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2007-07-31 17:34:59

安倍総理って本当は凄いの?

テーマ:ブログ

津島派壊滅作戦?参院候補見直しで、安倍首相対青木会長

2006年12月03日

http://times.okushima.org/2006/12/post_230.php

[参院選]自民津島派壊滅状態 1人区で全員落選

2007年07月30日

http://news.livedoor.com/article/detail/3249969/


今度、参院選で参議院のドン青木幹夫参院議員会長はその役を辞任する。

青木氏の跡を継ぐはずだった片山氏は落選。青木氏が重用していた片山氏と同じく津島派で島根出身の景山俊太郎参院筆頭副幹事長らも落選した。


一方、安倍首相が戦略候補は全て当選している。

安倍出身派閥の町村派は参院第一派閥にのし上がっている。


島津派は「美しい国」を否定していた派閥であり、安倍政権の抵抗勢力でもあった。


安倍憎しでマスコミは日替わりで手を替え、品を替え執拗なバッシングを繰り返したが、結局は安倍総理の政敵が追い落とされる結果となった。


恐るべし安倍総理。


しばし見守るとしよう。

2007-07-31 16:42:45

企画:大院君 協力:三浦 殺害:朝鮮軍人 陵辱:朝鮮大衆

テーマ:李氏朝鮮の統治

1873年、大院君は9年余にわたった摂政の座を降りて、野に下ることを強いられた。
 これより高宗の親政となるのだが、相変わらず酒と女に溺れる高宗に代わり、閔妃(*1)の独裁政治が始まったのである。
 閔妃一族が実験を握り、李朝政権の隅々まで閔妃の一族によって埋め尽くされ李朝後期の腐敗と汚職にまみれた政治がここから始まったのである。
 閔妃は王子拓を世子とするために莫大な資金を費やした。
 そのうえ、閔妃は世子の健康と王室の安寧を祈るために、「巫堂ノリ」を毎日行なわせた。
 「巫堂ノリ」は巫女たちが狂ったように踊り、祈る呪術である。
 そのかたわら、金剛山の1万2000の峰ごとに、一峰あたり1000両の現金と、1石の米と1疋の織物を寄進した。
 つまり、合計して1200万両の現金と、1万2000石の白米、織物1万2000疋を布施したことになる。
 当時の李朝の国家財政は、150万両、米20万石、織布2000疋を備蓄していたにすぎなかったから、閔妃が金剛山に供養した額は、国庫の6倍以上に当たるもので、とうてい耐えうるものでなかった。
 これは法外な浪費だった。宮廷の重職者たちは、民衆から搾取して、競って閔妃に賄賂を贈り、王妃に媚びて「巫堂ノリ」に積極的に参加し、巫女たちとともに踊った。
 閔妃は、狂気に満ちた宮廷に君臨する最悪の女王だったのだ。
 そして朝鮮の閔氏一族は日清戦争で朝鮮に対する宗主権を失った清国に代えてロシアに接近し、1895年7月、ロシア公使ウェバーの援助を得てクーデターを起こして、大院君や開化派・親日派を一掃し、日本人に訓練された軍隊も解散させた。


 これに対して、1895年10月、日本公使は閔妃殺害事件(*2)を起こし大院君と金弘集政権を復活させたが、朝鮮国民の反日感情が高まり武装蜂起があいついだ。日本は、この事件以降、朝鮮政府への強引な介入をしばらく差し控えざるをえなくなり、経済的な進出に専念した。
 1896年2月、ロシア軍水兵の応援を受けて反日派(保守派)がクーデターを起こし政権を奪い、金弘集らの政府要人が処刑された。高宗王は日本の逆襲を恐れてロシア公使館に避難し、一年あまりの間そこで政務をとった。
 1897年、高宗王は王宮にもどり、朝鮮が清国に臣従していた際のかたちを改め、独立国であることを示すため、国号を「大韓帝国」に改めるなどの改定を行った。

