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・CLANNADを見ていると「実は視聴者(オタク)は青春したかったんですよ」という幻聴が聞こえて来ます。なんか変なアプリを仕込まれてしまったような気分だ。何故俺の横には渚と春原がいないんだよ!(あずまん風憤怒)
『「雑誌の対談というのは、基本的にボロい仕事です」とか言ってるうちは10年たっても20年たってもそんな仕事はこないよ。』の意味が気になる、俺もボロい仕事にしか見えないから。何か隠された大変な苦労でもあるのだろうか。そもそも去年前Kさん、「SFが読みたい!」の対談に出てなかったっけ?w(追記:鏡明氏も加えた鼎談でした) あと見ようによっては20年後も今の仕事をしているようなお墨付きにも見える。真意が不明だ。
それよりも前半だよな。ラノベ作家が直木賞を獲れるのか特集だから、文学賞ウォッチャーでありライトノベルにも覚えがある大森氏が選ばれたという意見は正しい。しかし逆に読めば、ライトノベルウォッチャーであり文学賞にも覚えがあるラノベ読者でもいいんじゃないの? むちゃくちゃ穿った観方を仮にすれば、ラノベ読者はライトノベルしか読んでいない、他の文学賞になんか興味の無い連中だとダ・ヴィンチは舐め腐っていて、逆にラノベ側も「ラノベならコイツに任せろ!」というようなカリスマラノベライターを輩出していないということで、前島っちの言い分にも一理あるということになる。
まあ実際のところはそんな劇的な展開ではなく、単純に企画した編集者かライターのアンテナやコネクションの届く範囲での仕事でしかなかったということなんだろうけど。もちろん俺は呉智英氏じゃないので「昔の編集者には『鬼』と呼ばれるような人がいて、こんな中途半端な仕事などしなかった!」と憤るつもりもないっす。そこまで色々言っても仕方ないし。ツッコみどころがあるから駄目だと言ったら仕事にならん。
前島さんには伊藤剛氏のようになって、「前島本を読んでいない奴がラノベを語るなんて信じられない勉強不足!」とか言われるようになってほしいですね(別に他のラノベ愛読者でもいいですけど)。過去の人にしたい連中を実際にそうして下さい!(なんという無茶振り)
・で、ダ・ヴィンチに載っていたラノベ年表も不満が出ているようです。俺はラノベに詳しくないのでその意見が正しいかどうかは知らないけど、なーんか、ネットで作った方が正確かつ精密になりそうな予感。そろそろ雑誌とネットの情報の正確さの逆転現象が起きるのでしょうか?
今思うのは、21世紀の正しい知識人像はオープンソースのプロジェクトリーダーみたいになるんじゃないかということ。
上記のような『鬼』みたいな超優秀な人が一人で物を作る時代じゃなくなって、超がつくほど優秀じゃなくても、周りに相当優秀で自分のやることに付き合ってくれる仲間がいて、議論が荒れすぎず過疎になりすぎることもない「製作場所」を作る能力に恵まれている奴が強い時代になるというか。
そもそも情報が多すぎるこのご時世、一人で何かを纏め上げるなんて不可能だろう。数人の優秀な連中で担当を分け合って、数千人の閲覧者(=デバッガー)で細かい部分を修正していくことになっていくんじゃない?
