潮溜り

サンテックスと
そのゆかりある人々が生きた時代

hair line

Nathalie Paley
透き通った肌を持つ女

logo

hair line

 サンテックスと「親密な関係」を持った女性は数えきれませんし、当然、そのすべてが知られているわけではありません。たとえば、彼がブエノスアイレス滞在中、殆ど日替わりと言って良い状態で部屋へ引っ張り込んでいた若い女性達の名前は、一人として知られてはおりません。パリやニューヨークでも事情は同じで、彼の愛人/情人として知られているのは、それなりに地位・名声を得て顔と名前を知られている女性ばかりです。(逆に、有名人であればすぐ噂の種になってしまうようで、たった一度の出逢いしかなかったアン・モロー・リンドバーグも、彼の愛人の一人として名を残すことになってしまいました。)
 そんな中にあって、あまり名を知られていませんが、マヌカン(ファッションモデル)/女優であったナタリー・パリーは、(サンテックスにとっては)重要な“オンナ”であったと思われます。【一方、ナタリーにとってサンテックスは、「通り過ぎていった男達の一人」に過ぎず、それほど重要な地位を占めてはいないようです。】

hair line

logo
NATALIE PALEY Une Princesse Déchirré.
filipacchi 社, 1996
logo
NATALIE PALEY Princesse en exil.
Bartillat 社, 2005
ナタリー・パリィ
引き裂かれた王女/流謫の王女
2冊とも著者は同じ Jean-Noël Liaut。内容も基本的に同じ。


 “Paley”は様々に発音・表記されます:「パリィ」「パーリィ」「パーリー」「パレ」「パレイ」「パーレイ」「ペイリィ」「ペイリー」
 もともとのロシア語表記は“Наτаля Павловна Палей”なので、日本語表記では「ナターリャ・パヴローヴナ・パリェイ」あたりが最も近いものになろうかと思われます。


 父パーヴェル大公は、ロシア皇帝アレクサンドル2世の第6皇子。母オリガは身分が低かったので、その結婚は皇帝の許しを得られず、ロシアを追われて国外に出ることになりました。1904年にオリガが、ホーエンフェルゼン伯爵夫人の称号をバイエルン王国から与えられました。そのため、1905年12月5日にパリで誕生したナタリーは、ナターリア・パヴロヴナ・ホーエンフェルゼン伯爵令嬢(Natalia Pavlovna Hohenfelsen)を名乗ることとなったのです。
 パーヴェル大公夫妻は、ロシアに帰国が適います。ニコライ2世からオリガと三人の子*に対して改めてパーリィ公爵の称号と殿下の敬称が与えられ(1915年)、ナタリーは、ナターリア・パヴロヴナ・パーリィ公爵令嬢(Natalia Pavlovna Paley)を名乗ることとなりました。

*  ナタリーには兄ウラジーミルと姉イリーナがいた。ラスプーチン暗殺の実行犯として知られるドミトリー・パヴロヴィチ大公 (Grand Duke Dmitri Pavlovich Romanov) やマリア・パヴロヴナ大公女 ( Grand Duchess Maria Pavlovna) とは異母兄姉にあたる。

 第一次世界大戦が起き、1917年にロシア革命(二月革命・十月革命)が勃発。ソビエト政権によって、ニコライ2世皇帝一家や父パーヴェル大公、兄ウラジーミル・パーリィらロマノフ家の一族が殺害されました。母オリガ・姉のイリーナとナタリーは、辛くも**ボリシェヴィキの手を逃れ、1920年フィンランド経由でフランスに亡命。フランスに逃れたナタリーは、ナタリー・パレを名乗ることになります。

