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日々の雑感
管理人のホンネ 〜気が向いた時だけ更新します〜



2008/3/10      どうでもいいんじゃない

僕は人と会話して
「まあ いいじゃない」とか「そんなことどうでもいい」という類の捨て台詞は言わない。

本人にとっては深刻な話である場合もあり、「まぁいいんじゃない」という返答は、話してくれた相手に失礼だし、心に傷をつけることがあるからである。

自分が、心から悩んでいる問題を人に話した時「そんなことどうでもいいんじゃないの」などと言われるとカチン!と来る。しかも少なからず心にも傷がつく。

何かっていうと「いいんじゃない」「どうでもいいんじゃない」という言葉を連発する人がいるが、この手のタイプの人は、人と真正面から向かい合うことが出来ないケースが多い。

しかし、自分が悩んでいる問題は、人に真剣に聞いてもらいたいと思っている。
だからこの手の人に「どうでもいいんじゃない」とわざと言ってみると、ひどく怒られ、恨まれる。普段からこの手の「人の話の腰を折る」ようなことを平然とやっておきながら、自分が人にされると怒る、恨むでは筋が通らない。

勝手な人たちである。

すぐに、「どうでもいいんじゃない」を連呼しまくる人は、自分にウソと幼稚さが潜んでいる。

「どうでもいいんじゃない」を連呼する人は、実は自分自身に対しても常にそう語りかけているのである。嫌なこと、苦しいこと、辛いことがあり、真剣に考えないといけない状態になっているのに、自分自身に対しても「どうでもいいんじゃない」と言い聞かせて、問題から逃げることばかり考えている。

こんな人が人と真正面からしっかり向き合って対話できるはずもなく、夫婦仲が悪くなったり、友達から根本的に信頼されていなかったりし、ワイワイ騒いでいるように見えて、本質的には強い孤独感を味わっていることが多い。

生きるというのは、楽しいところもたくさんあるが、苦しいこともたくさんある。

この手の人たちは、苦しみとか、悲しむということがカッコ悪いとでも思っているのだろうか?

「どうでもいいんじゃない」と逃げまくっていると、結局人生そのものが「逃避行」みたいな感じになり、息苦しくなってしまう。

自分と共に、自分と握手しながら歩いていけるような人生の方がずっと楽しいし、充実したものに違いない。

「どうでもいいんじゃない」と「逃避行」する人は、基本的に心の安らぎがないし、楽しいことも楽しく感じられない麻痺した状態に陥っていることもある。

だから知らず知らずのうちに、いかに苦しいことから逃げるかがテーマになる。
自分自身の弱さや欠点を認めるというのは、やはり人生上で必要な作業だし、とても大変なことである。だからといって、安易に逃げた罰は結構手痛いものがある。




2008/3/7      親に対する憎しみ

自分の人生を不幸な方向に導き、そのまま15年以上も放置して、言い訳ばかりして逃げてきた両親(とりわけ父親)には、深い憎しみと嫌悪を抱いている。

あんな人間にだけはなりたくないという一心が、自分をここまで支えてきたのかもしれない。

今になって、59歳の父親とあらためてじっくり話してみると、父親という人間は、ものすごく消極的で極度の小心者。
何もしないうちから言い訳をし、うまくいった人や成功した人を妬んで妬んで生きてきた。

あらためて、ここまで自我の脆い人間だったのか?ということを知り、ショックを受けると同時に、こんないい加減な人間に父親稼業などされたものなら、子供がおかしくなるのは当然だと思うに至った。

この父親を反面教師にして、自分はここまでこれたような気がするが、父親のように弱いくせに、すぐに虚勢を張る人間を見ていると

「本当に持つべきブライドは全く持っていないのに、邪魔なプライドばかり持っている」ということに気付く。

妹は、「まぁそういうお父さんがいたから、お兄ちゃんもここまでこれたのでは?」とよく言うが、過去にされたことを思うと、素直に「そうやな」と首を縦に触れない複雑な心境がある。

このサイトや音楽を通じて、親にひどい育てられ方をした人とたくさん交流を持つことができるようになった。

もう彼らは僕より年上の人で、お父さんだったりお母さんだったりするが、彼らが一様に口をそろえて言うことは

「自分で子供を持ってみて分かったこと。それはよくも子供だった私にあんなひどいことができたものだ」という激しい怒りと驚きの感情であった。

親を恨んでいるほとんどの人は、実は強く恨んでいる背景に「本当は恨みたくない、できれば仲良くしたいという強い気持ちがある」僕だってそうである。

しかし、年をとって余計頑固になった親はますます貝のように心を閉ざしていく。

僕は親の年になったことがないから分からないので、年をとったら頑固になってしまうものかどうかは分からない。

ただ、33歳になった今、当時33歳だった親の脆さと弱さ、いい加減さにはあらためて驚くことがある。無責任に子供を作り、尊い命を翻弄するような軽薄なマネは慎んでもらいたいと思っている。

ただ、ここまで親を心底憎むことが出来たのは、結果としてよかったと思うことがある。
中途半端に感謝しようとしたり、和解したフリをしないで、徹底的に闘ったことで、僕は強くなったと思うし、親に傷つけられた、深い心の傷を修復しつつあるからである。

ダメな親を持つと、子はまともな親に育てられるより、何十倍も苦労するものである。

僕は多分、親がいなくなって、59歳になっても彼らを理解しようとはしていないだろうと思うし、今の父親のような人間になることは、命がけでも避けようとすることだろう。




2008/3/3      意地の効用。

「意地」という言葉を聞くと、なんとなく悪いイメージがある。
「意地悪い」「意地汚い」とは言うが、「意地がいい」とは言わないし、意地というと、何か他人から見たらどうでもいいことに必死にしがみついているような感覚がある。

しかし、意地が人を伸ばすこともあるということを、かかりつけの心療内科のお医者さんが話してくれた。

彼は、引きこもりの頃から世話になっており、お付き合いは20年くらいになる。
すると、患者と医者という関係を超えて、最近は結構個人的な話に花が咲くようになってきて、診察の時間が楽しくなってしまった。

個人の診療所のお医者さんだが、今まで知らなかったものの、30年ほど前に彼は、自分が出た大学病院で医師をしていたが、解雇されてしまったらしい。

なぜ解雇されたかと言えば、「患者を道具のように扱うのではなく、もっと心のこもった医療を!」という運動をしたため、えらいさんの逆鱗に触れ、クビにされてしまったらしいのである。