――とか思ったが、Wikipediaとか見る限り普通の意見だし(むしろ「ネットの情報が不正確である!」とのたまう学者に「じゃあお前が書き直せばいいだろ!」と反論できるほどの勢いがネットにはある)、それでなくとも昔から辞書編纂や全集作りのような大仕事はカリスマ的な人が中心になっており、優秀な人や協力者が次々と集まってくるようになるという話はよく聞く。むしろ一人でやるような仕事が没落したというべきなのかねえ。俺は人を動かすのが嫌いなのでそれは困るよね。
ダヴィンチは単にこの特集のコーディネーターが何も考えてないだけだと思うなー。最初の早川さんがマンガで一般文芸への人材派遣所には還元できないラノベ独自の魅力とは何かという問題意識が出てきてるのに、その次のページでデカデカと次の直木賞を取るラノベ作家はダレだ!とか書いてますからね。
テープ起こししたものを、結局対談者たちが労苦を重ねて綺麗に再構成するケースは多々ある。
ものによっては全面的に再構成してしまうひともいるし、それこそ鼎談のクオリティが高かったとされる雑誌だって、実際は再構成力に支えられていた事実もある。
そしてやっぱり、そういうライブ感を保ち、実際の対談からずれすぎず、適切な範囲で再構成をするひとというのは、編集者でも喋る側でも高く評価される。そういう当然のことでしょう。
単純な誤解が目に付いたんでつっこんでおきますけど、商業誌に載る対談なり鼎談なりを対談者自身が再構成することなんてまれですよ。第三者(編集者なりライターなり)が再構成するケースの方が圧倒的に多いです。なので、その意味で「ボロくない」ということはない。
まあ、僕も別の意味で、対談仕事がそこまで「ボロい」ものだとは思いませんが。いい対談をしようと思ったらそれなりに仕込み(常日頃からの努力も含む)がいるわけなので。
>mine-o さん
質問がありましたら、別に噛み付いたりしませんから、どうか当方にコメントでもトラバでもくださいよw。
で。
>「ラノベはSFの植民地にされている!とか過激なことは言わないの?」
逆です。「SFはライトノベルの植民地だ、とか言わないの?」と言われ、そんなことは思いません、と答えました。あの鼎談でも、ライトノベルの植民地化については一貫して問題視してると思う。参照 http://d.hatena.ne.jp/kagami/20070515#p1
> 実は宇野派じゃないの?疑惑とか、本当にセカイ系好きなの?
セカイ系大好きですよ。『ブギーポップは笑わない』や『永遠のフローズン・チョコレート』や『涼宮ハルヒの憂鬱』をセカイ系として認めてくれる限りにおいては。
「疑惑」の念頭には、例のトークラジオがあるんでしょうが、あそこで、鍵=セカイ系ということになっているのが、そもそも違うんじゃないかと思います。
セカイ系御三家は『イリヤ』『サイカノ』『ほしのこえ』であって(ちなみにこれみんな徴兵少女モノなんで、前島が軍オタであることとも矛盾しない)、他にも当初は『戯言』とか『GPM』とかも入っていたかもしれないけど、鍵はあくまで鍵であってセカイ系ではなかったはず(少なくとも、「ゼロ年代の想像力」までは)。ていうか鍵をセカイ系とか呼ばわりしたら、鍵っ子は怒るんでは? 鍵、とくに麻枝シナリオは、あくまで擬似家族(共同幻想)がテーマであって、基本、君と僕の二人と世界の終わりだけ(対幻想と自己幻想)しかないセカイ系とは全然違うでしょう。
どうしてこんなことになっているのか。04年の段階では、東氏は鍵については肯定的だったけど、セカイ系については常に一歩引いた立場をとっていたはずで、たとえば『臨界点』でも『AIR』もセカイ系として褒めてはいないはずだし、『CROSS†CHANNELL』だって手放しでは褒めていない(むしろセカイ系のダメなところがわかりやすく現れた作品と言ってるはず)。ところが、そのセカイ系論ではないはずの「東浩紀の『AIR』論的の枠組」を、宇野氏が「セカイ系」と言って批判し、東氏がそれに応えたせいで、ややこしいことになっているのではないかと思います。
あのトークラジオでは、佐藤心氏がセカイ系の典型となっているけど、彼はあくまで鍵っ子で、それ以外の何者でもない。鍵っ子・オブ・鍵っ子。その佐藤心を、基準にしたら、そりゃ前島は、セカイ系じゃないということになるかもしれませんが、しかし、だとしたらその定義が間違っている。俺がセカイ系だ。
なので、mine-0氏は、自分がセカイ系という言葉でどのあたりの作品を指しているのか次第なんですが、もし、前島は鍵っ子じゃないんじゃないか、と聞いているのであれば、はい真性・鍵っ子からは程遠いです、ということになります。人並みには好きですけどね。
長文、失礼しました。