P-38 と F-4, F-5

logo

hair line

 

 サンテックス最期の乗機を P38 (ロッキード P-38 ライトニング)と呼ぶ人が跡を絶ちません。「戦闘機に乗って」だの、「武装を降ろして」だのと、「サンテックスの研究者」を自称する人でさえ、このていたらくです。
 P38 の武装を降ろしてカメラを積めば写真偵察機になると考えているのではないかと思わざるを得ない人が、いっぱいいます。とんでもない話。(戦時の緊急時には多用される方策ですが)ゼロからの出発に較べればずっと手間が省けますから、P38 を基本モデルとして「設計変更」をしました。設計図を引き直して製造ラインに乗り、「偵察機」完成品として工場出荷されます。重量バランストリムや操縦席のコントローラー/スイッチ類等が異なり、撮影用の窓も必要ですから、現地の部隊で戦闘機を偵察機に改造できるようなものではないのです。
 外形がどんなに似ていようと、P38 は戦闘機であって、サンテックスが乗った偵察機 F4/F5 とは別物です。ふたつを混同するようでは、前線におけるサンテックスの役割や参戦の客観的意味を、理解できているとは言えません。せめてサンテックスファンの方々には正確なことを知っていただきたいと思い、新たにページを起こしました。

 


戦闘機・偵察機

戦 闘 機
 空中戦が個人技であり、撃墜王*がもて囃された時代があったものですから、軍用機の花形として戦闘機搭乗を希望する操縦士が多い(サンテックスもその一人でした)のですが、本来の役割は「防御」「護衛」なのです。「攻撃隊」である爆撃機を護衛したり、やって来た敵の航空機を邀撃(迎撃)して味方を「護る」のが役目(つまり、地味な裏方)です。旧日本海軍が真珠湾攻撃で地上掃射を行って予想外の戦果を上げてからは、「攻撃」機能もあるのだと見直されましたが、所詮は機銃に過ぎず、防御装甲を持つ物体に対しては、大した破壊力はありません。軍艦を相手にした場合など、蚊が刺すほどの威力もありはしないのです。

*  第一次世界大戦で「戦闘機」が出現して、撃墜10機以上の戦果を上げたパイロットを「エース」と呼んだ(第一次世界大戦のトップエース、80機撃墜のレッド・バロンが有名。本名 Manfred Albrecht von Richthofen)。

logo

 第一次世界大戦中フランスの撃墜戦果第一号を挙げた Voisin LA.S 同型機。複葉・二座。プロペラが射撃の邪魔にならないよう後部推進・前方銃座。操縦席は銃手の前、銃撃は操縦席頭越しの立位射撃。武装はホッチキス機関銃・旋回式。

logo

 リヒトホーフェン晩年の愛機。赤塗りの Fokker Dr. 1 。三葉・単座・前方固定銃。(「赤」がリヒトホーフェン隊の標識。隊長のリヒトホーフェンは赤塗りつぶし。他の隊員は、それぞれに機体のどこかを赤く塗って個人の識別が出来るようにした。)

後にアメリカが参戦して基準を5機以上に引き下げ、このデフレ基準が現在に及んでいる。
 第一次世界大戦前半は戦闘機同士の空中戦が主なものであったが、後半および第二次世界大戦中の多数撃墜記録の殆どは、事実上反撃能力を持たない偵察機・爆撃機が相手。
 編隊戦闘が主流となると、個人記録は意味をなさなくなる。日本でも、ノモンハン事変以降は編隊戦法に移行。旧日本海軍も個人記録を認めておらず、エース(撃墜王)は存在しない。「撃墜王」を自称して、まるで敵戦闘機との格闘戦に明け暮れたような戦記物を書きまくっている生き残りがいるが、無邪気に信じるのはいかがなものかと思われる。


