第四章 文化と芸術の舞台づくり

 企業が文化を売っている。企業の名前を売り出すために企業名を冠するイベントを企画したり、商 品のパッケージに美術作品をあしらったりする。美術館や文化ホールを造り、自主企画を次々に打ち 出して興業収益を上げているものもあるし、伝統芸能の後継者養成といった、必ずしも訪客につなが らない事業に乗り出している企業もある。
 もはや日本の消費社会では、単に商品だけを売ろうとしても満足に売れない社会になった。売ろう とする商品にどんな心をこめているのかそれを的確に伝えて企業ブランドを高める手段が「文化戦略」 である。無論、「文化」をつくろうとする社員がいる企業では、商品の作り方も売り方も違ってくる のは当然である。
 昭和電工の鈴木治雄会長(現名誉会長)がはやらせた「大分の二度泣き」。その鈴木会長が考える昭 和電工の企業イメージは「健康」「文化」「ハイテク」の三つだと聞いた。 「企業にも哲学が必要なんです。小説を読むとか、詩をつくるとかいうんじゃなくて、企業が全体の 人間の生存とか、暮らしのなかでどういう比重を持っているのかという意味づけをしていく」ことが 大事であるという。
 企業の文化戦略は行政の分野にもあてはまる。自治体の文化への取り組みをみると、文化施設の建 設がラッシュ状態で、ときには隣り合った市町村で同じような文化会館や運動公園を建設していると ころがある。地域の独自性とは何か。自治体でもしっかりと文化戦略を考える必要があるのではない か。
 文化戦略とは、いかに地方から情報を発信していくかである。東京ばかりが情報発信基地となり、 それをただ受けるだけの地方には自立はない。東京だけに一つの価値があるのではなく、それぐれの 地域に文化の拠点、頭脳の拠点をつくり、情報の価値を蓄積していくことが必要だ。東京に隷属して はならない。ここでは、これまでに大分から情報発信した事例を取り上げる。