(*1)朝鮮では儒教の影響が大きくて男女差別が激しく、女性は家系図から外して抹消するのが習慣で、20世紀までは元々名前すら無かったりした。だから閔妃というのは“閔氏一族出身の王妃”と言う意味である。
もしかしたら固有の朝鮮名が有ったのかも知れないが、朝鮮側の記録にも日本の記録にも一切残されていない。“閔紫英”が婚前の名前だとの説もあるが鄭飛石の長篇小説「閔妃」で使っているというだけで、根拠は薄いようだ。故に朝鮮での呼び名は『閔妃』以外には存在しない。
また現在、閔妃とされている写真も日韓併合(1910)以前の欧文資料や日本語資料では、説明を「正装の韓国夫人」「宮中の侍女」「女官」などとしているのであり、「閔妃」とするものは全くない。ところが第二次大戦後の日本および韓国で出版された歴史および事典では、ほとんどがこれを「閔妃」としているのである。
つまり別人の写真であったものが数十年経った戦後に閔妃とされてしまい、それが定着したのである。

(*2)「ここでは日本公使が」とされているが、具体的な資料が存在しなかったためである。というのは家臣の行いであった可能性が存在するためである。
『機密第36号』には、「然るに他の壮士輩は王妃を逃したると聞き、処々捜索を始め、終に国王の居室に迄踏み込まんとせしが、此所には国王始め世子宮も亦居らせられ、何れも頗る御恐怖の御様子につき、荻原は直に国王の脚座に進み御安心あるべしと告げ、狂い犇めく壮士輩に向い、大手を張って大字形をなし「此処は国王陛下の宸殿なり。立ち入るべからず」と号叫し、其乱入を制止したりしかば、予て大院君より「国王及世子丈けは、必ず助命し呉るべし」との依頼ありたるとかにして、一仝異議なく、其場を立退きたりしかば、国王及世子は、身を振はして荻原の両腕に取りすがりつつ、頻りに保護を頼み給いたり。」とある。つまり、壮士輩は長安堂に入っておらず、且つ高宗と純宗は現場に居た。
高宗は、「勿論我臣僚中不逞の徒、之を行ひたる」といい、純宗は『往電第31号』で「乙未事件に際し、現に朕が目撃せし国母の仇、禹範善」と述べ、さらには禹範善自身が「旧年王妃を弑せしは自己なり」と自白している。

王妃殺害事件の関係者の証言

* 「禍乱の張本人たる禹範善、李斗鎬、李範来、リシンコウ、趙義淵、
    権濚鎭等を斬首して露館に来り、朕の観覧に供せよ」
* 「王妃を殺した部下に復讐するために、国が滅んでもかまわない」と
    ロシア公使館逃亡中の高宗の発言。(1896年のソウルの町中に張られた勅令)

「王妃を殺したのは、不貞の私の部下だ」と現場に居た高宗が証言(1906年 
統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告(國分書記官通訳并筆記))

「国母を殺したのは、禹範善だ」と現場に居た息子の純宗が証言。
(往電31号)(後に純宗は刺客を放ち、禹範善を暗殺)

「王妃を直接殺したのは、私です」と実行部隊隊長の禹範善の証言。
(在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件)

「王妃殺害を今回計画したのは、私です」と証言した李周會
(朝鮮での裁判。裁判に関しては官報に記載あり)

「計画の首謀者は、大院君だ」と記したロシアの参謀(ゲ・デ・チャガイが
編集した「朝鮮旅行記」のロシア参謀「カルネイェフ」の発言)

「事件に協力した」と、日本の三浦公使
「今後も、日本とは最も親密で居よう」と高宗(1896年2月11日の詔勅
http://www.jacar.go.jp/cgi-bin/image.cgi?image=2&refcode=B03050313400&page=27)

高宗・純宗という目撃者と容疑者の自白から、王妃を殺害したのは「朝鮮の禹範善」

エンコリより引用
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&page=16&nid=1750466
2007-07-29 17:48:51

終戦直後日本人を守った台湾人、日本人を襲った朝鮮人

テーマ:朝鮮人が嫌われる理由

蔡焜燦著『台湾人と日本精神』

昭和20年8月15日、終戦の詔勅下る。 山奥での作業中に年輩の応召兵が『敗けた!』と隊からの伝令を口にしたまま、呆然と立ちすくんでいた。 我々は何が起こったのかさっぱりつかめない。無理もない、玉音放送があることすら知らされていなかったのである。 ただ中隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを物語っていた。しばらくして、敗戦の事実が我々台湾出身生徒にも正式に伝達されたとき、悔しさと無念の気持でいっぱいになり、とめどなく込み上げる涙で頬を濡らしたことはいまでも鮮明に覚えている。無性に悔しかった。それは他の台湾出身生徒も同じ心境だった。 他方、朝鮮出身の生徒達は、その日から食糧倉庫、被服倉庫を集団で強奪するなど、したい放題のありさまで、我々は複雑な心境でただそれを眺めていた。日本人を殴って、『戦勝国になったんだ』と威張りちらす者もいれば、『独立だ!』と気勢を上げる輩もいる。敗戦の報は、それまで一つだった”国民”を三つの国民に分けてしまったのである。

