香 椎 宮

所在地 福岡市東区香椎
御祭神 仲哀天皇 神功皇后
御由緒 香椎宮の創建は仲哀天皇の御心霊を神功皇后躬つからお祀り遊ばされた(200)ことに由来しこれを古宮と申します 次いで神功皇后の宮は 元正天皇の養老7年(723)皇后の御神託により朝廷より九州に詔して社殿の造営を始められ聖武天皇の神龜元年(724)に竣工しこの雨宮を併せて香椎廟と称しています
香椎廟は天子の宗廟にして廟号を以って一般の神社と異なる御崇敬を捧げさせられ奈良平安このかた廟司以下610余人に及ぶ奉仕員また1200町歩を超える神領を賜り国家の大事に際しては必ず奉幣の勅使を差遣せられ現代に於いては10年毎に勅祭を齋行せられております
仲哀天皇8年(199)筑紫野橿日宮に座しまして天下治らしめ率先御精励のさなか御志なかばにして俄に崩御遊ばせれました
皇后は御遺志を継がれ神祇の教を被け御懐妊の身を以って躬から国内を平定せられ更に船団を率いて三韓御渡航の壮挙を果たされ初めて国際国家としての日本の地位を確立せられました
この御大業は正に神わざとして史上に輝き以後600年に亙って朝貢あり帰化あり交流盛んにして国運愈隆盛に赴きました 御子応神天皇は八幡神として遍く信仰を集め御孫仁徳天皇は世界最大の陵墓たる仁徳陵によって聖徳を偲ぶことができます
かの雄渾な土木技術を始め建築工藝縫織文教あらゆる文化の恩恵は全く当御祭神の赫々たる御神威に洲源しやがて絢爛たる日本文化の花が開かれていきます この国に生を享ける者の1日も忘れまじき御神徳であります


正面の鳥居 祭神銘 格式高い楼門

楼門の扉に彫られている御紋 綾杉 綾杉

正面階段の右にある鳥像 階段下から望む拝殿 拝殿

拝殿の奥の幣殿 左から拝殿、幣殿、神殿

香椎造りと云われる神殿、右面 香椎造りと云われる神殿、左面

摂 社 武内神社
御祭神 大臣武内宿禰
御由緒 大臣は孝元天皇の曾孫にして6朝の帝皇を輔け武勇英威萬世を覆ふ 殊に応神帝を襁褓(むつき)のうちに養育奉り異国本朝の強敵を征し帝業無窮の基を開き給ふ 其功勲四海に被り子孫長く大臣執政に位し凡そ88姓の祖神と仰がれ給ふ 神功応神の御廟にはいづれの社にも大臣を配祀し天子の宗廟と共に萬世に血食し給ふこと類希なる神徳なり 御年300餘歳と云へり 往古2月6日 11月6日の祭に大宰師国郡司を率て本営を拝して退出し更に大臣の殿に参入して再拝両段して退く と (香椎廟宮記)