  清張作品をドラマ化--『西海道談綺』と『詩城の旅びと』

 作家の松本清張さんとは、年に二、三度上京した折、一緒に食事をする機会をもっていただいた。
 清張さんが作家になったのは『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受けられてからのことで、すでに 四〇歳を超えており、作家としては非常に遅い出発であった。しかし、その後の活躍はご存じの通り。 出版されたものは次々にベストセラーになった。推理小説でも、それまでの単なる謎解きものや、名 探偵が事件を解決するといったものではなく、動機を社会的な背景におき、そうせざるを得なかった 弱き人間を登場させた。まさに「清張以後」というジャンルを確立した、歯切れのよい文章と人間の 深層心理まで追求したストーリー。単なる推理小説を超え、社会事象を切ってきた。私は清張さんの 作品のほとんどを読んでいる。ともに食事をしながら、次の小説のあら筋を聞くのが楽しみであった。 「こんな話にしようと思うんだがね。平松さん、どう思う」と聞かれて、とまどいながらも答えたこ とがなつかしい。大分ファンになってもらい、四年に一度、ホテルオークラでの「大分フェア」のオ ープニングの際にも一番に挨拶していただいた。一村一品を紹介したパンフレット誌にもメッセージ を寄せてもらっている。清張さんとのかかわりは昭和五六年、大分県広報誌「Let's Love Oita(親NE O OITA)で対談してからのことだ。
 松本清張さんは北九州市の小倉生まれ。昭和十五、六年頃に、小倉から自転車で国東半島にある国 指定重要文化財・冨貴寺(豊後高田市)に行ったことがあるという。当時出版されていた日本美術の写 真集のなかに富貴寺の仏像が紹介されていて、見たくてたまらなくなったからだという。これが大分 県とのかかわりの始まり。その後、福沢諭吉の中津を訪ねたり、終戦後にはサツマイモの買い出しに 来て、大分市の戸次あたりの渡し船で大野川を渡った思い出があると、なつかしそうに話されていた。 「昭和十七年頃、ほうきの売買のアルバイトをしていて、製造元に買いに行くと『金は要らないから 材料を持って来い』と言われ、竹を見つけに豊後高田に行った。でも、アルバイトだけでは空しいで すから、ついでにその土地の古いものを見る。逆にいえば、古いものを見たさにそういう商売をした ともいえます」
 清張さんが大分県を舞台にした最初の作品は『陸行水行』(昭和三七年)。邪馬台国を探すのに、日 田から豊後森を経て安心院で駅館川を下り、宇佐の川口から海へ出る。これを推理小説仕立てにして いる。戦前、清張さんが大分を訪ねた頃の記憶が作品になったのではなかろうか。
 対談のなかで「豊かな県とは何か」という話題が出た。「豊かな県とか貧しい県というのは、自然的な立地条件が要因になっていましたね。ところが、現在 は人智が発達して、自然条件をいくらでも克服できる。あるいは、それを乗り越える知恵が備わって きたから、もう地形からくる貧しさなどとはいえなくなると思うね。人の気づかなかった開発をやっ て、貧しいものが逆に豊かなものを超えていく可能性が出てきているんではないですか」
 その可能性が「一村一品運動にあり」ともつけ加えられ、意を強くしたものだ。  対談の最後に、清張さんに作品のテレビドラマ化をお願いした。とくに『西海道談締』は、日田か ら湯布院、豊後高田までが舞台になっており、「県の観光に役立ちますから、ぜひ」と頼んだ。『西 海道談綺』のことは一村一品運動のところでも述べた。
 清張さんは昭和四六年から五年間をかけてこの作品を書き上げた。取材のため中津江村を訪れたと きは、鯛生金山が閉山になったあとで、まだ鉱山会社の保安要員が残っていた。道路はきちんと整備 されず、クネクネした山道をあえぎながら登った清張さんの熱意には頭が下がる。テレビドラマ化に は快く応じていただいた。 清張さんはテレビ局にも通じており、自分の作品をドラマ化するときには、主演女優は「誰々がよい」 ということまで進言する。清張さんには「女優も一村一品で」ということで、大分市出身の古手川祐 子さんをお願いした。これが昭和五八年十月に実現し、全国に放映された。  ロケが行われたのはその年の八月。夏とはいえ、金山坑道はひんやりと涼しい。しかも、現場は天 井から水が落ちてくるなかで、古手川さんはブルブル震えながら撮影を続けた。原尻の滝(緒方町)で は、滝の落ち口ぎりぎりまで近づいての体当たり演技。さすがに、スタッフに命綱を持ってもらって いたが、高さ二〇メートルの上で演じる姿には迫力があった。
