2008年03月18日
知識の量が質に変化する瞬間
創造性は、知識の量から成る、と思う。本当にそうか?
ひとと話をしていて、創造性がある!と感じるのはこんなときだ:
A 多数の事の裏にある、誰も気づかない共通点に気づいてしまう。
B あるひとつの事のはるか先にある、誰も気づかない帰結に気づいてしまう。
どっちも根っこは同じだ。
少なくとも私のまわりの創造性豊かな人たちは同じ根を持っている。
以下、その仕組みを解説する。
まず人間は、多段階の関係を記憶することができる。
エンジニアならこんなことを最初に習うかもしれない。
C言語→中間言語→アセンブリ→中間言語→x86バイナリ
この関係に関する知識を抽象的に表現すればこうだ。
A→B→C→D→E
しかし知識があればC言語を生成する前段階の軽量言語を知っているかもしれない。
またx86バイナリコードの次にくるマイクロコードのフォーマットを知っているかもしれない。
あるいはさらにプロセッサコアのブール代数処理系の構造を知っているかもしれない。
多くの人が知っているように知識というのは途方もない奥行きがある。
→A→B→C→D→E→
左端と右端は通常は閉じていないのだ。
だから自分が知っている関係の鎖は、とても長い鎖の、ごく一部でしかない。
一方、人間は関係を多数記憶することができる。
文献によってその数は100億とも何十兆とも言う。
まあとりあえず多くて数えにくいのだろう。
ほとんどの人が A→B→C D→E→F という知識を持っているようなときに、
X→A と X→D という関係性についての知識を持っている人がいる。
その人はAとDの共通の根っこを簡単に見つけ出すことができる。
あるいは、F→G→H という知識を持っていたら、
簡単にD→・・・→H を想像できてしまう。
ひとはこういったことを見ると「創造的である」と言うのだ。
知識の量がある水準を超えると、急激に創造的になったように見えるのだ。
これとパーコレーションの現象は無関係ではない。
「常識のない若者にしかできない創造があるではないか」これは反論にならない。
常識のない若者にしかできない創造は、もちろんある。
しかしこれは、若者が物事を知らないことによるものではなく、
バランスの悪さに起因するもののみである。
つまり、バランスよく問題解決にあたる技術を体得してしまったひとが
絶対にそうしないようなやりかたで、世界のごくごく狭い範囲の問題について、
徹底的かつ執拗かつ異常に、長時間、膨大なエネルギーをかけて
知識を吸収してしまうことができるからなのである。
しかしその分、世界のほかのほとんどの部分に関する知識は著しく欠ける。
私がこれまで見てきた創造的な若者はすべてこの場合に含まれる。
単純な無知は創造につながらないのだ。
現時点では、私は無知による創造性を信じない。
Posted by ringo : 2008年03月18日 00:02
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