【戦闘機(重くて空気抵抗が大きい爆弾・魚雷を抱えた攻撃機と異なり、軽快で発艦滑走距離が短いので飛行甲板が短くて済む)しか搭載しない航空母艦を護衛空母(運用目的による分類。「軽空母」は艦の大きさによる別の分類で、正規の空母)と呼びます。輸送船団や上陸地点での上空支援が役目。守勢一方で攻撃能力がない(従って主力ではあり得ない)空母です。これも「戦闘機」というものが守備一方で、「攻撃」能力がないためです。(ただし、装甲を待たない輸送船・魚雷艇・潜水艦、陸上の歩兵・砲兵・輜重部隊や飛行場・水上機基地等に対しては機銃掃射による襲撃が可能で、攻撃的な運用が皆無というわけではありません。偶然の特殊例としては、戦闘機の掃射弾が後甲板の爆雷にあたり、駆逐艦が轟沈した例もあります。】
 戦闘機は、特に小さなものを軽戦闘機・大きなものを重戦闘機、あるいは、その目的によって、制空(進攻)戦闘機・邀撃戦闘機(局地戦闘機)・支援戦闘機等に細分類されます。
偵 察 機
 人工衛星がまだ存在しなかった時代、軍人にとって一番嫌な航空機が偵察機でした。爆撃機にせよ戦闘機にせよ、現在攻撃を受けている機種と数が相手です。艦砲射撃と違って、飛行機の滞空時間はそんなに長いものではありません。去ってしまえば静けさが戻ってきます。相手が偵察機とあっては、そんなわけには行きません。偵察機が去った後には、爆撃や砲撃、場合によっては、機甲部隊による電撃・蹂躙攻撃や、身の毛もよだつ銃剣突撃を含む総攻撃が、やってくる可能性があります。それが何時・どんな形で・どれほどの数で襲ってくるのか判りません。不安や苛立ちを残して去ってゆく偵察機ほど、嫌なものはないのです。
 戦略的にも戦術的にも、正確な情報ほど重要でありがたいものはありません。どの地点に対してどのような攻撃を加えるのが効果的か、作戦計画を効果的に立てることが出来ます。攻撃後の結果を偵察して、使用した攻撃法の効果や欠点を知ることができますし、次回の攻撃計画をより効果的なものに修正することが出来ます。戦争を統括するものにとって、スパイと航空偵察は絶対に必要な情報源なのです。
 【太平洋戦争の開戦劈頭、マレー沖で旧日本海軍が、不沈戦艦を豪語したプリンス・オブ・ウエールズと随伴した巡洋戦艦レパルスを屠りました。戦闘態勢で航行する主力艦を航空攻撃だけで撃沈した初めての例であると同時に、英国首相チャーチルの東洋戦略を吹き飛ばした瞬間でもありました。戦闘の華やかさに隠れてあまり喧伝されることがありませんが、一番の手柄は、その出撃(予想されていなかった。対抗できる主力艦はまだ配置されていない)を発見し、断続的ながら接敵・報告を行った潜水艦や索敵隊(爆撃機を視認偵察に流用)にあります。写真偵察ではありませんが、「偵察」の重要性と、現在位置や戦力の情報報告だけでも、それを暴露される側にとって(場合によっては国家戦略レベルで)どんなに不利なことかがお判りいただけると思います。(たとえば、コタバルに接近する揚陸船団が先に英国偵察機に発見されていたら、パールハーバー急襲部隊の運命はまったく別物になったことでしょう。ハワイの対空レーダーに捕らえられていた航空攻撃隊は ― 到着予定であった B17 の編隊と誤認されることなく ― 洋上で阻止され、赤城を旗艦とする空母機動艦隊は、ハワイ周辺にあった潜水艦や航空母艦・パールハーバーを急遽出撃した戦艦部隊やオアフ島の基地から飛び立った航空部隊に捕捉されて壊滅状態に陥ることでしょう。6隻の空母を失った日本海軍に米国相手の継戦能力はなく、太平洋戦争は一挙に収束へ向かったであろうと推測されます。)】
戦 闘 偵 察 機
 「戦闘偵察機」は機体分類上の名前です。戦術上の運用の都合で戦闘機が索敵・偵察を行うことがありますが、これを戦闘偵察機とは呼びません。【航続距離が長い爆撃機が索敵・偵察を行うことも多い。上記のマレー沖海戦がその好例。】

