Nay’s Diary

2005-07-02 済南事件。

 昭和3年の4月、蒋介石中国統一を実現させるため、国民革命軍(南軍)総司令として第二次北伐の軍を進めた。全軍総司令官は蒋介石参謀総長は何応欽将軍で100万の大軍が4個の集団軍として編成されていた。これに対して張作霖大元帥の北軍も7つの方面軍、兵力100万を有していた。4月7日北伐宣言を発した南軍は4月中旬に早くも済南を包囲する態勢に入った。済南は山東省の商業都市で人口38万を有し、諸外国人が多くここに住み、日本人も1810人が居留民としてここに住んでいた。


 しかし南軍が北上するにつれ、済南が危機に陥った。南京事件(1927年に日米英仏の公館が国民革命軍に襲撃され略奪、婦女暴行、殺戮が行われた事件)のような事件がまた発生するかもしれなかったためだ。


 現地からの保護要請を受けた田中首相は居留民保護のためやむを得ないと決断し、4月下旬に済南に軍を出した(第二次山東出兵)。


 日本軍は現地に到着すると済南城に隣接する商業地(居留民の大部分がここにいた)に、東西2か所の守備地区を設置して居留民を収容保護した。しかし北軍が退却した後の5月1日、南軍が入市してくると恐れていた事態が起こってしまった。


 南軍が入市してくると共に日本国旗の侮辱や反日ビラのばら撒きなどで、もめ事が続発。済南市内は一気に緊迫するようになった。2日、南軍総司令・蒋介石から治安は自分達が絶対に確保するので日本軍の警備を撤去してくれとの要請があり、その言葉を信じて日本軍は警備体制を全て解除した。


 「済南事件」はまさに日本軍が警備を撤去した直後の5月3日の朝に発生した。その発端は南軍の兵が「満州日報」販売店を襲撃したことだった。南軍兵は駆けつけた日本人巡査にも暴行を加えたため、日本軍救援部隊が現場に急行すると、南軍兵は兵舎に隠れて中から銃撃を加えてきた。


 このため本格的に交戦状態に突入し、中国兵による乱射略奪は一気に市内中に拡大した。間もなく両軍間に停戦の申し合わせができたが、中国側はこれを無視し、白旗を掲げて停戦を呼びかける日本軍の軍使まで射殺する暴挙に出た。済南市内は凶暴な中国兵のため地獄と化した。「南軍鬼畜と暴れ狂ふ」「日本人は狂暴なる南軍のため盛んに虐殺されつつあり」(朝日新聞


 この事件の結果、日本軍は死者9人、負傷者32人、そして日本人居留民14人が残虐の限りを以って殺される惨事となった・・・


 済南事件で中国兵が日本人居留民に加えた残虐行為は、まさに「中国式」で想像を絶する残虐さだった。事件直後に惨殺死体を発見した南京駐在武官・佐々木到一中佐はその手記に次のように記した。


「予は病院において偶然その死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の極だった。手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、あるいは滅多切りとなし、婦女は全て陰部に棒が挿入されてある。ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。焼け残りの白足袋で日本婦人たることがわかったような始末である。わが軍の激昂はその極に達した」(「ある軍人の自伝」より)


この話は嘘でも誇張でもない。済南の日本人惨殺状況に関する次の外務省公電がこれを立証している。


「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を挿込みたるもの、顔面上部を切落したるもの、右耳を切落され左頬より右後頭部に貫通突傷あり、全身腐乱し居れる者一、陰茎を切落したるもの二、」とある。日清戦争の時も捕虜となった日本軍兵士達は両手両足を切断していく拷問(中国ではこれを凌遅処斬とかいうらしい)をうけていたが上の記録からも中国人の殺人の手口の凄まじいほどの残忍さが分かる。


中国兵による略奪陵辱暴行殺人事件。略奪被害戸数136、被害人員約400とある。中国側も立ち会った、済南医院での日本人被害者の検死結果。

藤井小次郎
頭および顔の皮をはがれ、眼球摘出。内臓露出。陰茎切除。
斎藤辰雄
顔面に刺創。地上を引きずられたらしく全身に擦創。
東条弥太郎
両手を縛られて地上を引きずられた形跡。頭骨破砕。小脳露出。眼球突出。
東条キン(女性24歳)
全顔面及び腹部にかけ、皮膚及び軟部の全剥離。陰部に約2糎平方の木片深さ27糎突刺あり。両腕を帯で後手に縛られて顔面、胸部、乳房に刺創。助骨折損。
鍋田銀次郎
左脇腹から右脇に貫通銃創。
井上国太郎
顔面破砕。両眼を摘出して石をつめる。
宮本直八
胸部貫通銃創、肩に刺創数カ所。頭部に鈍刀による 切創。陰茎切除。
多比良貞一
頭部にトビ口様のものを打ち込まれたらしい突創。腹部を切り裂かれて小腸露出。
中里重太郎
顔面壊滅。頭骨粉砕。身体に無数の刺創。右肺貫通銃創。
高熊うめ
助骨折損、右眼球突出。全身火傷。左脚の膝から下が脱落。右脚の白足袋で婦人と判明した。

他の二体は顔面を切り刻まれたうえに肢体を寸断され、人定は不可能であった。

あれそれこれ博覧会より


 南軍に凌辱虐殺された日本人居留民の死体が日本軍に発見されて、5月5日、済南事件の真相が明らかにされた。そして居留民に残虐を加えた事実が判明すると、日本国民に大衝撃を与え、中国へ制裁を加えるよう求める国内世論で沸騰した。


 日本軍は7日午後4時、12時間以内に、


一、残虐行為に関与した高級武官の処刑。

二、日本軍の面前で我軍に抗争した軍隊の武装解除

三、一切の排日的宣伝活動の厳禁。


 などの事件解決の条件を出して”善処”するよう求めたが、南軍に拒否されてたので、日本軍は南軍の立てこもる済南城を砲撃して(ただし無用な流血は避けるため目標は城壁と司令部に限定)南軍を遁走させて、11日特に抵抗なく済南城を占領した。


 以上が「済南事件」の概要だが、中国ではこの事件は「北伐を妨害するための日本の策略」だとしている。なぜ?日本軍はわずか3500人の守備隊で10万をはるかに超える南軍の北伐を妨害するつもりだったというのか?日本軍の出動目的が「北伐の妨害」だったというのが「事実」なら最初から南軍の入市を阻止しようとしたはずだ。


 もっとも、海外の論調は、いずれも日本の出動は当然の自衛措置であり、事件は中国の挑発によるものとして日本を支持している。


 仏紙ル・タンは「日本の行動は居留民保護に過ぎず、何ら政治干渉の意味はない。日本の自衛行動に憤慨するのは理由のないことだ」とし、北支の代表的外字紙である京津タイムスは「日本軍がいなければ済南の外国人はことごとく殺戮されたに違いなく、この点大いに日本軍に感謝すべきだ。日本軍は山東省を保障占領して惨劇の再演を防止すべし」とまで論じた。英紙デイリー・テレグラフは「中国人は略奪と殺人を天与の権利であるかの如く暴行を繰り返している」と非難し、「日本人の忍耐にも限度がある」と述べ、日本軍の行動を「正当防衛」と論じた。


 昭和12年の”南京虐殺”の犠牲者数が何人なのか議論を呼んできたが、仮にそれが一部事実だったとしても、それより以前の南京事件や済南事件、通州事件などが全日本人の脳裏と胸の奥に、深い怨恨と怒りの記憶を刻みつけていたことも忘れてはならない。


参考文献: