オランダ学入門
オランダは1960年代に北海海底に天然ガスが発見され経済が潤い、70年代にはヨーロッパでトップクラスの社会福祉制度を誇る豊かな国になった、しかしその後、経済政策を誤り、景気が過熱してバブルが生じた。
そのバブルがはじけて、財政が破綻、社会保障制度が維持できなくなり、失業と社会不安が蔓延した。そして80年代になると失業率は12パーセントを超えた。このような経済政策の誤りによってもたらされた悲劇的状況を、世界の人々はかって「オランダ病」と呼んだ。
しかし、それから15年もしないうちに、オランダはこの悲劇的な経済破綻から見事によみがえった。現在オランダの失業率は3パーセントで、先進国のなかで最も低い水準である。そして経済成長率は3パーセントを超える高い水準を維持している。99年には25年ぶりに財政の黒字化に成功、国際機関によるビジネス環境の評価で世界第一位になった。これを世界の人々はいま「オランダの奇跡」と呼んでいる。
それでは、どうしてこんなすばらしい逆転劇が可能になったのだろうか。その秘密は、1982年に政労使が結んだ「ワッセナーの合意」にある。この合意にしたがって、政府はパートタイマーの雇用条件や税制、年金制度を正社員並に保証する法律を作り、これによってパートタイマーで働く労働者が増え、「ワークシェアリング」が実現し、失業率が大きく低下した。
オランダの労働者は、その生活設計にあわせて、@週休2日(40時間)のフルタイム労働、A週休3日(32時間)の大パートタイム、B約20時間程度のハーフパートタイム、C12時間以下の短時間パートタイム、と多様な就業形態を選択できる。
たとえば@とB、AとAという組み合わせで、「夫婦で1.5」という働き方が可能になり、これが「コンビネーショントリオ」として共稼ぎの理想的パターンになっている。アメリカの2.0型に比べ、オランダの1.5型は女性が労働市場に参入しやすいシステムで、働きながら育児や人生のゆとりを大切にするという新しい「家族システム」を実現した。経済システムの改革がライフスタイルの改革と見事にリンクしている。
オランダの成功を受けて、「ワークシェアリング」は欧州で盛んに行われ始めた。失業率11%、400万人以上の失業者が溢れたドイツでは、まず10万人の従業員を抱えるフォルクスワーゲンが1993年暮れに「雇用安定化のための労使協定」を締結し、労働時間を20%短縮して、週休二日制から三日制へ移行するわりに、年収を10%カットして、過剰人員とされていた3万人を解雇するのを避けた。1996年には鉄鋼や繊維産業でも同様な労使協定が結ばれ、ワークシェアリングの動きが広まっている。
フランスでは今年の2月にワークシェアリングの考え方を取り入れた週35時間制がスタートしている。これは12%以上になった失業率を減らすため、政府主導で法定労働日の短縮を実現し、従業員21人以上は今年2月1日から、また21人未満の企業については2002年から適用されるようになったものだ。これによって当面、約57000人の雇用を確保・創出したと言われている。
「ワークシェアリング」は大切な出発点であり、やがてその効果が現れれば失業率は低下し、欧州経済は立ち直るだろう。しかし労働の分かち合いは、単なる失業対策として有効なばかりではない。労働時間の短縮は、自由裁量時間の増大であり、精神的にゆとりのある生活やライフスタイルの創造をうむ。それは新しい21世紀型産業の創出に結びつく。
日本では経済効率重視のアメリカ型グローバリゼーションの道を行くことが「構造改革」だと考えられている。ワークシェアリングという「共生の道」ではなく、弱肉強食を是とする「競争の道」を歩むつもりだ。この先リストラによる失業の増大がもたらす社会不安、犯罪の多発など社会システムの崩壊が懸念される。
日本にはもともと「共生の思想」が生きてきた。このすばらしい伝統を投げ捨てて、馴染みの薄いアメリカモデルに追随することは、戦前の日本がそうであったように、木に竹を接ぐような不整合を生じさせはしないか。その結果生じる、おそるべき事態を危惧しないわけにはいかない。
オランダの「ワッセナー合意」の背景には、治水の共同管理で養われた「協議、合意、統合」のコンセンサスを重視する伝統的な思想があったという。そうした伝統と国民性を生かすことで、オランダは生き生きと甦ることが出来た。今同じような不況にあえぐ日本が学ぶべきは、伝統的な共生原理に基づいたオランダの改革ではないだろうか。
(参考) 「オランダモデル」(長坂寿久、日本経済新聞社、2000年刊)
多様性の国オランダ
<オランダは、しっかり学んでみたい国ですね。経済面だけでなく、文化についても知りたい。宗教、教育、芸術活動、科学技術の状況、人々の美意識、幸福観、人生設計の仕方など、もし分かったら教えてください>(北さん、掲示板)
北さんの要望にこたえて、何回かに分けてオランダを紹介しよう。考えつくテーマは次のようなものだ。「麻薬と売春を容認する国」「安楽死を認める国」「環境問題先進国」「NGOとNPOの先進国」「自由と平等の国」「高齢者が元気な国」「協議と合意の国」など。
オランダの面積は日本の九州ほどしかない。人口も九州と変わらない約1600万人。ところが国際社会でのオランダの知名度と発言力の大きさはあなどれないものがある。政治、文化、経済、教育、あらゆる面で、オランダのシステムは個性的であり、先進的で魅力的である。
オランダの首都であるアムステルダム市は、ヨーロッパの玄関口ともよばれる魅力的な都会だが、面積は東京都の12分の1で、八王子市より少し大きいくらいである。人口も約72万人である。「アンネの日記」で有名なアンネ・フランクの隠れ家もここにある。
なお、オランダは干拓で出来た国で、今も国土の2/3が海面下にあり、アムステルダムはアムステル川にダム(堤防)を作って出来た。他にロッテルダムなどの都市がある。地球温暖化で海面が上がり、堤防がもちこたえられなくなれば、これらの都市は海に沈む。オランダが環境問題に敏感なのも、こうした危機感があるからかも知れない。
宗教はカトリック系が32パーセント、プロテスタント23パーセント、イスラム系などその他の宗教が7パーセント、無宗教が40パーセントである。これらがそれぞれお互いを認め合いながら共存している。宗教の違いや民族の違いで差別を受けることはない。
オランダはその昔、植民地にしていたインドネシアやスリナムからの移住者や、出稼ぎ労働でオランダに駆り出され居着くようになったトルコ系住民、オランダ近隣諸国からの移住者、果てはアジアから中国系、韓国系など多様な民族が暮らしている。戦後オランダが受け入れた移民や難民の数は98年1月現在で182万人にのぼる。
オランダでは異なった人種同士で家庭を築いている家族も多い。目立つのは、白人女性と黒人男性の家庭で、その逆のパターンや、白人男性とインドネシア系、あるいは東洋人女性とのカップルも見られるという。人種融合が進んでいるのは、お互いの宗教や文化も受け入れているということだろう。
オランダは83年に憲法を改正して、自国を「多民族国家」として認め、他のヨーロッパ諸国に先駆けてマイノリティの政治参加を認めた。たとえば合法的に5年以上滞在する外国人に対して、地方レベルの参政権を与え、5年以上滞在する成年には帰化申請を認めている。国籍を容易にして、政治参加を促進したわけだ。その他、異文化教育を推進する政策を実施している。
オランダはもともと迫害者を受け入れてきた歴史がある。スペイン、ポルトガルで迫害にあったユダヤ人や、フランスで迫害にあったユグノー(プロテスタント)、英国の清教徒たちもオランダを避難場所にしてやってきた。メイフラワー号でアメリカへ旅立った清教徒たちも、オランダで12年間ばかり生活していた。デカルトやスピノザなど、多くの文人たちもここを避難所として暮らしている。
彼らはオランダ人と対等の権利を与えられた。そして母国で禁書となった本がオランダでは出版できた。17世紀のオランダの出版産業は世界最大の出版部数(世界の半数)を占めたという。このように迫害者や亡命者を受け入れてきた歴史が、異文化・異人種の存在に寛容なオランダの国民性をつくりあげたのだろう。
「オランダモデル」の著者でアムステルダムジェトロ所長だった長坂寿久さんは、アメリカやオーストリアで生活していると「どれだけその社会にとけ込んでいるか」と、いつも監視されているような感じをうけるが、オランダではこうした圧迫を感じなかったという。その理由を「自分が日本人であることに自由であったからだ」と述べている。
アメリカもまた多民族国家として同様な面を持っている。しかし、アメリカと比べても、オランダははるかに寛容性が高い。そしてその価値観や制度も多元的である。オランダ人の異文化・異人種についての寛容性は、ヨーロッパの過酷な歴史を生き抜いてきただけに筋金入りだと言える。
しかしその一方で、オランダは戦争責任の追求に熱心な国という印象がある。ナチスドイツに対してもそうだったが、日本の軍国主義についても容赦がない。東京裁判で一番多くの絞首刑(なんと226人)の宣告を与えたのはオランダの判事だという。
現在オランダにはたくさんの日本企業が進出しているが、戦争責任をしっかりと認めて謝罪しない日本について、いまも根強い批判があるという。そして自由や権利の侵犯にたいしては敏感である。「ドイツ人は人種によってドイツ人たるが、オランダ人は信条によってオランダ人たる」と言われるゆえんかもしれない。
オランダはかってスペインとの独立戦争を勝ち抜いた。しかし、ナポレオンやヒトラーに国土を蹂躙された苦い歴史がある。国土や人口で言っても小国である。しかも、その国土は堤防で守られていて、これが決壊すれば首都までは海に沈む。
こうした弱点を多く抱えながら、オランダは多民族国家としてしぶとく生き抜いてきた。オランダの強さは、「弱さからくる強さだ」と言う人がいる。アメリカが強さを自覚した文字通りの強国なら、オランダは弱さを自覚した戦略的システムによる強国だと言えるのかも知れない。地球の未来を先取りした多元化システムの採用などに、その真骨頂を見る思いがする。
今大きく羽ばたこうとしているEUももともとはオランダが提唱した。そして現在も事務局長をオランダの前首相が務めるなど、EUにあって「小さな強国」オランダはつねに先進的地位をたもっている。世界に向けて開かれてきたオランダの歴史は、そのようにしてしか生きられない小国のたくましさだと言えよう。
ノルウエーの皇太子がシングルマザーの婚約者と25日に結婚式を上げた。婚約者が過去に麻薬が使われたパーティに出入りしていたらしく、この点が将来の王妃の資質として問題になったが、彼女は記者会見で自らの「乱れた過去」を涙混じりに告白して、むしろ人気が急上昇したという。