 目視偵察の時代は終わり、第二次世界大戦は写真撮影による精密偵察が当たり前となりました。偵察機は基地に帰投しなければ役目を果たせなくなった(つまり無線報告ではものの役に立たない)のです。そのためには、戦闘能力を強化して自ら血路を開くか、戦闘機に追いかけられてもそれを振り切る速度を獲得するか、いずれかの選択を迫られます(高射砲に対してはどちらも無力です)。しかし、戦闘機はプロの「殺し屋」なのですから、これと立ち向かおうというのは愚かな選択といわざるを得ません。残るはひとつ、逃げ足のみです。少しでも高速*で飛べるよう機体重量を絞り、武装は持たないのが普通(つまり、戦闘偵察機は稀)です。

*  「マレーの通り魔」の異名を取った旧陸軍の一〇〇式司令部偵察機(百式司偵/新司偵。自前の大型・高速偵察機がなかったので、海軍も貰い受けて使った。陸海軍は犬猿の仲。頭を下げて飛行機の購入権を手に入れたのは、極めて稀な例。関係者が惚れ込んでしまうほどの高性能だった)は双発・高速・高々度の戦略偵察機。乗員2名。7.7mm機関銃(または20mm機関砲)と 37mm機関砲を備える。
 「われに追いつく敵(戦闘)機なし」の電文で有名な「彩雲」は、旧海軍の艦上偵察機(この「敵戦闘機」は3機の P38。高速戦闘機なのに、400m の至近距離で遭遇しながら逃げられてしまった。他に、鈍足のグラマン F6F は追いつけなかったが、P-51 ムスタングには追従・撃墜された)。艦上偵察機は珍しく、第二次世界大戦中唯一の艦載偵察専用機であったが、就航時既に空母はなく、陸上基地からの発進しか経験したことがない悲運の名機となった。高速・高々度偵察機。単発・3座。7.9mm 旋回銃を備える。

 両者共に武装を持つが、「戦闘偵察機」ではない。砲塔/旋回銃ではなく、前方(稀には斜め)固定銃を持つのが「戦闘」偵察機である。


 上欄のように、複座機では爆撃機並みに旋回銃砲を備えたものもありますが、消極的防御用の旋回銃砲を持っていても「戦闘」偵察機ではありません。
 強行偵察に備えて固定機銃を設けた機種もあり、積極的な交戦・攻撃能力があります。戦闘機に準じた運用が可能ですから、「戦闘偵察機」と呼びます。戦闘機の機体を流用・変更設計することが多いのですが、本質は「偵察機」 であって、専用の 「戦闘機」ではありません
 高速と武装の二兎を追うこととなり、成功例は稀です。特に「高速」はすぐにそれを上回る新鋭戦闘機が現れて優越性が崩れるので、少しでも早く飛ぶために武装を省くのが通例です。(弾薬に被弾すれば致命的です。上に述べたように戦闘能力も要求されますから、単座機では搭乗員の資質負担も過多なものになります。)

戦 闘 爆 撃 機
 戦闘機が大型化すると、爆弾類を積載可能になります。戦闘機でありながら爆撃能力があるものを戦闘爆撃機と呼びます。
 初期の戦闘爆撃機は、燃料増加タンク(増槽)架に小型の爆弾を吊すものでした。【旧日本海軍の零式戦闘機も対地爆撃や対空爆雷攻撃(!)を行ったことがあります。爆弾搭載能と操縦性の良さがあだとなって、体当たりに重用される運命を背負うことになりました。P38 も軽爆撃機並みの搭載能力があり、代表的な戦闘爆撃機です。(戦闘機としてより、爆撃機/多用途輸送機として重用されました。)】
 時代が移り、アクティヴまたはパッシヴな自動追尾式の小型ミサイルが発達すると、空中戦は機銃によるドッグファイトから、遠距離からのミサイル戦と変わり、格闘性能は以前ほど重要ではなくなりました。その結果、大型の制空戦闘機は爆弾・焼夷弾や対地・対艦ミサイルを搭載するのが当たり前になったのです。すなわち、重戦闘機イコール戦闘爆撃機と考えてよいありさまです。

 P38 は、珍しい双発双胴単座の重戦闘機です。下の「乗機の呼称について」に述べるように、最初は高々度での邀撃戦闘機として設計されました。しかし、初期の構想とは裏腹に、戦闘機としての性能は今ひとつで、味方の競争相手(特に、P-51 ムスタング: B 型以降。殊に D 型が出現してからは、他の戦闘機の出番はなくなった)に引けを取りました。格闘戦はからっきしで、高空から逆落としに突っかけて、一撃離脱する襲撃法でしか生き延びる道がなかったのです(ヨーロッパでも太平洋でも、低空での格闘戦に引き込まれると、まず間違いなく撃墜されてしまいました)。本来ならば、二線級の機体として練習機(ただし、操縦し易くはなかった。特に着陸は難物)や連絡機になり果てる運命でしたが、凄まじい消耗戦での支援役と、太平洋での老朽機体・未熟操縦士相手なら充分役に立ったのとで、現役として生き延びました。
 航続距離を伸ばすために大型増加タンクを付ける新型になってからは、その増槽架に爆弾を吊って軽爆撃機/戦闘爆撃機として重用され、特に太平洋では活躍しました。本当の爆撃機ではないので精密爆撃には向きませんが、襲撃機としての運用では随分戦果を上げています。
 陸の Jeep・空の P-38 と言ってよいくらい、あらゆることにこき使われました。傷病兵の運搬や、高速・大航続距離を利しての、孤立した部隊への食料・弾薬の強行補給まで、何でもこなしたのです。

 アフリカ・ヨーロッパ戦線では、高速偵察機としても名を馳せました。 F4, F5 がそれです。
 写真偵察用の専用偵察機で、逃げ足の早さが売り物。当初から武装はまったく持っていません。「武装していなかった」とか「武装を降ろして飛んだ」とかと述べる人がいますが、ピント外れです。上欄に述べたように、単座偵察機は武装しないのが当たり前。高速が売り物の F4, F5 も、設計上、武装する余地は残されていません。 戦闘機とは「まったく別物」 なのです。【「ライトニング」(稲妻)は戦闘機(P38)の愛称で、偵察機をこの名称で呼ぶことはありません。偵察機型は愛称を授けられませんでした。】

logo

logo

戦闘機型と偵察機型の外見的な区別点は、機首から
突き出ている機銃/機関砲の有無くらいしかない。

 警報を受けてから F5 を邀撃できる高速戦闘機はなく、待ち伏せ補足以外に打つ手はありません。高空を悠々と飛び去る憎らしい高速高々度偵察機でしたが、その高速機にも偵察機ゆえの避けられない弱点がありました。撮影のため目標近くで高度を下げ、一定時間直線飛行を余儀なくされるのです。中高度での定速直線飛行は、高射砲やピケットライン戦闘機にとって絶好の獲物です。多くの偵察機は、その魔の時間帯に未帰還リストの仲間入りをしました。
 武装を取り払って4台のカメラ(垂直2台、斜め左右各1台)を搭載。現代の小型カメラとは異なり、レンズは大きく、フィルムサイズもひとこまが人間の顔ほどもあるロールフィルムを詰め込んでいましたから、機銃や弾倉を取り払ってもまだスペースが足りないほどでした。

logo

取付中のカメラ・レンズ。この上にフィルムカセットが乗る。
腰のあたりの窓は左斜めカメラ用。この機首部分には隙間が 
ないほどぎっしりと撮影機材が収納される。機体番号80(機種
は多分 F4A)にはサンテックスも乗ったことがある。    
                (ICARE No.96 より) 

hair line

乗機の呼称について

*  航空機関系のサイトで誤りを指摘されている人の中には、私のこのページを参考にしたのではないかと思われる人が見受けられます。私は出来る限り正確な記述を心掛けているつもりですが、そのまま切り抜くと誤りになってしまう部分も含まれておりますので、このページでの呼称の使用法について説明をしておきたいと思います。