 ドラマには朝地町商工会青年部の十五人がエキストラを買って出てくれた。かつらをかぶり、重い つづらを背負って歩く山伏の役。炎天下でのロケはかなりきつかったと思う。テレビドラマ化された こともあって、舞台となった中津江村の鯛生金山跡の地底博物館は観光地として脚光を浴びることが できたのである。
 昭和六〇年六月、今度は大野川流域を舞台とした歴史小説を書いてもらおうと、清張さんを招いた。 大野川流域には旧石器時代以降の遺跡が集中し、平安期以後の仏教文化遺跡についても国東半島をし のぐものがある。「豊後に大野川あり。大野川はまさに豊後のふるさと、象徴ではないかと思っている。源流から河口 まですべて大分県を流れる大河で、それまでの歴史のあらゆるものを抱え込んで、しかも悠々と流れ ている。その流域はそれぞれが歴史を持っている。それらを総合すれば、古代から近代までの壮大な 大分県が自然の歴史として描けるんじゃないか」
 大野川流域を探訪したときに、一朝地町の普光寺摩崖仏で聞いた感想だ。
 竹田市の岡城跡近くにある隠れキリシタンのマリア観音に目を凝らし、前方後円墳が残る七ツ森古 墳では、出土品の三角縁神獣鏡をめぐって地元の郷土史家と熱心に意見を交わした。清張さんは昭和 四一年に『中央公論』に連載した『遊古疑考』のなかで、三角縁神獣鏡の問題を正面から取り上げて いる。当時、三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏からもらった中国製だと考えられていたが、「三角縁神獣鏡 は全部日本製であった」と唱えておられた。それだけに、三角縁神獣鏡には深い関心を寄せていた。
 七ツ森古墳を訪ねたときは雨のなか。地域の生活改善グループの女性たちが手づくりのふるさと料 理でもてなした。この日の清張さんの日記にこうある。 「・・・・傘さして男女の村民、学童の出迎人多数われら一行を待って歓待してくださる。テント内に遺 跡出土品を陳列。主婦たちは手製の餅でもてなし。餅も人情もあたたかし・・・・」(『過ぎゆく日暦』)  七ツ森古墳からは、清張さんのたっての希望で竹田市内にあるメンヒル(巨石柱)を見学した。 「朝鮮系のもののようだ」と分析しておられた。
 清張さんは自ら写真集を出すほどの写真好きで、ペルシャで撮影された写真をいただいたことがあ る。取材の際には必ず肩から愛用のカメラをさげ、普光寺摩崖仏や犬飼石仏では身を乗り出して撮影 していたことも印象に残っている。  その二年後、六二年十一月に再び来県。このとき、『荒城の月』のモデルとなった竹田市の岡城が 築城八百年祭を迎え、その記念行事として清張さんに講演をしていただいた。講演のなかで清張さん は、小説の構想の一端を紹介してくれた。
 舞台は竹田と南仏プロバンス。二つの地方には多くの共通点があるという。一つは岡城とレ・ボー 城という、どちらも廃虚になった古城を持ち、『荒城の月』と吟遊詩人の『即興詩』という城をテー マにした歌がある。画家では豊後南画の田能村竹田とゴッホ。大野川、ローヌ川という豊かな川が流 れ、それぞれ瀬戸内海、地中海へと注ぐ。 その水は名水といわれるほど清らかだ。プロバンスにはローマ時代からの遺跡であるポン・デュ・ガ ール水道橋があり、一方、竹田には多くの水路橋がある。特に明正水路橋は六連アーチ式のもので日 本最大。清張さんはこの不思議な相似性にひかれ、小説を書こうと思ったと話す。  この二地点を結ぶ人物として、竹田の女性が登場する。物語は、大正時代の明正水路橋建設にまつ わる話と、プロバンスに隠されていたゴッホの絵がからむ。そこにヨーロッパで国際駅伝大会を企画 する男が現れて……。
 これが、のちに『詩城の旅びと』となり、『ウィークス』(日本放送出版協会)に連載され、平成元 年に単行本化された。国際駅伝大会開催と画家を取り巻く美術会の因縁。屈折した人間関係を描きな がらも、南フランスのまぶしい陽光、ゴッホが好んで描いたアルル、アヴィニョンの風景、それに岡 城祉や日本の名水百選に指定された竹田湧水群が絵のように描写されている。続いてNHKのシリーズ・ ドラマ10で放映。主役は緒形拳、冨司純子、それに中川安奈という豪華陣だった。
「僕が本を書き、映画やテレビでドラマ化されれば、そこは全部観光地になって、お客さんで賑わう よ」
 自信たっぶりに話す清張さんにもうお会いすることはできない。平成四年八月急逝。「もう一度、 大分を舞台に書いてくださいよ」とお願いすることも、「こんな語にしようと風うんだかね。平松さ ん、どう思う」とたずねられることもなくなった。寂しいよ、清張先生。

