草 稿
「星の王子さま」論考
/Le Petit Prince 考究


 これは標題にあるとおり“草稿”です。少しづつ書き足して行きます。訂正したり、削除したり、 アイデアやメモを書き込んだり。原稿が作られ・推敲されて行く過程をネットの上で公開してしまおうというのです。おそらくインターネット始まって以来初めての試みでしょう。
 素人の手すさびですから、内容は大したものではありません。時間があるときに書き足すのですから、 完成まで何年掛かるか見当がつきません。惨めな失敗に終わってしまう可能性も大きいのです。でも、 挑戦してみる価値はあろうと思います。
 ご返事できないかも知れませんが、いろいろなご意見をお寄せ戴ければ、執筆の参考にさせていただきます。


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第 二 の 章
Le Petit Prince 考究

総 論

 
なぜ“Petit”なのか。
 “Petit Prince”を日本語にすれば、「可愛い王子さま」または「ちびっこ王子」だ。どちらを選ぶかと問われるならば、後者を推したい。ページを繰れば、現実の世界から遊離したロマンチックな挿絵が一杯ある。そのうえ「可愛い王子さま」と標題を打ったのでは、「星の....」と訳すのと同様、夢見心地の薄っぺらな「童話」になってしまう。 王子は、他人の話には耳を貸さず、自分の考えばかりを言い募る「かわいくない」一面がある。いわば「くそガキ」としての小憎らしさである。一方で、大人の思慮をのぞかせたりもする。 単なる可愛い子供ではない。「ちびっこ王子」が適訳だ、と私は思う。

 童話に現れる“王子”には典型と呼ぶべき筋立てがある。

 1) 青年期の年齢であること。
 2-a)配偶者を求めて旅の途中にあるか、あるいは、配偶者選びの舞踏会を催すかのいずれかである。
 2-b)特に配偶者を求めてはいないが、狩(または散歩やお忍びの領地散策)の最中であるか、旅の途中であるかのいずれかである。
 2-c)前記のいずれでもないが、なにがしかの非日常的な状態にある。
 3)偶然、気だての優しい(多くの場合、身分の高い)美少女に出会い、恋に落ちる。さまざまな試練の末、最終的には結婚する。

 しかし、Le Petit Prince はこのような筋立てとは無縁である。
 もし“Petit”が無かったならば、そして、もし挿絵がなかったならば、読者が思い描く“王子”は、随分これに近づいていたはずだ。本文中で、子供であることが述べられているにも関わらず、である。
 作者はどうしても「中性」的な王子にしたかったように見受けられる。早い時期に「王子の肖像」を見せて読者のイメージ固定を図っている。本来ならばこの挿絵は、最後の【何処かで見掛けたら......】というシーンで提示されるべきものである。それを早々と提示する。それだけでは足りず、題名に“Petit”とつけて、大人(すなわち男)ではないことの念押しをしている。これは、この作品を読み解く上で蔑ろにはできない点となろう。
 作中の王子には、男の匂いが欠けている。そもそも、バラ以外には、狩人がお目当てとする村娘が唯一の女性キャラクターである。性的な主題が入り込むのを意識して避けているとしか思われない。そしてこのことが、王子がバラに寄せる愛・思い遣りに、色濃くミンネ奉仕の彩を添えることになる。

 

なぜ“Prince”なのか。
 “Prince”が“王子”であることに疑いを差し挟む人は少ない。しかし、山崎庸一郎氏は指摘する。モナコやリヒテンシュタインのような小国がヨーロッパには存在し、大公国( Principaut )と呼ばれる。その支配者は、王( Roi )ではなく、大公( Prince )である。 Le Petit Prince は、「まだ子供である“王子”」という意味ではなく、子供ながら一国( B-612 )を支配している“大公”なのだ、と。[月刊 MOE 1980年4月号 p.13,「星の王子さま」フランス語辞典,同 1993年7月号 p.14,「星の王子さま」8の秘密]
 この指摘は核心を衝いていると私は思う。地球のバラ達に出会った王子は「星に残してきた自分のバラ」が何の変哲もないあたりまえの薔薇だったことにショックを受け、「えらい王さまなんかになれそうにない」(内藤 濯訳)と草原に泣き伏すのである。このくだり、「えらい王さま」は“ un bien grand prince ”と表現されている。王位継承権者が立派に成長した後は、王( le roi )になるのであって、「立派な王子になる」のではモラトリアム人間もいいところだ。第一、物語りには父親も母親も登場しない。王子は天涯孤独の身であって、継承すべき王位があるのならとっくに継承して王になっていなければならないと考えられる。事実、星を見回り、火山の掃除をし、悪辣なバオバブの芽を摘みとるという、B-612 のたった一人の支配者としての義務を忠実に果たしているのである。先の文章は「これじゃあ立派な大公なんて言えない」というのが正しい解釈であろう。

 大公国は独自の外交権や交戦権を持たない半独立国であり、その権限を隣接する大国に握られていることが多い。王子が第一の惑星を去るにあたって、「王さま」が『そちを大使に任命する』と宣言しているのも、王に隷属する大公の立場を反映している。

【末妹ガブリエルが結婚後居住し、サンテックスも何度か休暇を過ごしたアゲイから、モナコはすぐ近くである。サンテックス自身モナコを訪れたこともある。モナコの元首が Prince (=大公)であることを、サンテックスが知らないはずはない。】
  Prince を、逃れようも無く「王子」と翻訳してしまったのは、日本語版と中国語版である*。 しかしながら、世界中の読者が“王子”と解釈しているであろうことはまず間違いない。文学作品の「解釈」とは、しょせん読者による作者の意図の誤解である、と“はじめに”で述べた。この草稿では、王子なのか大公であるのか、にはこだわらないことにする。作品全体の解釈には、あまり大きな影響がないと判断されるからである。

*  そしておそらく、16種類ある韓国語(朝鮮語)版も。私自身は読解力を持たないが、この国の人に読んで貰ったところ、表題は「若い(もしくは幼い)王子」の意であるという。

 
“星巡り”の挿話は必要か?
 Le Petit Prince の執筆に際して、文章の方は比較的すんなりと進んだ(6月執筆開始。10月脱稿)が、挿絵には随分苦しんだということである。その苦しんだ挿絵が、星巡りではふんだんに使われている。星ひとつに一枚のカラー挿絵である。作者は星巡りには随分入れ込んでいることが判る。だが、作者の興が乗っていることと作品の出来映えとが一致するとは限らない。
 私の意見に不満がある人は、星巡りの部分(第十章から第十五章まで)を抜いて「星の王子さま」を読んでみたら良い。実に引き締まった佳い短編であることが判るだろう。星巡りがあるために、物語は冗漫で水脹れした様相を呈する。星巡りのエピソードそのものが悪いとはいわない。これはこれで(ガヴォワールの娘に執筆を約束したという La Petite Princesse のように)独立した別の短編を作れば(もしくはその La Petite Princesse の中に、今度は最初から筋書きの中に組み込んで違和感のないようにすれば)良い。
 この物語の流れが、王子−キツネ−バラ、のラインであることは動かし難い。とするならば、かなりの紙数を費やして描かれた「星巡り」は一体何なのか? うんざりするほど長い長い旅路の果てに、地球に辿り着いたということを読者に判らせるためだけにしては、登場人物はあまりにも意味ありげである。しかしこの「星巡り」は、作品の主題を霞ませる。
 思うに「星巡り」は、サンテックスが仕掛けた罠なのではなかろうか。得々として星巡りの解釈をひけらかす人々は、あやかしの玄道に踏み迷い、偽りの石棺に惑わされてピラミッド内をさまよい歩くミイラ採りにも似て、遂に物語の核心に迫ることも叶わぬまま、その生涯を閉じることになる。己が私生活を振り返り、この作品中で真情を吐露したサンテックスは、容易には核心に辿り着けぬよう物語を迷宮に仕立て上げたのだ。「社会批判」などという取るに足らぬ解釈に尻尾を振って喰らいつく読者に、血が滲むような作者の半生を気取られたくはないのだろう。

 「星巡り」の異質性は、この作品全体の構造解析からも浮き彫りにされる。物語は、「6年前」を中心に、「操縦士」と「王子」の過去と(6年前の)「現在」との間を繰り返し行き来しながら少しづつ話を進め、その時間的な振れ幅をだんだんと狭めて「6年前」の王子の死に収斂させるという技法がとられている。それなのに、「星巡り」では時間の変動が止まり、平板な時間経過が延々と続く。この「星巡り」は、全体でひとつのモジュールとして挿入されており、これをそっくり取り外しても、物語の全体像にはまったく齟齬を来たさない(シャンピニヨン氏については別項で論ずる)。更に、一つひとつの星の物語も単位モジュール(もしくは独立部品)化されており、どれを取り外しても、繋ぎの1〜2行を削除すれば他に何の影響も残さない単なる挿話の構造である。

 サンテックスの執筆方法は「小説の原案をバラバラの紙に書いておき、パズルを組み立てるように、それをどういう順番に並べたらいいか考える」(1924年、サレス宛の手紙)というものだった。「星巡り」の挿話が各個独立なモジュールの脈絡の無い集合であるのは、まさにこのようにして思いつくままに書き散らされたエピソードの集合であるからに他ならない。

 構造上の平板・異質性と意味論上の不要・冗漫性が、「星巡り」の際だった特性といってよい。サンテックスお得意の「鼻につく説教臭さ」も付け加わる。

 「人間の土地」と「風と砂と星と」では、内容が同じではない。英語版を編集するに際して出版社から、「分量が少なすぎる」とクレームがつき、書き足しを要求されたからである。
 もしこの「星巡り」がなかったならば「Le petit Prince/The Little Prince」も、単独出版物としては営業が成り立たない分量になってしまう。それぞれの惑星のエピソードが各個に独立して、話の筋立てとまったく無関係なモジュール構造になっているのは、他の箇所への影響を最小限に抑えながら分量を増やすための書き足しとしての当然の帰結であろう。星巡り部分だけ挿絵がやたら多いのも、限られた時間内で多くのエピソードを創作することができなかったために、簡単にページ数を稼ごうとしたのではなかろうか。
 サンテックス自身の判断によるのか、草稿を出版社に持ち込んで駄目を出されたのかは即断できないが、「星巡り」は「書き足し」であろうと私は想像している。裏づけ資料が発見されることを期待したい。

<メモ>

木に竹を継いだような不自然な流れ。転轍夫のエピソードで充分。蛇足の典型。折角の締りのある物語が、冗長で散漫な横道にそれてしまっている。「説教臭さが鼻に付く」と批評されるサンテックスの欠点が顔を出している。別の物語を融合させたか? それとも、単なる水増しか?
 地球が7番目。太陽系の軌道を冥王星から始まって順番にたどると地球は7番目である。小惑星帯から出発したのではこうなる筈もないが、「童話」だから許されるだろう。(描かれた星の大きさからいえば6つの星はすべて小惑星の範疇に属する。さすれば王子の旅は小惑星帯内部でのさすらいということになる。実際、出発直後に第 325 番から第 330 番まで、6個の小惑星( Ast屍o錨es )を通過して、王様の星にたどり着いている。しかし、訪れた“星”は、原作では“Planets”と呼んでいるから小惑星ではなく惑星である)。6番目の星は10倍も大きな星となっている。太陽系でいえば木星を指すのが順当ということになるが、上記の順番で6番目は火星である。
 キリスト教文化圏にあって、「7」は特別な数字である。


<未完>


各 論

 
レオンウエルトへの献辞
 この物語が、コンスエロへのメッセージを含んでいることは全く疑いがない。そしてまた、「キツネ」の言動にシルビア・ハミルトンの姿が二重写しになっていることも、否定できない。にもかかわらず、この物語は、フランスで逃亡生活を送るレオンウエルトに献じられている。

 (献辞と同じ重要性を持って考慮するべきことが、もうひとつある。本文中の「3本のバオバブの絵」が、「王子に勧められて」「フランスの子供たち」(des enfants de chez moi)に向けて描かれたことだ。執筆場所はアメリカである。なぜ「フランス(我が国)の」子供たちなのか?)

 chez moi を「我が国」(特にフランス)とすることには異論があるかもしれない。新訳では「星」「地球」と訳している例も多い。しかし、この“moi”は「家」(ボクんち)ではない。“chez”が時間を表すとして「私の時代」と言うのもしっくり来ない。“chez”の主体は砂漠で遭難している操縦士であるから、“moi”を「星」「地球」とするのは無理がある。やはり“chez moi”は「私の国」であろう。だとするならば、それはフランスということになる。巻頭に献辞を捧げられた、レオン・ヴェルトが苦難に耐えている国。そして、操縦士はフランス人(十万フランの家を見たよ!)である。

 サンテックスが、わざわざこの献辞を巻頭に置いたことは、決して軽んずることのできない意味を持っている、と考えなければなるまい。全世界の子供たちへ送る「童話」ではないと、サンテックス自身が宣言をしているのだ。
<未完>

Chapter 1.
 
 1-1 裸の王様はウワバミの帽子を被っている。
 サンテックスは、Le Petit Prince の中に、意地悪な罠を幾重にも仕掛けていると私は思う。「ウワバミ帽子」もそのひとつだ。帽子の絵を見せられて、そこにゾウの姿を見る人は、正常な精神と健全な判断力の持ち主ではない。言うまでもなく、描き手も同列である。「ウワバミに呑み込まれたゾウ」を描きたいのならもちろんのこと、「ゾウを呑み込んだウワバミ」を描くにしても、最初から中身を描き込むのがあたりまえの精神構造というものだろう。「子供だから」と言う逃げ口上を使いながら、サンテックスは陰湿な踏み絵を敷き込んだ。「帽子にしか見えないのは子供の心を失った証拠」と言い募る人々は、裸の王様の華麗な衣装を褒めそやして恥じない人達である。サンテックスは嗤っているのではなかろうか。

 「子どもの純真な心を持つ人には、ゾウを呑み込んだウワバミが見える」という人が多い。外国のサイトには、この「ウワバミ」を第一関門に据え、「帽子」と答えた人を追い返す造りになったホームページさえある。しかし、事実は逆である。これが帽子にしか見えない純真な人は、これ以降を“チョッピリ寂しいけれど、最後は心暖まるハッピーエンドの童話”として読み進めばよい。内にゾウの姿を透かし見る人は、世界を蚕食する悪辣なファシズムの脅威を愁い、言論と武器を以て立ち上がる責任がある、とサンテックスは言っているのだ。愛の戦士としての資格を持つ「昔子供であった」者は多くはない。見る目も持たずに「ゾウが見える」と言い囃す人々が人類を救う戦士に成長することは、ラクダが針の孔を通り抜けるよりもっと期待し難い。フランスでは、その数少ない戦士達がひもじい思いに耐えている。物語のエンディングは決してハッピーエンドではない。

 
 1-2 ひとめで中国とアリゾナの見分けがつきました。
 中国とアリゾナは(ヨーロッパから見た)世界の東の涯てと西の涯ての象徴として用いられている。しかしそれは、ニュージーランドとアラスカでもよいはずだ。なぜ中国とアリゾナなのか?【山崎氏新訳の註によれば、初期の草稿では「アリゾナ」ではなく「アメリカ」であるという】
 サンテックスが南米で経験したように、強風に翻弄されて九死に一生を得た場合、現在位置を把握するためには、陸地の地形を判断するのがいちばん確実である。しかし当時の航空機の性能からいって、現在位置が中国・アリゾナ双方の可能性があることはあり得ない。無意味な比喩である。また、中国やアリゾナの全景を見渡せるわけもないから、「見分けがつく」のは、かなり部分的な地形のはずである。

 CとAに挟まれているのはBである。これに何か謎解きの鍵があろうかといろいろ考えてみたが、答は得られない。「アリゾナ」が州の名でないとすれば、パールハーバーで沈座した戦艦アリゾナ号が考えられるが、意味づけは不可能であるし、「C」の方が何かが判らない。
 サンテックスのやりくちから見て、ここには何かが隠されていると思った方がよいのだが、何を言おうとしているのか皆目見当もつかない。ねんごろになった女性でも住んでいるのだろうか? しかし、アリゾナはともかく中国には . . . ???

 「夜間飛行中に一目で見分けがつく」。 この一文を筆にするとき、サンテックスの脳裏にはリビア砂漠での航法ミスによる遭難事故があったはずだ。雲(実は地上間近の霧)の中で現在位置を確かめようと高度を下げて、砂丘に激突したのだ。過ぎてしまった今となってはほろ苦い思い出。いや、それどころか、借金を返せるほどの飯の種(新聞に連載した体験記。後には、 Terre des Hommes の一節)になった。とはいえ、命があったのは全くの幸運。即死にせよ渇きによる野垂れ死ににせよ、あのとき死んでいて何の不思議もない事故だった。無線機さえ積んでいれば . . . 。

Chapter 2.
 
 2-1 le mystère est trop impressionnant
 Quan le mystère est trop impressionnant, on n'ose pas désobéir. あまり突拍子もないことには、逆らう気持ちが起きないものだ。
 24章、バカバカしいと思いつつ、井戸を探しに出かける光景への伏線(もしくは対応関係にある)。

 
 2-2 「羊を描いて」
 "Dessine-moi un mouton . . ." 「羊を描いて」と王子はねだる。描いた3頭を次々に難癖つけて書き直しを要求する。理由の最初と最後は、「元気がない」と「齢をとっている」だ。2番目の理由は少し変わっている。描かれたのが "mouton" ではなく "bélier" だから嫌だというのである。
 牧畜民族は、家畜の雌雄を区別して呼び、総称する名詞を持たないことが多い。たとえば、雌牛・雄牛を表す単語はあるが、両者を一括して表す「牛」に相当する単語はない。雄鶏・雌鶏についても同じである。
 さらに、家畜の雄に関しては、積極的に去勢を行うことが多い。その方が扱いやすく危険がない上、肥育が早く肉質も異なるからである。当然、種オスと去勢オスは区別して呼ばれる。羊の場合、メスと去勢オスは "mouton"、去勢していない種オスは "bélier" である。

 明治時代の日本は、日清戦争・北清事変(義和団の乱)・日露戦争と立て続けに大陸に出兵し、いろいろな意味で諸外国を驚かせました。短期間のうちに近代的な軍隊として立ち現れたのには目を見張りましたし、その精強さと士気の高さは、今後に恐れを残すものでした。機関銃陣地に向かって性懲りもなく突撃を繰り返し、いくつもの部隊を犬死・全滅させてしまうのはあきれ果てる無能な指揮ぶりでした。信じられない滑稽な事実も発見しました。「日本軍騎兵は犬みたいな馬に乗っている」「日本軍は去勢をしない軍馬を使っている」というのも、軍事関係者の間では驚きの目を持って語り伝えられたものです。「犬みたいな」というのは、日本の馬が小さかったからです。義経の機略を示すものとして有名な一ノ谷の逆落としでは、立ちすくんだ馬を(大事な財産なので、転げ落ちて死んだり、骨折されたりしては大変ですから)背負って斜面を降りた武者がいたと伝えられますし、勇猛を持って鳴る甲州騎馬軍団の馬もやはり道産子並みの大きさでした。その流れを脱却しきれない明治時代の日本軍は、「犬みたいな馬」(グレートデンと同じくらいだったのです)に乗って戦ったのです。
 「去勢」に関しては、説明が必要でしょう。去勢しない牡馬は繁殖期には手がつけられない猛獣になるのです。それでなくとも、オス同士は争いがちです。軍馬には去勢オスを使うのが常識。明治時代になっても日本にはその常識がありませんでした。