 サンテックスが最後に乗っていた飛行機は“F-5B”が正式名です。最も多く乗ったのが“F-5A”、初期には“F-4A”にも乗っています(雑誌 ICARE による)。【偵察機型は“F-4”,F-4A”と“F-5 A”から“F-5 G”までのシリーズが存在しました。】
 これらは、後述する戦闘機 P-38 の偵察機型で、それぞれ“F-4-1”(99機生産)は“P-38 E”の,“F-4A-1”(20機生産)は“P-38 F”の,“F-5A”(F-5A-1;20機,F-5A-3;160機生産)は“P-38 G”の,“F-5B”(200機生産)は“P-38 J”の、機首部分にある機銃類を取り払って撮影用カメラを登載したものです。“F-5B”の前期型は“F-5A”と基本的に同じですが、オイルクーラーをエンジン下部に移設しています。また、“F-5”から燃料の大型増槽を懸架するようになり、航続距離が大幅に伸びました。当然、サンテックス最期の日も、増槽を吊って発進したはずです。

 アメリカ陸海軍および海兵隊は(第二次大戦中、アメリカ空軍は存在しません)、航空機の統一した呼称*をしておりません。海軍では一般的に“F”といえば戦闘機(fighter)を指します【F4F ワイルドキャット,F6F ヘルキャット,F6U コルセア,etc.】。紛らわしいのでこのページでは、ロッキード“F-5B”またはP38 F5B といった呼び方をしていますが、もちろん正式な呼称ではありません。【P38 は、P38 ライトニングと呼ばれるのが普通です。】

*  1946年、合衆国空軍創設によって命名規則一新計画を策定し、P: Pursuit aircraft(追撃機)の名称は消えて、“F”(戦闘機)に統一された。たとえば、P-51D は F-51D となった。朝鮮戦争で活躍したF-51D (ムスタング。戦闘機としては旧式・老朽化してもう使い物にならなかったが、戦闘爆撃機として重用された。主力のジェット戦闘機は滞空時間・航続距離が短すぎたためである。)は、太平洋戦争での P-51D とまったく同一機体。
 【蛇足ながら、太平洋戦争には間に合わなかった化け物戦闘機ツインムスタング P-82 は F-82 と呼び名が変わり、朝鮮戦争で活躍した。ただし、上述のようにもはや主力戦闘機ではなく、長距離の進攻をするわけでもないので、ふたりの操縦者が搭乗する必要はなかったから、操縦席のひとつをレーダー手席として増槽をレーダーユニットに変え、夜間戦闘機として重用された。】

 文中、他の文献からの引用は、その文献の呼称法に出来る限り忠実に従っております。“P38”という呼び方が多出するのはそのためでもあります。また、“F-5”の性能諸元は不明なことが多いのです。“P38”の諸元で代用している部分では、“P38”と明記しています。