その後、彼は大学相手に裁判を起こし、一審で勝訴、二審で和解というコースをたどったらしい。
一見穏やかそうに見える彼だが、自分が学んだ大学に捨てられた悔しさから、意地でも他の医者よりいい医者になってやるという気持ちが、彼を支えたそうで

医者から見ても「意地にはそれなりの効用がある」という話をしてくれた。



そこで、そのお医者さんは「カトーさんは、ここまで決してくたばることなく、一生懸命頑張ることができたのには、どういう意地があったんでしょうね」と聞いてきた。

僕はこう答えた。

「僕は何も悪いことはしていなかったのに、両親から虐待され、同級生からはいじめられ、不登校や引きこもりになり、高校までやめてしまった。なのに、僕をいたぶってくれた奴らがのうのうと生きているのが許せない!!だから、ドブをはいずりまわってでも生きて見返してやる!」という意地があった。

それが今日までの自分を支えてくれた、力の原点かもしれない。

だから、僕は本気で死のうと思ったことはないし、自殺願望もなかった。

無神経でアホなバカタレが大手を振って道を歩き、バカタレにいたぶられた僕が小さくなっているのに我慢ならなかったからである。
ましてや、バカタレどもにやりたい放題させ、自殺するなんていうことは、まったくもって考えられない選択肢だった。

だから、人と同じことをしたくなかったのかもしれないし、人とは違う技術を身につけたいという方向に行ったのかもしれない。

みなさんにはそういう意地が自分を支えた部分はあるだろうか?




2008/3/2       無駄に恐れない

幼少期の頃から、僕は両親から、「世の中はいかに恐ろしいものかであることを徹底的に説教され、お前は人より劣っているから、より頑張らないといけない」というメッセージをしこたま受け取った。

今でも時々そのようなことを言うことがあるが、護身のために、激しく一喝して黙っていただくことにしている。

元々両親が、幼稚園に入った頃から、お前いかに劣っているか?ということを説き、物心ついた頃からは、いかにお前は人よりダメなのか?ということをひたすら言って聞かせようとしたものだが

そもそもこれらは、なんの根拠もないことである。

実際僕は、この年になって、人より特別劣っているとは全く思わないし、ダメだとも思わない。

しかし、世の中がお前にとって、いかに太刀打ちできないものかを懇々と説教された後遺症は、随分後年まで引きずったものである。

両親はなぜそのようなバカなことを、わが子にしたのだろうか?

答えは、「両親が自分たちは人より劣っているという激しいコンプレックスがあり、世の中は恐ろしいもので、自分たちには到底太刀打ちできないから、小さく縮こまっているしかない」という弱さを、子供である僕に投影していたのである。

実際父親は今でもそうだが、極度の小心者である。
彼が幼い頃、僕に常に言っていたことは「お前は気が小さい、情けない」ということばかりだった。褒められたことは一度もない。

母親も同様に極度の小心者で、人より激しく劣っているという劣等意識を持った人間だった。

だから、子供である僕に対して、「お前は劣っているから、人より頑張らないといけない」といびり続けた。

心理学では、抑圧(自分では認めたくないものを自分の心の中に封印する)すると、それは必ず投影される(相手がそうであるかのように錯覚する)という、公式がある。

たとえば、自分が小心者だというコンプレックスがあった場合、それを認めず「オレは気が大きい」と無理をすることによって、心の底に溜まったストレスは、近親者や子供に「気が小さい」と罵ることに向かっていく。

すると、なんの罪もない近親者は深い心の傷を背負うことになる。

実際、両親から「世の中は怖い、お前などに太刀打ちできない」と脅しをかけられたことによって、思春期、青年期にどれほど苦労したことか知れない。

世の中は恐ろしい。自分では太刀打ちできない。そんなメッセージは僕の心の奥深くに刻み込まれてしまった。

しかし、これは根も葉もない、幼稚な両親の「公害」の被害を受けたと解釈できた時、精神的にとても自由になれた気がした。

周囲を見渡せば、みんなそんなにすごい人ばかりではない。
そして自分が特別劣っているなどということもない。

今まで世の中を恐れて恐れて生きてきたが、無用の心配であるケースが多いことが分かった。

30歳を過ぎて、ようやく自分らしさを信じられるようになり、自由に生きてもいいし、なんでもかんでも恐れる必要なく、自由に楽しく生きていけばいいと思うようになった。

だから僕は、33歳をもうすぐ控えた今、両親のとったバカな行動が、この年になっても未だに理解できないし、したいとも思わない。




2008/2/29       利用する腹

いろんな人を見てきたが、「人を利用することしか頭にない人」がいる。
結構いる。

僕にはこの神経が理解できないのだが、好きだから、ウマが合いそうだから、感じがよさそうだからというような、人間としての好き嫌いは半ば排除した形で

「この人といるとお得だから」という理由で人とお付き合いをする人がいる。

僕は縁を切ったつもりでいるが(相手はどうか別として)、このサイト上でこの手のタイプに引っかかったことがある。
今はボチボチだが、このサイトは5年ほど前、毎日カウンターが600くらい回っていたことがある。最高で一日で2500まわったことがあった。

そんな僕に近づいてきたのは、ネットで金儲けがしたい人だった。
要するに「流行るサイトを作るノウハウが欲しかった」のである。ピアノを弾く人だったが、僕は流行るサイトの作り方なんてそもそも知らない。

好き好んで一生懸命つくり、人に見てもらおうと頑張っただけのことであり、当たり前のことをしただけでしかない。

それを知ると、その人は離れていってしまった。(どのサイトの管理人も当たり前のことを当たり前にしているだけだと思うが)

しかしその後もあちこちで、自分の得になりそうな人ばかり探し回っていたが、結局「お得な人」を確保できず、「お得な人からお得なものも得ることができないまま」あまりパッとしない人生を生きているようである。