 王子は明確に "mouton" を描いて欲しいと要求している。制御できない暴れ者では困るから、"bélier" を忌避するのは、ある意味当然である。しかし、生殖能力を持つオスは困るといっている可能性もある。もちろん、羊は一頭だけだから、繁殖されては困るというわけではない。バラという女性がいる星へ、"bélier" をつれて帰るわけには行かないといっているのである。

 そもそも「なぜヒツジなのか?」というのも、問題の一つである。草や若木を食べるという点では、ウサギでも同じ役割が期待できる。食べる量や扱いやすさの点では、ウサギの方が好都合である。飲料水もほとんど要らないし、排泄物もヒツジに較べれば随分少ない。話の都合上ウサギではまずいことがあるのだ。ウサギは、外見を一瞥しただけで雌雄を見分けることができないのである。

 サンテックスは知識不足だ。品種にも依るけれど、原則的に、ヒツジはメスにもツノがある。オスに較べれば小さくて目立たないだけである。

 
 2-3 「1000 マイル:実在しない場所」
   Le premier soir je me suis donc endormi sur le sable à mille milles de toute terre habi.
 この“mille milles”が、正確に「千」マイルと言っているのではないことはすでに指摘した 。「ミル・ミル」と同じ音を繰り返すための語選びであることは論をまたない。しかし、それならば 500(cinq cents)キロメートルでも目的は達せられるし、事実、他の場面でこの音の繰り返しは用いられている。“mille milles”と“cinq cents kilomètre”では何が違うのか?
 トーマス・モアの「ユートピア」が“どこにも実在しないところ”という意味であることはよく知られている。「人が住んでいる場所から 1000 マイルも離れたところ」はこのユートピア、つまり、実在しないのである。世界地図を広げて、半径 1600 キロメートル(海里ならば1850km)の円内に人里がない場所を探してみるがよい。ときは 1940 年代。辛うじて南極大陸がその条件を満たすのみで、残る5大陸のうちにそのような地点を求めることはできない。半径500キロメートルならば、条件を満たす場所はありうる。サンテックスは、当然そのことを知っていた。飛行機乗りである彼には、1000 マイルの遠さが、実体験を通して理解できていたに違いない。王子と出会ったこの地点、地球上に存在しないとサンテックスは示唆しているのだ。

 2005年、新訳5種類がそろった。そのどれもが、「1000 マイル離れた場所」と直訳し、それが「ユートピア」であることを指摘していないのは驚くに値する。そんなことでは、サンテックスがそこかしこに仕掛けた騙し絵を見抜くことは覚束ないだろう。

Chapter 3.
 
 3-1 「ということは、きみはそんなに遠くから来たわけじゃないんだ......。」
 王子はじっと考え込んだ末に、ヒツジの絵を取り出してしみじみと眺める。何を「考え」、なぜヒツジの絵を取り出したのか?
 「この飛行機で、B-612 へ帰れるかも!」王子はそう期待した。ならば、この身体を運んで貰える。しかし、その期待はすぐさま打ち砕かれる。星へ行けるような代物ではないのだ。「だめか」ため息をつきながら王子はヒツジの絵を取り出した。やはり身体は捨てて行かなければならない。だとしたら、バオバブの芽を摘んでくれるのはこのヒツジだけだ。バラの星を護ってやるためには、このヒツジだけが頼りなんだ.....。 たのむよ、ヒツジ君。

 そもそも、この地点に飛行機を不時着するよう仕組んだのは王子ではないのか? ひとつには、ヒツジの絵を描かせるために。そしていまひとつには、あわよくばこの飛行機に便乗して B-612 へ帰る企みを抱いて . . . 。
 さすれば、最後の夜に、飛行機の修理ができたことを知っていても何の不思議もない。故障を直したのは、操縦士ではなく王子なのだ。砂漠に井戸を出してみせたり、飛んでいる飛行機を意のままに故障させたり、王子は異世界仕込みの魔術を使うのでは?

Chapter 4.
 
 4-1 着てる服が服だというので . . . 。
 サンテックスはここで、「おとな」に嘲られる代表としてトルコを挙げている。不用意かつ無礼な話である。他人への思い遣りという点に関しては、サンテックスはこの程度の人間でしかない(同様のことは他でも繰り返される)。
 トルコは迷妄未開の民族ではない。大帝国を築いて中近東に覇を唱えた時期もあったし、トプカプ宮殿やブルーモスクを見ても明らかなように、高い文化を誇る国である。講演旅行でイスタンブールを訪れたことがあるサンテックスは、当然そのことを承知している。また、「おとな」が物笑いにしたがる服装は他にたくさんある。それなのになぜサンテックスは、トルコを持ち出したのだろう?
 サンテックスは強烈なナショナリスト、むしろ右翼と呼んだ方がよい思想の持ち主であったことと関係がある。第一次世界大戦でトルコはドイツと結びフランスと敵対した。第2次世界大戦では中立を堅持して、度重なる連合国の参戦要請をはねつけ続けた(最終局面では連合国側に参加。日和見を決め込んだ訳である)。サンテックスはトルコが嫌いだったのだ。

 嫌いと言えば、サンテックスは日本はもっと嫌いだった(ドゥリトルの東京空襲義勇参加志願をしている)。笑い者にするのなら、チョンマゲ頭に羽織袴の日本人を出すほうが、トルコ服よりも効果的に思われる。そうしなかったのは、B-612 発見の栄誉を日本人に渡す気にはならなかったからだろう。

Chapter 6.
 
 6-1 44回の入り陽
 朝日と夕陽が1セットになって1日を区切るのが、大自然の摂理である。王子はこの当然のことわりに逆らって、一日に44回もの落日を作り出してしまう。気分が晴れないからという理由でである。この身勝手なやりくちは、子どもの頃のサンテックスの姿を彷彿とさせるものがある。自分専用の小さな椅子を引き摺って母親の後をついて回り、「お話」をせがんだ幼少の頃のサンテックスの姿が二重写しに浮かび上がる光景ではないか。

Chapter 7.
 
 7-1 “Monsier cramoisi”
 王子から「きのこ」と罵られる人物がいる。“Monsier cramoisi”“Monsier rouge”である。明らかに同一人物を指しているのに、ふたつに使い分けられているところは、用心しなければならない。特に後者は“gros Monsier rouge”と表現されている。(内藤 濯氏は「赤黒先生 」と訳しているが、これは論外なので、ここでは議論しない。)
 “cramoisi”を辞書で調べると、ふたつの意味しか出てこない。原義である「深紅色(の)」と、それから派生した「顔が赤い」の二通りである。“rouge”も「赤」が原義だが、こちらの方は派生義が多い。「紅潮した顔色の」という意味も、また(通常赤毛は poil de carotte だが)、rouge に「赤毛の」を加えている辞書もある。いうまでもないことだが、左翼/社会主義/共産主義といった意味もある。
 一般的には「赤ら顔」と解して、後で出て来る「ビジネスマン」に当てることが多い。事実、挿絵は頬が赤く大柄である。計算ばかりしている点もぴったり来る。この「ビジネスマン」はアメリカ人のアレゴリーであるとして、アメリカでは The Little Prince は反感を買った。
 “rouge”を単純に考えない方がよいと思う。ナチスの腕章も、社会主義を象徴する赤旗も、“rouge”である。ともにサンテックスは嫌悪感を抱いていた。社会主義は計画経済であるから「計算ばかりしている」という条件を満たす。ソ連は大国、すなわち“gros”である。Le Petit Prince が書かれたのはニューヨーク。ドイツと敵対するという意味では同盟国であるが、日本とは不可侵条約を守って(日本の方も日独伊三国同盟に反して)中立を保つという一筋縄では行かない国でもあった。ドイツが片づいた後は主要仮想敵国になると、アメリカが覚悟を決めていた時代である。

 
 7-2 きのこ
 “champignon”は果たして「きのこ」だろうか? (日本語訳に関しては「 きのこ 」参照。)

 ヨーロッパで赤いきのこといえば、ベニテングタケが代表格である。こびとの家としておとぎ話に出て来たりする。ニューヨークのセントラルパークにも出るという。ごく普通に目にとまり、子供達には人気がある。サンテックスが「赤いキノコ」としてイメージに描くのはこのベニテングタケだろう。色には変異があり、オレンジ色や黄色の仲間もある。成長すると茎が伸び、傘は水平か軽く反転するほどに開く。
 有名な毒キノコであるが、誰でも知っているから、食べて中毒する人はいない。したがって、毒があるからといって嫌われているわけでもない。「赤キノコ!」と罵られたという話は聞いたことがない。

 西日本に住んでいる人は見たことがないだろう。日本にも生育するが、東日本の比較的寒冷な地域に限られる。普通は食べないが、地域によっては、毒抜きをして食用にするという。コクがあって旨く、ハマッテシマウ味なのだそうである。

 植物学的には「キノコ」という分類単位はない。ツクシがスギナの生殖体であることはよく知られている。同じように、菌糸が集まって胞子を作るための構造体を作ったもののうち、目に見えるほど大きく、地表や樹表から立ち上がっているものを「きのこ」と呼ぶ。薬用や食用にすることが多い。フランスでは、キノコだけでなく、その本体であるカビも“champignon”である。罵りに使うとしたら、「きのこ」ではなく「カビ」である可能性が強い。