 1937年、アメリカ陸軍航空隊は新型機の仕様(X-608)を掲示しました。それまでにない無理な要求が並んだ「高々度迎撃戦闘機」と呼ぶべき内容です。各社とも検討を始めます。陸軍とも戦闘機とも縁が薄かった新興会社ロッキード社はこれを機会に陸軍に取り入ろうと、意欲的に取り組みました。最高速度の要求を満たすためには、液冷式エンジンの双発形式しかあり得ない状況でした。ロッキード社は奇を衒ったといって良い双胴形式を採用し、具体的設計を進めます。乗員席を中央ナセルに納め、双胴のエンジンナセルと分離する形式はいろいろ有利な点がありました。反面、未知の不安も山積でした。双発戦闘機は旋回半径が大きくならざるを得ず、格闘戦に不向きであることは最初から判っていたことでした。双胴戦闘機は前代未聞でしたから、プロペラ後流がどのようなものになるか、まったく判っていませんでした(結局最後まで解決できず、尾翼に振動を起こすという大きな弱点のひとつとして残ります)。
 テストを終えたばかりのエンジンを採用し、しかも、右回転と左回転の両者を揃えるよう設計変更を要求する(当然プロペラも設計追加)という無理を押し通しての信じられない強引な突き進み方でした。1937年6月、原型1号機の試作発注を取り付けます。XP-38 と正式名称がついたこの試作機は、ロッキード社初の戦闘機(となるもの)でした。1939年1月1日、試験の地上滑走中に壊れてしまうという惨々たる出発ぶり。修理しての初飛行では離陸直後に事故を起こし、墜落は免れたもののまたもや修理。その機体を使って西海岸から東海岸まで、スピード記録をも狙っての飛行計画が持ち上がります。1939年2月11日、途中2箇所で燃料を補給しながらロングアイランドまで辿り着き、いよいよ着陸という段になってエンジン出力低下・着陸フラップ故障・片側エンジン振動で着陸失敗、修理不能の大破事故となりました(操縦士は生存)。それでも「世界最速戦闘機」として、制式採用に漕ぎつけます。たった1機生産の XP-38, 13機生産された YP-38 に続いて、P-38(29機), XP-38A(1機), 【B, C は欠番】P-38D(26機?), P-38E(210機), P-38F(527機), P-38G(1082機), P-38H(601機), P-38J(2970機), P-38L(3923機), P-38M(74機), P-38K(10036機)が引き渡されました。【F-4, F-5 については上欄】

 高々度でのスピードはすばらしいが小回りがきかず格闘戦は苦手。低空での性能は今ひとつとあっては、戦闘機としての評価が高くならないのは当たり前のことでしょう。おまけに、無理な設計がたたって、尾翼の振動と皺の発生・急降下で速度がつくと舵がきかなくなる・着陸時に頭を下げる癖がある・メンテナンスが難しい等々、いろいろな問題を抱えていました。初期には故障続きで稼働率が悪く、北アフリカでは砂塵のために100時間でエンジンが駄目になる等、期待外れが多かったのです。低空での格闘性能も含めて、あらゆる点で当時世界一の P-51D ムスタング【P は Pursuit aircraft 追撃機】が現れて以来、ヨーロッパ戦線での戦闘機としてのライトニングの出番は全くなくなりました。
 だからといって戦争は待ってはくれませんから、P-38 も駆り出されます。もはや時代遅れの老いぼれ機ばかりで、操縦士の技量も低下した日本軍を相手なら、出番はあります。太平洋では活躍しました。戦闘爆撃機としての能力の高さを生かして、軽爆撃機としての使用が最も成功を収めました。フィリピンでは、多くの日本艦船がライトニングの餌食となっています。輸送機としても使われました。増槽を収納室に改造し、増槽架に荷物や傷病兵を吊るのです。そして、航続距離と高速を生かしての長距離強行偵察機としての改造。こちらは主にイタリア戦線での活躍です。  

 参考サイト
P-38(日本語)
またはP-38(日本語)
P-38 とその改造機(英語)
P-38 諸元(英語)
ラバウルでの零戦・F4 対決(日本語)
P-38 とその改造機の戦歴(英語)
F5B【機首腹部のレンズ窓(垂直2個・左斜め1個)が明瞭】(英語)
写真偵察機F13(日本語)【偵察カメラについて参考になります】
P-51 ムスタング(日本語)
F-82 ツインムスタング(日本語)
  同名異物
ノースロップ社製戦闘機 F5(日本語)
ノースロップ社製戦闘機 F5(日本語)
マクドネルダグラス社製戦闘機 F4(日本語)
マクドネルダグラス社製戦闘機 F4(日本語)
マクドネルダグラス社製戦闘機 F4(日本語)
hair line

トップページに戻る
総目次に戻る


ホーム

表紙を表示する(フレーム構造を取り入れる)

hair line