人を利用する腹しかない人は、結局自分で自分の首を絞めていることに気が付いていないケースが多い。

人を利用して金儲けをたくらんだり、せこいことをしてみても、わずかなお金を短期間に得ることは出来ても、失うものがあまりにも多い。

極端に人を利用したがる人を 男2人、女1人知っているが、店がつぶれたり、自己破産したり、孤独になったりで、結局成功して幸せになっている人は1人もいない。

人間愛が激減し、人を自分の私利私欲を満たすために利用するような感覚が当たり前になってしまえば、生きていても人生もう終わりである。

人を利用し、搾取する人は、最終的に人の信頼を得ることが出来ず、孤独になってしまう。そして恨みの感情を溜め込んでいくものである。

自分の人生は、自分で責任を持って謳歌していく王道を忘れてはいけないと思った。
またこの手の利用したがるは、自分の腹を見抜かれることを最も嫌い、最も恐れる。

ならば、彼らに嫌われ、恐れられるように生きてみたいと思った。




2008/2/28        自信と強さ

ある本で読んだ話なんだが、とあるフランスの哲学者が、1960年代に日本を訪れた時と、21世紀の今、日本を訪れた時に、ひどくびっくりしたことが一つあったらしい。

それは技術の革新でもなければ、文化の反映でもなかった。
その人いわく

「1960年代と違って、今の日本人は歩く姿に自信と強さがなくなってしまったことが一番の驚きだった」そうである。

僕は高度経済成長期にはまだ生まれていなかったので、詳しい事情は知らないが、高度経済成長期に生きた人は、物質的に豊かになることが最も幸せになる道だという、国民一致の目標みたいなものを追いかけて生きていたのかもしれない。

しかし今の時代、どう生きていいか分からずすっかり弱りきった人間であふれかえっている。

昔の日本人に比べて、自信と強さがなくなった。。。というのは、あながちウソではないかもしれない。

しかしである。
意気揚々と暮らし、自信と強さを持って生きていた人たちの子供が今、自信を無くし弱っているのである。だから昔の人はえらくて強く、今の人はバカで弱いという理屈は成立しない。
意気揚々と暮らしていた彼らの子供たちは、ひょっとしたら、彼らの強引で短絡的な生き方に絶望して弱ったかもしれないからだ。

とはいえ、弱っている人ばかりではないのもまた日本。

我々の世代は、空威張りではなく、本物の強さと自信がもてるような日々を送りたいものである。
そうするには事欠かない情報が山のようになり、チャレンジ精神があり、失敗から学ぶ気概さえあれば昔よりなんでもできる時代になっていることは確実だし

社会からとがめられたり、世間一般という怪物に襲われる機会も少なくなった。
だから今は自由なのである。

この自由な社会の中で、弱って腐っているのはあまりにももったいない。

もう今の時代は「みんなと同じ」を追いかける時代ではなくなっている。
隣の人と同じことをしなければならない時代でもない。

我々は、そういったくだらない勢力と闘いながら、自由と充実した人生を手に入れることが出来るステージにあがっているのである。

僕はもっとハングリーに、もっとチャレンジングに生きてみたいと思っている。




2008/2/27        みんなのケツにくらいつく生き方は古い

時々、小学校の同級生の女から、いらぬ電話がかかってくることがある。

この女とは、同窓会の幹事をしたことがきっかけで、時々向こうから電話がかかってくることがあるが、話す内容と言えば、早く電話をきりたくなるくらい、ロクな話をしない。

僕が恋人と遠距離恋愛をしている話をすると

「そんなもん、さっさと結婚したらいいのに」だの「早く住めば」だの、余計な小言が多くてウンザリする。

そういう自分はどうかと思えば、相手をよく見もしないで半年ほど付き合った男と結婚し、ほどなくしてだんなと大もめにもめて、結局数年で離婚して戻ってきた。

「ああ〜30までに子供が2人は欲しいと思ってたのにぃ」などと言っていた。本当にバカである。

彼女を見ていると、相手を全く見ていない。

見ているものは「結婚している自分」と「お母さんになっている自分」である。
要するに相手が好きとか、自分の子供を育てたいという純粋な女性としての憧れや感情がどこかに飛んでいってしまっている。打算的なものの考え方がこびりついているような気がした。

結婚している自分、子供を持っている自分という肩書きが欲しい。

だから相手のことはよく見ないし、もめてもコミュニケーションをしっかりとろうとしないから、気がついたら大喧嘩になり、荷物をまとめて家に帰ってこなければならなくなる。

別れる原因になったのは、不妊だったと聞くが、だんなさんを「子供を製造する道具」くらいにしか考えていない彼女の対応に、だんなさんが激怒した模様。



もう今の時代、こういう「みんなと同じであればいいだろう」という「自分がない」人生は古いのである。
そういう時代は終わったと思っているし、この社会では自由にいろんなことができる権利が我々に与えられている以上、それを存分に堪能する生き方をした方が、僕はずっと幸せに生きられるような気がする。

この同級生と会話をしていると、みんなと同じでなければならないという強迫観念ばかりが先行し、自分らしさを忘れ、無気力無感動になってしまった人間の悲しい性を見るような想いがして気が沈む。

次回からは、電話をとらないようにしよう。
僕は、こんな人とくだらない時間を過ごしているほどヒマではない。

傲慢な言い方だが、本当にそう思っている。




2008/2/26         お金の話

ある極貧の人が、かつて僕にこう語ってくれたことがある。

「人間お金をもったらロクなことはない。自分もそうだったから」と。。

その話を聞いて、「お金を持つ=ロクなことがない」という発想自体が、彼を極貧にせしめたのではないかと思った。そして毎日お金の心配をし、お金のことでビクビクしながら生きている彼は、結局

お金を持っても持たなくてもロクなことがなかったのではないかと思う。

お金そのものに罪はなく、その人自身のお金に対する管理能力に問題があるのであって、その人自身がロクでもないだけの話である。

ある向きでは「お金のことについて考えたり、お金を儲けようとしているのは卑しいし、みっともない」という考え方がある。

それで満足に暮らしているならかまわないと思うが、生活するのに困るほど貧乏な状態でそういうことを言っている人を見ると、「負け犬の遠吠え」に聞こえることがある。

お金は上手に使い上手に運用し、上手に管理してこそ我々の生活を豊かにし、充実させてくれるという側面がある。

もちろんお金がすべてではないが、お金のことについて考えるのを避けたり、適当にあしらったり、上手に運用したり管理する術を学ぼうとしないで

「でも金持ちにだけはなりたい」という安易な発想から、ロト6や宝くじの中毒になっているようでは話にならないし、僕からすれば、こういうタイプの人は偽善的な臭いがしてならない。

中にはロト6や宝くじでお金持ちになり、好きなことができる生活を送り続ける猛者もいると聞くが、ある程度生活に困らないだけのお金を手にし、そして充実した人生を送っていくためには

一生懸命働くことプラス、お金に対する管理能力や、運用方法について真剣に勉強しないと、ほったらかしにしておいて勝手に身につくという甘いものではない。

ロト6や宝くじを買いまくっていながら、「金持ちは汚い」という人の大半は、資産運用や管理能力を磨こうなんてこれっぽっちも思っていない。

稼ぎ出す能力や知力、体力、そして稼いだお金を上手に使う運用能力と資産管理ができない状態で、ただ盲目的に「できるだけもっとたくさん欲しい」と考えているだけではうまくいかないことが多い。