 「花も嵐も寅次郎』−舞台は湯布院・湯の平温泉

 沢田研二と田中裕子。美男美女の取り合わせだが、二人が結ばれたきっかけは、渥美清演じる『男 はつらいよ』第三〇作に共演したこと。ラブストーリーの舞台は湯布院町であった。「寅さん映画」 はギネスブックにも載るほどの最長シリーズで、今ではすっかり国民映画になってしまった。
 私は東京にいた頃から「寅さん」の大ファンであった。イキがっていながら腹巻きに草履ばき、お まけに人がよくて失敗ばかりする。そんな寅さんを、「とら屋一家」は「しょうがねえ、しょうがね え」と言いながらも、温かく迎えている。観客は笑っているうちに、いつの間にか泣いている。
 山田洋次監督と知りあったのは昭和五六年に対談したときだ。初めてお会いしたのに、寅さん映画 が生まれたいきさつから、渥美清さんや倍賞千恵子さんの人柄のこと、役づくりにかける意気込み、 山田監督の映画論、さらには黒澤作品や小津作品など日本映画が黄金時代を築き上げた頃の話、映画 と時代とのかかわりなど幅広く話していただき、たいへん楽しい時間を過ごすことができた。 「演出が目立つようじゃ二流の映画だと、先輩によく言われたものです。監督もカメラマンもスクリ ーンから消え、観客はそんな存在を忘れてスクリーンの世界に没入していく。最後には、自分だって そんな映画ができそうな気がするし、もっといいものさえつくれるような気持になる。そんな映画で なければいけないんです」
 山田監督は「映画とは観客が主役なんだ」と語っていた。これは、企業でも行政でもいえること− 舞台に立つ主役は住民で、行政は主役が活動できるような舞台を整える裏方に徹すべきである。 まさに一村一品運動の精神と同じであり、大いに共感できた。 「僕らの仕事は、観客が夢を描くのを助けることなんです。本当の幸せというものは自分でつかむも のでしょう。寅は恋の手助けをしようとしますが、いつも失敗ばかりで、『もう寅さんには任せてお けない』と自分で告白するんです」  映画を見ている人に勇気を与えたい。それが山田監督の心意気であったようだ。
 それ以前にも、大分県が「寅さん映画」の舞台になったことが二度あった。第二一作『私の寅さん』 では、とら屋一家の五人が家族旅行をすることになり、寅さんが留守番を押しつけられた。「箱根より 西へ行くのは初めてだよ」というおばちゃんたちが降り立ったのは大分空港。空港からホーバーフェリ ーで別府に向かい、別府温泉やサルの高崎山を見物して熊本に抜ける。日ごろ家に居ついたことのない 寅さんが、旅先のみんなを心配するくだりが笑わせる。とはいっても、とら屋一家と地元の人たちの触 れ合いもなく、大分を舞台にした作品という印象はさほどなかった。
 もう一つは第二八作『寅次郎紙風船』の冒頭。福岡県との県境にある夜明駅く(JR久大本線)近くの旅 館で家出娘(岸本加代子)と相部屋になり、そのまま一緒に福岡県秋月への旅に出る。従って、これも大 分でのロケというにはあまりにも短い。  山田監督は「竹田には行ったことがあります。いい所でしたね」と言われ、「瀧廉太郎の育った所で、 街角からとてもすてきな美人がヒョイと現われそうな所でしたよ」と、印象を話していた。
 そこで、「寅さんがその美人にたちまち心を奪われてしまうというような設定で、ぜひ大分で恋が実 るような作品を」と括願いした。それが翌年に実現しだというわけだ。もっとも、舞台は竹田ではなく 湯布院になってしまったが……。
 沢田と田中が出演した『花も嵐も寅次郎』は、「おかげさまで三〇作記念」として松竹が売り出した もので、昭和五八年の正月作品。配給収入十五億四〇〇〇万円で、「寅さんシリーズ」の最高を記録し ている(『キネマ旬報』)。
  舞台は湯布院町の湯の平温泉。この温泉は小川のせせらぎと、石畳を歩くカラゴロカラコロという下 駄の音が響く、昔からの湯治場だ。今でも、やかんを手にした浴衣姿の湯治客が行き交う。やかんの中 身は胃腸病の薬として知られた飲用泉。 天下の名湯はお土産としてポリ容器で発送することもできる。映画の最後の場面でも、温泉宿の主人か らとら屋一家に贈られた。
 ストーリーをかいつまんで紹介しよう。
 湯の平温泉を旅する寅さんは、友達と一緒に来ていた童子(田中裕子)とすっかり意気投合。たまたま 同じ宿で、亡き母の郷里を訪ねてきた三郎青年(沢田研二)と会い、親孝行に感心する、みんなで大分の 名所旧跡を見物することになり、次第に三郎が童子に好意を寄せていくものの、気が弱くてなかなか打 ち明けられない。いよいよ螢子が東京に帰ろうとする別府のホーバーフェリー乗り場で、せっぱ詰まっ た三郎が「好きだァ」と突然の告白。びっくりした童子は、そのままフェリーに乗り込んで行ってしま った。 「そんなことじゃ、女は口説けねえよ」と、寅さんが恋の指南役になり、二人の仲をとりもっていくと いうものだ。
 雄大な自然や人々の人情も絡み合い、沢田と田中の愛を育んだ「大分」の名が売れた。ちなみに、こ の『花も嵐も寅次郎』には、大分で最も大きい劇団である「県民演劇」(中沢とおる代表)の芸達者も出 演していた。
 その後、平成三年の正月には、日田市や天ヶ瀬温泉が舞台となった第四三作『寅次郎の休日』が封切 られた。 『寅次郎の休日』では満男(吉岡秀隆)と泉(後藤久美子)の二人が、泉の父親に会うために日田へ行く。 二人だけの旅行を心配した寅さんが、泉の母(夏木マリ)と一緒に追いかける。泉と満男、寅さんと泉の 母。青春のカップルと大人のカップルが日田でばったり会うという設定だ。再会した四人がそれぐれの 思いを持ちながら苦悩する姿が印象的だった。
 封切り前の試写会では、山田監督と吉岡秀隆、それに後藤久芙子が来県し、舞台から県民に挨拶した。 「風格のある古い町並み、わきを流れる三隈川の風景が独特の文化をつくりだしていることを肌で感じ ました」(山田監督) 「祇園祭のシーンは、皆さんが薄着で頑張ってくれたのに感激しました」(後藤久美子) 「ロケ中に風邪をひいてしまい、旅館の人にとても親切にしてもらいました。日田は人情の厚いところ だと思いました」(吉岡秀隆)
 吉岡君は映画でははにかみ屋の青年彼。その通り少し恥ずかしそうに話していたし、一方、後藤さん はハキハキと答えていた。映画のシーンを思い合わせながら、二人に好感を持たれた人も多かったと思 う。  寅さん映画には、日本人が忘れてしまいそうな"ふるさと"が描き出されている。しかも、登場人物は 善良な人ばかり。落ちこぼれの主人公をいつも温かく迎えている人たちだ。ヒロインがとら屋を訪ね、 寅さんやさくらに悩みを打ち明ける。それは、とら屋一家がまさに"ふるさと"であるからだ。 「僕にとって映画とは、愛がなければできないものなんです。卵一個にしても、床に落ちてつぶれたら もったいないと思いますね。たとえ十円、二十円のものでも、大事にしようという気持が文化につな がるんじゃないでしょうか。人間に対しても同じで、その人を大事にしたいという気持が愛情なんです よ」
 大分県は全国で初めて車いすのマラソン大会を開催した県である。障害を持った人に「お気の毒だ」 と言うだけではなく、人間同士がお互いを大事にする社会でありたい。これからも、大分県をその舞台 づくりの場としていきたい。
 山田監督との対談では私も勇気づけられた。私は山田監督に会うたびに、「今度もぜひ大分で愛を実 らせてください」と頼んでいる。