「敗戦の詔勅」が発せられた翌日の8月16日、水平射撃用に改修を終えた対空機関砲で上陸してくる米兵を迎え撃つべく和歌山に移動するとの伝達があり、四門あった砲の射手の一人を私が務めることになった。だが、このときは正直いって心が揺れた。『また行くのか… 』、祖国のために殉ずる気持ちで出征したのだが、いまとなっては”生”への執着が顔を覗かせる。 この日の夜も朝鮮人生徒達が独立を叫ぶ傍らで、40名の台湾人生徒も小さな単位でひそひそと今後を話し合う光景が見られた。『俺達はいったいどうなるのか… 』 『我々は“中国”へ帰るみたいだ』 『それなら俺達も一等国の国民じゃないか… 』がっくりと肩を落とした日本人を気遣いながら、そんな会話が小声で交わされるのだった。

そして8月17日の夕方、連合軍の命令で我が隊の武装解除がはじまり、日本人は復員することが決定した。もちろんこれで例の”本土決戦”の計画も自動的についえた。しかし残務整理は日本人事務官でこなせるものの、兵隊がいなくなってしまっては武器庫や飛行機などの警備ができない。そこで進駐軍がやって来るまでのおよそ二ヶ月間、学校、練兵場、格納庫、武器庫など、あらゆる軍の施設を我々40名の台湾人生徒が守ることになったのである。『朝鮮人は信用できない。だから君たち台湾人が守ってほしい』そう言い残して去っていった上官の言葉を、これまで経験してきたもろもろに照らし合わせて了解した。

昭和20年10月、奈良教育隊に米軍が進駐してくると、我々もようやく施設警備の任を解かれることになった。
(中略)
昭和20年12月、連合軍の命令で台湾への帰還を命ぜられる。
苦しいこともあったが、離れて久しい故郷台湾の地を踏める。そんな喜びに胸を膨らませ、私は引き揚げ列車に揺られた。新聞は、近衛文麿元首相の自決を報じ、列車の中では戦勝国民となった朝鮮の連中が威張り散らしている。ああ、日本は本当に負けたんだ……目にするそんな光景が私に日本の敗戦を教えていた。私は終戦の日をもって"戦勝国民"になったはずだが、やはり心の底でまだ自分は日本国民だという意識があり、複雑な心境で"敗戦"を思った。少なくとも、私は戦勝国民になったことを手放しで喜ぶことなどできなかったのだ。

心の切り替えができない私は、誰から見ても敗戦で肩を落とした日本人に見えたのだろう。また日本兵の軍服で汽車に乗り込んでいた私は、8月15日をもって急に威張りはじめた連中の嫌がらせを受けた。 座席の中に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれ、それを奪い返そうとすると、『なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い!』と、たちまち数人に取り囲まれてしまった。多勢に無勢、勝ち目はない。こうなっては『すみません、私の記憶違いでした』と謝り、難を逃れるしか術はなかった。

それから佐世保に到着するまでの30時間、連中は執拗に私を含め多くの日本人乗客をいびり続けた。若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で窓から降りるよう指示するなど、この連中のあまりにも情けない行状を、私ははらわたが煮え繰り返る思いで眺めていた。ただ黙って見ているしかなかったのである。
(中略)
佐世保キャンプで私は面白い場面にも遭遇した。 あの引き揚げ列車の中で、私を含め敗戦で意気消沈する日本人をいびり続け、肩をいからせていた朝鮮人たちが、「中華民国台湾青年隊」の腕章をつけた我々におべっかを使って擦り寄ってきたのである。それは中華民国が連合軍の一員であったからに他ならない。弱い者には威張りちらし、強い者には媚びへつらう、そんな彼らの極端な習性を目の当たりにした思いがした。なんとなくいい気がしない。とはいうものの、大国の狭間で生活してゆかねばならなかった地政学的な環境が、そうした一個の民族性を育んだのだから、いまさらそれを責めても仕方なかろう。

蔡焜燦著『台湾人と日本精神』
http://maokapostamt.blog77.fc2.com/

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