僕は、お金に対する運用能力や資産管理については、ある程度教育機関でも、真剣にやってもらいたいと思っている。

ただ「無駄遣いするな!」一辺倒の馬鹿馬鹿しい説教をしているだけでは、お金に対する能力は磨かれない。

お金についてはやみくもに心配ばかりしていないで、今の時代はもっと真剣に考えた方がいいと思っている。

ある経営コンサルタントがクライエントに対して

「いくら欲しいですか?」という質問をすると、「できるだけたくさん欲しい」という答えが最も多かったそうである。

そしてその経営コンサルタントは

「こういう発想しか出来ない人は、望みどおりの金額を手にすることができない」とも言う。

確かにできるだけたくさん欲しい。。だけでは運用も管理もできない。
その域から脱し、何で稼ぎ、どう運用するか?という具体的な目標も定めることができない。

お金は汚いとか、持ったらロクなことがないなどと言っている人の元には、生活に必要な、最低限のお金さえ、集まらないことが多いものである。




2008/2/24      早いうちにぐちゃぐちゃになっててよかったかも?

不登校、引きこもり、パニック障害、無職、おおよそ順当な道からはずれた落ちこぼれ人生を送ってきて、ようやく一つの居場所にたどり着いたような自分だが

考えてみれば、比較的早期の段階で、激しく挫折したり、ひどく路頭に迷ったことは、よかったのではないかと思うようになった。

今の自分があり、今の自分がポジィティブに物事を考えられるようになり、実践力が身についてきたのも、結果的にこういった障害のおかげという部分がある。

それに、こういう障害をたくさん経験すると、自分の人生について真剣に考えないわけにはいかなくなり、適当に流していては生きていくことすらできないものだから、自分についてしっかり考え、どうすれば人生がよくなっていき、幸せな状態を手にすることができるか?

を学ぶことができたのは、いい機会だったと思う。

これが後20年、30年後にやってくるよりは、さっさとやってきて、若いうちに痛めつけられていた方がよかったと言える。

人生は時間との勝負という側面がある。

いつか。。。きっと。。。という想いだけで生きていれば、本当に年だけをとってしまうことがあるものだ。

僕が様々な障害で学んだことを、ものすごく簡単にまとめると

■元々人生というものは自分の思い通りならないから、努力する甲斐がある。
■自分自身から動こうとしない限り、永遠にいい状態になることはない
■障害や挫折というのは、結果的には成功するための一つの勉強材料に過ぎず、しっかり克服した暁には、天からは素晴らしいプレゼントが待っている。

というものであった。

こういう人生を送ってきたからこそ得られる楽しみがあり、素晴らしい境地がある。
それをもっと大切にすぺきだと思った。

「こんな大人にだけは絶対になりたくない」という気持ちを持ち、自己修養に励めたのも、若いうちから醜い大人から心ない罵声を浴びせられた結果とも言える。

年をとって挫折すると、実はこういう機会がなかなかない。

チクショーという気持ちが早期に芽生え

「お前らみたいな腐った大人になんか死んでもなるかい!」という強い信念が、自分をある意味、いい方向に導いてくれたことは確かである。

最近、今まで背負ってきた障害について、ほんの少し冷静に判断できる自分がいることを発見した次第である。





2008/2/23      折れにくい心

鳥かごのような狭い世界の中で、小山の大将を気取っているような、小心な御馬鹿さんは別として、広い世界の中で、この人生を楽しんで生きていこう。やりたいことをやろうと思えば、必ず失敗と挫折にぶち当たることになる。

その失敗から上手に学び、本物の強さを身につけたいと思うならば
「折れにくい心」を培っていくことがとても大切だと感じるようになった。

誰でも最初は一度や二度失敗すると、「もうだめかもしれない」「自分にはやっぱりできないよ」という悲観的な想いに支配されることがある。

しかし、失敗なんてそもそも存在しない。失敗は学習材料だと思えば、失敗にもならないという気持ちになってしまい、その勢いでトライし続けていれば、ちょっとやそっとのことでは動揺しなくなり、失敗することを当たり前のように受け止められるようになってくる。

そうすれば、はたから見ると「失敗している」ように見えても、実は本人は毎度のことと受け止め、必要以上に凹むことなく、いい学習の機会ととらえて、どんどん進歩していく。

僕が目指す人間像はこういうところである。

世の中には失敗が怖くて、自分だけの縄張りを作り、上にはからっきし弱いクセに、下にはえらっそうにし、やたらと子分を作っていきがっているみっともない人たちがいるが、そのようなタイプの人は失敗がものすごく怖いし、失敗を極度に嫌がるので、実のところあまりいろんなチャレンジをしない。

いわば口先だけの人であり、口先だけで生きているために、そういう人ほどいつも大きいことを言っている割りに実力がないため、いざという時に見栄を張って無茶をしてしまい、取り返しのつかない失敗をしてしまうことが多いものである。

僕はこういう人だけにはなりたくない。
10代の頃から今まで、こういう「みっともない大人」をたくさん見てきた。

彼らは社会的に成功しているわけでもないのに、さも自分はすごいかのように吹聴し、大した実力もないのに、自分はものすごい人であるかのように振舞う。
しかしその裏で、非常に傷つきやすく、人生に相対してのものの考え方がものすごく「甘く」自分勝手な都合のいいことばかり考えてくらしている。

こんな人に失敗から学習して成功するという概念は元々存在しない。
だからいつまで経っても同じところをぐるぐるまわっていることになる。

そして最後に「人生ってそんなもんだよ!」とすごんでくる。

もちろん、人生は彼らの言うような「そんなもん」ではない。

折れにくい心を養い、失敗から学習する心を持ち、何百回と失敗しているうちに、失敗から確実に学んで成功し、凹むことが少なくなれば、自分の望んでいるものを自分の近くに引き寄せることができる。

そうなれば夜明けが近く、成功は自分のものとなる。

僕はこれからの人生で、そのような境地を潜り抜けてきた人、そして潜り抜けようとしている人たちと多く接していきたいと思っている。

口先だけで実力なし。失敗が怖くて何もできない小心者の割りに態度のでかい小山の大将とはここで、決別宣言をしておこう。




2008/2/21       負け組み人生の典型的なパターン

20代の頃「ウェイン・ダイアー」という、アメリカの哲学者の本を愛読していたが、彼が言った言葉の中で、今でも頭に焼き付いて離れない言葉がある。

「それを成し遂げたいと思うならば、どんなことでもしてみる必要がある」

というものであった。
今でもこの言葉は僕の心の底に焼きついており、今日まで僕の人生を支えてきた言葉の一つである。

何かを成し遂げたい。

しかし、これをやるのはちょっと。あれもあまりやりたくない。気が乗らない。それはしなくてもいいと思う。。。というような、自分にとって都合の悪いことは避けて、自分に都合のいいことだけをやっているだけで、物事が自分の思うように行くとは思えない。