 
 7-3 壊れはじめたサンテックス
 逆上した王子は言いつのる。「花の香りを嗅いだこともない。星を眺めたこともない。. . . . . 『俺は重要人物なんだ』とばかり言っている。. . . 」「そんなの人間じゃなくって、シャンピニオンなんだ!」 珍しくも王子が、あからさまに人を罵る場面である。しかし、作者にこれを言わせる資格があるのだろうか。
 瓦・タイル製造会社の事務員として1年間、「計算ばかりをして」給料を貰い続けたのではなかったか? トラックのセールスマンとして務めながら、1年半で僅か1台のトラックしか売りさばけなかったのではなかったのか? 貰った給料に見合うだけの「まじめ」な仕事ぶりだったと言えるのか? ちょっと目を離すとすぐに瞑想状態に陥って、役に立たない給料泥棒だったのは誰なんだ?
 「夜間飛行」の主人公「リヴィエール」のモデルとされるディディエ・ドーラは、まさにこの無骨な計算屋の典型ではないのか? サンテックスは彼を尊敬していたはずでは?「赤ら顔」と表現したからと言って、ドーラを除外する言い訳にはなるまい。大恩あるドーラに泥を浴びせるような言動ではないか。
 我々は現実の世界の中で生きている。農民であれ商人であれ、はたまた経営者であれサラリーマンであれ、のんべんだらりと生き抜けるわけではない。まじめに、必至に働かなければならないのだ。王子にしてからが、自分の星では「まじめ」に日課をこなしていたはずだ。空を見上げる暇もないほど忙しく立ち働くどこが悪いというのか。愛する人々のもとへ生還するためには、必死になって壊れたエンジンを直さなくてはならない。その作業を邪魔した上、夢想と現実をミックスアップして訳のわからないことを言い立てているのは王子の方である。注意散漫を非難され続けたサンテックスが、童話に名を借りて倒錯した復讐を試みる。これは落伍者がする自己弁護の居直りである。王子の主張もまた、身勝手きわまる。尋ねられたことには返事もせず、自分の質問には気に入った返事を強要する。望まない返事には逆上して、己の考えを押しつけようというのだから、まともではない。この部分、「大切」だと思い込んだことのために自らを死地に追いやろうとする、晩年のサンテックスが顔を出している。

 
 7-4 トゲをつけるわけ:知る必要などない
 花が「苦労してトゲをつける理由を知る」ことなど重要ではない。何のためにそんなことを知ろうとするのか。そして、知ってどうなるというのか。
 他人の質問には答えないくせに、自分が発した問いがぞんざいに扱われたことに逆上し、愚にもつかない因縁をつけて黒を白と言いくるめようとしているのだ。

どうでも良いこと:
大事なこと:
トゲをつける理由
ヒツジが花を食べる
赤ら顔の太っちょの計算 ⇒ 基準にはならない。論理構成がデタラメ。

 「トゲをつけるわけ」を知りたがるのは、星を計数するのと同じくらい無意味で「役に立たない」ことである。大事なこととそうでないこととをごっちゃにしているのは王子の方だ。そもそも星の計算は、「どうでも良い」代表例。判定基準というものは、それを中心としてプラスとマイナスに分けられるものが選ばれる。「赤ら顔の太っちょ 」を比較の基準にすること自体、ものごとを判断する客観性に欠けるといわざるを得ない。
 「トゲをつけるわけ」が大事だというならば、「花が美しいわけ」も、「トラが草を食べないわけ」も、そして、王子の興味の赴くところ世の中のありとあらゆることが「重要なこと」になってしまう。ここで王子は、傲岸な専制君主として立ち現れている。

 文学作品の鑑賞に科学的解説は野暮というものだが、「トゲが何の役にも立っていない」というのは誤りである。
 硬いトゲに守られた茎を食する中型・大型の動物はいない。トゲだらけのハマナスやノイバラの群落、そして、乾燥地に木立となるアカシアの類ではっきりするように、有刺植物は堅固なバリケードとして大きな動物の接近・進入を許さない。トゲは立派に役立っているのだ。【棘だらけのアカシア類の葉を食べるキリンは、まだ棘が柔らかな新しい枝葉を選んで食べている。鋭く硬い棘を意に介さないわけではない。】
 百万年も前からトゲを作ってきた植物は、それによってちゃんと身を守っている。トゲがありながら花や葉を守れないのは、人間に「飼い慣らされ」、姿形を見せびらかすために孤立している園芸品種だからである。
 孤立:「地球のバラ達」以外の登場人物(?)がすべて孤独な点については、項を改めて論議する。

 激昂した王子が支離滅裂な論法を振り回し、やくざな語気に気おされて操縦士が謝ってしまうと言うメチャクチャな展開だが、この章は、王子に対する操縦士の気持ちが決定的になるという重要な部分である。

 詭弁を弄して主張を押し通そうとするこの点では、バラと王子の関係が、王子と操縦士のあいだがらとして再現されている。
 出逢いに際して一方的な一目惚れであったこと、別れに際しては、一方的に去ってしまうこと、その他物語の重構造性については、別項で議論する予定。


Chapter 8.
 
 8-1 この星へはタネとしてやって来たのでした。ですから、もと居た星のことなんて知っているはずがないのです。
 この一文は、『タネは赤ん坊のように(あるいは卵子のように?)未発達な存在だから、記憶を維持することができない』といっているわけではない。そもそも植物であるバラの記憶システムとして神経系を想定することには無理があるから、その発達程度を記憶の有無と結びつけること自体無意味である。「タネ」は、未発達な存在として描かれているわけではない。

 このタネと記憶のくだりは、物語の最終段、王子の屍体が残らなかったことの説明/解釈に極めて重要な伏線となるのだが、日本人には理解し難い点があり、読み過ごす人が多い。

 多くの東洋人の感覚では、バラの種も、それが芽吹いて生長したバラの木も、ひとつながりの生命体であって、別の個体とは考えない。それどころか、元来は別の生命体である冬虫夏草のようなものまで、同一の個体と考える傾向がある。もっと凄いのは、チベット仏教のダライラマのように、特定の生命が時空を超えて再生し、その証しとして前世の記憶を保持していることを示したりする。形の変化に重きを置かない輪廻転生思想が、魂を生命の本質と見なすからである。
 対して、中東以西には別の生命観が支配する。たとえば、エジプトのミイラは、還ってきた魂が「自分の体」を見つけられなければ復活できないから、肉体を保存しておかねばならないのである。形が変わってしまえば、それは別の生命体。それに付随する記憶も拭い去られ、綺麗さっぱり別物として再出発する。

 「一粒の麦、地に落ちて死なずば. . . . . 。 ・・・・・ 自分の生命を惜しむ者はこれを失い、この世でその生命に執着しない者はこれを永遠の生命のために保つであろう。」*【ヨハネ福音書 12-24。】。日本人には到底理解できない発想法である。生きていればこそ芽を吹くのであって、死んでしまったら花開き実を結ぶことなぞ望みようもない。しかし、それではこの言葉は意味を持ち得ない。

*  多くの日本語訳聖書は、「惜しむ」を「愛する」,「執着しない」を「憎む」としているが、日本語として変なので、このように訳し直した。

 姿を変えて根を出し葉を開いたとき、種としての麦粒は死んだのである。麦粒は死に、芽という別の生命に生まれ変わったのだ。それが新たに100粒の麦粒をもたらしてくれる。麦粒が麦粒のままであったなら100倍の利得は得られない、とヨハネは言う。随分世俗的な損得勘定を持ち出したものである。儲けるためには麦粒はその命を捨て、別の生命として再生しなければならないのだ。
 麦粒が「死ぬ」というのは、キリスト教独特の考え方というわけではない。むしろ、このような思想が支配的に存在したからこそ、ヨハネは「現世の命に拘泥してはならない」ことのたとえ話に、麦の発芽を持ち出したのであろう。繰り返すが、発芽の前と後とでは別の生命と見なされるのである。

 キリスト教に対する信仰心は捨てたといわれるサンテックスだが、肉体と魂の不離性に関しては、上記の西洋型思想を色濃く残しており、Le Petit Prince を読み解くうえでも重要な鍵を握っている。死と肉体に関する考え方に関しては、この点を明確におさえておかないと、王子が肉体を保持して星へ帰ったのか捨てていったのか、の違いの重要性が理解できない。

 
 8-2 僕の花は、星中にいい香りを漂わせていた。
 このくだりに embaumait は2度繰り返される。最初の目的語は「僕の星」、その主語は la mienne 「僕のもの」である。そのすぐ前に「花の言うことなんか聞いちゃいけなかったんだ」という言葉があり、その「花」les fleurs は複数形となっている。聞き流すべきなのは一般論としての世の中の花の言い分。星中にいい香りを漂わせたのは、「僕の大切なあの花」である。
 次の段落に Elle m'embaumet et m'eclairait. と出てくる。「僕を何ともいえない気持ちにさせ、晴れ晴れとした気分にしてくれた* 」と言うことである。いたたまれず、星を捨てる原因になった相手に対する評価が、ここでは積極的にプラスの評価に変わっていることが判るだろう。