**  暴露本でない限り、本人の名誉にならないことをあからさまに書くことは憚られる。しかし、知り得たことは書き残さねばならない。そのため(外交文書と同様に)、伝記には微妙な筆法がある。更に、作家毎の個性的な筆致があり、紙背を読む能力が要求される。
 1917年、十月革命によってロマノフ王朝は滅亡した。そのとき、ナタリーを含むパーリィ侯爵家の女達の命運について、多くの書物は「辛くも脱出した」といった類の表現をしている。しかしこれは、母娘が「無傷」で虎口を脱したことを意味しない。事実は、ボルシェビキという名のトラの牙にしっかりと捉えられていたのだ。
 男達(父親のパーヴェル大公や兄ウラジーミル・パーリィ)は殺され、女達は(命は助かったものの)暴漢達に弄ばれる運命にあった。13歳のナターシャ(ナタリー)も、レイプの嵐に見舞われることとなったのである。(eg ; http://forum.alexanderpalace.org/index.php/topic,672.15.html)

 ナタリーはオートクチュールを営むファッションデザイナー、ルシアン・カミーユ・ルロン Lucien C. Lelong が経営する店の香水部門で販売員として務めていましたが、1927年8月10日に彼と結婚します。

 1932年、ジャン・コクトー Jean Cocteau と関係を持ち、懐妊しました(男色で有名なコクトーは、多くの女性遍歴でも名を残す両刀遣いでもありました。コクトーがどんなにナタリーに夢中になったかは、妊娠させてしまったことでも窺い知れましょう。彼はナタリーのことを「輝くシャンデリアを必要とする驚くべき植物だ」と評しています)。この妊娠は、コクトーによって(一説には、彼の恋人であった Marie-Laure de Noailles の差し金によって)中絶を余儀なくされます。ナタリー27歳のことでした。

 コクトーは、サンテックスが焦がれ続けて思いを果たせなかったルイーズ・ド・ヴィルモランとも関係を持った。

 ルロンとの破局・別居後もしばらくの間、彼のクチュールでファッションモデルとして働いていました。(戸籍上続いていた夫婦関係は、1937年、彼女が再婚を決意したことによって正式に幕を閉じます。)

 1933年、ナタリーはアメリカのハリウッドに移り、キャサリン・ヘプバーンらアメリカ映画界のスターたちと親密な交友を結びます。映画女優となり(たとえば、1935年、ジョージ・キューカー George Cukor 監督・キャサリン・ヘップバーン Katharine Hepburn 主演の“Sylvia Scarlett”に出演)1936年にフランスへ一時帰国します。

 映画界でまずまずの成功を収めた後、映画界を引退し、1937年9月8日、ニューヨークで劇場プロデューサーのジョン・チャップマン・ウィルソン John Chapman Wilson と再婚しました。結婚後は高級ファッションデザイナーである Main Rousseau Bocher の広報部で(しばしばファションモデルをも務め)長年働いています。

 サンテックスとの情事がいつ頃のことであったか、正確な時期はもちろん判然とはしません。しかし、ホテル・ウインザー(カナダ)滞在中に、ホテルの便箋を使って彼女に宛てた手紙数通が残っており、二人の関係が(1941年初頭、サンテクスのアメリカ亡命以降)少なくとも1942年4月以前に始まっていたことは確実です。ナタリー36歳前後のことになります。
 ロシア系の女性には目も覚めるような美女が少なくありませんが、「透き通った肌を持つ」ナタリーは、ED に悩まされていたサンテックスにとっても特別な存在であったようです。

 1981年12月27日、ナタリーはニューヨークで死去、ニュージャージー州の長老派教会に埋葬されました。

hair line

 随分しつこく Le Petit Prince を読んでいるつもりですが、ナタリーの匂いをかぎつけることが出来ません。彼女への個別のメッセージが含まれていないとすれば、ナタリーは「5千のバラ」のひとつになってしまいます。「それでよいのだろうか?」という思いを拭いきれません。どのような別れをしたのか、気になります。 【それとも、彼にとってのナタリーは、私の解釈とは別の人物(たとえば、“たった三枚の花びらしか持たない simple な砂漠の花”あるいはまた、最後から三つ目の挿絵、砂丘のさなかに王子の傍らでひっそりとたたずむ“花びら七枚の花”)だったの でしょうか . . . . . . 。】

hair line

トップページに戻る
総目次に戻る