アメリカをはじめとする先進国は「麻薬問題」に悩まされている。オランダもその例にもれないが、その対処の仕方を見ると、いかにもオランダ的であることがわかる。アメリカのように外科手術的にこれを「犯罪」として除去するのではなく、「容認して、管理する」というのがオランダのやりかただ。
オランダでは、麻薬であるマリファナやハッシンを公然と「コーヒーショップ」で買い、吸うことが出来る。こうしたことが合法的に行われている国はオランダ以外ない。もう4半世紀近くおこなわれているが、これによってオランダ国民がとくに麻薬中毒になったことはない。
統計によれば、70年代には1万数千人いた中毒患者が98年には5018人に減少しており、しかもこのうちの62パーセントは外国生まれのマイノリティだという。しかも中毒患者の90パーセント以上はコンピューターのデーターベースに入れられて管理されているという。ドイツやフランスなど周辺諸国から苦情を言われながらも、オランダがこの政策をかえなかったのも、実績があがっているからだ。
完全になくなることのない問題をなくそうとしても、それは表向きのことだけで、かえって地下に潜り、マフィアなどの犯罪組織をはびこらせるだけだ。オランダ人は麻薬をやりたい人がいれば少しくらいならやってもとやかくいわない。そして、むしろそれを公にして、その害を少なくするようにコントロールすることが大切だと考える。
こうしたオランダ流の考え方はよくわかる。私も以前定時制高校に勤務していたとき、4年生の生徒を2回ほど修学旅行に連れていったが、もちろん高校生だから「アルコールは禁止」だった。しかし、実際のところ、飲むなと言っても、隠れて飲むことはわかっている。
そこで、どうしたかと言うと、「どうしてものみたい奴は部屋に集まれ」と招集をかけて、ホテルにアルコールを注文し、そこで教員と一緒に飲ませた。20歳未満の生徒も大目に見たのは、隠れて飲まれるより教員の目の行き届いたところで飲ませた方が事故につながらないと考えたからだ。これも「容認して管理する」というオランダ方式だと言える。
こうした方法がオランダでは「売春」や「安楽死」の問題にも適用されている。アムステルダムの「飾り窓」は一度訪れてみたい観光名所だが、正規の手続きを踏めばだれでもそこで売春が出来る。「麻薬」や「売春」は禁止してもなくならない。だからこれをコントロールして、これによってもたらされる問題を極小にしようという発想は現実的で合理的である。「悪」を直視し、これを制御しようという意志がうかがえる。
オランダでは94年に世界に先駆けて「安楽死法」が実施された。オランダはホームドクター制を取っていて、「安楽死」を行うのは患者を長年診てきた馴染みの医者である。そして日本で見られるような延命治療はない。長坂さんは「オランダモデル」のなかで、「尊厳死ができるというだけでも、オランダは永住したいと思うに足る国だ」と書いている。
原理原則にこだわらないフレキシブルな問題解決法は、治水の歴史から学んだものらしい。災害は必ず起こる。これを根絶やしにすることはできない。問題はどうやって、その被害を最小限度にとどめるかということだ。そしてオランダ人の人間に対する洞察の深さである。オランダの「寛容の精神」は、こうした強靱な合理精神と英知に支えられているようだ。
他国で災害などが発生すると、オランダでは公、民を問わず、間髪を入れずに援助活動が始まる。阪神・淡路大震災の時も、オランダからただちに援助隊が到着した。バルカン紛争でも、アフリカの飢饉でも、真っ先に駆けつけるのがオランダの救助隊だ。
オランダ暮らしが11年になるという倉部誠さんが「物語オランダ人」(文春新書)のなかで、こんなエピソードを紹介している。メキシコで大地震が起きたとき、オランダの若者4人が休暇を取り、被災地にかけつけてボランティアの救助活動に従事した。その帰り、たまたま立ち話でそのことを聞いたオランダ空港の窓口の職員はすぐに上司に提案して、彼らのエコノミー航空券をただちにファーストクラスに変えたという。
ボランティアの場合、飛行機代や現地での生活費はすべて自分たちの負担になる。オランダ人といえば割り勘をダッチ式というなど、ケチで有名である。倹約家の代名詞のように言われ、車など滅多に買わず、30万キロを超えるまで乗りつぶすと言われるが、こと国際協力には出費をおしまない。彼らはお金の賢明な使い方を知っている。
オランダのGDP(国内総生産)にしめるODA(政府開発援助)の割合は0.8パーセントで、これはデンマーク、ノルウエーについで世界三位である。ちなみに日本は0.22パーセント。GDPが大きいので、額としては世界一だが、その中身が問題だろう。ODAの額だけで言えば日本は援助大国だが、その具体的な中身や民間の個人献金、ボランティア活動などを含めた総合的な評価では、オランダに遠く及ばない。
たとえば、アフリカのエイズ問題をとりあげよう。最近の調査によるとアフリカ人のエイズ感染率は少なくとも25%、この感染者のほとんどが、今後6年から10年間の間に発病し死亡すると推定されている。父親がエイズで死亡し、看病していた母親もエイズで死亡し、あとにはエイズ孤児たちが残される。その子供を引き取った兄弟もエイズで衰弱し、年老いた祖父母が極貧のなかで子供たちを育てているというケースがよくみられるという。
こうしたなかで、学校をドロップアウトする未就学児が増えており、その中の多くはストリートチルドレンとなっている。学校にも属さず保護者もいないため、公衆マナー・生活の知恵・基礎的な職業訓練など社会的なスキルを身に付けない若者たちが増大するに連れて、伝統的ソサィエティが急速に崩壊しつつあり、このことがさらにエイズの蔓延を助長している。
こうしたアフリカの悲惨な現実を前にして、ヨーロッパ各国は、農村部や子供に対して女性の人権やエイズの啓蒙活動、孤児への授業料支給などに力を入れている。アメリカは、TV・ラジオ、街頭ポスター等のマスコミを使った啓蒙活動とコンドームの低価格販売。そして、日本はエイズ検査薬という大量生産工業製品の提供というわけで、それぞれの国の援助の特徴がよく出ている。
オランダは、日本のJICA(国際協力事業団)のような政府系の開発援助の実施機関を持たない。そしてODAはNGO(非政府組織)に給付され、本国のNGOの自主的な判断によって現地で活動しているNGOに流れる。政府から相手国の政府にながれ、しかもそのほとんどがひも付きだという日本のやり方とはまるで違っている。だから現地に密着した実効のある援助が出来る。
オランダに特徴的に見られるような、こうしたNGOをとおしたきめ細かな人的援助が可能になるためには、これに参加する多数の国民の協力が必要である。そのために、学校では「社会参加型の教育」が熱心に行われ、国民の意識のレベルを高めてNGOへの参加や協力が得られやすい社会環境を維持しようと務めている。またこのために各NGOは質の高い教材を作り、積極的に学校に提供している。
オランダでは毎年国民の1/3にあたる500万人以上の人々が国際協力関係のプログラムに直接的に関わっているという。また寄付の提供、募金キャンペーンへの参加、開発NGOの会員になるなど、間接的な関与もふくめると、その数は国民の半数に登るという。これによって日本のように政府主導のODAに偏った援助ではない、地元に密着したきめの細かい国際協力が成り立つことになる。
「普段は財布の紐を締めて絶対に緩めない彼らですが、外国で飢饉や災害が発生すると、テレビで義捐金送金用の銀行番号が報じられ、たくさんの寄付金がそれこそアッという間に集まるのです。世界でも有数の金持ち大国と自他ともに認められる日本では、外国の災害にオランダで通常見られるような対応の迅速さ、気前の良さ、そして民間レベルでの広範な協力体制は絶対に期待できません」
倉橋さんの「物語オランダ人」から引用してみたが、まったくその通りで、最近の歴史教科書の騒動ひとつ取りあげても、何という低次元の志の低い教育だろうと恥ずかしくなる。「他の人々のために、国境を越えてなにができるのか」という国際貢献の理念のひとかけらもない日本の教育の現状がいかに国際常識からかけ離れたものであるか、反省してみる必要がある。
オランダからの国際平和維持軍への派遣者数は、トップから九番目にランクされている。総人口1600万の小国であることを考えれば、この数字からもオランダが如何に国際貢献に熱心な国であるかがわかる。名実ともにオランダは国際貢献でトップクラスの実績を残しており、これが国民の生き甲斐であり、国のアイデンティティでさえあるのだろう。
日本では誕生日になると、友人たちが当人にプレゼントするというのがよくみられる光景だが、オランダの場合、全くあべこべで、誕生日には当人が友人たちにケーキをご馳走するのだという。学校であれば前日に家で焼いたケーキを持っていく。職場なら菓子屋に注文して置いて、それを当日に職場の全員に振る舞うことが多い。
どうして日本とあべこべになるのかよくわからないが、誕生日はお祝いをされる日ではなく、こちらからお礼を言う「感謝の日」だと考えれば、説明がつかぬこともない。「おかげで20歳になりました。みなさん、どうもありがとう。お礼のしるしにケーキを焼きました。どうか召し上がって下さい」という訳である。
オランダの教育について書こうとして、誕生日の話が思い浮かんだのだが、教育についても何か日本とは根本的に違った姿勢を感じる。その一つは、昨日も書いた「社会参加型の教育」が実践されているということだろう。このことをもう少し一般的にとらえれば、オランダの教育は「自立と利他」という、はっきりした理念や目標のもとに行われているということだ。
たとえばオランダの小学校では必ず水泳の授業がある。しかも服を着たまま水に入る。プールサイドから後ろ向きに服を着たまま落ちたりする。こうしたことは、実際に起こりうる水難事故を予想してのことである。運河の多いオランダならではの授業ともいえるが、やはりこれもオランダ的実践教育の一貫だろう。
オランダの教育が実践的だということは、教育課程からも明らかである。そこでオランダの学制を紹介しておこう。
@基礎教育(8年間、4歳〜12歳)は日本の幼稚園に当たる2年間と小学校6年間を併せたもの。最初の1年間(4歳)は義務教育に含まれないが、多くの場合4歳から始める。
A中等教育(4〜6年間、13歳〜18歳)はいくつかのコースに分かれている。初等教育最終学年時点で多くの学校で実施される全国共通学力テストの結果と普段の成績をもとにして、本人と保護者と学校側の三者が相談の上、どのコースに進むか決める。