自分が目指した分野、憧れた世界で、本当に「何かが出来る人」になるためには、そのために必要なことはどんなことでもしていく必要がある。

最初のうちは意気揚々と夢を思い描き、「絶対こうなってみせる!」と鼻息荒く、意気込んで物事に取り組むものの、いつまでもその夢が実現できなかったり、夢が一向に自分の近くに寄ってこないまま、年をとっていく人は実に多い。

そういう人に共通しているのは、「それをするために必要なことはなんでもやってみせる」という実践力に欠けているからである。

オヤジの口癖で、何かうまくいかないことがあれば、こうすればいいという提案をしてみると

「そうはいってもなかなかなぁ」ということをよく言う。
結局負け組みに入る人はこういう人なのである。

全く何もしていないうちから、「そんなことはできない」「そうはいっても」なんて言っているようでは、一生自分が望む状態になれるはずがない。

少なくとも「そうはいってもなかなかなぁ」と愚痴をこぼすなら、せめてやれることは全部やった後に言ってもらいたいものだし、もしその時点でどうしてもうまくいかないことがあれば、解決策も比較的早い段階で出てくるものである。

意気込みだけはものすごく、しかし実行力が半人前以下、嫌いなことは一切しない。他力本願、こんな状態で何を目指そうが、何に憧れようが、何を夢見ようが、絶対に物事はいい方向に向くことはない。
そして、最後に「やっぱり難しいね」とあっさり諦める。世の中はこういう人であふれかえっている。


そんな状態で万が一、物事がいい方向に向いたとしても、土台がしっかりしていない泥沼に建ててしまった建築物よろしく、やがては地盤沈下で傾くことがあるだろう。

やりたいことをしていくうちに、やりたくないことにぶち当たることがある。
それをあえてやってみせる人が、やりたいことができるようになる人だとしみじみ思う昨今である。




2008/2/20       向き 不向き を洗い出す

人間は万能ではない。
やはりどんな人にも向き不向きというものがある。

Aという分野に徹底的に取り組んでも、ほとんどいい成績を収められなかったのに
Bという分野に徹底的に取り組んでみると、驚くような成績を収めることができた。

こんなことは結構ある。

たとえば事務関係の仕事は最高の精度でやれるのに、営業は全然だめという人がいたり、流れ作業がものすごく苦手なのに、営業をやるとものすごい成果を持って帰ってくる人がいたり

スポーツがテンデだめなのに、文章を書かせるとズバ抜けた才能の持ち主だったり、学校の成績がパッとしなかったのに、会社をやるとアッという間にトップに立つ人がいたり

人間には向き不向きというものが確実に存在している。

だから学校でいい成績を収め、いい学校を出たからといって、必ずしも大成するわけではないのは、世の中を見渡してみれば一目瞭然。

大人になった我々は、自分が何に向いていて、何に向いていないのか?何が得意で何が不得意なのか?そして、何がしたくて何がしたくないのか?を明確にしておくと、余計な苦痛はかなりの確立で避けることができる。

しかし、これをしない人が結構多いのもまた事実である。

自分が何に向いていて、何に向いていないのか?が分かっていない。要するに自分という一人の人間の特性が把握できていないと、結果的に頼るものは「世間一般の常識」ということになる。

すると、やりたくない仕事に従事し、いい結果が出せず、生活が苦しくなったり、生きていることが嫌になったりする。

こんなことは、自分の適性をしっかり把握しようとしていれば避けられることが多い。

大成功している人にしろ、小成功している人にしろ、目だった活躍はしていないものの、自分なりの人生を楽しんで生きている人というのは、大抵、自分の適性について把握しているものである。

ただ、この適性というものは、ある程度いろんなことにチャレンジしてみないと分からないことが多い。
単なる食わず嫌いで臆病な状態で、何にもチャレンジしないければ、得意なものも分からなければ、不得意なものも分からない。


自分は一体何に向いているのか?何をして生きていけばよくて、何がしたいのか?はたまたしたくないのか?は、最終的には様々なトライ&エラーの中から理解できるということを忘れないようにしたい。





2008/2/18       植えつけられた ■余計な■ 社会恐怖

僕の両親は、僕が小さい頃から

「世間は厳しいものだ」
「頑張らないとみんなに見捨てられる」
「お前なんて、どうせ大した価値がないから、余計頑張らないといけない」
「ボンヤリしていたら、こんな大変な目、あんな大変な目に遭う」

と脅され続けてきた。

親は僕を心配してのことだったと言っても、今もって僕は彼らのひどい対応を許していない。

心配であれば、ただ脅すだけではなく、もっとこうした方がいい。ああいう方法をとればよくなるという具体的なアドバイスがあってしかるべきなのだが、怪談話よろしく、ここに行けば化け物が出る。。といった風にただ脅すだけなのである。

そういう親の心配の仕方事態がおかしい。

自分の子を無条件に劣っていると決め付け、世間様より格下なんだから頑張れという発想から出た心配だから始末が悪く、これでは子供も健全に自信を持って成長していくことなんてできたものではない。

ある頃から僕は「社会」というものをものすごく恐れるようになった。
なんでも怖い。

進学も怖いし、就職も怖いし、友達も先生も怖い、道を歩く知らないオジサンですら怖い。
学校でする勉強も行事も全部ビクビクしながら取り組む人間になってしまった。

しかし32歳になって思うことは

「親が言っていたほど社会なんて怖いものではないし、もっと自由にプレイしてしかるべきものだったんだ」と思うようになった。

両親が言っていたように、みんなそんなに優れた存在でもないし、特別でもない。ましてや、僕が特別劣っていたなんていうのは、親の勝手な思い込みに過ぎない。

親が子供にしくじられせないように世間を必要以上に恐れさせ、自分たちに心配をかけず、自分たちの顔に泥を塗られなくてすむなら、脅すのが手っ取り早いという、なんとも安直な子育てとは言いがたいような言動や態度をとられ続けると

そういう育てられ方をした子供は、大人になっても必要以上に社会を恐れるようになり、失敗を恐れるようになり、何もできない人になってしまい、人生に喜びや価値を見出せなくなる。

