ここから本文です。現在の位置は トップ > 地域ニュース > 千葉 > 記事です。

千葉

文字サイズ変更
ブックマーク
Yahoo!ブックマークに登録
はてなブックマークに登録
Buzzurlブックマークに登録
livedoor Clipに登録
この記事を印刷
印刷

千葉遺産:/12 初代スカイライナー車両 「成田」と走った空港特急 /千葉

 ◇お蔵入り、焼き打ち乗り越え

 都心から成田国際空港に向けて走る京成線。北総台地を疾走する「京成スカイライナー」の姿は、沿線住民にはなじみの光景だ。現在走っているのは90年から導入された2代目。72年から活躍した初代の車両は、先頭部の1両だけが宗吾車両基地(酒々井町)で静かに余生を過ごしている。導入から引退までの歴史には、さまざまなドラマがあった。

  ◇    ◇

 京成電鉄が「空港特急」を計画したのは1960年代。千葉県に新空港が設置されることが決まってからだ。京成成田駅から空港まで7・3キロの線路を新設し、旧国鉄の成田新幹線と共に、東京と新空港を結ぶ鉄道輸送ルートとして位置付けられた。工事は70年から始まった。

 72年3月、「空港特急」の車両30両(5編成)が納入された。最高時速は120キロ。価格は1両5000万円。1編成6両で、定員は364席。

 「それまで箱形の電車を見慣れているので、初めて見た時は斬新なデザインと思った」。そう語るのは、検車係だった佐久間峰三郎さん(60)。本社で管理事務をした1年を除き、入社以来、同基地で車両整備一筋に働いてきた。現在も車両部整備課課長補佐として基地に勤める。

 愛称の「スカイライナー」は公募で決まった。塗装はクリーム色をベースに、あずき色のライン入り。成田山参拝客を運ぶ特急「開運号」を踏襲したデザインだった。

 同基地に展示されている車両は、初代の30両のうちの1両。内部にはヘッドマークなどの資料も置かれ、一般にも公開されていた。

  ◇    ◇

 空港線の工事は72年11月に完成した。車両も線路もそろったものの肝心の空港は、反対運動の激化と工事の遅れで開港が決まらない状態が続き、スカイライナーも車庫に眠ったまま。

 高価な車両を遊ばせておくわけにはいかないと、同社は開運号の代替車として、73年12月30日、京成上野-成田間で直通運転を始めた。開港までの5年間、スカイライナーの主な仕事は東京から成田山への参拝客輸送だった。

 開港を目前に控えた78年5月5日未明、基地に止まっていたスカイライナー3両が、過激派に焼き打ちされるという事件が起こった。

 出火は午前3時半ごろ。6両編成の中央3両が燃え、佐倉市消防本部の消防車3台が出て消し止めた。3両のうち1両から、時限発火装置が見つかった。

 「パチパチという音がしたので、電車の方に行ってみると、1両が燃えていて、やがて連結している車両にも燃え移った」。佐久間さんは事件をはっきりと覚えている。「せっかく頑張って整備しているのに、あの時はもう、悔しいやら悲しいやら」

 焼き打ち事件を乗り越え、スカイライナーが空港に姿を現したのは同5月21日。京成上野駅から成田空港駅への一番列車が走った。

 「当日は晴れ。午前6時半に上野駅を出発して津田沼を越えると、緑が見えてきて気持ち良かった」。一番列車の運転士で現在、本社で運転指令長を務める登丸誠次郎さん(60)は振り返る。「予定通り、1時間で成田空港駅に到着した。社の幹部から『ご苦労様』と言われた時、『ああ、一番列車を運転したんだ』と実感がわいた」

  ◇    ◇

 83年、スカイライナーはボディーカラーをあずき色とクリームから、現在も続くブルーとクリーム色に一新した。93年に2代目に切り替わるまで3000万人以上を運んだ。

 佐久間さんも登丸さんも今年、定年を迎える。2人にとって、スカイライナーは人生を共に走った相棒。「いろいろあったが、当時の社内は、国内で初めて国際空港へ鉄道でお客様を運ぶということにわくわくしていた。このスカイライナーを見るとその高揚感がよみがえってくる」と口をそろえた。

 ◇行こうヨ!千葉遺産

 京成電鉄宗吾車両基地(酒々井町岩橋)は、宗吾参道駅から歩いて10分。1966年に車庫として建設された。240両を収容する同社最大の車両基地(面積10万4000平方メートル)。現在、改修工事中で、「初代スカイライナー」の見学はできない。

毎日新聞 2008年3月20日

千葉 アーカイブ一覧

 

おすすめ情報