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30年の物語 78成田空港から

【開港前夜】

支援学生【下】

2008年03月05日

写真

空港の夜間照明の中に浮かぶ「木の根団結砦(とりで)」

 成田市木の根地区で暮らしていた反対派住民相原亮司(60)らを苦しめていた「検問」がなくなる日がきた。

 「反省している。警備当局に申し入れて改善に全力を挙げたい」

 国と反対派が初めて公式に話し合った成田空港問題シンポジウム(91年11月〜)で、当時の運輸省幹部が、相原ら反対派住民に陳謝した。

 相原は「騒音を抱えながら生活する住民への配慮」を感じた。

 移転を真剣に考えるようになり、反対派農家2世帯とともに、98年9月17日に同市西三里塚に移転した。

    ■ ■

 「うちは友達の家とはなんか違うなあ」

 相原の長女、須山朋枝(34)は、いつもそう思っていた。

 4歳ごろから父母に手を引かれてデモ行進に参加した。反対同盟員に混じって「くうこうはんたーい」と、シュプレヒコールを上げた。

 「今、思えば特殊な世界なんだけど、あのころは日常生活になっていて何にも感じなかった」

 反対派の子どもというだけで、クラス内で目立つ存在になった。「いじめられないよう、自分の立ち位置には絶えず気を配った」

 多感な少女時代を過ごした80年代。すでに新左翼運動が盛り上がった時代は終わっていた。

 成田から海外旅行に出かける人が年々増え、88年には開港以来初の1億人に達した。消費を楽しむ風潮が日本中を覆っていた。

 しかし、世の中とは関係なく、相原家の生活は質素だった。

 父母に反抗したことはない。

 母は朝7時から夜11時まで野菜問屋で働いていた。父も新聞配達をしながら、司法試験の勉強をしていた。子どもながらに「仲間」というメッセージを感じていた。

 「勉強ができれば誰からも後ろ指を指されないはずだ」。そう思い、進学高に入学した。

    ■ ■

 幼少から成田闘争を見てきただけに「政治や法律とは、関係ない学問をしたかった」

 須山は、お茶の水女子大舞踊教育学科に進学した。在学中に父母から移転の決断を聞いたときはホッと安堵したのを覚えている。

 「いくら反対しても空港が存在するという現実は変わらないし、もはや壊すこともできない。反対を続けるのは無理がある」。親元を離れ、東京で暮らすうちに、そう思うようになっていた。

 須山は今、都内に夫と住み、神奈川県内の短大で幼児教育を教えている。

 「私の原風景は成田空港。もし反対運動がなければ私は生まれていないのだから……」と思っている。

 一方、相原は「成田にかかわったことを一度も後悔したことはない」と言う。

 「成田闘争を通じ、偉い立場では味わえない人間関係に浸れたし、家族と過ごす時間のほうが大事だったから」(敬称略)

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