・ 初等職業教育コース(4年制)→就職(夜間職業学校)
・ 中等一般教育コース(4年制)→中等職業学校(警察官、美容師)
・高等一般教育コース(5年制)→高等職業学校(教員、技術者)
・ 大学進学コース(6年制)→B高等教育(大学→大学院)
多くの場合、何種類かのコースを置く総合学校となっていて、最初の1年あるいは2年間の基礎期間を経てから改めて進路を決める場合が多い。場合によっては学校を変わることもできる。
どのコースも最初の4年間は義務教育で、18歳までは就労していても、週当り決められた時間、何らかの形で教育(講習)を受けることが義務づけられている。
一般的には、「中等一般教育」を選択して、「中等職業学校」に進み警察官、看護婦、美容師などの資格を得て社会人になるケースが多い。「高等一般教育」を終了して「高等職業学校」に進み、小学校教師、上級看護婦、技術者の資格を得て社会人になる場合もある。
6年制の「大学進学コース」を終了し試験を通ると、大学入学資格が与えられる。どのコースも最終試験は全国共通の国家試験で、各学校が独自に実施する卒業試験ではない。オランダの学校は小学校から大学まですべて無料で、国としてのカリキュラム(教育課程および指導要領)もなく、カリキュラムはそれぞれの学校に任せられている。その代わりに国家試験がある.。
オランダの場合は、日本のような過度の学歴偏重の傾向はなく、どちらかと言えば職業重視の実践指向である。総人口に占める大学卒業者の割合は、日本が9.5パーセントもあるのに対して、オランダは4.8パーセントと低い。教育ママに尻を叩かれて、大学に進学するということは、まったくない。日本と違って、親や教師は子供の意志を最大限尊重する。進路選択においてもこのことが言える。
しかし、職業等の資格(ディプロマ)取得によって職種や給与が違ってくるため、社会に出てからも、更に他の資格を得るために講習を受けたり夜間学校へ通う例が少なくない。国家や企業がこうした職業教育に熱心だということもあるが、やはり個人個人の職業人としての意識レベルが高いのだろう。
オランダは子供の自主性を重んじる教育をしている。勉強はあくまで個人の意志でするもので、強制されてするものではないと考えられている。その結果、本人の努力次第で、大きな差が生まれる。小学校の同じ学年で、二桁のかけ算が出来ない子供がいるかと思えば、分数計算がすらすら出来る子もいる。出来る子はどんどん高度な教材を与えて、上級の課程に進ませる。
オランダの教師はけっして出来ない子の尻を叩いて、クラス全体のレベルをあげようとはしない。出来ない子と出来る子がいて当たり前だと考えるからだ。もし出来ない子を叱りつけたりしたら、人権蹂躙ということで、教師失格とみなされる。
学力の優劣で人を差別することは、オランダでは許されない。勉強が出来ないことは、運動が出来ないのと同様、一つの個性であり、決して「犯罪」ではない。だからオランダの教師は決して叱らないのだという。同様のことはオランダの親にも言える。オランダの親も、ほとんど子供を叱らない。ただよいところを誉めることに忙しい。
日本では認められない考え方かも知れないが、オランダはこうした方針で成功している。最終的には有能な職業人を育てているし、大学、大学院レベルの学力は、日本と比較にならないほど優秀だ。社会人としても有能で、地域社会や国際社会に対して、積極的に発言し関わろうとする。その貢献度は世界でトップレベルである。
オランダ在住が長い倉部誠さんは「物語オランダ人」の中で、「南海の孤島で世界各国の子供たちが遭難し、サバイバルをすることになったとしたら、何もできずに真っ先に飢え死にするのは日本の子供たちで、最後まで頑張って生き延びる中には間違いなくオランダの子供たちがはいるでしょう」と書いている。
こうしてみると、日本の教育システムには何か根本的な欠陥があると言わなければならない。長坂さんは「オランダモデル」で「日本では社会教育がほとんどおこなわれていない。・・・日本の子供たちにとって最も不幸なことは『世界』や『社会』から隔離されていることではないか」と書いている。『世界』や『社会』から隔離されているのは子供ばかりではない。大人の日本人も同様である。
姉妹都市提携が活発なのは、オランダも日本もかわらない。しかしオランダ人に言わせると、何故日本が先進国とばかり提携したがるのかわからないという。それでは、メリットがないではないかと言う。オランダが姉妹都市を結ぶのは、それによって相手国の為に何か援助が出来ると考えるからだ。だから、むしろ発展途上国との交流に力を入れる。
日本は姉妹都市提携によって自分が得られる利益を重視する。そこで文化の進んだ国と提携しようとするのだろう。日本の発想はどちらかというと、未だに「発展途上国」なみとしか言いようがない。高所に立って「与える」という「先進国的」発想にも問題があろうが、いつまでも自己中心的な貧乏人の発想が抜けきらないのも見苦しい。
このことは教育問題についてもあてはまるのではないか。日本では高等教育は個人の利益や栄達のための手段としか考えられていない。しかしこうした日本の常識が世界の常識だとは言えない。そうした自己中心性に囚われていると、ますます「世界」や「社会」から遠くなる。
オランダの教育にあって、日本の教育にないもの何だろう。それは「この困難な人生を、他の人々とともに手を携えて、いかに幸福に生きるか。そのために、我々は何をなすべきか」という、人生や社会に対する実践的な視点ではないか。こうした「社会に開かれた視点」を、まず親や教師がしっかりともつ必要がある。
(参考)「物語オランダ人」(倉部誠、文春新書、2001年刊)
オランダではどんな会社に勤務していても、一年に最低25日の休暇がとれる。これに土日をくわえれば、全部で5週間は休める。病欠は別に有給休暇が無制限にとれるので、オランダ人にとってこの5週間はまるまるバカンスのための休暇である。
日本人の場合は、正規の有給休暇でさえほとんど消化しないであくせく勤労し、そして過労や病気になって、ようやく有給休暇を、それも上司や同僚の顔色を見ながら、恐縮したようないいわけをしながら取る。病気にならないと休暇がとれないという日本は、オランダからみればまるで「開発途上国」だ。
オランダの年間の総労働時間は、90年の統計では1732時間、これに対して日本は2143時間である。もちろんこれにはサービス残業は含まれない。たとえ有給でも時間外労働はうけつけないオランダ人からすれば、日本ははるか古代の奴隷制の国だということになるかもしれない。
確かに日本経済は発展し、国民所得もあがったが、その為に失ったものも大きい。世界一金持ちの国になりながら、国民はみんな疲れていて、その上、失業や老後の心配に怯えている。首切りのことを「リストラ」などとうまいこと言うようになったと感心していたら、小泉さんが首相になってから、さらに「構造改革」という便利な言い方が一般的になった。これにはあきれた。
先日も小泉さんがテレビで、「失業率が5パーセントをこえましたね」とNHKの記者に質問されて、「民間でも構造改革が進んでいるようですね」と満足そうに答えていた。他の大臣は対策について質問されて、「自己責任が大切です」としか答えない。
ちなみに、民間で進んでいる「構造改革」の一端を紹介しよう。東芝の約2万人、富士通の1万6千人、松下の5千人、NECの4千人と、この4社だけでも約4万5千人が社を去ることとなる。人数は明らかではないが、ソニーも工場の縮小に伴いリストラが行われる。日本を代表する優秀なIT産業でさえこのありさまである。
これからホームレスがますます増えるだろう。いや、私自身バブルの最中に家を買って、多額の住宅ローンをかかえている。この先「自己破産」して、一家でホームレスの仲間入りということになるかもしれない。
オランダはホームレスが一人もいない世界でも珍しい国だそうだ。倉橋さんは「物語オランダ人」の中で「私はオランダに12年間暮らしましたが、乞食の姿を見たのはただの一度もありませんでした」と書いている。法律の規制があって、乞食やホームレスが合法的に存在できないらしい。
フランスやベルギーにも同様な法規制があるが、ホームレスは存在する。それは社会福祉制度がオランダほど完璧ではなく、「生活が出来ない」という言い逃れができるためだ。この点、オランダはどうにも言い逃れが出来ないほど完全なしくみになっている。
たとえばオランダでは延べ床面積が130平方メートルのごく標準的な家が、30代のサラリーマンの平均年収の3年分で買えるという。ローンの負担は月収の15パーセント以下だ。しかも利息は30年間税金が控除されるという。オランダの家は100年はもつというから、庶民が家をもつ負担は少なく、ローン地獄とは無縁の世界だ。だからオランダ人は30歳になるかならないかのうちに家が持てる。
こうした理想的な住宅政策にくわえて、「ワークシェアリング」政策で失業率が3パーセントに満たない。この3パーセントという数字は、のんびりと次の職を物色中の人数がこれだけいるということで、ほぼ完全雇用に近い水準だという。強力な政策によって、失業やホームレスがありえない社会システムが実現しているのである。
オランダでは家が安いが車は高い。購買力平均で計算すると、日本のカローラクラスの値段が約400万円もする。これはオランダ政府が地球温暖化対策のためにとんでもない税金を掛けて、車を購入させないようにしているからだ。オランダだけが頑張っても仕方がない気がするが、オランダ人はそう考えない。必要なことは、たとえ少数者でも、断固やり抜く生活哲学をもっている。
オランダを訪れた人は、国中がまるで国立公園のようだと、その美しさに感心するらしい。アムステルダムの市内に住んでいても、自転車で20分も走れば田園風景がひらける。コンクリート舗装など一切無縁のアムステル川の土手に腰を下ろせば、手の届きそうな目の前を白鳥やほかの水鳥が泳いでいく。川の背後には牧草地が広がり、牛が悠々と草をはんでいる。
「田園風景をさらにきれいにしているのが、送電線が露出していないことです。どんな田舎でもオランダでは送電線が全て土中に埋設されており、それができる豊かさを羨むと同時にそれをする心のゆとりに脱帽します。豊かであっても金をそのような事に使わない国・国民が世の中に多いからです」(「物語オランダ人」倉部誠)
もっとも、こんな理想的な国にも泣き所はある。オランダ人の病気欠勤率が6.9パーセント(単純労働作業では10パーセント)と異常に高いのである。オランダでは「病欠」の場合、医者の診断書は必要でない。そして労働者保護が徹底しているので、「いったん病気になった人間はいかなる理由があろうとも解雇できない」のだという。