こういう話をすると、子供を持っている安易な子育てをしている親から反発をくらうことがある。

「そんなこと言っても子供を育てるのは大変だ」と。。

しかし、安易な育てられ方をして、何十年も子供の人生を棒に振らせる罪深い行為が、子育てという名のもとに美化されるべきではない。悪いものは悪いのである。

実はよくよく話を聞いてみると、僕の両親二人ともが、祖父母に世間は厳しいと脅され続けて育ったらしい。心理的虐待の連鎖である。

こういう馬鹿馬鹿しい、百害あって一利なしの連鎖は、僕の代で終わりである。
親含め、先祖がしなかった仕事を僕がする。
あまりこういうことを言うのはよくないと思うが、両親の先祖はよほど頭の足りない人たちだったらしい。

こういった馬鹿馬鹿しい連鎖は僕の代で終わりにしようと心に決めている。どんな犠牲を払ってでもする価値のある仕事である。






2008/2/17      自分の送りたい人生を明確にする

分かっているようで分かっていない「こういう人生が送りたい」というプラン。

多くの人が、漠然と「こうなりたい」と思ってはいるものの、具体的にどうなりたいかというプランがハッキリしていないために、努力のしようがなく、結局思い描くだけで、実現しないまま終わってしまうことが多い。

こうなりたい、こういう人生が送りたいというプランは、具体的であればあるほどいいと思っている。なぜなら、そうした方が動きやすく、結果も出しやすいからだ。

適当に生きて、ぼんやり「なんとなくこうなればいいけど」と思っていると、具体的なプランがハッキリしてこないから、どうすればいいのか分からなくなり、動けないまま年を重ねてしまうことが多い。

1回しかない人生なんだから、これではもったいないと思う。

こういう人生が送りたいというプランは、まずは簡単なものから立ててみる。
三ヶ月〜一年くらいで達成できそうなもの。

そしてそれを達成するために、細かく目標をくだいていく。
一週間後、一ヶ月後どうなっていたいか?というレベルまで落としこんで、そこからはじめてみる。

一週間後や一ヶ月後なら、すぐに来てしまうので、勢いがついて頑張りがきく。

結局目標を達成する、望み通りの人生を手にするということは、こういうことの繰り返しでしかないんだなと思うようになった。

なんとなくいい加減に適当に生きていると、こういうものは絶対にハッキリしてこないので、僕はいつも紙とノートに

「一ヶ月後どうなっていたいか 50項目」
を書くようにしている。

また、正月に「一年後どうなっていたいか?50項目」を書いたが、これは今は見ないようにして、引き出しにしまってある。

大目標を達成したいならば、小目標をコツコツ達成していなかければならない。
いきなりデカイ目標をターゲットにすれば、何もしないうちから、やることの多さ、障害の多さにめいってしまい、挫折する。

それは多分、天才でも凡人でもあまり変わりがないような気がする。
多くの天才の伝記を読んでいると、やはり彼らも大目標を達成するために、小目標を徹底してクリアした人たちばかりだからである。

何がしたいのか分からない。
どうしたいのかがハッキリしないまま生きていくことは、僕として大変つまらない人生だと思っている。






2008/2/16     自己評価を高める生き方

自分に対する評価が低い人は、基本的に何をやっても満足できないし、自分に対して価値を見出すことができない。

完璧にできたとしても「まだ上がある」とりきんだり、ちょっとでも失敗すると「ああ〜自分にはもう人間としての価値はないんだ」というくらい大げさに悩む。

人がいくら自分のことを絶賛してくれたとしても、自分自身が不満足で納得がいっていない人生ならば、あまりにもつまらないし、もったいないことだと思う。

自己評価を高めるような生き方は、幸福な人生を歩んでいくには必要不可欠なものだと最近、強く感じるようになった。

自己評価を高めるとは、何も偉そうに人に振る舞い、虚栄心を張っていばり散らすことではない。
むしろそれとは全く逆で、誰とも戦わず、誰とも争い競争する必要がなくても、自分が自分であることを楽しめる境地のことである。

平たく言えば、自分のことが好き。。。ということであろうか?

僕のケースに限って言えば、幼少の頃からひどく自己評価が低く、何をやっても満足できない両親にいびられながら育ったクチである。

だから、何をしても「もっと上がある、こんなところでウカウカしていられない」とりきんだり、うまくいったことでも「こんなことくらい誰でもできるバカでもできる」と自分を評価しようとしないクセが身についていた時期があった。

周囲に自分のことをまともに評価せず、ゆがんだメガネのようなもので僕のことを見る人間があまりにも多かったため、僕は自分が自分であることをよしとせず、自分がどれだけ頑張っても、その頑張りに大して評価できない大人に成長してしまった。

それに気がついたのは、20歳の頃だった。

それからは、自己評価について勉強するようになり、自己評価を高めるためにはどうすればいいのか?日々いろんなことを考え、実践してきた。

しかし長年ついたクセは結構厄介なもので、今でも時々、自分に対して非現実的とも思えるような要求をしてしまうことがある。

だから時々、自分はこの人生の中でどんなことをしてきたのか?振り返るようにしている。
そうすれば、意外にいいことをたくさんしてきたと思えるし、自分にはすばらしい能力があるんだなと思える部分がたくさんあることに気付く。

いつもいつも自分の悪いところばかりに目を向けて、その欠点をつぶしまくることに躍起になっていれば、生きることが辛くなり、楽しい人生とは無縁の生き方をすることになる。


自分と握手する生き方をしてみたい。
今まで散々頑張ってきたんだから、しばらくは、もっともっと!と自分を追い込んでいくことは、しばらくやめてみようという心境になった。





2008/2/14     完璧主義者の苦悩 

ある研究結果によると、幼少期、親から自分を認めてもらえず、常に上を目指すように仕向けられた子供は、大人になっても完璧主義を目指し

その考え方を引きずってしまい、幸福感が感じられず、自分自身の人生を苦痛なものにゆがめてしまうケースが多いと聞く。

親から何をしても認められない幼少期を送ると、常に自分は完全で完璧でないと認められないという思考形態が身に染み付いてしまい、完全完璧でなければ、自分は無価値だというような感じ方をしてしまう。