*  すでに指摘した“Yuo are my sunshine”を思い出して欲しい。

 「バラが香るのは当たり前」と読み流してはならない。ヨーロッパの、かつて豊かさを経験したことがある都市や、植民地としてその影響を強く受けた世界各地の都市を訪れて、街角で女性とすれ違えば、必ずと言ってよいほど、香水やオーデコロンの香りをかぐことになる。それぞれの個性を、強く、あるいはさりげなく主張する香りである。すれ違って香りを嗅ぐことがないと、肩すかしを食わされたような軽い落胆の気持ちを味あわされる。向こうからやってくる姿を見て、無意識のうちに、その女性のフレグランスを想像し期待しているからである。それほどまでに女性と香料との関わりは密接で、身だしなみの一つというべきものになっている。
 最近でこそ香水の香りはどんどん薄くなり、「知的」と呼ばれる女性の間では香水をつけないことも多くなった(耳朶に穴を開けたりもけっしてしない)が、サンテックスの時代はそうではない。香水を買えない階層の女性を除けば、女性と香料は切り離すことができない間柄なのである。香水は注文するか、自らの好みにしたがって各種の香水を混ぜ合わせるかして、自分だけの香りを創り出す。平安時代の公達がそうであったように、漂わせる香りは、その女性の品性を表す重要な採点対象の一つであった。ここでは、捨ててしまったバラの存在が、香りにこと寄せて再評価されているのである。
 バラが香りを漂わす女性であることに注意して欲しい。「バラはフランスのメタファーである」という主張があるが、私は賛成しない。ここに述べたような小さなことを一つ一つ積み重ねて行くと、バラはサンテックスと関わりを持った実在の女性以外ではあり得ないという結論に到達するのである。【サンテグジュペリ一族はゴリゴリの王党派だった。サンテックス自身も右翼だった。フランスのメタファーならば、ユリにした筈。(バラは英国の国花である。)】
 (コンスエロやルイーズ・ド・ヴィルモランが、そしてあのB夫人が、当時どんな香水を用いていたのかは、知りたいことの一つである。サンテックスが家を飛び出した頃のコンスエロは、バラをモチーフにした香水を使っていたのではないだろうか?)

 
 8-3 4つのトゲ
 「バラはフランスのメタファーである」という主張がある。私は賛成しないけれど、それでは、コンスエロを脅かすトラとはいったい何なのかと問われると、答えられない。バラがフランスならば、候補がある。ドイツが誇る無敵の6号戦車、ティーゲルである。

 この時期、王虎 Königstiger と呼ばれたヒトラーお気に入りの II 型は、まだ戦場に姿を見せていない。Le Petit Prince 執筆時期に実戦配備されていたのは I 型である【初陣は1942年8月29日、レニングラード戦線に4輛が投入された。1943年2月13日のアフリカ戦線では第5装甲軍の主戦力として、物量に勝るアメリカ軍第1機甲師団を相手に戦車150輛を撃破する猛威を振るった】。II 型より軽量(I 型:57トン, II 型:70トン)とはいえ、接近戦ですらその前面装甲を打ち抜かれたことはなく、2km の遠方からあらゆる戦車の装甲を打ち抜く強力な 88mm 砲(高射砲を戦車砲に改装。56口径の長身)と相俟って、世界最強のタンクであった。鈍重で長距離の機動戦にはむかなかったが、列車その他のトランスポーターで運ばれて最前線に投入され、ソ連や連合軍の戦車をなぎ倒した。配備車輌数は多くはなく、故障に悩まされはしたが、たった数輌で敵戦車部隊を全滅に追い込む実力があり、フランスの命脈を断つ「トラ」であった。

 トラがドイツ戦車ティーゲルであるとするならば、役にも立たない「4つのとげ」は何なのか。あらゆるものが候補となり得るが、「4」を満たすものがない。軍隊は陸・海・空の3軍である(有名な「外人部隊」は独立軍ではなく、陸軍に所属。国家憲兵隊を勘定に入れれば4軍であるが、憲兵の任務は外国との戦争ではない)。ド・ゴールの奔走で何とか体裁を整えつつあったフランス装甲師団(装甲師団とは名ばかり。ティーゲルはおろか、軽中混成ながら電撃戦をもって鳴るドイツ機甲師団の敵ではなかった)は3個師団しかない。
 そして、「トラは草なんか食べない」その草とは?

 
 8-4 トゲのないバラはない
 諺: Il n'ya pas de roses sans épines.

Chapter 14.
 
 14-1 1年に2度働くだけ
 「北極に ..... と、南極に .... だけが、....。ふたりは一年に二度、働くだけだったのです。」
 地軸の極点に関しては、これは正しい。北極・南極で、太陽が地平に沈まない白夜と、その裏返しであるまったく太陽が顔を出さない暗黒の季節とは、それぞれ2か月程度である。残りの季節には、太陽が一部沈んで一部露出し、だんだんと沈んでいる部分の割合が変化する。
 極点以外の北極圏と南極圏では、「残りの季節」には日没と日出が起きる。太陽は、北極圏では北から出て北に沈み、南極圏では南から出て南に沈む。極圏より低緯度では白夜は起こらない。

 14-2 仕方ないね
 点灯夫は灯台守のように灯りを操作し続ける。永遠に続く罪業のようにである。王子はこの点灯夫にプラスの評価を与えている。人の役にたつ(ことがあるかも知れない)からである。
 このような仕儀になった理由は、星の回転が速まったから、すなわち、自然現象であって、点灯夫に責任はないように読める。しかし私には、ハロウィンのカボチャにまつわる伝説:石炭の火を灯したカブを手に、地獄門と現世門の闇をさまようランタンジャック(Jack-'o-Lantern)を思い起こさせる。“pas de chance”という言葉の裏には、この運命の元となった行いが秘められているのではなかろうか。

Chapter 17.
 
 17-1 サボテンと骨

ウチワサボテン


平たい幹は6角形の区画からなり、それぞれの頂点近くに各々ひとつの棘がある。


花(撮影:6月)


イチジクに似た実を付ける(撮影:10月)


発芽直後の幹は円筒形だ。

ウチワサボテンは北アメリカ大陸南部が原産。約260種が知られている。


木立性の種類もある。大きくなるのは水と養分次第。

「幹」から新しく出た芽。

「幹」に見えるのも元来は「葉」。樹皮の下には葉緑素がある。幹には継ぎ目。

風媒花ではなく虫媒花。

 キリスト教宗教画には暗黙の約束事が多い。イエスが磔刑に処せられる場面では、足下に必ずドクロが描かれる。人類の祖先であるアダムの頭蓋骨、ということになっている。
 砂漠に描かれたサボテンと骨。残された原画の中には、骨もサボテンももっと多く描かれたものが存在する。最終的にはシンプルなものが選ばれた。このふたつ、一体何を暗示しているのだろう。

Chapter 18.
 
 18章は、(「あきんど」の章と並んで)11行しかない一番短い章である。わざわざ1章を割り当てるからにはそれなりの意味があると見なければならない。

 18-1 花弁が3枚だけの花の意味。
 フランス人が「3」に込める第一のものは「三色旗」である。たとえば、サンテックスと同じ時期、フランスに残って「全国作家委員会」を組織し、地下活動をした抵抗の詩人アラゴンの詩を示せば:

  未完の6つの壁掛け

大地よ大気よ水よ火よ 我が苦悩の毛氈よ
涙よ歌よ 私の愛よフランスよ

四つの元素よ四方の風よ四季の花々よ
だが わたしには三つの色で足りるのだ

あなたの気にいる 空と雪と血の色で
わたしのうたう歌は 怒りの歌だ

火事だ火事だ と叫ぶ季節(とき)は過ぎた
わたしたちの家は燃えてしまったのだ

鏡のなかの ひとびとの深い憂いの色
ひとびとはいまやメシアに似ている

水のほとりでわたしが愛する「夫人」にあった
フランスこそわたしの「夫人」だがわたしはランスロではないのだ

  ..................................

 そして七番目の壁掛けは 一週間の終りの日曜日のように 小鳥と花々と暗い茂みで織られ そしてまたひとびとと武器と馬と戦火と殺戮と 踏みにじられた女たちと扉に釘づけにされた子供たちと地下牢で車刑にされた英雄たちからなる
 そして 牢獄の奥から湧きおこる偉大な叫びで織られ 偉大な叫びと共に 希望はついに絶望を引き裂き始める

アラゴン:フランスの起床ラッパ
大島博光 編,三一書房 より
 

 


 いうまでもなく「空と雪と血の」三つの色とは三色旗(トリコロール)のことである。
 6という数字は、聖書・創世記にある、神が作業を行った6日間を指すのが普通だが、この詩の場合は内容が創世記と対応しない。とはいうものの、「七番目」の連は「日曜日」である。
 第6連は注釈なしでは理解ができないであろうが、話の本筋から外れるので、ここでは説明しない。

 「花弁3枚だけの花」はフランスのこと、と解釈するべきものである。数字「3」は、次の第19章にも現れる。

 
 18-2 異様な挿絵:バオバブ並みの大きさ
 次の章に花の挿絵がある。19章に「花」は登場しないのだから、18章の「花弁3枚だけの花」の絵だと思われる。本来は18章に刷り込まれるべきものが、印刷技術上の理由から、次のページに回されたものであろう。

 ふたつ描かれた花のうち、少なくとも片方は5弁(またはそれ以上)の花である。もう一方は横向きで花弁3枚が描かれているが、蕊が見えているから、同じく5弁花の花弁が1〜2枚散ったか、重なって見えないのだと考えるのが自然であろう。だとすると、物語の内容と挿絵との間に整合性が欠けている。
 蟻の行列のようなものが画面を斜めに横切って砂丘の彼方へ消えて行く。(または彼方から手前へ続いている。) 砂漠に行列を作る蟻はいないから、これは人の足跡と解するのが素直であろう。だとすると、足の大きさと歩幅から考えて、この絵はバオバブのごとく巨大な植物が、小屋ほどもある大きな花を咲かせている事になる。砂丘との比較からもこの判断は支持されるが、巨大な花木によって一体何を表そうと意図したのかは、理解できない。
 かりにフェネックの足跡だとしても、ヒマワリ以上の大きさになろう。実在する植物である可能性は極めて薄い。合理的な説明を試みるよりは、サンテックスの不注意、と考えるのがいちばん素直ではないかと思われる。