その結果、会社を病気で長期に欠勤しながらスキーに遊びに行く者もでてくる。倉部さんの経験によれば、同じ職場で2年半も会社を「病欠」しながら、その間サイドビジネスで稼いでいた男もいたという。彼は給料をただ取りし、その間アルバイトで余計に稼いだあげく、退職金までせしめたらしい。まさに彼は笑いがとまらないだろう。
オランダの社会民主的な労働システムではこうしたことが防げない。そしてどんな職場にも1割はこうした不届きな怠け者がいる。だから、会社はその分を予想して、一割り増しの雇用をあらかじめ確保しておかなければならない。それでも倉橋さんは「オランダ人は世界一勤勉な国民だ」と言う。
「明日から急に働く気がしなくなり、病気だからと言って会社を休み、本人がその気ならばそれを1年はおろか2年、3年も続けられ、給料はその間ほとんど変わらずに支給され続けられる。そしてめでたく病気が全快したら就職探しには困らないとしたら、一体どれだけの人間がまじめに働き続けるでしょう」(「物語オランダ人」)
「オランダ人たちはそのような天国のような恵まれた環境にあって、なおかつ多数派は依然として働き続けています。たかが全体の10パーセント近くがそうした過保護の恩恵をフルに利用して怠けているからと言って、そう目くじらを立てるものではありません。むしろそのような中にあってなお、90パーセント近くの人たちがまじめに働いている事実を驚嘆すべきなのです」(同上)
たしかに、これは驚くべき勤勉さである。日本人だったら、この数字は逆転するのではないだろうか。倉橋さんはオランダの会社で一緒に勤めていた日本人同僚の仕事ぶりを見て、「勤勉な日本人」というのが、全くの妄想にしか過ぎなないことをさんざん思い知らされたという。
日本の勤勉さは、強制されたみせかけの勤勉さであり、オランダ人の勤勉さは内面的に確立された勤勉さである。だから、日本人は命令や強制がなくなるととたんにだらしなくなる。オランダ人は自主性を尊重する教育を受けていた。そして学校や家庭で、強制されたり叱れれたことがない。だから日本人とは逆に、強制されなくても、その仕事が大切だと思ったら、自主的にやり遂げるのである。
他人がどうであると言うことは、あまり関心がないので、さぼっている同僚をとくに非難しない。たとえ不利益になっても、自分が正しいことはやり通すというオランダ人の個人主義が、こうした理想的な社会システムを支えている。
こうして見てみると、社会を支えるのは一人一人の個人であり、どんなに素晴らしいシステムも、こうした卓越した個人の力量がなければ、それはまともに機能できないことがわかる。「生活大国」オランダは、このようにしっかりした生活哲学をもった個人の協力と参加によって実現されている。なぜオランダが社会教育を重視するのか、それはこの楽園のような国を子孫に残し、世界の模範の一つとしたいからだろう。
オランダはアルプスを源流とする三つの大河、ライン川、スヘルデ川、マース川が北海に注ぎ込む三角州にできた国だ。これらの川と海から押し寄せる洪水と格闘し、これを粘り強くコントロールすることで、オランダ人は自分たちの生活を守ってきた。そうした自然との闘いを通して、彼らは自らのアイデンティティを築いてきた。
「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」と言われる。オランダの正式の国名は「ネーデルランド」だが、その意味は「低地の国」である。その名の通り、堤防によって守られた国土の大半は海面下にある。明治時代になって、岩倉使節団が欧米の視察の際にこの国を訪れた。そして、猫の額のような土地にしがみついて悪戦苦闘している健気で勤勉な国民に驚いた。
「塗泥ノ中ニ富庶ヲ謀ル景況ヲ見ル。嗚呼、天利ニ富メルモノハ、人力ニ惰リ、天利ニ倹ナルモノハ、人力ヲ務ム」(「欧米回顧実記」岩波文庫)と、「人がつくった国」であることに感激している。恵まれない環境の中で、世界に誇る富と文化を築いた勤勉なオランダ国民の姿は、これから国つくりをしようとする彼らにとって大いなる励ましになったようだ。
明治政府はさっそくオランダからファン・ドールン、デ・レーケなど10人の技師団を招聘した。彼らは日本に近代的治水工法をもたらし、利根川、木曽川、長良川、揖斐川、庄内川、吉野川、多摩川、淀川など日本各地の河川で本格的治水工事をなしとげた。東京港、横浜港、長崎港、新潟港など港湾計画を遂行し、福島県の安積疎水や利根運河なども手がけた。日本の国土整備と開発にたいして彼らオランダの技術者の果たした貢献は底知れないものがある。
オランダ人は他人の土地を奪って国を広げたのではない。自らの努力と技術によって海を干拓し、そこに堤防を築いて文字通り国土を作った。司馬遼太郎は「オランダ紀行」(「街道を行く」朝日文庫)の中で、「オランダ人には、他に誇るべきものがある。文化もそうだが、とくにかれら自身が造成してきた国土がそうであるといっていい」と書いている。
オランダは「自由と平等の国」だと言われる。しかし、オランダ人の「自由」はこうして血のにじむ努力の結果獲得された自由であり、それは今も努力して維持されなければならない自由である。なにしろ国土の2/3が海面下にあり、治水を怠ると、アッというまに国土は崩壊するのである。こうした悪条件を見事に克服することで、オランダは世界に誇る文明と文化を築いた。
明治時代の日本人はこうしたオランダの姿に感激し、その「独立自尊」の生き方に共鳴した。21世紀に生きる私たちも、もう一度原点に立ち返って、オランダから「独立自尊」の精神を学んでみてはどうだろう。
地球環境をこれ以上悪化させないためには、世界全体の資源の消費を現在の半分にしなければならないと言われている。とくに資源を大量に消費しているアメリカ、日本をはじめとする工業先進国でこうした努力が必要だろう。
環境問題の研究者によれば、これらの先進国は工夫次第で、その生活のレベルを大幅に落とすことなく、資源の消費を現在のレベルのわずか10%にまで減らすことができるという。
そのための具体的方法としては、紙や鉄のような基本資源のリサイクル、製品の再規格化、そして車による通勤の代わりに通信を用いることなど、より無駄の少ない手段への代替が考えられる。
しかし、ここにもう一つ忘れてはならない伝統的な方法がある。それはかって私たちの先祖が所有していた「分かち合いの精神」を復活させることだ。オランダはこうした「分かち合い」をとおして環境問題の解決をはかろうとしている。
多くの国が車を増やそうとしていたころから、オランダではすでに環境面を考えて、車の私的所有を減らそうという政策がとられてきた。車にかける税率を高くしたり、駐車の制限、バスと自転車利用の促進などだ。そしてさらに、車を共用する「カー・シェアリング」という新しいアイディアを生みだし、当局がこれを後押した。
たとえばアムステルダムでは250ドルの保証金を払えば「カー・シェアリング運動」のメンバーになることができる。メンバーは特別な駐車場に止めてある共有車を、電子式のカードを使って自由に利用することができる。そして走行距離と時間に基づいて、料金が月末に請求される。
毎日車を使う人にとってはその料金は割高だが、年間の走行距離が1万マイル以下で、公共交通やバイク、徒歩も利用できる人々にとっては、カー・シェアリングは魅力的である。これによって都会に住む多くの人は、自分で車を持たなくてもすむ。そして資源の節約にもなる。
オランダ人といえば、ケチで有名だが、言葉を換えれば彼らが節約家だということである。私的所有と浪費を美徳とする悪しき資本主義の時代は終わった。むしろ「共有と分かち合い」のオランダ式倹約術の中に、私たちは未来の心豊かな共生社会への展望を求めるべきだろう。
その具体例の一つである「カー・シェアリング」は「ワークシェアリング」とともに、オランダから世界に広がりつつある。労働を分かち合い、資源を分かち合う、こうしたオランダ式節約術が、一刻も早く世界の標準となり、日本の常識となる日がくることを祈らずにはいられない。人類にとって残されている時間はもうあまりないのだから。
(こう書いてきたが、日本の現状を考えると、いささか憂鬱になる。オランダに出来て、日本になぜ出来ないのか。なぜこうも日本は絶望的なのか。その理由を言えと言われたら、私は一言「日本に政策がないからだ」と答えよう。日本にあるのは政策ではなく、政略ばかりである。政策のように見えるものも、結局政略でしかない)
(参考サイト)「なぜ分かち合うのか」
オランダの海水浴場にはトップレスの女性が珍しくないという。ヌーディスト・ビーチでは、男女が一糸まとわぬ姿で砂浜に寝そべっている。有名なリゾート地でヌーディストビーチとして有名なのは「Scheveningen」で、これは日本人が聞くと「スケベニンゲン」に聞こえるという。
オランダの女王様の住むハーグ市の市営プールは週一回、ヌーディストのための日があり、この日は水着を着た人は入れない。こうしたことは日本では考えられないだろう。
倉橋さんは「物語オランダ人」のなかでヌーディスト村について書いている。そこでは男女がやはり一糸まとわぬ姿で生活している。近くのゴルフ場のコースからその様子が丸見えなので、日本人は決まってスコアを乱すのだそうだ。
オランダ人は裸を恥じるという意識に乏しいのかもしれない。倉橋さんがアムステルダムのアパートに一家で暮らしていたとき、若い女性が裸のまま暮らしているのが向かいの窓越しに見えたという。裸のままベランダに出て、道を行く人と話をしたりするので、慣れないあいだは気になって仕方がなかったらしい。
こうした話を聞くと、私もオランダに移住してみたくなる。オランダでは人種差別がなく、異世代交際もさかんだというから、日本では味わえない楽しみがいろいろとありそうだ。
オランダでは子供にも性行為の自由がみとめられている。性行為をしても罰せられない年齢を16歳から12歳へと引きさげる法律が、1991年に成立したからだ。改訂されたオランダ刑法247条はこう規定している。
「16歳未満の者(男女問わず)とのセックスを禁じる。ただし12歳以上16歳未満の場合、子供自身、法的な代理人、幼児保護組織のいずれかによる公式の申し立てがないかぎり、起訴はされない」
子供が同意してさえいれば、12歳の子供とセックスしても、法的には罰せられない。12、3歳の子供と大人とのあいだで、愛をはぐくむことができるようになったわけだ。これまではセックスの対象が高校生以上でなければならなかったのが、中学生、あるいは小学生でもよいというのだから、これには世界が驚いた。
