最近の世の中のを雰囲気をみていて、うまく、はっきりとは書けないが、何となく、物事の軽重という事がおろそかになって来ている気がする。
簡単に言えば、重要な事と重要でない事が一緒くたにされている。何が重要で、何はそれほど重要ではないか、という事があまり考えられない世の中になって来ているのではないだろうか。
この所、世の中はあらゆる事について、厳罰化の流れにある。私は、厳罰化の流れそのものに反対という事はない。例えば、少年法をきつくする事は今の日本を見る限り賛成だ。(今の日本をと言うところが大事で、いつの時代でも少年法をきつくする事が良いとは思ってない。)飲酒運転についての厳罰化も今の日本を見る限り、賛成だ。また、セクハラなどについて、これまで許されてきた事が許されなくなって来ている、という事も良い風潮だと個人的に思う。つまり、悪い事は悪い、という世の中になり、そして、悪い事は一回でも悪い事であり、それはその人の地位や実績や日ごろの人格に関係なく悪い事なのだ、という感じになって来ている。この事、そのものは良いことだという感じはしている。
が、それはそれとして、しかし、世の中がとても清潔で不正を許さない、良い感じになって来たという感じかというと、そうでもない。うまく書けなくてもどかしいが、表面的、建前的にとても厳しい世の中になって来ているだけで、実質的に日本人や日本の世の中が道徳的になって来たり、民心がとても成熟して来た結果、世の中が不正を許さなくなって来たのではない感じがする。この私の覚える違和感はなんなのだろうか?
極論すれば、人を追い落とすために、つまり、これまで真面目にやってきて地位を築いて来た人でも、一回の「間違い」で、社会から葬られるという雰囲気になって来ているのではないかという事を感じる。勿論、私は飲酒運転もセクハラも絶対に許されないと思っているし、犯罪行為や迷惑行為について、世の中が厳しくなる事は良いことだとの基本的な考えをもってはいる。
しかし、その事とは別に、物事には、全体的に総合的に判断しなければならない事が多いのに、そういう事が考えられなくなって来ているのではないかという気する。飲酒運転やセクハラなど、誰がどうみても憎むべき事を例に出したので、この文章に説得力がなくなっているのだが、私が言いたいのは、大きな仕事をしている人が小さな事で、一瞬で失脚させられる世の中になって来ている事への疑問だ。
小泉前首相は、国債発行高が公約の範囲を超えたときに、野党に攻められ、「この程度の公約が守られない事は対した事ではない」と開き直った。世間は批判したが、私は、実は、なかなか良いことを言うと思った。小泉政治の是非はひとまず、ここではおくとして、小泉氏がしようと思っていた事の「大きさ」に対して、今、なされている批判がより「小さい」ものだと小泉氏は判断したからだろう。これが、あらゆる公約は絶対に、守られるべきであって、どんな事でも一つでも守れなくなれば、首相は即退陣、と法律で決まっていたら、首相は、より「大きな」事に取り組むことが出来なくなる。
今回の松岡前農相の自殺を聞いて、私は、松岡氏に同情した。自殺されるくらいなら辞任された方が良かったのにと残念だ。事務所の光熱費問題は、確かにどうでも良い問題、ではないだろう。政治とカネは重要な問題だ。しかし、そこまで「大きな」問題だったのだろうか?これは分らないが、私は、そこまでとは思わなかった。しかも過去の事である。
松岡氏が本来国会や国民に問われるべきは、事務所の高熱水費の問題よりも、農林水産大臣として、どれだけ国に尽くしているか、農政を発展させているかであったと思う。そっちの方が大事だ。勿論、周辺にカネや女性で疑惑がある人は、どれほど、本業で能力があり、国家・国民に尽くしている人でも、そもそも公職や重職には就くべきではないという意見もあるだろう。
しかし、松岡氏を批判した国民やマスコミが一体どのくらい、松岡氏の本業での、つまり農林水産大臣としての実績や仕事ぶりもみた上で、総合的に批判しただろうか?要するに、少しでも悪いヤツは全部悪いという単純な思考で松岡氏を批判したように思う。こういう風潮がこれ以上続くと、物事の軽重という事が全然考えられない、軽薄かつ恐ろしい世の中が来ると思う。
松岡氏がもっと倣岸不遜な政治家か、小泉氏のような性格の人なら「もう、終わった事ですよ。この程度の事は大した事ではないんですよ。確かに悪い部分は悪かったです。そこは済みません。しかし、私の農相としての方の仕事もみてくださいよ。私が農相を辞める事は、日本の農政にとって損失だという自負心があるから、職にとどまっているのです」くらい言ったかも知れない。しかし、生真面目な方だったのと、そんな力がなかったからか、さらし者にされ、命を絶たれた。やはり現実に抗する力がなかったのが大きいかったのかと同情する。命まで絶たれるなら、本当に辞任されたら良かったと重ねて思う。
昔の日本は、というか、ほんの少し前までの日本は物事をまだ重層的、複眼的にみる感じがあった。そして、物事には軽重があるという事が分っていた人がいた。人の評価にしても、政策論議にしても、まだいろんな要素から考えられた。要素には「角度」というモノをみる方向と共に「軽重」という深さ、浅さというものがある。だから、全部悪い人や全部良い人などというのはいなくて、また、一回の失敗でその人が全部否定される事もそうはなかったように思う。そもそも見識というのは、何が重くて、何が軽いかの判断する力だ。
今は、世の中が煮詰まって、みな余裕がなく、せせこましくなって、自分が生きることが先決になっているせいか、物事の軽重まで考えが至らず、悪い事のレベルが高いか低いかが問題にされくなっている。私は善にも悪にも高低があり、また、物事には軽重があると思う。今の風潮はずっと続くのかもしれない。しかし、軽重がおろそかにされる社会は国民も政治家も見識の低い社会のように思う。