野上彌生子さんを顕彰−読書感想文が三七二五編

 ・・・・この『お正月』の中には「能役者がほんの小童からの稽古の、それぞれの過程において咲かせな ければならない、打ち込み方一つでは、必ず咲き匂うはずの時の花は、芸道とは限らず、よのつねの生 き方をする身にもあらまほしきものではなかろうか」ともある。これは野上彌生子さんの、老いを自然 に受けながら、なおかつ生きる限り若さを失わない心意気のように感じます。
 私は特に「それぞれの過程に拾いて咲かせなければならない、打ち込み方一つでは、必ず咲き匂うは ずの時の花」という部分が好きです。「打ち込み方」の大切さを、本当に素直に受けとめさせ、そして すばらしい「時の花」を咲かせたいと思わせる文章だからです。
 この『花』という本の中で野上彌生子さんの書いていることは、私たちの身のまわりにある、あるい は起こっている、ほんのさりげないことばかりなのに、どれも奥深いものが含まれているようです…。                               (大分上野丘高校一年、永田真裕子)
  「野上彌生子賞読書感想文全国コンクール」の平成四年度高校生の部で、最優秀の野上彌生子賞に輝い た感想文の一部である。
 この読書感想文コンクールは、大分県臼杵市に生まれ、九九歳で亡くなる直前まで小説を書き続けた 野上彌生子さん(一八八五〜一九八五)の文学を県民に理解してもらおうと、昭和六〇年度から始めた。 六三年度から募集対象を全国に広げ、岩波書店と共催。初年度の応募は千一七八編であったが、平成四 年度の第五回目には三七二五編という多数にのぼり、翌五年の第六回目も三三一八編の応募があった。 中学生から最高齢は八四歳まで、遠く海外(香港)からの応募もあった。それだけ野上文学に対する関心 が広まったということであろう。
 野上さんは二一歳のとき、『縁』が夏目漱石に認められ、雑誌『ホトトギス』に掲載されている。 作家・野上彌生子の誕生である。以来、『海神丸』をはじめ『迷路』『真知子』などの作品を発表し、 喜寿を過ぎてなお、代表作といわれる『秀吉と利休』を書いた。八六歳で文化勲章受賞。翌八七歳のと きに、野上さんの自伝小説ともいうべき『森』第一章を発表している。
 私は野上さんの晩年、二度対談する機会を得た。一度は軽井沢の山荘、次は東京・成城の自宅。作風 に似て端正ななかに、漱石の弟子らしくウィットとユーモアに満ちた話ぶりは、年齢を感じさせなかっ た。「私、平松さんのね、お点つけているわよ。よくこそ、ここまでやってきたわね。昔の臼杵は政争が激 しくてね、憲政党と政友会とで海水浴場の飛込台が二つあったの。あなたも、あまり走りすぎて足を引 っ張られないよう気をつけなさい」と世俗的なアドバイスまでいただき、苦笑したこともあった。
 野上さんの書かれる小説には、郷里臼杵や大分の方言がしばしば出てくる。『海神丸』に始まり、 『狂った時計』四部作、『迷路』の主人公、省三の郷里としての臼杵など。それだけ愛郷の思いが強か った人だ。
 たまたま、臼杵にいたときの水泳の語が出た。臼杵に伝わる古式泳法に山内流がある。もともとは藩 主の子弟が引き継いだもので、手に大旗、小旗、刀、槍などを持ち、臼杵湾内の洲崎−諏訪間三三〇メ ートルを泳ぎ渡る。基本泳法のほかに、さまざまな泳法を身につけなければならない。野上さんの頃は 小学校の必須科目であったようだが、何しろ水泳が不得意−必死に練習したようだ。本番では途中で溺 れそうになりながらも、蛇の目傘を持ってたどり着いたと、当時をなつかしんでおられた。 コツコツ努力する姿勢、頑張り精神が野上文学をつくり上げたのだ。 お会いしたときには、十二年間書き続けた『森』が終わりに近いときだった。 「いま、悩んでいるの」と意外な相談があり、野上さんからこんなストーリーが紹介された。  一人の医学生が恋人を学校長に奪われる。悪魔だから殺してもいい。だが、あくまでも生き物だ。 自分と悪魔との間にどれだけの差があるのかと苦悶し、それを内村鑑三にぶつける---。 「平松さん、あなたならどうされますか」と、眼鏡越しに口元を引き締め、詰問調での質問であった。 ことの難しさに本当にとまどった。 「ただ、祈ることしかないのでは……」としか答えられなかった。 「あなたもそう思いますか、やっぱり……。それを本当に言い得るかどうかの土壇場にきているの。 だから、白寿だの、黒寿だのって、そんなこと私にはどうだっていいのよ。今の私は答をどう出そうか と、そのことだけで頭がいっぱい。あなた、答えてくれたら、私、拝むわ」 出版された『森』の最終章に、内村鑑三はこう答えている。 「祈り給え、ただ祈り給え。ともに祈ろう。われら人間に出来るのは、それだけだ」
 九九歳まで現役として、強い意志と努力によって作家活動を続け、自ら困難な課題に取り組み、奥深 く考え真筆に解決していった野上彌生子さん。 「晩年の母は目が不自由で、執筆は午前中の二時間だけ。それも原稿用紙に二枚というわずかなもので した。『森』が完成したら『大友宗燐』を書きたいと、死ぬまで書き続ける決心をしていました。 母のモットーは一に努力、二に努力、三に努力であると思われる」と、長男の素一さん(京都大学名誉 教授)が記している。  野上さんの業績は書簡、日記まで含めると膨大な量になるが、生涯努力してきた精神に裏打ちされた 作品の一作一作を深く読み込んでほしい。寄せられた読書感想文には、野上さんの作品に親しみ、それ とつき合い、じっくり考え、文を綴っている人が相当多くみられた。審査した早稲田大学の紅野敏郎教 授は、「一作からさらに次の作品に挑戦し、豊かな野上文学の世界に猪突するぐらいの勇気、根気を持 っていただきたい」と、講評で述べている。 「野上彌生子賞読書感想文全国コンクール」は毎年開催される。「野上文学」という広いグランドで、 多くの方に競い合ってほしい。

