★★★安心院(あじむ)の鏝絵(こてえ)
NO.01
鏝絵館
NO.02
スッポンと安心院ワイン
安心院は、鏝絵の町である。それくらい鏝絵が多い。
鏝絵が流行しだしたのは、明治期にはいってからで、歴史はまだ浅いが伊豆の入江長八が始め、全国に広がった。

安心院に登場したのは、西南戦争が終わり、士族の授産制度が始まった、明治12年から13年ごろといわれている。

NO.03
布袋
※ ここに取り上げているのは、ごく一部です。
NO.04
布袋 毘沙門天 弁財天 布袋
安心院では、鏝絵を「心の造形」と位置づけている。

現在、確認されただけでも190点にのぼり、全国の鏝絵の約一割以上をしめるという。

N.005
重松家別館 虎・龍・富士山
酒屋の鏝絵 毘沙門天、弁財天、布袋
N.006
県立歴史博物館にある猫と対
重松家別館に残る鏝絵 虎、龍、富士山
無造作に掛けられた鏝絵
NO.07
NO.08
虎
子供の散髪
子供の散髪

鏝絵は、左官絵とも漆喰彫刻とも呼ばれている。

安心院の本町通り鏝絵通りには、20点近くの鏝絵がありさながら屋外美術館の様子をていしている。

多くは家や土蔵の妻壁、戸袋、欄間に、造られており、

観光パンフによれば、「家とその家族が様々な災厄から守られ、家内安全に、健康で子孫が繁栄し、

いつまでも富貴に暮らせますように」という願いがこめられている。

商店の場合は商売繁盛でしょうか。

招福ということでしょう。

NO.09
NO.10
保存のためか、カバーがついている。
家紋と兎
NO.11
発動機
家紋とウサギでしょうか?
NO.12
発動機
一富士・二鷹・三なすび 長野鉄蔵作
NO.13
壁が崩れかけている。 不明?
一富士、二鷹、三茄子。安心院が生んだ鏝絵の才人、長野鉄蔵の作
鏝絵は下市、折敷田地区、龍王地区、大地区に偏在して見られる。
NO.14
家紋と兎
NO15 家紋かと兎
朝顔の模様 長野鉄蔵 作
NO.16
唐獅子牡丹
この鏝絵(唐獅子牡丹)は、昭和初期ごろ制作された保存文化財です。

安心院町ではこのような作品を後世に伝承するため、「大分県一村一文化事業」の一環として「鏝絵の里づくり」を進めています。

この作品は町内熊出身の江藤和幸氏(千葉県柏市在住)から町に寄贈され、安心院警察官駐在所新築にあたり、町の要請を受けて掲出したものです。

平成十二年年十月 宇佐警察署長 写し

朝顔の模様 長野鉄蔵作
NO.17
交番の鏝絵 狸と思ったら、ちがってました。
明治時代につくられたものは、作者が特定できるものもあるが、多くは調査中とのことである。最近の鏝絵は、あたりまえのことであるが、作者は特定できる。

ちなみに、「心の造形」の案内板からピックアップすると、江藤智子、石田覚蔵、後藤五郎、永田知徳各氏等々です。

安心院の観光パンフから抜粋『大分県内では、福禄寿や布袋和尚は数件しかみられず毘沙門天、弁財天などは見られない。

しかし安心院町には江戸初期の七福神に数えられていた「南極老人」や「猩々」から「外法の梯子剃り」「恵比寿と鯛の三番叟」等がある。

これは、恵比寿が鯛に三番叟を踊らせるユーモラスな内容で貴重な民俗資料である。

動物では十二支のうち「兎」がもっとも多い。

「兎」は子孫繁栄と火事除け。続いて多いのが「虎、龍、鷹」。これは力のある猛獣を壁に描いて、家に忍び寄る「魔もの」を睨み返したいという願いであろう。』・・・云々。

『漆喰の壁は、石灰、貝灰、フノリなどを混ぜたもの。漆喰は呼吸しながら固まっていく。サンゴと同じで二酸化炭素を吸って固まるのだ。』・・・云々。

漆喰の材料となる貝殻。貝灰は簡単な窯で、木炭と貝殻を交互に重ねて焼かれた。

その性質が壁に塗ったとき割れにくく美しいことや室内温度の安定等の理由から多様される。』

NO.18
豊饒の田
豊饒の田
NO.19
酒飲み 猩々
NO.20
酒飲み 猩々(しょうじょう)
NO.21
鯉とスッポン 
NO22
長野鉄蔵 作 魔をにらむ鷹
鯉とスッポン 安心院はスッポンの名産地なんです。
安心院の田園風景
長野 鉄蔵作 魔をにらむ鷹
NO.23
安心院の田園風景 虎
虎 
NO.24
恵比寿・弁財天・十二単
NO.25
鶴
恵比寿、弁財天。十二単
NO.26
南極老人
NO.27
歌舞伎役者
南極老人
NO.28
浦島太郎
歌舞伎役者
NO29
兎
浦島太郎
NO.30
三番叟(さんばそう)
安心院ワイン
三番叟(さんばそう) 百年の風雪に耐えている