オランダは「自由」の国である。思想、信条、経済活動や政治的自由はいうまでもないが、セックスの自由も世界の最先端を行っている。たとえば同性同志の結婚も自由で、実際アムステルダムのアパートに住んでいると、上下、両隣を合わせた5軒のうちの1軒はこうした人たちが、「普通に」暮らしているという。
北欧やドイツでもポルノ出演は18歳以上に限られているが、オランダでは16歳以上ならかまわない。だから、現役女子高生が登場するポルノ雑誌がある。たとえば1975年に創刊されたセックス雑誌『セヴンティーン』は直後から爆発的に売れまくり、現在では英、独、仏も加えた四ヶ国語版を発行し、売上高ナンバー1を誇っている。
オランダは安楽死や、麻薬、売春の自由を、世界に先駆けて認めてきた。そしてついには、子供たちがセックスする自由まで認める。個の権利を最大限に尊重し、民主主義の最先端に位置するオランダだから、こんなことが可能なのだろう。
禁じるよりもオープンにし、管理するのがオランダのやり方だ。高校生にセックスを禁じ、純潔を守れと騒ぎたてたところで、効果があるわけではない。むしろ容認して、きちんとした性教育をほどこす方がずっと有益だろう。
しかし、中学生や小学生にまでセックスの自由を認めるのはどうだろうか。オランダの高校にも修学旅行のようなものがあるらしいが、カップルは同じ部屋に泊めるという。これも驚きである。
(参考サイト) 紳士はロリータがお好き
自由の国オランダ
オランダの男女は14歳の頃から、異性と特別な性的関係をともなう交際をはじめる。つまり中学生のうちに、たいていの男女はセックスを体験し、恋人をもつわけだ。
そして16歳ごろになると、親から独立して恋人と同棲生活を始めることが多い。学生同士の場合はとうぜん収入がないので、市役所に安い公営アパートを申請して、許可を取る。
国もまた生活費を特別支給して、こうした若者の自立を支援するので、オランダでは若者が親から離れて同棲生活をするのがそれほど困難ではない。それに、オランダ人は子供の頃から、自分でやりくりする方法にたけている。5,6歳の子供でさえ、安易に親から小遣いをもらうのではなく、自分で工夫して儲けようとする。
フランスのキャンプ場に行くと、オランダ人の子供たちがそこかしこで店を出している光景に出くわすそうだ。キャンプ場で拾い集めた珍しい形の石ころだの貝殻などをテーブルに並べて、それを売って自分たちの小遣いを稼ぐ。彼らはそのために、英語、フランス語、ドイツ語などを学び、それらを駆使して、商売にはげむのだという。
「オランダの子供たちを同じ世代の日本の子供たちと比べると、自分の力で生きるということの心構えという点で、大人と幼児ほどの大きな開きが出来ています。こうした子供がたくさん育っている限り、これからもオランダという国は商業を通じて発展し続けるでしょう」(「物語おらんだ人」倉部誠)
こうして親から自立し、同棲生活を始めたカップルが、そのまま結婚することはあまりなく、たいていは破局を迎え、またあらたなカップルができて、あたらしい同棲生活が始まるのだという。そして何人かの異性または同性と体験を重ねた上で、お互い充分納得した段階で結婚に踏み切ることになる。
オランダ人の結婚式はきわめて簡素である。彼らは日本の若者たちのようにホテルで豪華な披露宴を催したりはしない。そしてほとんどのカップルは教会ではなく、市役所で市長の立ち会いのもとで結婚式をあげる。オランダの市役所にはそのための祭壇が設けてあり、格安で式が執り行われるのだという。いかにも実質を重んじるオランダらしい。
このように慎重にことを進めても、離婚率はそれほど低くはない。そもそもオランダでは共同生活を始めるに当たって、二人はこの日があることを予定して契約書を作るという。つまり二人の共有するものをどのように分けるか、将来もめごとがおこらないようにしておくのである。オランダでは男女は平等であり、共同生活の解消や離婚に際しても女性が男性に慰謝料を請求することはない。
オランダ人は個性を殺してまで共同生活を維持する考えはなく、お互いに有意義であり楽しいことが共同生活をする動機なのだろう。彼らにとって結婚もまた、あらゆる人生の出来事と同じく、別離を前提にした「一期一会」の体験なのかもしれない。男女(男男、女女)の交際に置いても、オランダ人はあくまで自由かつ平等であり、自分自身であることにこだわり続けているようだ。
オランダは自由と平等の国である。カソリックの支配にも屈せず、スペインの覇権主義にも抵抗した。そうした歴史の中で戦い取られたのが「自国の独立」であり、「自由と平等」の民主主義だった。
ところがそのオランダが共和国ではなく、れっきとした君主国であるというのが、また面白いところである。一切の上下の関係を認めず、命令や強制を嫌う国民性とこうした君主制がどのように両立し調和しているのか。この問題を解く鍵は、オランダの国の成り立ちにある。
オランダの王制の始まりは、スペイン独立戦争を果敢に戦い、最後は暗殺された国民的英雄のオランニュ公ウイリアム一世に始まっている。そして現在の君主であるベアトリクス王女もオランニュ家の生まれだ。オランダ人は自分の国の歴史に誇りを持っている。そしてそれは同時に、オランニュ家への尊敬と愛情に結びついている。
オランダの君主は日本の天皇やイギリス、スエーデンの君主とはちがって、随分庶民的である。ベアトリクス女王は随員もつれずに市電に乗り、一般人と同じようにデパートで買い物をするという。女王だということで偉ぶることはない。そこには君主という堅苦しさや威厳は感じられない。
ちなみに日本の初代の天皇は神武だというが、この人物がどんな人物かよくわからない。わかっているのは大陸からやってきた渡来人の系統らしいということくらいだろう。そして天皇の支配を正当化するために、神懸かり的な神話が利用されてきた。
イギリスやスエーデンの王朝にしても、もとを質せば外部からやってきた征服民の王である。この点、オランダはちがっている。しっかりと自国の歴史に足場を持ち、たしかな由来を持っている。そして、尊敬と敬愛を受けるだけの実績を持っている。まさしく国民の統合の象徴であり、民主主義の象徴なのだ。
国民の祭日の一つが、4月30日の「女王の日」だ。この日は都市から農村まで、国中でフリーマーケットが開かれる「リサイクルと倹約の日」でもある。各家庭では不要になったものを持ち出し、それを道路や広場に並べて売る。
「この日、広場や人通りのある道へ出ると、びっしりと露天が並び、子供たちだけで店を出していたり、笛を吹いたりで大きな縁日のようです。普段は締まり屋のオランダ人ですが、この日ばかりは、子供たちのコーラスや楽器演奏に、気前よく1ギルダー硬貨をポンポンと投げ入れます」(「物語オランダ人」倉部誠)
このフリーマーケットは、貧乏で玩具が買えない家庭の子供たちが、他で不要となった玩具を格安の値段で手に入れられるようにするためにはじまったのだという。これがいまや全国に広がった。しかもそれが、「女王の日」だというところに、国民の王室によせる気持が現れている。
ちなみにこの「女王の日」は先代のユリアナ女王の誕生日だという。現在のベアトリクス女王の誕生日が1月で季節が悪いので、国民の便宜を図り、あえて、先代の誕生日をそのまま使っているらしい。オランダの君主制はこのような国民生活優先の合理主義のうえに成り立っている。
オランダの君主は最初から現代まで「民衆のために」という立場を崩さない。この点が国民に評価され、いまや君主制はゆるぎのないものになっている。信じられないことだが、民主主義の最先端をいくオランダで、各都市の市長はベアトリクス女王が直接に任命している。それでいて、どこからも文句は出ないらしい。
高さが50メートルを超える丘を、オランダでは「山」とよぶ。これは半分冗談らしいが、そのくらい起伏に乏しい平地の国である。したがって、坂が少ないので、自転車が走りやすい。
オランダにはどんな小さな町にでも、自転車専用道路がある。赤いアスファルトで舗装されている事がおおく、自転車はここを車や歩行者に気兼ねすることなく走る。オランダ以外の国では自転車専用道路が普及していないので、これがあるかないかで、たとえばドイツとオランダの国境がわかるという。
郊外へ行くとサイクリングコースが整っていて、美しい田園地帯を巡る自転車専用のサイクリングロードを、ところどころに立っている標識に従って走るだけで、地図などなくても目的地に達するという。こうしたインフラが整っているので、自転車は多くの国民に愛されている。自転車の数の方が人口よりも多いらしい。
自転車道路があるので、歩道は歩行者の専用となる。日本のように歩行者は自転車に怯えながら歩かなくてもすむ。前にも書いたが、オランダではすべて電線は地下に埋められているので、電柱もなく、考え事をしながら歩いていても、自転車や電柱にぶつかるということはない。
このように自転車族や歩行者にとってオランダは天国だが、自動車族にとっては町中の環境はあまりよくないようだ。先ず、歩道のない道路の多くは進入禁止だし、車道があるばあいでも一方通行である。
とは言え、都市の外へ出ると、高速道路が完備している。環状線も発達しており、そのネットワークは国土を網の目のように覆い、ヨーロッパの主要都市へとつながっている。ベルギーやフランスなどとの国境は車で走っているとわかるという。道路の舗装が悪くなり、でこぼこが感じられたら、それはオランダから外に出た証拠だという。
田園地帯を走る高速道路は、ともすると環境破壊の元凶になるが、オランダの場合、自然保護に細心の注意がはらわれている。オランダの高速道路にはグリーンブリッジと言って、ウサギなどの動物用の橋や、蛙などの生物のトンネルが作られていて、生態系への影響が考慮されている。
ヨーロッパ有数のスキポール空港とロッテルダム港をもつオランダは、貨物の輸送量も多く、ヨーロッパの輸送量の30パーセントがオランダとの国境を越えている。こうした産業の動脈として、高速道路ばかりではなく、有名な運河や、鉄道もあり、こうした総合力がオランダの経済的競争力の源泉になっている。
しかし、オランダは決して産業優先ではない。産業と自然や人間との調和を考え、人々にゆたかな生活環境を提供することを優先させている。そうした考え方が、自転車専用道路を世界に先駆けて完備させ、「自転車天国」オランダを実現させたのだろう。
オランダは哲学者スピノザを生んだ。スピノザは「国家とは国民を支配するためにあるのではなく、国民に自由を保証するためにあるのだ」と書いている。