 西洋音楽発祥の地で−園田高弘賞ピアノコンクール

 国内の一流ソリストたちによるクラシック演奏会、若手ピアニストを育成するためのコンクール。 クラシック音楽にスポットをあてたイベントが、毎年、晩秋の大分で開かれている。名づけて「おおい た音楽芸術週間」。メイン行事は「園田高弘賞ピアノコンクール」である。
 園田高弘さんは世界的に著名なピアニスト。一九五五年、べルリンフィルの定期公演に独奏者として デビューして以来、欧米各地で演奏活動を続けてきた。一方で、ジュネーブ国際音楽コンクール、ショ パン・ピアノコンクールなど、世界各地のコンクールで審査員を務める。父、清秀さんは大分市生まれ で同じピアニスト。フランス留学中に、音楽の早期教育、絶対音感教育の必要性を感じ、そのまま息子、 高弘さんに音楽教育を試みた。父についてのエピソードを園田さんとの対談(昭和五五年)のなかで聞い た。 「父は僕に、瞬間に音を聞き分ける能力を育てようとしたり、音の強弱やリズム感覚を身につけさせよ うと、細かにやっていました。クスノキのそばに立たせ、父が『四分の三拍子』とパッと出すと、一、 二、三、一、二、三と、そのまわりを歩いたりしました」
 しかし、父の教育期間は長くなかった。清秀さんは三二歳の若さでこの世を去っている。園田さんが 五、六歳のときに外国から帰り、八歳のときに亡くなったわけだから、音楽を教わった時間はごくわず か。それでも、父の教育が生きていた。 「ほんの一瞬しか会わないでいても、そのすりこみが強烈であれば、一生涯忘れることができない。 一時間の教育でも生涯忘れることのできない感動があります」  芸術はもちろん長い時間がかかる。若い人の可能性を認め、勇気づけ、伸ばしていくことが必要で、 可能性を信じていくことが大切だ。私は園田さんに「大分でピアノコンクールを始めたい」と話した。 それもワルシャワのピアノコンクールに匹敵するようなコンクールにしたいと。  感動が芸術を生む。文化や芸術に地方と中央の差はない。園田さんは「ぜひ協力させてください」と 快諾され、昭和六〇年、第一回園田高弘賞ピアノコンクールが始まったのである。
 最初の頃は、コンクール参加者を、大分県在住者か大分県出身者に限っていた。ところが、園田高弘 さんが直接審査するということで評判が高まり、県外からもコンクールに参加させてほしいという声が 聞かれた。そこで次第に参加資格を広げ、昭和六三年の第四回から対象を九州に、現在では近隣諸国に まで広げている。平成元年の第五回コンクールでは、韓国延世大学の学生が園田高弘賞に、以後、第六回は中国上海音楽院学生、第七回はモスクワ音楽院学生と、外国からの参加者が優勝した。  語は変わるが、大分は日本の西洋音楽発祥の地である。さかのぼって十六世紀後半の大航海時代、と きのキリシタン大名、大友宗燐は六か国(豊前、豊後、肥前、肥後、筑前、筑後)の守護職を命じられ、 九州探題に封じられるなど、九州の覇者として君臨した。積極的に南蛮貿易を進め、府内(現大分市)に は、遠くポルトガルの地から海を越えて、さまざまな西洋文化がもたらされた。その一つが西洋音楽で あった。  ビオラやオルガンを伴奏に、宣教師によって初めて府内の少年にグレゴリオ聖歌が教授された。 一五五七年には府内の日本人聖歌隊が日本で初めて西洋音楽を奏でた、と資料にある(ヴィレラ書簡)。 さらには、教育機関が設けられ組織的に音楽教育が始められたとある。
 私は、園田高弘賞ピアノコンクールを世界一流のピアニストとなるための登竜門にしたいと考えてい る。 日本で初めて西洋音楽を奏でた地からの発信である。     朝倉文夫のロマンを継ぐ−愛の園生・朝倉文夫記念公園
  「東洋のロダン」「彫聖」と称された彫塑家・朝倉文夫さん(一八八三〜一九六四一が生まれたのは大 分県大野郡朝地町。美しい緑の山々に囲まれた谷あいの町で、人口四〇〇〇人。一村一品は豊後牛。 良質の赤肉に霜降りの脂肪がよく調和した朝地牛肉は、とびきり肉質がいい。日本一大きい普光寺の摩崖仏(高さ十一・三メートル)も町民の自慢だ。普光寺は別名「あじさい寺」と呼ばれ、六月から七月にかけ ての眺めはすばらしい。朝倉文夫は生涯、この美しいふるさとの自然を忘れることはなかった。
 十一歳で尋常小学校を卒業し、竹田高等小学校入学。このとき、三年上級に瀧廉太郎がいた。毎日顔 を突き合わせていたにしても、二人の間に深いっきあいがあったわけではない。瀧はオルガンやヴァイ オリンを弾き、都会育ちの少年として人気を集めていた。朝倉は剣道が得意で、柔道も強い。河童のよ うな泳ぎをする田舎育ち。竹刀をさげ、友達を引き連れて町を歩くバンカラ少年である。音楽のなかで も、洋楽は軟弱だといって嫌いであった。しかし、瀧の尺八には感心していて、「学校の裏山で瀧が吹 いた尺八の音が、稲葉川の川瀬に和した韻律は忘れることができない」と、彼が創作した瀧廉太郎像( 大分市大手通り)の碑文に刻んでいる。
 この二人は日本の芸術界の第一人者になっていくが、もちろん、そのときは誰も知る由はない。ただ、 対照的な二人が一年間顔を合わせていたことは、のちの生き方に少なからざる影響を与え合っていたの ではないか。
 大分中学校中退後に兄を頼って上京。兄、渡辺長男はすでに日本一の銅像制作者であった。田舎から 出てきた彼は、兄の制作ぶりに目を見張った。指の先に土をつけてチョイチョイとやると、命のない土 くれがたちまち命を吹き込まれたように、さまざまな形となって現れてくる。「兄さんは天才だ。自分 にはとても真似はできない。ただ努力するより仕方がない」と、「努力」を心に誓った。
 東京美術学校(現東京芸術大学)在学中に、すでに彼の才能は開花した。金がないからモデルを雇えな い。毎日、上野動物園に行って動物のスケッチをするうちに、塑造の基礎技術を完全にマスターしてし まった。たまたま教授の紹介があって、貿易商からの動物像制作の注文をこなすようになった。 毎日一点ずつ、卒業までに一二〇〇点ほどを制作。技術は飛躍的に向上していった。しかも、貧乏書生 が一躍金持ちになり、学資のない友人を援助するまでになった。
 美枝三年のときには腕に自信がつき、制作をしていると、先生がズラッと並んで見ていたという。 肖像作品の第一号は、当時海軍省が三海将の銅像を募集していたのに応募した海軍中将像である。これ が一等に当選。センセーセーションを巻き起こすデビューであった。
 どんな逆境にもくじけることなく、努力を重ねる。気づいたときには兄や師を抜いていた。文部省が 美術奨励のために開いた展覧会(文展)に、第二回展から第八回展まで連続上位入賞。第十回展では三四 歳の若さで審査員に任じられている。ちなみに、この年の審査員は森林太郎(森鴎外)、高村光雲、白井 雨山、山崎朝雲ら。朝倉を除いていずれも高齢者である。大抜擢であった。
 しかし、決して順風満帆ではなかった。当時、ロダンに傾倒して帰国した高村光太郎(一八八三〜一 九五六)が、彫刻の本質を「生気」「内部の生命」と主張したのに対して、朝倉は「写実主義」に本質が あるとし、いたずらに外形の真実を無視して、抽象的な内面に入ることを非難した。  しかし、はたしてそう断言してよいのか。彼は苦悩した。  朝倉芸術の最高峰といわれる「墓守」は二八歳のときの作品である。芸術的な苦悩に加えて、畏友荻 原守衛(一八七九〜一九一〇)の死、弟の病気(不眠不休の看病にあたった)、ボルネオ探検など、幾 重にも困難に囲まれながら、それに耐え、克服した。芸術開眼をなし得たのは、努力を重ね、確実に身 につけていった基本技術の賜物にほかならない。「墓守」は写実に目を開いた最初の作品であった。  彼の作品には男女の人間像や動物像があるが、最も多いのは肖像作品である。立像、座像、胸像など 大小四〇〇点。日本はおろか、世界中でもこれほど多くの肖像を残している彫塑家はいない。しかも、 単なる量産ではなく、自然の神秘、自然の美しさを絶対的なものとして、一つ一つに作者の情熱と技巧、 完壁なまでに透徹した人間観察が投影されている。格調の高い、深い人間性をたたえた芸術創造−それ を支えていたのが、美しいふるさとの自然、郷土への愛情であった。  戦後、被災地となった大分市の復興に尽くした上田保市長は、大手町遊歩公園を彫刻通りにしようと 考えた。たまたま、その場所が瀧廉太郎終焉の地であったことから、瀧の銅像制作を朝倉さんに依頼し た。  当時の大分市にそんな予算はない。上田市長は市内の小学生に鉛筆一〇〇万本を買ってもらい、その 浄財を資金にあてたのである。朝倉さんも市長の熱意に共鳴し、古い写真と小学校時代の印象を土台に して像をつくりあげた。     同窓の友、瀧廉太郎を偲ぶ