★★★★安心院・松本イモリ谷
安心院はワインの名産地でもある。
無人寺 南光寺
パンフのあとがきが全てを言い表しているので抜粋

『明治に建てられた家々も今や古び、新築や改築のため取り壊される家も多い。

また、農業の後継者不足と過疎の問題は、鏝絵の有無にかかわらず無住の廃屋を産み、

横殴りの風雨に長年耐えてきた「鏝絵」も家屋とともに朽ち年々その数を減じているのが現状である。

明治という近代日本の夜明けと気を同じくし広まった「鏝絵」は、

その時代の庶民の生活史として、重要な文化遺産としていつまでも残ってほしいと思っている。』  ・・云々 右に同じです。

★★★無人寺 南光寺

南光寺の仁王像     写し

県指定重要文化財 

木造金剛力士立像(二躯) 仁王は、寺の山門にあって法域を守護する、金剛力の力士です。

蜜迹金剛(みっしゃくこんごう)口を開いている方。

 高さ:2,275m 胸囲:1,830m 

奈羅延金剛(ならえんこんごう)口を閉じている方

 高さ:2,200m 胸囲 1,550m 

樟の寄せ木造り、仁聞作といわれる。

男性美に満ちた鎌倉期彫刻の特色を表している。(一部は後世補修) 

            安心院町教育委員会

お寺の横の掲示板
最近脚光浴びているイモリ谷は、テレビにも出てます
いもり谷
 仁王像は、「あ、うんの呼吸で鬼退治!」に出演。見てね。
南光寺の仁王像
作業場の壁にイモリの絵が
南光寺の仁王像

★★★★恵日山 西明寺
恵日山 西明寺五輪塔
恵日山 西明寺   ママ

宗家 曹洞宗 

本尊阿弥陀如来立像 

北条時頼公(1256年)鎌倉建長寺において、年30歳で出家し、諸国を間行すること8年、

一国ごとに西明寺を建てた。よって公を西明寺入道と称した。正嘉2年(1256年)時頼公、当地に錫をとめ仏道有縁の地と深く感じ、

三女神社三篭され、国家の安泰を祈念された。時、たまたま病に冒され、当地の佐藤某家で療養、

病得て、この地を去るに及び、三女社の神宮寺にかえ、西明寺を建て

、公の負仏阿弥陀尊像を安置し、従臣二階堂行康恵日入道を開基とした。

よって当山を恵日山西明寺と言う。常副の五輪塔は、恵日入道の墓と称し里人尊崇していたが、

近年県の文化財に指定され寺内に移されている。時頼公、鎌倉に帰られ、

寺田三反一畝を共米田として賜った。後、樟山融桂禅師に請うて開山。

曹洞宗に属し、国東町泉福寺末となった。昭和年間寺内に大観世音菩薩像を建て、国運の隆昌・庶民の安泰を祈願されている。

    安心院町 安心院町教育委員会

恵日山 西明寺 五輪塔
五輪塔 上から空輪・風輪・火輪・水輪・地輪
五輪の各名称
県指定有形文化財 (昭和33年 3月25日指定)

火輪の上部には、露磐形の造り出しがある。各輪の4面には、月輪が線刻されその中に五輪塔4方門の梵字が薬研彫りされている。

水輪には、梵字をはさんで、二行に分けて「正元元年己未五月二日」の印刻がある。

総高約1,06m。正元元年は、鎌倉時代の中期で、現在のところ大分県では、

嘉応2年(1170年)、承安2年(1172年)の刻銘のある臼杵市中尾の五輪塔に次ぐ古いもので形も良く整っている。

        安心院町教育委員会  ママ


あの「黒革の手帳」と「けものみち」を書いた松本清張もスッポンを食いに来た!?
大分県の歴史散歩より 抜粋

安心院は不弥国(ふみこく)か?

安心院盆地は宇佐山郷の中心で、深見川、津房川、佐田川が流れる湖成盆地である。

肥沃な沖積土が体積し、米どころとして知られており、盆地南東部には条里の跡もみられる。

安心院の地名の起源は湖の陸化で干潟ができ、そこにアシがはえて「芦生(あしう)」と呼ばれたのにはじまり、

「あじむ}に転化したと言われている。『扶桑略記』によると720年(養老4年)に、宇佐公比湖古(うさきみひこ)が勅命で隼人の乱を平定し、

安心して居住したので、安心の字をあてるようになり、さらに嵯峨天皇の弘仁年間(810年〜924年)倉院がおかれあじむの院=安心院の字があてられたと言われている。

また、『延喜式』によると豊前・豊後の国府を結ぶ駅路にあたり、「安西覆(あしぶ)」の駅がおかれ、

これが安心院に転化したともいわれている。こうした多くの伝説をもっていることや、古墳や遺跡が多数あることから

この地が一つの文化の中心地だったことが考えられる。

作家松本清張は安心院のこのような歴史的伝承や古墳・遺跡をみて『陸行水行』で「魏志倭人伝」の不弥国に比定している。

大分合同新聞4/3より抜粋

高タンパクでコラーゲンを含むスッポンは疲労回復に有効とされる。

安心院の深見川で取れた天然もののスッポンを使い、冬眠期間中は、いけすの養殖もので賄う。

「体重1kから1,5kぐらいが脂がのっておいしい。2kを超えると肉質がかたくなってしまう。」とスミ子さん。

(スミ子さんはヤマサ旅館のおかみさん)。刺身、空揚げ、水炊き、肝焼きなど、楽しみ方はいろいろ。

やまさ旅館には県内外からなじみの味を求めてくる常連客が多い。

社会派ミステリー作家、故松本清張さんもその一人だった。

邪馬台国を題材にした短編小説の取材で安心院を訪れたさいなど計3回立ち寄り、料理に舌鼓をうったという。

頻繁に参考にしている、「大分県の歴史散歩」は、シリーズもので、大分県は44巻にあたる。

出版社は山川出版。発行元は県高等学校教育研究会社会部会。

なかなか、詳しくかかれております。

大正時代に安心院のスッポンを紹介した故木下謙次郎の「美味求真」の文句
やまさ旅館の前にある「美味求真」の句