「国家の究極の目的は支配することではなく、また人間を恐怖によって束縛し、他者の権利のもとに置くのではなく、むしろ逆に、各人を恐怖から解放し、そして各人ができるだけ安全に生活できるようにすること、言い換えれば、生活と活動のために、各人の自然権を、彼ならびに他人を損なうことなしに、もっともよく保持できるようにすることである」
「私はあえて言う。国家の目的は、人間を理性的存在者から、野獣あるいは自動機械にすることではなく、むしろ反対に人間の精神と身体を全く完全にその機能をはたし、彼自身が自由に彼の理性を行使し、憎しみ、怒り、欺瞞をもって争うことがないように、また相互に敵意を抱くことがないようにすることである。それゆえに、実に国家の目的は国民を自由にすることにある」(「神学政治論20章」スピノザ)
スピノザはデカルト哲学の影響を受けているが、デカルトも母国のフランスを追われて晩年の20数年間をオランダで過ごしている。有名な「方法序説」など、世界を変える著作がこの地でかかれた。
オランダは世界に先駆けて独立戦争を戦い、市民社会を創造した。デカルトやスピノザの哲学思想も自由と平等を尊ぶオランダ人であればこそ、広く受け入れられたのだろう。そして彼らの哲学もオランダの合理的な生活様式から多くを学んで出来上がったのに違いない。
「ユートピア」を書いたイギリス人のトーマス・モアもオランダ大使だったことがある。また、モアの後継者ともいうべき人民主権説の思想家ジョン・ロックは名誉革命までの4年間をオランダに亡命していた。彼の「市民社会論」はオランダ研究のたまものとも言える。
私がもっとも注目する「遊びの哲学」を展開した「ホモ・ルーデンス」のホイジンガーもオランダ人である。彼は文化は世知辛い生存競争からではなく、遊びのなかから生まれると主張している。オランダはルーベンスやフェルメール、ゴッホなどの芸術家も生んでいる。物理学者ではホイヘンスやローレンツなど。
自然科学関係のノーベル賞受賞者の数を見ると、オランダが13人で、日本は6人である。オランダの人口の割合から行くと、日本の16倍以上の数だ。九州とほぼ同じ面積を持つ小さい国なのに、歴史に名をとどめる偉人や天才を輩出している。その上、普通の人々がみんな個性的で輝いているのが、何よりもすばらしい。
オランダには汚職がないらしい。政治のすべてのプロセスがガラス張りになっていて、そうしたスキャンダルが起こる余地がないからだという。現在の首相は労働党のビィム・コック氏で、大臣たちはいずれも40歳代の颯爽とした若手である。議員もまた能力主義で選ばれており、年齢の比較的若い議員が多いという。
ちなみに国会議員に占める女性議員の比率は36.0%で、調査対象177国のなかで第5位の位置をしめている。日本の女性議員の比率は衆院が4.6%で92位だという。フランスは10.9%(56位)と低いが、今年1月に世界初の「男女同数法案」が下院を通過し、これから大幅な改善が行われそうだ。オランダも元来女性進出の遅れた国だったが、最近は改善が著しい。
こうしたオランダにおける女性進出は、最近の経済的繁栄とあわせて、1982年に政・労・使三者で結ばれた「ワッセナーの合意」によるワークシェアリング政策の賜だが、ビィム・コック氏はこれを成立させた労働側の立て役者だった。
ワッセナーはハーグの郊外にある田舎町で、高級住宅街があるところ。オランダ経団連会長の自宅もここにある。そこへ当時の首相と労働組合連合の会長だったビィム・コック氏がまねかれ、三者で雇用確保を最優先させるとりきめがなされた。
その頃オランダは不況の最中で、12パーセントという最悪の失業率に苦しんでいた。そこでビィム・コック氏はこの会談に臨むに当たり、労働者に対する大規模なアンケート調査を行った。その結果、労働者の過半数がパートタイム労働の促進に賛意をしめしており、たとえ賃金が下がっても、労働時間を減らして、家庭と仕事の両立を望んでいることがわかった。
こうした労働者の意向を背景に、この世界の労働界でも画期的なワークシェアリングの政策が産み出された。そしてこの政策が見事に成功して、10数年後の現在、ヨーロッパの多くの国でいまだに失業率が10パーセントを超えている中で、ひとりオランダの失業率は3パーセントを切ろうとしており、経済は「オランダの奇跡」とよばれる活況を呈している。
オランダのスキポール空港は5本の滑走路を持ち、そのうちの4本が4000メートル級である。日本の成田空港や関西空港が4000メートル級の滑走路を1本ずつしかもたないlことを考えると、その充実ぶりはめざましい。ビジネス誌はスキポール空港をヨーロッパ一、あるいは欧米一の実力を備えた空港として上げている。
空の玄関口とならんで、海の玄関口となるのが、ロッテルダム港だが、ここでは年間3億トンの貨物を扱い、ヨーロッパ域内の3億5千万人の市場の玄関口になっている。ヨーロッパのどの港よりもコンテナの扱い量は多く、その規模は世界で二位である。しかもロッテルダム港からスキポール空港までは80キロしか離れておらずその抜群のネットワークのよさを誇っている。
オランダはIT革命でもヨーロッパの先端を行っており、オランダのパソコン普及率は50パーセントを越えている。アムステルダムの街には公衆電話ならぬ公衆インターネットが点在しており、市民生活のなかに浸透している。
なおオランダ人の外国語力はヨーロッパでも飛び抜けており、たとえば英語が話せる人の割合はベルギーやドイツが41パーセント、フランスが32パーセントに対して、オランダは77パーセントに達する。
ドイツ語はフランスが9パーセント、イギリスが5パーセントなのに対して、59パーセントと、たいていのオランダ人が母国語のオランダ語の他に、英語やドイツ語、もしくはフランス語を話すことが出来る。国際的な情報が飛び交うインターネット時代に、こうした多元語力は大きな武器であり、みえないインフラとしてオランダの経済の躍進を支えているようだ。
こうした中で、労働党を率いるビィム・コック氏が、1994年からキリスト教民主同盟政権にかわりオランダの首相を務めている。与党の労働党はオランダ最大の政党だが、下院150議席のうち45議席を占めるに過ぎない。したがって、自由民主国民党や民主党と組んで、連立政権をつくっている。野党ではキリスト民主同盟が29議席、グリーン・レフトが11議席、あとはマイナーな政党が8つほどある。
もともとオランダの政党は、右派の自由主義政党、中道のプロテスタント政党、同じく中道のカトリック政党、左派の社会民主主義政党と4つのブロックに分かれていた。そして政党を頂点に、これらの支持者はそれぞれ別の社会グループを形成した。
各社会グループごとに、学校、病院、保険、労働組合、雇用者団体、農民団体、新聞、小売店など、人々の生活は各々のグループの中で編成されてきた。こそしてのように宗派別、イデオロギー別に分離した社会は「柱状社会」と呼ばれている。オランダはこの4つの柱が協調することで、多党分立ながら、政治的な安定を保ってきた。
こうした社会構造が根底にあるかぎり、政党も多極化せざるをえない。アメリカやイギリスのような二大政党制とはひと味違った民主主義のかたちがオランダをモデルとして考えられる。実際、オランダの政治学者レイプハルトは、こうした複数の極をもち、柱状社会の「柱」の協調によって産み出される民主制度を「多極共存型デモクラシー」と名付けている。
オランダには、政府に政策を直接提言できる審議会や諮問機関のネットワークが張り巡らされている。審議会は背不の規則により設立され、政府は諮問内容についての対応を回答する法的義務を持ち、諮問委員会は、各省が独自に設定するもので、NGOなどを指名する場合が多いという。
オランダはNGOの活動が活発で、諮問委員会での政策提言の他、社会福祉サービスの提供や、ODA
(政府開発援助) の代行機関としての役割もある。NGOは政府に補助金も含め全面的に支援を受けているが、ODAの代行に関しては選定されたNGOの各プロジェクトは政府の事前承認なしに、事後の年次報告でよしとされるなど、その自由は保障されている。
オランダはNGOをはじめとする様々な機関のネットワークが政府の手足となり、また時には頭脳となって活動している。国民のほとんどはこうしたネットワークに参加し、その活動を通して日常的に政治や社会に影響を与えることができる。
政党がこうした確固とした支持基盤をもち、社会の中に根を張っていることが、オランダの柱状政治の特色だと言える。政策がなく、政略ばかりという日本の政治家と違っていて、オランダの政治家は政策を重んじるので、日本のように選挙の最大勢力が「支持政党なし」で、そのときどきの流れで気分的に投票するということはない。こうしたこともオランダの政治をわかりやすく質の高いものにしている。
オランダが多極型社会なら、アメリカやイギリスなどのアングロ・サクソンは階級対立の2極型社会、そして日本はいまのところ一極集中型社会と呼べるかもしれない。ある意味で多元的価値を尊ぶ多極型共生社会のオランダとは対照的な日本である。しかしこれからは日本も価値の多様化が進行し、政治も多極化していくものと思われる。そうした時代の変化を見逃さずに、日本の風土にあった自前の民主主義を、私たちも将来に向けて構築して行くべき時なのかも知れない。
ところでオランダには汚職政治家がいないが、公務員の汚職もないという。警察官の不祥事などもなく、もの腰のやわらかさは特筆にあたいするほどらしい。「物語オランダ人」の中で、倉部誠さんはこう書いている。
「おなじ警察官でも、これが隣国のベルギーへ行くとたちどころに、警察の構造的腐敗は当たり前、同じ政党に属する同僚の腐敗を調査していた元副首相が暗殺され、その政党が組織的に証拠隠滅まではかるのですから本当に不思議です」
オランダに住んでいるから不思議に見えるのだろう。日本に住んでいると、政治家や公務員の不祥事は当たり前で、汚職がないオランダの方が不思議に思われる。麻薬やセックスに寛容なオランダで、政治家や公務員の汚職や不祥事がないというのも信じがたいことだ。しかし、これも包み隠すことを嫌い、すべてガラス張りにするという、開放的な国民性からくるのかも知れない。
今日と明日の二回に分けて、オランダの歴史を紹介しよう。今日はヨーロッパの辺境に位置していたオランダが、世界の中心に躍り出て、「栄光の17世紀」を築くまでの物語である。
オランダが歴史上に登場するのは、紀元前1世紀、カエサルの『ガリア戦記』だ。カエサルはゲルマン人とも何度か戦い、ケルンなどの植民市をつくった。そのなかに今のオランダやベルギーが「低地ゲルマニア」という地名で登場する。
そのころのオランダは湿地で、農業ができないので、人々は舟で北海に漕ぎ出して魚を獲って暮らしていた。文明国家であるローマ人のカエサルにとって、そこは征服するほどの魅力に乏しい土地だった。