僕も幼少期から今に至るまで、親はまともに自分に対して評価をしたことがほとんどない。
特に母親などはひどいもので、どんなに素晴らしいことをしても

「でも。。もっと○○できる方法が。。」だの「そのいい状態がずっと続くわけが。。」などと、何かにつけて難癖をつけてくる。

60歳になった母親の、ネソッとした陰湿な態度で息子を評価しない雰囲気を見ていると

「あ〜こんな人間に育てられたら、「そのまま育って」自分に価値など見出せるはずもないな」と思い、母親に猛烈な怒りがこみ上げてきたので、先日もひどく怒ってしまった。

こういう時には、こらえるより怒りをしっかり表現した方が、身のためだと思うから、あえて沸き起こった感情は抑え付けないようにしている。



「いい加減がいい加減」という言葉を聞いたことがある。

いい加減というと悪いイメージがあり、だらしない、適当という意味を持つ場合もあるが、ちょうどいい加減という意味合いもある。

ある程度うまくできれば、そこで自分に対して努力した分だけ、やった分だけ評価してあげることはとても大切なことなのである。

人間には欲がある。
だから完璧や完全というものを追い求めていけば際限がない。

他人が見て、本人がどんなにいい状態になっていようが、どんなに快適そうな環境にいようが、完璧をあくことなく求め続けていれば、客観的には幸せそうでも、本人は大変苦痛な人生を送っていたりすることがままある。

また幼少期から完全完璧を要求されて育ち、心理的に休まるヒマがないような毎日を送っていると、人のちょっとした忠告や、注意に対して過敏に反応してしまい

「オレのことを価値がないように罵った」
「オレのことをひどく傷つけた」などと、過剰反応してしまうことがある。

結果的に、完全完璧にできない苦悩、人から傷つけられたと思い込む苦痛に耐えながら生きることになってしまう。

こういう生き方、考え方は自分のためにも、どこかで修正しておく必要がある。
そもそも人間なんて完璧で完全な人など一人もいない。

自分にイビツな完全と完璧を要求した親などは、抜け穴だらけの不完全きわまりない人間であり、お世辞にも素晴らしい人だとは言えない。

そんな人間に完璧や完全を要求されたところで、所詮「たわごと」でしかないという事実に最近気が付くようになった。

親は子供のことが心配なのかもしれないが、子供を破滅に導くような余計な心配など百害あって一利なしである。

また事ある事につけて、いちいち難癖をつけてくる親から心と体を守るためにも、そういう親に動揺しない自分を育てるか?そういった難癖に対して怒りの感情を上手に表現できるようにしたいものである。





2008/2/12       待っていることの悲劇    

自分で動かないとチャンスは向こうからやってこない。
これが僕の人生経験上で得た教訓。

なんせ不登校になって高校を中退してからというもの、6年間誰からも電話の一本もなかったのだから、待っていてはどうにもならないことが身に染み付いてしまった。

最近では積極的にメールをしたり、近況をうかがったり、人と交流するようにしている。

自分から動き、自分から運の種をたくさん蒔いておき、そして自分からコンタクトをとるようにしていけば、余程悪質な人間と出会わない限り、いい感じで人生を発展させ、充実させることができる。

もし仮に悪質な人間に出会った場合は、失敗から得られる勉強として、次からはそういう人間を選ばないようにしていけば、次第にいい人にめぐり合い、いい感じで人生を発展させることができる。

運がない、ツキがない、チャンスがないと嘆く人は、人にしてもらうことばかり要求し、自分から積極的に動こうとしない人である場合が多い。

幸いにして、自分から何もしなくてもいろんなチャンスが転がり込んできたり、いい人に恵まれる人もいることにはいるが、そうではない種類の自分のような人間は、積極的に動いた方が、チャンスや運、はたまた「いい偶然」も自分に引き寄せることができる。

待つだけの人生は苦しいことが多い。

何かしてもらう、いい状態に持っていってもらう、いい人を紹介してもらうなどなど。。人にしてもらうことばかりを要求している状態では、人に対する不満ばかりがつのってしまい、結果的に充実した人生を歩むことが難しくなる。

まだネットで物を買ったり、人と会ったりすることが「危険」とされていた時代に、あえて孤立した環境から抜け出したい一心で、ピアノオフ会を開催してみた。

多分誰もこないだろうと思っていたら、当時全然知らなかった人がたくさん来てくれ、その後も回を重ねるごとに、参加してくださる人が増え、その中で、もう7年以上も親しくさせていただている人が何人もいる。

もしあのオフ会をせず、誰か自分をいい場所に連れて行ってくれないかなぁと待ってばかりいたら、今の自分はいなかった。



あなたがもし、待っているタイプの人だったとしよう。

すると思わぬ人から贈り物が届いたり、嬉しい手紙が届いたとする。
それが自分の好きな人だったら、とても嬉しいはず。

あなたが待っている間に、彼ら彼女らは、自分のために動いてくれたのである。
だから、待っているタイプで不満が多い人は、恥をかくのは承知の上で自分からも動いてみることをおすすめする。

あなたに素敵なプレゼントや贈り物、心温まる手紙を送ってくれた主は、少なくとも失敗するリスクを犯したかもしれない状況で自分から動いた人たちなのである。

彼ら彼女らには見習うべき点がたくさんあると思っている。





2008/2/11       親から受ける心理的虐待の連鎖       

幼少の頃から心理的虐待、肉体的虐待を受けて育ち、その後の人生に障害を持ち、随分と苦労させられたものだが、最近になって、同じような苦しみを持った人たちと、交流することが多くなった。

元々はピアノつながりだった人たちばかりだが、彼らは幼少期から心理的、肉体的に親から虐待され、その後の人生に障害を負ったり、困難な状況に陥ったにもかかわらず、それを克服した、あるいは癒すことが出来たという話を聞くのは、自分としてはとても心強い。

一人は30代の男性。
男のお子さんが一人おられる。

もう一人は、40代前半の女性。
こちらも男の子のお子さんが一人。

このお二人に共通していたことは

「自分で子供を持ち、人の親になってはじめて、自分の親が自分にしたことがいまだに理解できず、信じられない」ということを仰せだった。

世間で虐待を受けた事実を話すと、大抵こういう答えが返ってくる。

「子供を持ったらお前も分かる」と。。

しかし、子供を持って、なおさら親のしたことが理解できないという先輩がいるのは、自分としては本当に心強く思う。

何も考えず、適当に生きている「人の親」に限って、僕が親との関係を話すと
「あんたには分からない、子供を育てることは大変だ」などと言う。

しかし心理的、肉体的虐待を受けると、その後の人生に様々な影響を及ぼし、酷い場合は生きていくことが困難になることすらある。

親の勝手、未熟さ、怠惰で、子供がストレスのはけ口にされ、まるでサンドバックのように殴られ、ごみ箱のように愚痴を言われ続けるのにじっと耐えるのは、大変苦しく辛いものである。

自分もようやく長い年月をかけて、親から受けた虐待に対する心の傷から癒されはじめたなと感じることがある。
まだまだの段階だが、ゆっくり時間をかけて癒していきたいと思っている。

★参考文献
毒なるになる親 (本当にいい本です)





2008/2/9       自己無価値感からの解放      

僕は幼少の頃から、ずっと両親に

「ダメな奴」「ドンくさい」「気が小さい」「情けない」などという、陰湿な小言を言われ続けていた。

昨今心理学を勉強し、はっきりと分かったことは、僕は生まれつき
「ダメな奴」「ドンくさい奴」「気が小さい奴」「情けない奴」ではなかったということである。

それは、親が僕に対して勝手に貼った、最悪のレッテルであった。

じゃあなぜそのようなレッテルを僕に貼り、いびったり虐待したりしたのか?