 
 18-3 人間たち複数の意味付与
 原文は Les Hommes である。「人間たち」と訳すのは間違いではない。この文の表向きの意味はそれでよい。
 “Les Hommes”は、 「男達」と訳すのがふさわしい場合もある。数字「3」が三色旗を寓意するものであるとするならば、それはペタン将軍のビシー政権であり、“Les Hommes”は、その政権に失望して離れていった「国民」、更には、抵抗運動に身を投じた男たち(=戦士たち)であると読み解かねばならない。
 「隊商」は“Caravane”であるが、巡礼の行列や登山者の隊列も Caravane である。闇に紛れて村から村へひっそりと移動するレジスタンスの隊列もまた、“Caravane”に他ならない。ナチの探索の目を逃れて転々と居場所を移す根無し草。艱難辛苦に耐えている。
 「戦う男達はどこへ行った?」と詰め寄るサンテックスに、「6・7人は居たかなぁ。どこかへいっちゃったよ。」と頼りない返事。彼は見切りを付けて別れを告げ、ニューヨークへと旅立った。

 Adieu, fit le petit prince.
 Adieu, dit la fleur.

 ここで faire という単語を使うのは些か苦しい。頭韻を踏むために無理をしていることがお判りだろう。“Adieu”は再会を期さない永訣の挨拶である。

 
 18-4 気取らぬ花はかない存在への別れ
 さて、些末な言葉の解釈はこれくらいにして、この章の本質に触れなくてはなるまい。

 「simple」の原義は「一重(ひとえ)」である。物については「単純な」,人に関しては「気取らない」「無邪気な」「お人好しの」といった意味が派生する。

三枚の花びら:トキワツユクサ

三弁花の代表といえばツユクサの仲間。その典型のトキワツユクサ。花冠は 1.3cm 程度。

 

日本人にとってツユクサといえばこのようなボウシバナ型。とても
三弁花とは思われないが、よく観察すれば三弁であることが判る。

 ボウシバナのような凝った作りの花冠では、下に述べる、地味な「一重」で「飾らない」「気取らない」という意味合いは感じ取れないが、トキワツユクサのような花型ならば simple の表現がぴったりである。これでも華やかすぎるというのであれば、米粒ほどの大きさで花弁がもっと丸みを帯びたブライダルヴェールがある。ただしこちらはカスミソウのように数で勝負の騒がしさを持った匍匐蔓性の性質。

 この章で「simple」は「つまらない」ではなく、積極的なプラスの評価を表している。地味な「一重」で「飾らない」「気取らない」この“une fleur”は、あらゆる点で星に残したバラと対蹠的であることを読み取らなくてはならない。それでなくては、たった11行の短い章がわざわざここに配された意味が理解出来ない。
 “une”と不定冠詞がつくこの花は、王子にとって行きずりの花である。水をくれる人も、衝立を立ててくれる相手もなく、厳しい砂漠のただ中で、たったひとり明るく生きている。

 Bonjour, dit le petit prince.
 Bonjour, dit la fleur.

 3回の応答しか交わさない会話の冒頭がこれである。そして、

 Adieu, fit le petit prince.
 Adieu, dit la fleur.

 と別れを告げる。地理学者から「はかない」という意味を教えられた王子には、この花がはかないものであることが判っている。だから“Adieu”* である。花にはそれは判らない。王子以外には、たった一度しか人を見たことがない花にとって、去って行く王子に再び合おう筈はないから、“Adieu”は当たり前の別れの挨拶に過ぎない。広い砂漠でたった一本生きていて、仲間の死を見送った経験もないから、自分がはかない存在であることには気づいていない。“simple”なのである。
 王子はそれを花に気づかせまいとする。さりげなく告げる別れの言葉に、その気遣いと心の重さが込められている。出会いの挨拶は両者ともに“dit”である。別れに際して、王子は“fit”しているのに、その悲しい心に気づかない花は“simple”に“dit”している。(“faire”は他の単語でも構わないが、“dit”に対応して“fit”と韻を踏むところがサンテックス流である。因みに、バラに別れを告げたときは Adieu, dit-il à la fleur. である。)

 * 王子は着陸地点へ戻るために、往路と同じ道を逆にたどったはずである。しかし、その帰路にこの花は姿を現さない。【この花ばかりではない。地球上で往路に行き会ったあらゆるものが、帰路には現れていないのだ。王子の旅は一方通行である。】

 この後、やがて砂漠を抜け出た王子は、5千のバラに出会う。さらに、“une fleur”や“les roses”と“ta rose”の違いを狐から教えられる最大の山場へ向けて、頂上直下の登りにかかる重要な地点がこの章である。頂上に立ったその瞬間、一気に展望が開け、見えなかった物が見えるようになる。それをサンテックスは「目には見えない」と表現する。苦しい登りに耐えて頂上に立てば、登り道では見えなかった物を「こころで見る」ことが出来るようになる。やがて訪れるその地点へ向けて王子は、はかなく simple な砂漠の花と、星に残した儚くあでやかなバラとのことを思いながら、次の章で山に登る。

Chapter 19.
 王子は山に登る。山登り自体は象徴的なもので、物語の筋書き上の意味はない(削除しても影響がない)。後に続く第21章が物語の頂点(山場)であることを、暗示・予告しているのであろう。

 
 19-1 こだま:またしても
 こだま以外に、王子の叫びに答えるものとてない。サンテックス一流の繰り返しの音韻美学が発揮される。

 Bonjour... Bonjour... Bonjour...
 Qui êtes-vous... qui êt es-vous... qui êt es-vous...
 Je suis seul... Je suis seul... Je suis seul...

 「3」が寓意するものは三色旗であろう。狂おしく呼び掛けても意味のある応えを返さない虚しい相手。それはほかならぬ故国フランスである。

Chapter 21.
 
 21-1 最大の謎:王子は何の必要があってバラ達を侮辱したのか?

   地球のバラ達が王子に何をしたというのか。陽の光を一杯に浴びて無垢な日々を送っている地球のバラ達のところへ、ある日通りすがりに一人の少年が迷い込んで来る。笑いさんざめくバラ達の姿を茫然と眺めた末に少年は、勝手に落ち込んで「ぼくのバラは特別なものじゃなっかったんだ」と泣きっ面をしながら去って行く。数日(?)後またやって来て「君達はありきたりのバラに過ぎない」と言い放つ。行きずりに出会った存在である以上「水を掛けてやったり」した「特別な関係 *」でないのはあたりまえのことだ。ありきたりであろうとなかろうと大きなお世話というものだろう。そのような辱めを受けねばならない謂れはない。バラ達はブーイングを以って王子を追い返すべきだったのだ。

新日本製鐵株式会社 #303 ばら園

 一体なにゆえ作者は、このような筋書きにしたのだろう? キツネの教えを確認するためならば、バラ達を侮辱する必要はない。彼女たちの姿を眺めながら、心の中で独白するだけで充分だ。ノコノコと出かけて行って、バラ達の心を傷つけるような仕打ちをする必然性があったのか?
 作者の不注意にすぎない、というのがひとつの可能性。そもそもサンッテクスは(文体に凝りはするけれど、その内容には)あまり注意深い作家ではない。この程度の無神経さは驚くに値しないのかもしれない。
 もし単なる不注意でなかったら、どのようなことになるのだろう? Le Petit Prince は、コンスエロへのメッセージを込めた私小説としての側面を持つ。星に残した“バラ”がコンスエロであることはまず間違いがない。とすれば、地球で出会ったバラ達は、彼の“ミニョンヌ”(愛人,かわいこちゃん)達ということになる。執筆時期の事情から考えて、シルビア・ハミルトンは除外される。B夫人も別格だ。作者がこのようなことを通告する筈はない **。 それ以外の女性たちに向かって、かように酷薄な宣言を突きつける程、作者の精神状態は荒んでいたのだろうか?

* 古今東西の絵画や文学で、「濡れる」・「水を掛ける」は性交渉の隠喩として多く用いられるている情景・言葉である。だとすれば、「特別な関係」は、肉体関係があることを意味する。
** とはいうものの、この執筆時期、サンテックスとB夫人とは疎遠になっていた。加えてシルビア・ハミルトンに夢中。果たして除いて良いものかどうか疑問は残るが、その後の進展はサンテックスの心がまたB夫人へ戻ったことを表している。

 
 21-2 唯一の複数登場者
 王子と対話する登場者は、地球のバラたちを除けばすべて孤独である。地球の人口構成を述べるくだりは操縦士の語りであるし、列車の乗客は「その他大勢」の脇役であって、王子と会話することはない。バラたちだけが5千もの群衆として王子と対峙する。そのバラたちひとつひとつは、「死ぬ気になってくれる」相手をそれぞれに持っているであろう。それなのに、自分のことしか考えない身勝手な王子は、「自分にとっての価値」だけを一方的に言いつのって、バラ達のもとを去ってゆくのである。ただ一人だけを見つめることと、衆を眺めるだけとの違いがくっきりと浮かび上がる。この場面、バラ達一人一人を見分け、一対一の対応をする能力を持たない王子の方にこそ非があると断罪せざるを得ない。

 
 21-3 心で見なくちゃ、ものごとはよく見えない。かんじんなことは目には見えないのさ。

   “On ne voit bien qu'avec le coeur. L'essentiel est invisible pour les yeux.”