その後、オランダ人は根気強く干拓を続け、排水と水運のための運河を作り、耕地を増やして行くが、彼らの生活の糧は、中世に入っても北海で獲れるニシンだった。そんなオランダ人を豊かな高地にすむヨーロッパ人は「ゼーゴイセン(海の乞食)」と呼んでからかった。
彼らは、航海術でバイキングに張り合い、海運と貿易に乗り出す。13世紀にフランドル地方の毛織物が交易商品の中心となると彼らの力は高まり、1437年、高地ゲルマニアの商業組織ハンザ同盟と戦って勝利を収め、以後しばらくバルト海から大西洋に至るまでの貿易を手中に収めた。
しかし15世紀になると、フランスのブルゴーニュ家の支配をうけるようになり、さらに16世紀には当時世界最強の軍事力をもつスペインのハプスブルク王家の領土となり、熱烈なカトリック信者だった国王フェリペ2世の統治下で、新教国オランダは受難の時代を迎えることになる。
旧教は教会が絶対であり、個人による聖書解釈など許されなかった。自宅で聖書を読んでいるだけで、異端とみなされ処刑された。こうしたスペインの弾圧に、1568年、総督だったオラニエ公ウィレムが立ち、独立戦争を始めた。このとき、独立軍の士気を高めるために歌われた「ウィルヘルムス」が現在のオランダ国歌である。
もっとも、オランダ軍はスペイン軍に連戦連敗、1584年にはウィレムが暗殺されてしまう。オランダの要請をうけて、イギリス女王エリザベス1世は1585年、議会の反対を押し切ってオランダ支援を決定。イギリスはスペインとの全面戦争に突入する。
1588年、スペインの無敵艦隊を英蘭海軍の連合軍が撃破したことで戦局は両国に有利にかたむいた。そして1597年にはウィレムの息子マウリッツ率いる独立軍がネーデルラントからスペイン軍を追い出し、事実上の独立を獲得する。
17世紀に入ると、新興国イギリスが世界各地でスペインと軍事衝突を繰り返し、勝利を確実にしつつあった。この間、オランダの商人たちは両国に大量の資金を融通、世界各地に商品を売りさばき、オランダは「栄光の17世紀」と呼ばれる繁栄を謳歌することになる。
17世紀のオランダは、世界に先駆けて「市民社会」を作り上げた。そしてオランダ人は、どの国とも気負いなく貿易をした。オランダという母国に縛られることなくどこへでも出かけることができた。つまり環境や因習にとらわれない自由で先進的な気風がオランダの国民性として培われた。オランダは世界に進出し、ついには極東の日本にまでやってきた。
北海のニシン、東南アジアの香辛料、大西洋の奴隷、バルト海からの穀物や造船材料はすべてオランダ経由で西ヨーロッパに輸入され、文字通り世界の金融がアムステルダムに集まり、世界史で初めて貿易立国としての繁栄を勝ち取った。アムステルダムのみならず、デルフト、ロッテルダムといった地方都市も繁栄を謳歌した。
フランス生まれのデカルトはオランダに来たとき、人はいかに自分が育った環境の因習にとらわれているのかを知った。彼は晩年の20数年間をオランダで暮らしたが、彼の近代合理思想はこうしたオランダの精神風土の賜だと言える。
イギリスの「立憲民主主義」の思想家ジョン・ロックも清教徒革命の後迫害されて、5年余りをオランダで過ごしている。オランダ生まれのスピノザはユダヤ教会から破門されても、母国を離れることなく、アムステルダムで不自由なく思索を続けることができた。
こうしたオランダと組んでスペインと対抗したイギリスは、その後もオランダとの関係を深めた。当時の英国はまだ後進国で、羊毛が最大の輸出品であった。それをより価値の高い毛織物などにして輸出するには、オランダの進んだ技術が必要である。
そこでエリザベス一世はオランダから毛織り職人を招き入れ、毛織物に関する生産・販売に関する「独占的実施権」を与えた。そしてその見返りに女王は、上納金を課した。
その後、英王室は上納金目当てに独占的実施権を乱発して、トランプの製造・販売まで特定の業者が独占するまでになり、ついに議会は1624年に「専売条例」を制定して、発明と新規事業に限って特許権を発行できるようにした。この専売条例が、近代特許法の原型と言われる。
専売条例のもとで、新しい技術の発明者は、最長14年間の独占権を認められ、その間に収入を得ることができる。その期間が過ぎれば、独占権は消滅し、多くの業者によってその技術が普及する。このように特許は、技術の革新と普及を促進した。
イギリスではこの条例のもとで、ジェームス・ワットの蒸気機関や、リチ
ャード・アークライトの水車紡績機など、画期的な新技術が次々と発明され、英国に産業革命をもたらした。こうして次第にイギリスの経済力がオランダを浸食していった。
17世紀半ばになると世界的にイギリスの軍事的覇権が確立し、イギリスは続いて経済的な覇権をかけてオランダを挑発してきた。航海条例(1651年)が出され、オランダはイギリス領での商業活動を禁止されてしまう。
17世紀の経済的繁栄のなかで民主化が進んだオランダは、オラニエ公家による総督制度を廃止し、強力な指導体制を欠いていた。こうした状況で、オランダは二度にわたってイギリスと戦争をするものの、圧倒的なイギリス軍の前に敗北を喫して、北米植民地を譲り渡さなければならなかった。こうして世界貿易の中心はアムステルダムからロンドンへと移った。
この状況を虎視眈々と眺めていたフランスの太陽王ルイ14世は「ライン川まではフランスの領土でなければならない」と主張して、オランダに迫ってきた。イギリスに援助を求めたが得られず、ここに至ってオランダは、オラニエ公家の当主ウィレム3世を再び総督として迎え入れる。
ウィレムはブランデンブルクのホーエンシュタウフェン家、そしてオーストリア、スペインの両ハプスブルク家と結んでブルボン王家を包囲し、太陽王の野望を食い止めた。そしてここにウィレムを始祖とする王国としてのオランダが成立する。現在のベアトリクス女王も、オラニエ家の出である。
1689年、名誉革命によってカトリック信者のジェームス2世を追放したイギリスは、ウィレムに新国王になることを求めた。こうして彼はイギリス国王ウィリアム3世として、オランダ・イギリス両国の国王となり、英蘭の基礎的な関係がこのとき築かれた。
その後、オランダはナポレオン戦争で併合されたり、第二次世界大戦ではおよそ5年にわたってナチスドイツの支配下に置かれた。戦後主権を回復したオランダは、英独仏という西欧の3強国の戦争による悲惨を繰り返さないために、ベルギーなどとともに一貫してヨーロッパ統合を推進する役割を果たしてきた。そして1992年のEU条約は、オランダの田舎町、マーストリヒトで締結された。
オランダについて書きながら、ときどき私の頭にギリシャのことが浮かんだ。オランダはギリシャに似ている。早い時期に市民社会や民主主義が成立したこと、人間中心主義の合理的で自由な社会であったことなど、いろいろ共通点がある。
ギリシャ人にとってのエーゲ海はオランダ人にとっての北海だろう。オランダの諸都市も又、海上交通によって栄えた。ギリシャはペルシャの専制主義やローマの帝国主義に抵抗したが、オランダもスペインの専制支配に抵抗し、イギリスと覇権を争った。
ニューヨークは旧名がニューアムステルダムであるように、オランダ人の植民都市だった。オランダ人が最初にそこにやってきて町を造り、まわりに外壁をめぐらせた。今でもウォール街という名前に、その痕跡が残っている。地中海のギリシャの植民都市がローマ帝国よって奪われたように、オランダの植民都市も七つの海を支配したイギリス帝国によって奪われた。
オランダもギリシャもヌードの国だというのも似ている。ギリシャ人は一糸まとわぬ姿で体操や運動をし、その肉体美をきそって大理石の像にあらわしたが、オランダ人もまたヌードに寛容である。その精神性が明るくて開放的だという共通点が感じられる。
ルネサンスは文芸復興と訳される。具体的に言うと、ギリシャ的な人間中心主義の文化の復活である。14世紀のイタリアがその発祥だが、毛織物工業や北海貿易で経済的に繁栄してオランダでも、イタリアとほぼ同時期にその運動が始まっている。
油絵の技法を改良し、フランドル画派の創始者ともなったファン=アイク兄弟、16世紀になると「農民の踊り」で知られるブリューゲルが、農民や遊ぶ子供など,素朴な民衆の群像をえがいた。そして、「愚神礼賛」でカトリック教会を批判したエラスムスらが有名だ。
エラスムス(1469?-1536)はルネサンス期最大の人文主義者(ヒューマニスト)だと言われる。ロッテルダムに生まれ、ギリシア・ラテン語を基礎に聖書、教父や古典古代の著作を研究し、古典の校訂版を出版。カトリック教会の浄化、キリスト教信仰の純化を志し、新約聖書ギリシア語原典を精力的に刊行した。
彼は著作「痴愚神礼讃」(1511)で社会や文化の歪みを痛烈に風刺した。彼のキリスト教ヒューマニズムは福音主義や宗教改革への道を開いた。彼は晩年は国際人として各国を訪れ、最後はスイスのバーゼルで没している。ルターはエラスムスの思想に影響されて、宗教改革をはじめた。
このように、思想的にもオランダはギリシャの影響を濃厚に受け、その歴史や風土に共通するものも多い。ギリシャびいきの私がオランダに惹かれたのも自然な成り行きだろう。
1598年、秀吉が死んだ年、オランダから5隻の船が東洋を目差して出航した。「希望号」「信仰号」「信義号」「使命号」「慈愛号」である。6月27日の事だという。
しかしこの船団は次々に不幸に見舞われた。まず、三ヶ月後に提督が病死してしまう。そして翌年4月1日にマゼラン海峡に達したときには、飢えと寒さが船団を襲い、多くの乗務員が死んだ。
マゼラン海峡を渡ると、南太平洋である。ここで暴風雨にあい、まず「使命号」が脱落。南へ流されて食料が尽きたこの船は、結局チリ海岸に漂着し、スペイン人に投降して、「使命」を果たすことができなかった。
「信義号」はもっと悲惨で、86人のうち24人しか生存せず、しかもモルッカ諸島の(インドネシア)のチドール島でポルトガル人に拿捕されて、多くが殺されてしまったという。
「信仰号」も飢えと寒さで乗員の半数を失い、結局オランダに引き返すことを余儀なくされる。暴風雨の前に「信仰」の力も太刀打ちできなかったようだ。
結局残ったのは、「希望号デ・ホープ」と「慈愛号デ・リーフデ」の二隻だけになった。ところが二隻ともすでに船長がいない。一人は病死し、もう一人はスペイン人との交戦で死んだという。
この二隻の船の乗務員が今後の身の振り方について会議を開く。そしてその結論は初志貫徹して「日本」を目差そうというものだった。しかし、チリ海岸から日本までは遠い。
