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共戦の旅路

3月12日

名誉会長とのきのう・きょう・あした
第9回 3・3「大阪婦人部の日」 関西婦人部

断じて負けるな 我らは“家族”

 「来たよ!」
 懐かしい“わが家”に帰ったような声がした。
 平成3年(1991年)3月3日午後。関西文化会館の玄関ロビー。関西婦人部が丹誠を尽くした桃の花のオブジェが、東京から着いた池田名誉会長夫妻を迎えた。
 「3」がきれいに並んだこの日は、ひな祭り。
 そして「大阪婦人部の日」であった。
 数年前、3月3日を同部の日と決めたのは、名誉会長である。
 “なんで、この日に?”
 皆が不思議がった。
 その答えを明かしたのは、香峯子夫人だった。
 「ひな祭りは、貴族の文化から生まれたもの。それが庶民の中に根付いたと言われています。“庶民の中に”というのが、好きなんですよ」
 皆、はっとした。関西の庶民が、お雛様のような笑顔で、幸福に輝いてほしい――そういう願いだったのか!
 オブジェに手を触れながら、名誉会長は語った。
 ――桃は限りない生命力の象徴なんだよ。“桃園の契り”ともあるように、団結と友情の象徴でもある。さっそく大阪婦人部、関西婦人部のために、勤行会を開こう――
 着いたばかりの夜、予定外の記念勤行会が行われた。
     ◇ 
 翌日の関西代表幹部会(関西戸田記念講堂)でも、関西婦人部の歴史を語りながら、激励は続いた。
 昭和28年(1953年)4月2日、戸田第2代会長のもと、約100人で発足した関西婦人部。「草創の母たちの“悪戦苦闘”の連続によって、今日の『大関西』の礎は築かれたのです」と。
 大阪は「もうかりまっか」の土壌である。また、人情に厚いが、反面、情に引っ張られやすい気質ともいえる。
 そこに楔を打ったのが名誉会長であった。
 昭和27年の初来阪以降、御書講義を担当。昭和31年の「大阪の戦い」では、毎日、早朝講義から出発。「心の財」が第一であると訴え、広布の道を歩む使命を、烈々たる迫力で語り抜いた。「骨の髄まで蘇生していくのが分かりました」「御書の筋金を入れていただいた」と草創の同志。
 語るだけではなかった。名誉会長は大阪中、関西中を動きに動いた。隅から隅まで、悩んでいる“一人”を探し出すように激励を重ねた。
 生活に悩む母が大勢いた。経済苦、夫婦の不仲、子どもの病気……一家を幸福にするには、母が強くならねばならない。誇りと自信を持たせなければならない――そのために、名誉会長は幾度も関西入り。その数258回、約1000日にも!
     ◇ 
 ある女性幹部が鮮烈に覚えているエピソードがある。
 名誉会長に「陰で頑張っている人の名前をあげてみなさい」と聞かれた。名前を告げると、「ほかには」「ほかには!」「ほかに、もっといるだろう!」。頑張っている人は、一人として見逃しはしないという、その気迫。
 2000年の関西指導では、夫を事故で失い、幼子を抱えた夫人に会うやいなや、「きょうは、あなたのために来たんだよ。負けるな、断じて負けるな!」。
 皆、襟を正さずにはおれなかった。「生涯、苦しんでいる人、悩める人の味方になる。その尊い生き方を、先生が身をもって教えてくださった」と。
 「常勝関西」は、名誉会長の手作り。まさに“関西池田家族”である。
  
 天も舞え
  大地もひびけと
    関西の
   家族の勝鬨(題目)
     世界を救わむ
  
 この溢れ出る慈愛と期待に、常勝の母は奮い立つ。
 「先生のために!」
 「先生とともに!」
いかなる場所でも、光り輝く人に!――関西の未来を担う人材グループ「関西同志の集い」の会合に名誉会長が出席。「真の人材」とは、「どんな立場になっても次の後継の人を育成できる人のことである」と、愛する同志に期待を(昭和55年5月5日、関西文化会館で)
「どこから来たの」「メガネは、勉強のしすぎかな?」。阪神タイガースの野球帽をかぶった未来部員に声をかける名誉会長。母子の人生にとって、この出会いは、生涯の原点に。一瞬の出会いだからこそ、一期一会の思いでエールを送る(昭和55年5月5日、大阪・天王寺区内で)
平成3年3月3日、来阪直後の名誉会長夫妻。関西婦人部の真心による「桃の花」のオブジェが夫妻を迎えた(関西文化会館で)
全国初の婦人部・女子部の会館となる「関西白百合青春会館」を名誉会長夫人が初訪問。「関西から世界へ新しい女性の歴史が始まりますね」と(平成3年10月18日)
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