   サンテックスの言葉の中で、一番人気がある。彼の思想を表す最も重要な言葉の内の一つとみなされている。しかし、言葉の内容それ自体は、ごくあたりまえのことを言っているにすぎない。

  肉眼で見るものより心の目で見ることのできるものの方が、はるかに真であり美である。

デモクリトス

 デモクリトスは、その業績をプラトンが恐れたと伝えられる古代ギリシャの大哲学者である。晩年に失明して上記の言葉を残した。

   西欧にとって、古代ギリシャとその文明を継承した古代ローマは精神の故郷である。二つの時代をあわせて「古典古代」と呼ぶ。その思想や文言は、学校でも必須の授業内容で、常識として無意識の内にヨーロパの人々の生活を律し、思考を浸している。中世暗黒時代を隔てて、ルネッサンスが回帰をはかった原点であり、近代・現代ヨーロッパの文化基盤なのである。
 サンテックスは、その学歴からいって高等教育を受けたとは言い難いが、高等学校でギリシャ哲学は学んだはずであるし、何よりも文学者のはしくれなのだから、上の言葉を知らなかったとは考えられない。二つを比べてみると、サンテックスの方が言葉としては洗練されているが、残念ながら、内容においては些か矮小な縮小再生産であることを否めない。

 
 21-4 孤独なキツネ

   黄金色に色づいた麦畑を見る度に、王子の金髪を思い出すだろうとキツネはいう。何と哀しく惨めな話だろう。実りの季節、風に波打つ麦畑は「きつね色」。そこで思い起こすべきは、両親や兄弟姉妹・子ギツネ時代共にじゃれ合い共に走り回った仲間達の姿でなければならぬ。それなのに、王子に出会うまで麦畑は何の意味もなかったという。無関心な理由は「パンなんか食べないからだ」と。それでは、彼が最も関心を持つ「ニワトリ」は、どんな色をしていたのだろう? テリトリーを見回り餌場を巡回するために、林を過ぎ、草原に出で、麦畑に身を潜めてあたりを窺ったことはなかったというのか。 それらのことどもは麦畑の想い出には結びつかず、穂波を見ても何の感慨も催さないというのだから、随分貧しい感性の持ち主といわねばならない。
 王子と会話する登場者は(前述のように、地球のバラ達を除いて)すべて孤独である。このキツネ、親兄弟や仲間も知らぬ、天涯孤独の侘びしい毎日を過ごしていた筈。なればこそ、キツネの方から王子に声をかけたのだ。孤独ゆえに到達できた境地と、夾雑物を排したが故に得た哲学。その心髄を王子に伝える。その報酬として得たものは、愛別離苦であった。

 仏教では、生命が根源的に内包する苦しみを四苦(生苦・病苦・老苦・死苦)と呼び、更に、人として社会生活を営む上で生ずる四苦(愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦)を加えて八苦とする。

Chapter 23.
 
 23-1 循環小数:一週間で53分
 53 は7では割り切れない。無限に続く循環小数*となってしまう。実は53は素数であって、割り切れる数はない。サンテックスはここで何を言おうとしているのか。

*  「循環小数」と書くべきところを誤って「無理数」と表現していると 浅井徹也さん からご指摘を受けました。「無理数」とは、循環しない無限小数【例:円周率 π】のことです。分母・分子が整数であれば「無理数」にはなりません。不注意、お恥ずかしい限りでした。訂正させていただきます。浅井さん、ありがとうございました。 (2006.7.24)

 水は生きている人間にとって必須の物質である。もはやそれを必要としない状態とは『死』を意味している。一粒飲めばもう水が欲しくはなくなる丸薬とは、死をもたらす毒薬以外のなにものでもない。しかし、「週に一粒づつ」というからには、死んでしまうわけではない。
 王子は53分の節約よりも『泉』(次項参照)を求めてさまよい歩くことを選ぶ。『死』ではなく『生』を採ったのである。『あきんど』の星(=地球)での選択だったのか、それとも、すでに『死』を選び取ってしまったことへの反省だったのだろうか。
 【この丸薬の話、スイスのジュネーブでルイーズと一緒に「禿の特効薬」を探し求めた23歳の頃の逸話を思い出させる。】

 
 23-2 謎の挿絵:共同水栓(=日常の水)
 多くの挿絵の中で、配される必然性が感じとれない唯一のもの。それが“fontaine”である。あまりにも短すぎる章の空白を埋めるために、絵を描いたとしか思われない。それほどまでにして述べたかったことがこの章には潜んでいることになる。

グラースの街中で見かけた“fontaine”。
流れ落ちているのは自噴の地下水である。

 “fontaine”は共同井戸(自噴泉)のことである。誰でも自由に使える、日常身近な生活用水を常時溢れさせている。この時点で王子は、現実の水を必要とする肉体を有していたか、または、水を必要としていた頃の自分を思い起こしながら『あきんど』を批判していることになる。

サマリアの女

 23章から25章までは、切り離すことができないセットである。しかもそこでは、キツネの教えと並んで、この物語最重要のテーマが描かれる。したがって、この一連の章の解釈には、単に個人的な最終意見だけでなく、あらゆる観点からの考察とその展開過程の提示が要求される。そして、Le Petit Prince が欧米の白人社会で書かれ・読まれたものである以上、避けて通れない切り口がある。「キリスト教的理解」である。
 【私はキリスト教徒ではない。したがって、Le Petit Prince をキリスト教的教義に添って読み解こうという方向性を抱いてはいない。しかし、サンテックスがこの項を書く上で、(意識的・無意識的にかかわらず)聖書のこのエピソードが下敷きになっているであろうことは、ほぼ確かである。少なくとも、ヨハネ福音書のこのエピソードを知らないでは、Le Petit Prince 読解に万全の備えがあるとは言い難い。必要な知識を欠いたまま、狭い視野内での解釈が積み重なると、「Le Petit Prince は児童書である」という、的はずれな主張につながり兼ねない。】

 キリスト教文化の中で育った人が Le Petit Prince 第25章を読めば、必ず思い浮かべるものがある。聖書・ヨハネ福音書第4章に述べられた、『ヤコブの井戸』での、イエスとサマリア女とのエピソードである。

 生まれ故郷であるガリラヤ地方へ向けての旅。サマリア地方シカルという村の近くを通過中、疲れたイエスはへたり込んでしまう。弟子達はイエスをそこに残して、食料を買い込むためどこかへ行ってしまった。傍らの井戸は深く、道具がなくては水を汲むことは叶わない。暑い盛りの真昼だというのに、女がひとり水汲みにやってきた。
 女は地元の人間だった。イエスも属するユダヤ人はサマリア人とは仲が悪く、蔑視・差別して口もきかない。女はイエスを無視して黙々と水を汲む。イエスは女に声をかけた。「その水を飲ませてほしいのだが」。驚いた女は答える。「ユダヤ人は普段口もきかないくせに、何だってサマリア人である私に頭を下げるのですか」。イエスは尊大に答える。「(私は神の子だ。口のきき方に気をつけろ!)おまえの方から頭を低くして水を差し出すべきなのだ。そうすればおまえに「生きた水」を授けてやろうものを」。
 言われたことが判らない女は、イエスに言い返す。「水汲み道具も持たないあんたが、この深い井戸からどうやってその「生きた水」を汲もうというの! だいいち、この井戸はヤコブの井戸といって、私たちの祖先が掘った私たちのものなのよ!」

 イエスは言った。「だれでもこの水を飲む者はまた渇くであろう。 しかし、わたしが与える水を飲む者はいつまでも渇くことなく、わたしが与える水はその人の中で湧き出る水の泉となって、永遠の命に至らせるであろう」。
 相手がただ者ではないことに感づき始めたが、「水」を物質的な水と誤解した女は、イエスに言う。「主よ、わたしが渇くことのないように、また、わたしが水を汲みにここに来なくてもよいように、その水をわたしに与えてください」。(女は水を汲むために、かなりの距離を毎日歩いてやってくる。身持ちが悪く、周りの人間からも差別されているので、涼しくて井戸端が混み合う朝・夕にではなく、人影が絶える真昼にやってきたのである。)

 エピソードはまだ続くが、Le Petit Prince 読解上必要な箇所の指摘はこれで充分であろう。『あきんど』が売っていた「丸薬」は、物質的な水の必要性をなくして水汲みの時間を節約できる。王子はそれを拒否して、精神の水を探しに行く方を選ぶという。そして、それを見つける(または、操縦士の前に出してみせる)のである。


Chapter 24.
 