1599年11月27日に二隻の船は、進路をひたすら北西に向けたが、3ヶ月後再び暴風雨に遭遇。「希望号」は行方不明になり、おそらく沈没したらしいという。
こうして、「慈愛号」だけが太平洋の荒波を抜けて、日本にたどり着いた。1600年4月19日のことだという。場所は豊後の臼杵湾。110人いた乗務員はこの1年10ヶ月の航海の間に24人に減り、しかも生存者も多くは病んでいて、漂着したとき立って歩けたものは6人だけだったという。
家康は大阪城でこの報を聞いた。そして彼らの代表を大阪城に呼ぶことにした。雇われ航海士でイギリス人のウイリアム・アダムス(1564〜1620)とオランダ人のヤン・ヨースティン(1556〜1623)がさっそく大阪城に出向いて、家康と対面した。
家康はこのときはじめて「オランダ」という国の存在を知ったに違いない。そして艱難辛苦を乗り越えてやってきた船団の物語を聞いて、海の男たちの勇気に驚いたことだろう。
家康は二人に幕臣の地位と、屋敷地を与えた。アダムスは三浦按針と改名して江戸日本橋近くの屋敷に住んだ。ヤン・ヨースティンの屋敷は現在の東京駅八重洲口の八重洲にあったという。この八重洲(やえす)という地名は、オランダ人「ヨースティン」の名前のなまったものだ。
五隻のうち日本にたどり着いたのは「慈愛号」の一隻だけだったが、この一隻が日本の運命に大きな関わりを持つことになる。もし、「慈愛号」もまた太平洋の藻屑になっていたら、日本はオランダという西洋に開かれた安全な窓を持つことはなかっただろう。
オランダは多くの犠牲をおかして、地球の裏側からはるばると日本に出会いを求めてきた。そのおかげで、日本はオランダという理想的な教師にであうことができた。日本はオランダから実に多くのことを学び、今も学びつつある。
(参考文献) 「オランダ紀行」 司馬遼太郎著 朝日文庫
私は小学生の頃の数年間、若狭の小浜市で暮らしたことがある。私の通った小学校は城跡に建っていた。もともとは小浜藩の藩校だったのだという。この小浜藩は10万3千石の小藩ながら、藩主の酒井家は初代の大老を出したほど、幕府では重きをなしていた。
杉田玄白(1773〜1817)はこの小浜藩の藩医だった。1772年3月4日、彼は一冊のオランダ語の医学書「ターヘル・アナトミア」を胸に忍ばせて、江戸の小塚原の刑場におもむいた。
そこで解剖(ふわけ)された50歳ほどの女性の内蔵と胸中の本とを比べて、彼は西洋の医学書の人体図が精密に人体の内景を写していることに感嘆した。そして前田良沢などの同志をあつめて、この本を翻訳することを決意した。こうして完成したのが「解体新書」である。
翻訳に当たって、だれもほとんどオランダ語を知らなかった。辞書もなく、オランダの通司もいないなかで、まったくのてさぐり。ウエインブラーフという語が眉毛だと気付くのに、一日かかったという。玄白は晩年に「蘭学事始」という本を著して、この苦労話を書いた。
これは筆写本で、世の中に余り流通したわけでもなく、すぐに忘れられた。しかし、幕末になって、福沢諭吉が神田の古本屋で偶然この本を手にした。その本を読みながら、彼は先人の苦労を思い、涙が流れて仕方がなかったという。彼はさっそくこの本を自費出版して、広く世間に報せた。
福沢諭吉が始めてオランダ人に会ったのは、1860年にオランダ製の咸臨丸に乗ってアメリカに渡ったときだという。サンフランシスコの近くに住むオランダ人医者が日本人に親しみを寄せて、艦長の木村摂津守とその通訳の福沢を自宅に招待してくれた。
それは福沢にとってはじめてアメリカの家庭風景を見る機会だった。彼が何よりも驚いたのは、夫人が客をもてなし、主人が台所で立ち働く光景だったという。日本とはアベコベだと「自伝」に書いてある。
土曜日の仕事は昔から半日と決まっていた。これを「半ドン」というわけだが、こうした言葉も週休二日制が定着すると使われなくなるのだろう。早く死語になって欲しいと望みながら、この言葉のもつ浮き浮きした情緒までなくなるのかと思うと、少しさびしくなる。
ところで、この「半ドン」という言葉だが、もとはオランダ語らしい。日曜日になると、出島のオランダ人が休日だと言うことで浮かれていた。当時曜日の感覚がなかった日本人が不思議に思って訳を尋ねると、「日曜日(ドンタクzindag)だから」と答えた。
土曜日は半分の日曜日ということで、「半ドン」と呼ばれるようになったという。また、ドンタクは「祭り」という意味でも使われるようになり、「博多ドンタク」などという言葉も生まれた。
日本語になったオランダ語にはこの他、「おてんば」「かっぱらい」「マドロス」「ビール」「ガラス」「カバン」「ランドセル」「インキ」「レンズ」「オルゴール」「ピストル」「メス」「カンフル」「ブリキ」などがある。
いずれも身近な日本語として定着しており、多くの日本人はオランダ語だと知らずに使っているのではないだろうか。オランダが日本文化に与えた影響の大きさに、いまさらながら驚かされる。
オランダでお二人のお子さんを育ててみえるリヒテルズ直子さんが、その体験を踏まえて、平凡社から「オランダの教育」という本を出された。それにちなんだ講演会が名古屋であるというので、聞きに行こうと思っている。
リヒテルズ直子さんとは私が「オランダ入門」を連載していたときにオランダからメールをいただき、それからときおりメールを交換しているので、今度お会いできるのが楽しみである。経歴を見ると、九州大学大学院を修了されたあと、マレーシアの大学にも留学されている。専攻は比較教育学、社会学だという。オランダ人を夫に持ち、ケニア、コスタリカ、ボリビアなどにも滞在歴をもつ国際派の日本人女性である。
「オランダの教育」の副題は「多様性が一人ひとりの子供を育てる」となっている。読んでみると、まさしく「多様性の尊重」こそが、オランダの教育の核心であることがわかる。どうじにそれはオランダ社会の特質でもある。本の章立てを紹介しよう。
第一章 百の学校に百の教育
第二章 オールタナティブスクールとその影響
第三章 競争のない中等教育
第四章 オランダのゆとり教育・総合学習
第五章 学校教育の質は誰が守る?
第六章 オランダの教育は今・・・移民教育と教育の自由
終章 何のための多様性
オランダは「自由の国」だといわれる。ところで「自由」とは何か。これについて、リヒテルズ直子さんは、こう書いている。
<オランダで自由という時、それは中立の精神ではなく、各個人、各集団が、それぞれの信じる思想を自由に発言し、その思想に基づいて行動することをお互いに許しあうことを意味しています。多様な考えや価値観を持つものが、それぞれの価値観に従って社会参加することが認められること、お互い異なるままに平等に存在を認められること、という意味での自由です>
<オランダで大切にされているのは、子供だけではありません。その子供たちを教えている学校の教師たちもまた、制度のなかできちんと人権を守られています。教師たちは自分の考えで教育する自由が与えられています>
オランダの学校には入学試験というものが原則として存在しない。卒業資格がそのまま上級の学校への入学資格になるからだ。だから大学入学のための競争や塾のようなものも、一切存在しない。それにもかかわらず、オランダの子供たちはよく学び、世界的に見てもトップレベルの学力を身につけている。その秘密が、リヒテルズ直子さんのこの本を読むと、とてもよくわかる。
<オランダの高校生も日本の子供たちのように毎日勉強に追われています。多分、日本の子供たちが、授業、補習、塾と費やしているのと同じくらいの時間を、オランダの高校生も学校と家庭で費やしているでしょう。
ただひとつ違うのは、日本の子供たちが、同じことを繰り返し覚え、試験で間違わないように、限られた時間に難しい問題を正確に解くことができるように訓練している間に、オランダの子供たちは、実に多様な課題を忙しくこなしています。
多分、数学の問題でうっかりした間違いをおかす子供は、日本よりもオランダの方が圧倒的に多いでしょう。でも、オランダでは「校内試験」での評価の対象には筆記試験意外の課題が多様な形で用意されています。
教師たちは、単に答えがあっているかということだけでは判断せず、課題への取り組み方、物事に対する判断の仕方、情報の処理の仕方といったことまでを観察しています>
オランダの歴史教育は、<歴史的出来事がどの時代にどういう順序で起こったか、ということを羅列的に覚えるのではなく、それらの「出来事が、今の時代に生きている生徒たちにとってどういう意味をもつものであるのか考えるための教育>になっているという。
たとえば、リヒテルズ直子さんの高校一年生の息子さんの歴史の宿題を覗いてみると、次のような課題が出されていったという。
@あなたがベルリン市内またはその周辺に住んでいたドイツの労働者であったと仮定しなさい。そして、あなたが1932年から33年の間になぜナチス政権を支持したかを説明しなさい。
Aあなたが1917年にスターリンに投票したロシアの労働者であったと仮定しなさい。そして、なぜあなたはスターリンに投票したのかを説明しなさい。
日本の高校の歴史の授業で、こうした課題が与えられることは、まず滅多にないことだろう。ところがオランダの学校では「ヒトラーのナチズムを支持するようなプロパガンダを書きなさい」というような課題がだされることもあるという。これについて、リヒテルズ直子さんは、こう書いている。
<ある社会で大きな歴史的出来事が起こるとき、それを支えたり、それに反対したりする個人の側の何らかの必然的背景がある、という事実に、生徒たちを目覚めさせようとしているように思います。ある地域や国が戦争に向かうとき、社会全体、国家全体をそういう方向に導いていくいろいろな条件があり、一つそういう方向で社会が動き出すと、それは一人の人間の力では抗しがたいものになること、そうなってしまう前に、一人ひとりの市民がしっかりと事態を見極め判断していくことがいかに大切であるか、ということを少しでも子供に伝えようとしていることがわかります>
生徒はこうした課題をこなすために、図書館やインターネットでいろいろと当時の社会情勢をしらべ、友人や家族と議論し、自分の考えを練ることだろう。そしてこれを文章にして、提出しなければならない。オランダの高校生はだからとても忙しい。しかし、その急がしさの中身はずいぶんと日本の高校生とは違っているわけだ。
こうしたことは、「覚える歴史ではなく考える歴史」「今を生きるための歴史教育」という実践的教育観が根底にあるからだが、こうした視点は「歴史教育」のみならず、すべての教科にあてはまるようだ。数学や理科の課題についても是非その中身が知りたいものだ。リヒテルズ直子さんにお会いしたとき、いろいろと質問してみよう。