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児童ポルノの単純所持禁止問題
投稿日時:2008年02月07日01:31
またもや原稿が煮詰まっているので(こればっかだけど)、投稿。
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GIGAZINEの
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080206_not_photos/
この記事を眺めていて、児童ポルノの単純所持禁止問題を思い出した(とはいえ、このエントリとリンク先の記事内容とはほとんど関係がない)。
児童ポルノ法の改正については、オタク界隈では「児童ポルノに絵は含めるのか」「美少女ゲームも作られなくなるのか」といった問題、つまり二次元の問題ばかりが騒がれている。しかし、ぼくはじつは、そちらにはあまり危機感を抱いていない。
というのも、永山薫+昼間たかしの『マンガ論争勃発』で明らかになったように、日本では規制推進派のあいだでも、マンガやゲームまでひっくるめての禁止があまりに非現実的で、法外な結果を引き起こすことはあるていど知られているからだ。日本でマンガやアニメのロリコン表現が全面的に抑圧されることは、おそらく近日中にはないだろう(後述のように遠い将来にはわからない)。
というわけで、ぼくの関心はむしろ三次元、いわゆる実写の児童ポルノの問題にある。
■
そもそも児童ポルノの制作や販売を禁止するのはなぜか。それはむろん、児童の性的虐待を防ぐためだ。
ちなみに、表現には猥褻規制という別の論理もある。じつはぼくは刑法上の猥褻の概念はなくしたほうがいいと思っているのだが、児童虐待が許されないのはそれとは別の話だ。したがって、いずれにせよ、児童ポルノの制作や販売は固く禁止すべきだ。まあ、ここまではほぼ異論がないところだろう。
しかし、単純所持を禁止するとなると厄介な問題が生じる。というのも、ポルノを見るだけならだれも傷つけてないじゃないか、迷惑かけてないじゃないか、という理屈が立てられるからだ。
いや、それでもキモいから禁止するべきだ、というのであれば話は早いが(そして実際は社会の大勢はそういう論理で動いているのではないかとも思うが)、表向きはとりあえずそういうことになっていない。ぼくたちの社会では、欲望は裁けないことになっているからだ。殺人の欲望と殺人の行為のあいだには無限の距離がある。同じように、児童との性的な行為は犯罪でも、児童への性的な欲望そのものは犯罪ではない。この原則は動かせない。
というわけで、ぼくたちの社会では、児童ポルノの単純所持を禁止する理由が、だいたい二つの論理で語られている。ひとつは、児童ポルノの鑑賞は現実の犯罪を誘発する、したがって禁止すべきだという論理。もうひとつは、児童ポルノの所持はポルノ制作者への金銭の移動を意味する、それは間接的に児童の性的搾取の支援になっている、したがって禁止すべきだという論理。
さて、ぼくはここで(この話は別に児童ポルノに限らず、殺人事件や暴力事件のたびにアニメやゲームの影響が語られ、そしてそのたびに良識ある人々が反論しているものなので、もはや読者にはおなじみだと思うが)、前者の論理の説得力は疑わしいと思う。メディアと犯罪の関係についてしばしば語られるこのような説(強力効果説)は、本質的には、上でいったん退けた「キモいから禁止」論と変わらない。繰り返すが、ぼくたちは欲望を禁止することはできない。その欲望が、いくら反社会的であったとしても。
しかし、ぼくは、後者の理由は強い説得力があると考える。むろん、ポルノをWinnyでダウンロードするだけであれば、金銭は動かない。しかし、その行為そのものが「虐待を経て作られたポルノ」への潜在的なニーズの表明になり、制作者の虐待意欲(?)を高めるという因果は十分に考えられる。この論理で行けば、児童ポルノの所持や購入は、道徳がどうとか、欲望がどうとかいうこととは無関係に、とりあえず暴力団やテロリストへの資金的援助と同列なので禁止するべきだ、という話になる。実際、いまアングラな児童ポルノを制作している連中が、かなり気合いのはいった犯罪集団であることは疑いない。ぼくは、これには(暴力団やテロリストへの資金的援助も認めないかぎり)反論が思いつかない。
したがって、ぼくは、児童ポルノの単純所持禁止に反対しない(なお、単純所持禁止が別件逮捕そのほかの口実になるかも、とかその手の心配があるのはよく知っているが、それはここで扱っているのとは別の話である)。
しかし、ここでひとつだけ疑問がある。
上記の論理で行くと、(1)制作時に児童虐待と無関係であり、(2)合法的に(つまりそれぞれの国の猥褻条項に抵触せずに)制作・販売され、(3)そのことが周知徹底されているので購入や鑑賞行為が虐待の支援になるとは(前述の強力効果説を使うことなしには)どうやっても言えない、そんな児童ポルノが存在するのであれば、それは制作しても消費してもまったく問題ない、という話になるのではないだろうか?
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というわけで、迂回が長かったけれど、上記のGIGAZINEの記事だ。
いまや実写とCGの区別は本当につかなくなっている。リンク先で紹介された画像は写真をベクターに起こしたもので、その点で現実との接点をまだ保っているといえるが、しかしそれはいかにも儚い。ぼくたちはすでに、現実に存在しない人間の映像を、あたかも写真のように無から作り出す技術を手に入れている。そして、それを動かすこともできる。
だとしたら、そのような技術で作り出され、「これはCGです」と明記され、制作会社も後ろ暗いところがなく資金が犯罪組織に流れたりもしていない、しかしどこからどう見ても現実の児童虐待にしか見えないようなポルノが現れたとして、それにはどのような態度を取るべきだろうか。たとえば、いまのAVと同じていどにモザイクやらボカシやらがかけられ(つまり猥褻については普通のポルノと同じレベルの配慮がなされ)、小学生の女の子のCGが現実の男優と絡み合っているような(むろん実際には男優はひとりで演技しているだけの)ビデオが販売されたとして、それにどう対応すべきだろうか。
ぼくの考えでは、そのようなポルノは、いまのAVと同じていどには容認するしかない。それがあるひとびとをどれほど不愉快にするか、ぼくもひとりの親として理解できるが、しかしそれでも容認するしかない。そのとき、「これは鑑賞者に対して実写と同等の効果をもつので、実写の児童ポルノとみなして禁止する」と言うことはできない。それは、鑑賞者の欲望に照準を合わせている点で、前述の論理からはみ出している。みたび強調するが、ぼくたちは欲望は裁けないのだ。
しかし、実際にはそう考えないひとが多いだろう。というか、そちらこそが多数派だろう。そして、おそらくそのとき、ぼくたちの社会は、欲望そのもののの禁止という方向に大きな一歩を踏み出すことになるだろう。それが法整備のかたちをとるのか、運用の変更というかたちをとるのかはわからないが。
もし、マンガやゲームの二次元児童ポルノまで規制されることがあるとすれば、それはそのあとのことになるはずだ。
ぼくたちはそのとき、欲望は禁止してはならない、とどれほど強く叫べるだろうか。それは表現の自由とはまったく異なる問題だ。ここにはとても厄介な問題が横たわっている。
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それにしても、さすがにこの内容の投稿は、ブログのトップ写真と合ってないですね。ご容赦を。
娘自慢のほんわかブログにしたかったのに……。
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