 24-1 
 『死』と『ともだち』と。<未完>

 
 24-2 井戸の発見
 水を必要としない王子が『井戸』を捜そうという。「水」でも「泉」でもなく、『井戸』である。【前述のように、“fontaine”は自噴泉であるから、労することなく「水」を手に入れられる。対して、『井戸』から「水」を得るためには、道具(手続き)と労力が必要である。】
 地中深くに『水』を秘めた、(通常は)『目には見えない』筈の
 王子は『井戸』の存在を予言している。この後見つかる『井戸』と、そこから汲み上げられる『水』は、王子が提供する幻想世界の存在物なのだ。<未完>

Chapter 25.
 25章は、Le Petit Prince 中で最重要の意味を持つ章である。ここにはこの物語のエッセンスが凝縮されている。

 
 25-1 井戸
 “puits”の語源は『竪坑』である。地面から地中に向かって垂直に掘られた穴の底から水を汲み上げる形式の井戸を指す。


砂漠の井戸(サンテックス著「モーリタニアの想い出」より。)
牛やラクダに綱を引かせて、深い地中から水をくみ上げる。


フランスの古式井戸(中世の城砦村落 Pérouges にて)
 井戸左側に巻き取りドラムとハンドル、コントラスト処理をした青い円内に滑車が見える。
 ペルージュは平野に孤立した丘の中腹以上に築かれた城砦なので、自噴泉は望み得ない。 

 挿絵は高い崖の上に井戸を描いている。通常にはあり得ない話である。

井戸(Le Petit Prince 挿絵)

 描かれた「井戸」にはハンドルや巻き取りドラムはない。上図ふたつを見比べて、アフリカの「井戸」に近い形式であることが見て取れよう。「水」を得るために必要な労力(踏まねばならぬ手続き)は、井戸が深ければ深いほど飛躍的に大きくなる。
 遠くに描かれた樹木は、崖下の水脈が比較的浅いことを暗示している。もし崖の上から簡単に到達できる深さに水脈があれば、崖の途中から水が滝となって流れ落ちることだろう。湧き出る水や流れる水を汲めば済む場所に井戸を掘る必要はない。水脈が崖下より深いのであれば、穴を掘る労力を考えて、井戸は当然崖下に掘られる。いずれにせよ居住地には崖下が選ばれるであろう。台地に居住せざるを得ない理由がない限り、崖縁の井戸はあり得ないのである。
 本文中で『普通に砂漠にある井戸とは違う』,人がいないはずの場所に『みんな揃っている不思議』な井戸と表現されているように、この井戸は合理的な説明の範囲内に納まらない異次元への交流通路としての性格を持つ。これは非現実的な幻想世界の『井戸』なのだ。そこからくみ上げられる『水』は、やはり現実のものではない。

<メモ> カレーズ(Karez, Qanat, Canal):西・中央アジア,山からオアシスへ,地下用水路,命の水脈,掘削工事用・保守作業用の竪坑

 
 25-2 
 幻想の井戸から汲まれた『水』。それは命あるものが必要とする物質としての水ではない。精神という「気」を吹き込まれて初めて人間となるように、<未完>

Chapter 26.
 
 26-1 身体を持って行くわけにはゆかないんだ。重すぎるんだもの
 王子はバラの元へと還って行く決意をかためる。「責任」を果たすためにである。だが、通常の手段での帰還は叶わない。方法はただ一つだけ。やって来た道程を正確に逆に辿って*、B-612 へと還るのだ。そのためには、場所と時刻を間違えてはならない。一つだけ手掛かりがある。ヘビと出会ったあの場所で、頭上まうえに B-612 がやって来たときだ。それ以外には、場所と時刻を正確に定めることはできない。

* 空間だけではなく、時間も遡る必要がある。

 だが、この方法には絶望的な欠点がある。身体を伴っては行けないのだ。それが意味するところは深刻である。「8-1 この星へはタネとしてやって来たのでした」の項で説明したことを思い出して欲しい。肉体を持たない魂はバラの目には見えない。もし別の身体を手に入れたとしても、その時はまったく別の存在に生まれ変わって、昔の記憶さえも持ってはいないのだ。バラはそれが王子であることを認識できないし、別人となった王子にとっても、バラとは初対面の間柄になってしまう。そんな帰還になんの意味があるだろう?
 「ある!」と王子は考えた。「魂だけになって帰っても、バラには判らないし、バラに話しかけることも出来やしない。バラに何かが起こっても、何もしてやれない。それでも、こんな遠くにいて何もしてやれないでいるよりはましじゃないか! だって、見守ってやることだけはできるんだもの。
 「ひょっとしたら、何か身体を手に入れることだってできるかもしれない。人間になれるとは限らないんだ。トラかヒツジかもしれない。ことによったらケムシになっちゃうかも知れないんだ。そんなことになったらどうしよう?」「ボクはいま、こんなにもバラのことを想っているんだ。どんなことをしてでも、責任を果たそうと心に決めている。この気持ちが通じないはずなんてありっこないじゃないか!  B-612 に帰り着いて、バラとのことを思い出せなくたって、きっと一処懸命バラの世話をするに決まっている。たとえケムシになったって、バラを食べたりなんかするもんか!」「ボクはあのバラに責任があるんだ。それがボクなんだってあのバラが気づいてくれなくったって、バラの面倒をみてやらなくちゃ。地球でバラの心配をしているだけよりずっといいじゃないか!
 健気にも王子は、身を捨て、命を捨てて、バラのもとへと帰る決意をする。「責任」を果たすために。そのためには、自分が自分ではなくなってしまう。記憶さえも消えてしまう。そう、「死ぬ」のだ。死ななくては、バラのもとへは帰れない。うまく帰り着けたとしても、お互いに昔の王子とバラだと気づくことさえないのだけれど. . . . . . . 。
 死出の旅路。出発点も間近になったとき、操縦士と出会った。「そうだ、ヒツジを描いてもらおう。絵に描いたヒツジなら一緒に連れて行ける*。身体を持たないボクがバオバブを引っこ抜けなくたって、ヒツジが芽を食べてくれればバラの星をバオバブから守ってやれる。

*  ヒツジの絵が同伴可能であるならば、「正装した王子」も B-612 に帰りつくことが出来る。しかし、その絵が描かれたのは6年も経ってからのことだった。あの「王子の肖像」は、ヒツジの紐と共に、「その時に気付けばよかったのに」と悔やまれる、間に合わなかった絵なのではないか?

 ひょっとしたら王子は、そのヒツジに生まれ変わる**つもりで絵をねだったのではないか? 病気だの老齢だのと難癖をつけて描き直させているのは、自分の身体として気に入ったものに仕上げたかったのだろう。だとしたら、bérier を嫌って mouton を要求した理由は?
 バラがコンスエロで王子がサンテックスであるならば、mouton (去勢オス)でなくては事実と合わないからではないか? 「出直して、昔のように仲良く暮らそう」とコンスエロにメッセージを送っているのであれば、バラの元へ帰るのが生殖能力を持つ bérier であっては嘘になってしまう。

** サンテックスが、このような転生の思想を持っていたかどうか調べていますが、それらしい書き物は見つかっていません。

 
 26-2 重すぎる
 この一節を執筆するとき、サンテックスの脳裏には、グァテマラでの離陸失敗の苦い教訓が過ぎっていたに違いない。空気が薄い高地の滑走路から離陸するためには、設計翼面荷重値よりかなり低い機体重量に抑えることが要求される。あろうことかリットルとガロンを取り違えるというお粗末なミスを犯し、燃料過積に気づかぬまま、平地にあってさえ長い滑走距離を要する機体重量で離陸しようとした。機体は浮き上がらず、滑走路をオーバーランして激突事故を起こしたのである。サンテックスは焦ったろう。「浮け!、浮け!、浮いてくれ!」 フルスロットルで唸りを上げるエンジン。路面からの振動は消えるどころかますます激しくなる。みるみるうちに迫りくる滑走路端。「もうだめだ!」 生き残ったのが奇跡といって良いほどの重大事故となった。
 サンテックスは、地球重力の大きさを思い知ったに違いない。小さな B-612 からは容易に出立できた王子の体も、地球にあってはとうてい脱出叶わぬ重さとなる。ため込んだ旅の思い出だって、ズシリと重くのしかかっているのだ。

 

Chapter 27.
 27-1 夜が明けた。王子の身体は見つからなかった。だから . . . .
 夜が明けて、王子が倒れた辺りをくまなく捜した。だが、王子の屍体は見つからない。これには二通りの解釈が可能である。

 1)王子は身体を持ったまま地球を出発できた。
 2)もともと王子は肉体を持ってはいなかった。

 1)はハリウッド映画並みのハッピーエンドを予感させる。王子は B-612 でバラと幸せな生活を送っていることだろう。しかし、これはまともな大人が考える筋書きではない。少なくとも、「Le Petit Prince」が下らない三文童話に堕ちてしまうことは避けられない。「50年に一度の名作」という評価はどこかに消し飛んでしまう。
 どうあっても、答は 2)しかあり得ない。王子の異様な出現や、水も食料も、どうやら睡眠さえも必要としないらしい王子のありよう、そして、音も立てずに倒れて屍体を残さない退場は、出会ったとき既に王子が肉体を持たなかったことの帰結に過ぎない。考えてもみて欲しい、「操縦士」はウワバミの体内にあるゾウを見透す特殊能力者である。彼の目に映る光景は、この世のものとは限らないのだ。
 地球を抜け出すためには、王子は命を捨てなければならなかった。ヘビと出会ったあの場所で、頭上高く B-612 が輝く瞬間に、天空へ向けて出発せねばならない。それが B-612 へ帰る唯一の方法である。しかし王子は、時間に間に合いそうになかったのだ。どうせ捨てて行く覚悟をした肉体ならば、どこで捨てようと結果は同じ。それよりも、時間に遅れたのでは更に一年待たなければならない。そんなことが耐えられようか? バラは明日にでも枯れてしまうかもしれないと言うのに。第一、来年もあの場所で B-612 を捕らえられるとは限らないのだ。思い出して欲しい、B-612 は軌道も定かではない小惑星であったことを。
 はやばやと肉体を捨てた王子は、目的地へと急いでいた。早めに到着して、「あの場所」を確かめておかなければ。
 王子は哀しかった。覚悟の末とは言うものの、既に肉体を捨ててしまった以上、王子としてバラと邂逅することは、もはや叶わないのだ。「ボクが馬鹿だった。バラのことをもっとちゃんと判ってやっていれば、<未完>

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第三の章へ続く

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