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【正論】チベット騒乱 国際教養大学理事長・学長 中嶋嶺雄
■「日中友好」も極めて微妙に
中国が国威発揚の絶好の機会ととらえる北京五輪まで4カ月余というこの時期に、チベットで衝撃的な騒乱が発生、中国当局の無慈悲な制圧に対して、世界的な怒りが集まっている。
チベット自治区の首都ラサで3月10日以来発生した反乱では、軍や警察の発砲で多数の死者や逮捕者が出たと報じられた。中国当局は例によって厳しく報道管制し、死者数もごく少数だとしているが、騒乱は周辺の四川省や青海省、甘粛省などのチベット族自治州にも広がり、事態はきわめて深刻な様相を呈している。
インド北部のダラムサラに亡命しているチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世は、16日の記者会見で「文化的虐殺が起きている」と中国に強く抗議していた。
周知のように中国は1950〜51年、朝鮮戦争に世界の注目が集まっている中、「チベット解放」という名の侵攻と占領を行った。1965年以後は、チベット自治区として今日にいたっている。
チベット人はもちろん一貫してそれに抵抗してきた。そのピークが59年の「チベット動乱」である。しかし、中国の人民解放軍は徹底的な弾圧を加えた。富裕層や地主らを公衆の面前で銃殺に、あるいは生き埋めにし、僧侶を撲殺、焼殺するなどして、動乱を鎮圧したという。多くのチベット人が難民としてインドに逃れ、ダライ・ラマ14世もヒマラヤを越えての亡命を余儀なくされた。
≪犠牲者は累計120万?≫
当時、中国語を学ぶ学生だった私は、北京放送が「(チベットを所管する)譚冠三将軍が道中のダライ・ラマと友好的に書簡を交わしている。彼は亡命したのではなく、帝国主義者とチベットの反動分子に拉致されたのだ」などと虚偽の放送を盛んに流していたのを覚えている。
チベットではその後も反乱が続き、87年の秋と88年の春にもラマ僧による蜂起があった。続く89年1月には、ダライ・ラマに代えて中国当局が擁立したパンチェン・ラマ10世が謎の急死を遂げている。
「チベット動乱」から30年となるこの年、パンチェン・ラマの急死が引き金となる形でまたも大暴動が起き、同3月、中国史上初めての戒厳令がチベット自治区に敷かれた。
当時の同自治区の最高責任者が今日の胡錦濤国家主席であり、胡錦濤はチベットで徹底的な弾圧を行った功績を買われて当時の最高権力者トウ小平により中央に呼び戻された指導者である。
その後、中国当局はチベットに懐柔策をとるようになる。89年12月、ダライ・ラマにノーベル平和賞が授与されたのがきっかけである。北京政府は「西部大開発」を掲げてチベットの観光振興に乗り出し、2006年7月には青蔵鉄道も開通したが、依然としてラマ教の布教を許可せず、政治犯も釈放していない。そうした状況下で、96年5月にも大きな反乱と中国当局による弾圧があった。
こうして抑圧→反乱→鎮圧という不幸な歴史が繰り返されてきたチベットでは、中国当局による一連の弾圧によって出た犠牲者の数が、120万人を超えるとさえ言われている。これは全チベット人口の5分の1以上に当たっている。その上に今回の暴動が再発したのである。
≪5月首脳会談は延期を≫
今回のチベット暴動は、ウイグル族やモンゴル族に対する人権抑圧への国際的批判とともに、今週末の台湾総統選挙にも大きな影響を与えつつある。
折しも来る5月中旬には、胡錦濤主席の来日が予定されつつあり、いわゆる親中派の福田首相は、毒入りギョーザ事件や東シナ海でのガス田開発の問題などの決着もないままに、日中平和友好条約締結30周年を記念して日中友好の大がかりな首脳会談を開こうとしている。
しかし、ドイツ、フランス、米国など欧米の民主主義諸国がこぞって中国のチベット制圧を非難しはじめているときだけに、日本政府としては極めて慎重な対応が求められよう。
中国当局とチベットの双方に自制を求める町村官房長官の発言があったとはいえ、空々しい日中友好のセレモニーをこの時期に挙行するとすれば、日本国民からも強い反発を受けるばかりか、世界の顰蹙(ひんしゅく)を買うであろう。
「食」や「環境」、それに「人権」で不安の大きい北京五輪のボイコットとまではいますぐ結論を出さないにしても、この5月の日中首脳会談の開催はひとまず延期すべきだと私は考えている。(なかじま みねお)