記者の目

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記者の目:初動ミス問われた力士暴行死事件=米川直己

 大相撲時津風部屋の力士暴行死事件で、愛知県警は当初、事件性の判断を専門とする検視官に序ノ口力士、斉藤俊さん(当時17歳)の遺体を検視させないまま「事件性なし」と判断した。遺族の要請による解剖で「多発外傷によるショック死」が明らかになったが、遺族が行動を起こさなかったら事件は闇に葬られていたかもしれず、批判は免れない。だが、私は取材を進めるうちに「県警の失態」と言うだけで済む問題ではないと思うようになった。背景に、全国的な検視制度の不備とも言える実態が見えてきたからだ。

 斉藤さんが死亡した昨年6月26日、消防から連絡を受けた犬山署は、署員が搬送先の病院で検視し、現場に捜査員を派遣して事情を聴いた結果と合わせて、事件処理をしなかった。

 本来、少しでも事件性があれば、県警本部に検視官の派遣を要請することになっている。ところが、同署は遺体の写真を参考までに検視官室に電送しただけだった。別の現場から戻った検視官が写真を見るや「これから見ようか」と同署に電話したが、遺体は既に新潟の実家へ移送された後だった。事件を指揮した捜査幹部は後に、この判断について「すぐに検視官を要請すべきだった」と初動ミスを認めることになる。

 刑事訴訟法によれば、検視は本来、検視官が行うものだが、実際には警察官が行う「代行検視」が9割を占めている。検視を専門とする検視官は原則10年以上の刑事経験が必要だ。

 事件性の判断という極めて重い責務を担うにもかかわらず、その数は警視庁や大阪府警で8人。2人しかいない県警が半分以上の28県に及ぶ。愛知県警の場合は室長を含む5人が3班体制で24時間、県内の変死事案に対応している。

 同県内で発見される変死体は年間約6000体、1日平均16体に上り、検視官だけで対応するのは不可能だ。06年に見つかった変死体5527体のうち、検視官が検視したのは350体と、わずか6%程度だった。ほとんどの変死体は、現場を受け持つ所轄署のベテラン刑事が検視している。全国の状況を見ても、検視官計147人に対し06年に見つかった変死体は計約15万体。検視官が検視したのは11%に過ぎなかった。

 さらに、解剖を担当する法医学界の人員不足も深刻だ。愛知県内で法医学教室があるのは4大学。他県と比べれば恵まれているが、それでも「すべて解剖に回せば教室がパンクする」(県警幹部)。全国では80の大学に法医学部門があるが、近年は教員定数が削減され、法医学者を目指す学生も減っている。日本法医学会の07年のアンケートによると、回答した61大学・機関で解剖にかかわる医師や助手は計約260人。3年間に9大学で11人減っていた。06年の変死体の解剖率は全国で9%と、先進国で最低だった。

 背景には「法医学教室は臨床部門のように採算が取れず、大学の予算も削減傾向にある」(同学会)という事情があり、教室の存続さえ危ぶまれる機関もある。実際、愛媛県は06年から解剖医がおらず、開業医や病理学者に司法解剖を頼っている状態だ。

 また、解剖費用の問題ものしかかる。警察庁によると、法医学教室が司法解剖した場合、国庫から支払われる謝金は昨年3月まで1体約7万円だった。一方、遺体1体の解剖にかかる実際の費用は、検査にかかる薬品代などで20万~30万円とされ、教室はこれまで採算を度外視してきた。昨年4月からは謝金に加え、1件当たり約12万円の検査料が支払われるようになったが、赤字に変わりはない。

 愛知県警幹部は「解剖する側が予算や人員の面で手いっぱいの状況では、現場である程度判断し、依頼する数を絞り込まなければならない」と話す。だが、実際には解剖しなければ事件性を判断できない変死体も多く、検視の現場には常に高度な判断が求められる。ある検視官経験者は「事件性なしと判断した後も、あれで良かったのかと考えて眠れないこともあった」と打ち明けた。

 死因の究明については民主党が国による専門機関の新設を求めて立法化を進めているほか、今回の事件を踏まえ、警察庁や文部科学省など関係省庁が横断的に改善策の検討を始めた。事件をきっかけに、検視・解剖現場の現状が注目され、体制見直しのきっかけとなったことは一歩前進と言える。しかし、現状では、全国で今回と同じミスが起こりうる。政府には、専門家の育成など検視体制の強化と、法医学界の予算や人員の拡充を求めたい。(中部報道センター)

毎日新聞 2008年3月21日 0時09分

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