 人生は短し芸術は長し

 と碑文にある。
 朝倉さんは旧作「緑のかげ」を寄贈し、これも遊歩公園に置いた。
 竹田市は朝倉さんを名誉市民に推戴し、朝倉文夫、渡辺長男の新旧作品を市内各所に配置した。朝倉 さんが最後まで願っていたのは、生まれ育った朝地町池田に「愛の園生」と呼ぶ一大公園を建設するこ とであった。自分の作品を確立する上で大きな影響を受けたふるさとの美しい自然の中に、自分の作品 を展示したい。子どもたちが自由に彫刻に触れる、そんな環境をつくりたいと願っていた。「愛の園生」には、池あり、谷あり、梅が匂い、桜が咲く。美術館のほかに集会所も建てるという壮大 なロマンであった。しかし、昭和三六年、自費を投じて用地を買収し事業に着手したものの、三九年、 志半ばにして他界された。建設計画は中断し、購入済みの約二〇〇〇坪の土地は町に寄贈された。
 その朝倉さんの遺志を町が引き継いだ。四八年、朝地町は朝倉文夫の業績を讃える記念館建設を計画 した。しかし、これも折からのオイルショックによる経済不況のため中断の憂き目にあった。建設は流 れても、計画は引き継がれた。建設予定地に梅園を造成するとともに、朝倉作品を継続的に収集してい った。
 六一年、朝地町は美しい自然と豊富な史跡や文化財、朝倉文夫に代表される芸術を基調とした「やす らぎと芸術の里」を町のスローガンと定めた。やっと資金のメドもついた。いよいよ中断していた建設 計画を復活させたのである。思わぬことに、東京都台東区の支援も受けた。台東区は朝倉さんが生前に 六一年間暮らした町で、元アトリエを中心に作品群を保存している区立朝倉彫塑館がある。台東区は朝 地町に朝倉作品の寄贈を申し出たのである。  朝倉さんが抱いたロマンは、平成三年三月、「愛の園生・朝倉文夫記念公園」の誕生となって実現し た。この間、三〇年がたっていた。朝倉の遺志を絶やすまいとする町民の願いが三〇年も続いたのだ。 記念館には「墓守」や「いづみ」など四〇体が常設展示されている。日本を代表する彫塑家の作品を、 これほど系統的に収めている美術館は少ないのではないか。しかも、記念館の設計を清家清・東京芸大 名誉教授、周辺の環境造形を澄川喜一・東京芸大美術学部長、館内の展示設計は朝倉文夫の長女で舞台 美術家・朝倉摂さんが担当している。記念館自体が芸術的価値を持ったものといえよう。 記念公園の面積一六ヘクタール。記念館を中心とする芸術ゾーンと、自然を活かした安らぎゾーンに分 けられ、安らぎゾーンには野鳥・昆虫の森、菖蒲園、エビネ園さらに水車小屋や河原、陶芸小屋がある。 公園内の五〇〇〇本の樹木は町民の寄贈によるもの。インフォメーションセンターやレストハウス、陶 芸小屋は町内のまちづくりグループの手で運営されているし、公園内の草取りや清掃は婦人会、老人会 が自主的に行っている。
 記念館は観光客だけのものではない。町内各グループ---陶芸クラブ(十九人)、フラワートピア(十九 人)、農産加工クループ(十人)、美術協会(七一人)など一の活動の拠点になっている。 また、文化芸術の裾野を町民に広げようと、町は著名な作家の作品展を企画したり、町民が直接参加す る「あさじアマチュア美術展」「あさじアマチュア写真コンテスト」「小・中学校彫塑展」などを開催 している。
 ビッグイベントは「大分・アジア彫刻展」の開催であろう。朝倉文夫を顕彰して、日本で初めて平成 五年十月、アジアを対象に新進彫刻家の登竜門となる彫刻展を開いた。朝地町と大分県とが共催する もので、「一等賞金六〇〇万円」も話題になった。
 朝地町は昭和六二年十二月に東京都台東区と「友好都市」の縁組を締結した。修学旅行生が行き来し たり、台東区で朝地町の一村一品を販売したりと、人と物の交流が続いている。朝倉芸術を介した友情 が大都市と小さな町との間で結ばれた。朝倉さんのロマンは町民にしっかりと根づいている。