答えは両親自身が
「ダメな奴」「ドンくさい奴」「気が小さい奴」「情けない奴」であったからである。
それを自分で認めるのは辛い。だから子供に「投影」することによって、自分の欠点から目をそらしていたのである。

こういう行いは、幼稚で未熟なクセに、イッチョウ前を気取るバカな大人がよくとる行動である。

たとえば、自分には気が小さいというコンプレックスがあったとする。
しかしそれを自分自身で認めるのは、あまりにも辛い。

すると自分より立場が弱く、思い通りに操縦できる子供に対して、気が小さいといびることで、親自身の心の問題から目を背けているのである。

しかし、こんな心理的虐待を受けた子供はその後どうなってしまうのだろうか?

僕自身の経験から言えば、幼少の頃から言葉の暴力にさらされ続けた結果、学校でもいじめられ、成績もよくなく、何をやってもダメな子になってしまった。

子供である僕に責任はない。悪いのはすべて両親の恥ずかしくて未熟な行いのせいだったということができる。

父親は僕が「気が小さい」ということでよく、何時間もいびったりすることがあった。
しかし、今から考えると、父親はひどく小心者で、いつもビクビクして生きているような、情けない男だった。

最近になって、父親にその件について話をしたことがある。

私「オヤジは小さい頃、しきりにオレに対して、「気が小さい」と罵ったけど、むしろ大人のあんたの方が気が小さく、そのことにひどくコンプレックスを感じていたのではないか?これはバカにしないから、正直に答えて欲しい」

というと

父親は「そうやったと思う」と寂しそうにポツリと答えた。



こういうゆがんだ形で、勝手きままなレッテルを貼られてしまい、人生がおかしくなった人は実に多い。

僕も長年、自分にはなんの価値もないし、自信もない。とひたすら自己卑下するような態度を取り続けるようになった。

この悪しき自分に対する接し方をあらためるには、長い年月がかかったものである。

自分の問題は自分の問題として責任を負い、また解決するというのは、大人として当然のことである。
それを立場の弱い子供に押し付けるのはもってのほかである。

自分の弱さを認める強さを養っていかない限り、自分より弱い立場の人が被害をこうむる。
僕もこれは心しておこうと肝に銘じている。





2008/2/7      自分をだますのは、最大の罪

縁を切った従兄弟がいる。

このコラムにも何度か書いた人物だが、彼は高校に進学してから非行に走り、高校を追い出されるように退学させられ、その後職を転々としていた。

そして「飲む、打つ、買う」のすべてをやりながらも、自分の人生に全く満足できない様子で、最後はパチンコとサラ金を往復し、自己破産し、家にいづらくなり、某宗教団体のお世話になることになった。

彼のそれまでの口癖は

「オレの生きがいは、女をモノにする」だの、「やったらそれでおしまい」だのという、刹那的で女を傷つけるような、非常に醜い生き方をしていた。

それが自己破産し、某宗教団体のお世話になるようになってからというもの

「人にはやっぱり感謝せなあかん」だとか「お前も親孝行して!」などという、押し付けがましい説教するために、しつこく電話をかけてくるようになった。

なにをかいわんや。。である。

それまで女をおもちゃにするような生き方をしていた人間がよくぞそんなことが言えたものだと思ったし、一発で自分にウソをついていることが手にとるようにわかった。

彼はその宗教団体でお世話になった以上、その宗教団体の教えに従わない限り、放り出される。
だから無理して、奇麗事の教えを自分を「だます」かたちで信じ込ませようとしたものの、それではあまりにも心が苦しいので

「共犯者」を作る必要があった。
同じように偽善ぶってくれる人が欲しかったのである。

そのターゲットにされたのが、当時無職で闘病中の、社会的には弱い立場の僕だったというわけである。



宗教にしろ、家族にしろ、どんな団体にしろ、そこに属すためには、その団体の戒律にある程度は従う必要がある。
しかし、自分をだましてまで本気で信じようとしている時点で、その団体の戒律は、単なる害になる。

僕は常々思っていることだが

「自分をだますことは人をだますことよりも、長い視点から見ればはるかに罪深いものだ」と思っている。

もちろん他人をだますことはよくないしやってはいけない。
しかしその前に自分自身をだますことはもっとよくないし、自分をだましたことで自分が受ける心のダメージや圧迫感というものは、相当きついストレスとなり、生きていくのが苦しくなる。


自分のコンプレックスから逃れたいために、自分をだまして優れた人間よそおってみたり、自分の頭の悪さや学歴の低さから来るコンプレックスから、元々教養なんてないのに、無理して難しい単語の羅列で人を煙に巻いたり、自分に自信がなく、異性に対してひどいコンプレックスを持っており、異性に愛される自信がないのに、無理して異性をはべらそうとしたり。

こういう自分をだます行為は、自分にとって最大の罪だと思う。
一瞬の快楽や、偽りの幸福感を味わえるかもしれないが、長い視点でみればこの手の人はずっと不幸なまんまの人生を送り、心の底から自分が自分であることを喜べず、常に心の中は戦々恐々としているものである。

また自分をだまし、あざむいたことにより、人に共犯者になってもらう
「おしつけがましい説教や能書き」もこの手の人には多い。

そしてそれに従わない場合、極端になると暴力や犯罪行為にうってでても、言うことを聞かそうとする。
病んだ親子関係など、その最たるものである。

自分をだますと、人にも迷惑がかかる。
自分だって苦しい。

でもなぜそんなことをするのか?
多分、人は自分自信に素直になるには、強さが必要だからだと言える。
その強さを養い、弱い部分を認める柔軟さがない限り、自分をだましている人は、人をもだまし、永遠に報われることはないと思う。