄内作業による給与金のレート、一等工でも一時間二十数円という基準から変革しなくてはならなくなり、ハードルが無数に現れて、議論が錯綜した。

 いずれにしても死廃後、かつての死刑相当の囚人は、懲役十年程度で仮釈放させるなどという考え方はまったく現実的ではないから、こういう主張は実現の見通しはないと言ってよい。

 死刑廃止に関しては論ずベきテーマは多々あるのたが、紙面がないので一部を述べた。読者諸兄はどのように考えられるであろう。ご意見があったら寄せて欲しい。

 
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