 「大分CIの歌」誕生−阿久悠の『豊後水道』

背伸びした恋破れ
なぐさめる人もなく
信じていたのに 
あなたはもう来ない    
やせた女の旅路には    
やさし過ぎるわ 春の海    
こぼれ散る紅椿 流れに引き込んで    
何を急ぐか 豊後水道    

 大分のカラオケスナックでは必ずこの曲が流れる。川中美幸が歌った『豊後水道』(阿久悠作詞、三 木たかし作曲)。
 阿久悠さんとは東京時代からの友人だ。東京での「大分フェア」、横浜に向けた「一村一品の船」、 外国人記者を招いての「Let's Love Oita ツアー」などにもゲストとして参加してくれている。東京に は阿久さんを応援する「YOUの会」がある。私もメンバーの一人で、椎名武雄(日本IBM社長)、野田一夫 (多摩大学学長)、白根程吉(技術評論家)の各氏らカラオケ仲間と、阿久さんの歌をかたっぱしから歌う。 特に私は『五番街のマリー』や『ジョニーへの伝言』が好きだ。 あるとき、親しい阿久さんにたずねたことがある。
 阿久さんのヒット曲は、石川さゆりの『津軽海峡冬景色』、都はるみの『北の宿から』、森進一の 『北の蛍』など、不思議に北の歌が多い。「あなたは淡路島生まれなのに、蛍まで北とはどうしたこと か」と。 「演歌というのは、モノカラーでもの寂しい風景でなくちゃ。九州のように陽がサンサンと輝いて、カ ラフルな所ではどうもね……」
 明るい陽の下では、失恋一つしたぐらいで、死ぬの、生きるのとはなりにくいらしい。
 その一方で、「何も悲しいだけが歌ではないわけで、歓喜の歌があってもいい」とも言う。阿久さん は"悲しみ探し"という日本の歌に抵抗していた。そこで阿久さんに、「何とか南の歌をつくってよ」と 口説いた。 「テーマは何がいいですかね」と阿久さん。私は即座に「豊後水道ですよ」と答えた。
 地図でみると、佐賀関と愛媛県佐田岬の間の狭い水路は「豊予海峡」、少し南下して「豊後小遣」、 さらに下ると宮崎沖の「日向灘」になる。日本最古の文献『古事記』にみる通り神武天皇御東征のルー ト。また、種子島の鉄砲、ザビエルのキリスト教など、すべて新しい文化はこの海路---海の歴史街道を 通って日本にやって来た。大分に新しい歌をはやらせるなら豊後水道がいい。関アジ、関サバのPRにも 役立つ。そう思った。  阿久さんと名コンビの作曲家・三木たかしさんと一緒に大分に来てもらい、豊後水道を船に乗って、 佐賀関町から鶴御崎半島まで案内した。昭和六三年、阿久さんにお願いしてから三年、念願かなってで きあがったのがこの『豊後水道』である。北の演歌と違ってメロディも明るく、失恋した若き女性が最 後は立ち直っていくストーリー。演歌としては新しいジャンルであったし、何よりも大分のイメージに よく合っていた。
 歌の発表は地元、佐賀関町で。川中美幸さんが歌ったあと、阿久さん、三木さんによる『豊後水道』 の歌唱指導。優秀者は川中さんとデュエットで歌える特典つきとあって、「われも、われも」と大勢の 人が手をあげた。ちなみに、会場には地元だけではなく、東京のマスコミも大勢押しかけた。 ニュースは全国に流れていった。「隗より始めよ」
 私は車にカラオケテープを積み込み、移動の際には猛練習したものだ。職員にも知ってもらうように、 昼休みのベルの代わりに県庁でも流した。
 大分県庁マンは必ず『豊後水道』を歌う。都町(大分市の飲み屋街)ではこの歌のカラオケを置いてい ないと商売にならないという、ウソかマコトかわからのようなうわさまで流れた。県民にも広まり、「 『豊後水道』の踊りをつくりましたよ」と、歌に合わせた振付を見せてくれるグループも現れた。 会合でこの歌が出てこなければお開きにならないほどヒットした。  歌も一村一品。大分CIの歌が全国に発信されていった。  

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