「原爆研究」京大に日誌──大戦中、旧海軍が支援2008/03/17配信
第2次大戦中、旧海軍から原爆開発を命じられた旧京都帝大(現京都大)の荒勝文策教授が造っていた円形加速器「サイクロトロン」の詳細な建造に関する日誌が、京大化学研究所(京都府宇治市)に現存していることが分かった。加速器は原子核の基礎実験を主目的としながらも、海軍が建造を積極支援するなど原爆研究の一環だったことを裏づける記述があり、日本の原爆研究史をひもとく貴重
京都帝大の加速器は終戦直後、GHQ(連合国軍総司令部)が「原爆開発につながる」として理化学研究所や大阪帝大の3基とともに一斉に破壊。設計図など関係文書の大半がGHQに接収され、建造経緯はほとんど分かっていなかった。 日誌は「京大サイクロトロンの生立」と題し、荒勝教授の部下の木村毅一助教授(後に教授)が大学ノート約30ページにわたり記録。建造大詰めの1944年11月から破壊直前の45年11月中旬まで、作業内容や協力企業の名前などが克明に記されている。 この中では京都帝大が海軍から受けた原爆研究「F研究」を巡り、45年2月中旬に「艦本(海軍艦政本部)ト打合ワセ」とあり、これまでに分かっている2回の公式会合以外に京都帝大と海軍が情報交換していた事実が判明した。 また戦争末期の物資不足で加速器の資材集めが難航。艦政本部や海軍監督官事務所(大阪)に特別配給を依頼したことも書かれ、海軍が原爆研究の一環として加速器建造を支援したことが明らかになった。 ノートはGHQによる接収の際、木村助教授がひそかに残したとみられる。京大化研の後任教授らの手を経て岩下芳久・准教授が保管していた。 荒勝教授は戦前、理化学研究所の仁科芳雄氏と並び日本の原子核研究の第一人者とされ、42年ごろに加速器造りに着手。43年に海軍から原爆研究を命じられると、加速器計画もそれに組み込まれたが、海軍の支援内容は不明だった。
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