武内神社案内標識 正面の鳥居 解説板

拝殿の正面 側面からみた神殿

摂 社 巻尾神社
御祭神 中臣鳥賊臣大連



末 社 稲荷神社と鶏石神社
左の稲荷神社は五穀豊穣商売繁盛の神として参拝客が多い。右は鶏石神社で、鶏を祀る日本唯一の神社で、子供の夜泣きなどに御利益がある。

稲荷神社(左)と鶏石神社(右) 鶏石神社の祠


末 社 早辻巻尾神社
御祭神 大伴武以



末 社 弁財天社
御祭神 弁財天



仲哀天皇訶志比宮址
帯中日子天皇(仲哀天皇)筑紫訶志比宮址治天下也 と古事記に記せる宮址にして天皇の8年正月21日(西暦199年)定都
仲哀天皇崩御の地
天皇は開闢以来の進取革新の内外政策を御実行されて居たが惜しくも9年2月6日(西暦200年)この宮にて崩御 御年52歳 御陵は大阪府藤井寺市 恵我長野西陵なり
仲哀天皇の大偉業
天皇の大偉業は実に偉大にして 其の一端が神功皇后の三韓征伐である この宮が策源地であったために大本営址として記念碑が建って居る 今日我国が世界の独立国として 平和にして文化国として雄飛し居るは 実に其の基を開かれた天皇の大偉業による 此故に此宮は平和にして文化国の発祥地なり
香椎廟址
祭神  仲哀天皇
創建  仲哀天皇の9年2月6日(西暦200年)
社挌  式外無位勲 国史現在社
由緒  仲哀天皇崩御されるや 直ちに天皇の神霊を訶志比宮に神功皇后鎮祭 明治以前天皇を祭神とせる神社皆無なり
 朝廷廟として特別の尊崇を捧げられる 奈良朝に大宰府の官人京より下る時先ず香椎に参詣し始めて入府す 春秋の大祭には帥国郡司を引連れ必ず参拝し宣命を奏するを例とせり

遷宮 養老7年2月6日(西暦723)神功皇后の神託により香椎廟に皇后を併祀する為朝廷新宮を創建し神亀元年12月(西暦724)遷宮す これ現在の香椎宮なり 古宮の名これより起る

橿日址への標識 古宮址入り口 入り口の扉

沙庭斎場
仲哀天皇の進取革新内外政策は 開闢以来の大偉業なりし為め 常に沙庭を樹て神教を乞請された聖地である 沙庭が国史に現れたのはこの地が最初である
棺 掛 椎
仲哀天皇の御遺業を完遂せんとし給ひ 神功皇后は天皇の喪を秘し 天皇の御棺をこの椎木に立て掛けられ 恰も天皇親臨の御前会議を開かれた この時御棺より薫香漂いたるにより 香椎の名起るものとの地名伝説もあり
摂社古宮大明神址
祭神  仲哀天皇
社格  香椎宮摂社
由緒  神亀元年12月20日(西暦724年)仲哀天皇神功皇后を併祀する香椎?とし 新宮に遷宮されてより年を経て何時しか(恐らく平安末鎌倉初期)香椎廟が普通神社の如く取扱われ祭神も神功皇后一柱せらるるに至り 仲哀天皇の御神霊を聖地に移し摂社として祭る 大正4年11月10日仲哀天皇を香椎宮に御加列になり又本宮に移し祭る 今旧宮地の玉垣のみ残れり

説明板 棺掛椎


訶志比宮址などの解説板 仲哀天皇大営本部御舊蹟 皇太子お手植えの樹と大営本部御舊蹟



皇后陛下 大正11年3月21日 香椎宮御参拝
御召艦摂津の砲身1門 茲に謹みて之を献す 佐世保鎮守府


楼門前の八頭身の狛犬 早辻神社方面に出る所の狛犬 シンガポールなどの護犬に似ている


武内宿禰の像
抱いているのは後の応神天皇
亀の池:大正11年貞明皇后御参拝の際
亀を放生された由緒ある池

神功皇后と扇塚縁起
日本古来の芸能文化に1本の扇の持つ役割りは偉大なものです
扇の祖と伝えられる香椎宮に発願し捧げます
私達 芸能を志すものの扇の位置は 日々修練の象徴です
茲に 永年手汗にまみれ入魂の情念こもる古扇子を 浄火終納塚として奉ります
更に斯道精進を祈り 併せて扇塚建立の縁起の辞とします
  昭和61年5月吉日
          博多民踊協会

扇塚 扇塚の裏面

勅使道
頓宮から本宮に至る約1kmの雄大な樟樹のトンネルの道で正に日本一の勅使道である 此の道は昔は神の道で神幸式にのみ使用したものであったが大正11年貞明皇后の御参拝記念事業の一端として整備 福岡県下の各種団体の苗木奉献によって今日の盛観を呈している

大正8年の彫がある鳥居
鳥居の座が車道にはみ出ており車は離合して通る
1km続いている樟樹のトンネル

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