草 稿
「星の王子さま」論考
/Le Petit Prince 考究


 これは標題にあるとおり“草稿”です。少しづつ書き足して行きます。訂正したり、削除したり、 アイデアやメモを書き込んだり。原稿が作られ・推敲されて行く過程をネットの上で公開してしまおうというのです。おそらくインターネット始まって以来初めての試みでしょう。
 素人の手すさびですから、内容は大したものではありません。時間があるときに書き足すのですから、 完成まで何年掛かるか見当がつきません。惨めな失敗に終わってしまう可能性も大きいのです。でも、 挑戦してみる価値はあろうと思います。
 ご返事できないかも知れませんが、いろいろなご意見をお寄せ戴ければ、執筆の参考にさせていただきます。


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 恣意的な改変や、部分部分をつまみ食い的につなぎ合わせて趣旨の誤解を起こすような要約はご遠慮下さい。


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第 一 の 章
「星の王子さま」論考

この章では、内藤 濯さん訳の「星の王子さま」特有の問題を扱います。

総論

 
「翻訳」の限界
 「翻訳文学」に何を求め、どこまで原作に忠実であることを要求するかは、難しい問題である。理工学書ならば、一字一句をそのまま移し代えればよいし、また、そうすべきである。「文学」はそんなわけには行かない。
 文化的背景の違いは、単なる言葉の移し換えでは事が済まなくなる一番の障害となる。語彙ひとつとってみても、それが不可避であることが判るだろう。たとえば、「米」。米作文化圏に属する日本では、米と稲とを区別する。米も、籾だの玄米だの白米だのと、異なる単語を使い分けるし、調理すれば飯・粥・干飯・強飯・赤飯・餅・握り飯・・・・、欧文に翻訳するためには、注釈なしでは済まされない状態を呈する。英語ではすべてひっくるめて“rice”である。それぞれは“rice”一言で済まさずに、“rice grain”か“rice plant”かに訳し分けないと、読者に判っては貰えない。まったく逆のことが、「麦」で起こる。欧文でさまざまに使い分けられる単語が、日本語では「麦」一言になってしまう。補足が避けられない。場合によっては、別物へのすり替えをした方が判りやすいことだってある。【“白いリラの花咲く頃”が、宝塚少女歌劇団では“スミレの花咲く頃”に化けてしまった。楽譜に合せる必要もあったろうが、あの時代、大衆にとって“リラ”より“スミレ”のほうが判りやすかったことは疑いがない。曲訳が正解な場合だってあるのだ。】
 フランス語は単語数が少ない言語である。ひとつの単語に複数の隠喩を滑り込ませやすい。それをそのまま日本語に訳すのは至難の技である。<未完>

 たとえば、パスツールの有名な言葉を「偶然は準備の出来た『心臓』をしか助けない」と訳すのは、どのような観点から見ても誤訳である(それどころか、臓器移植が医療行為として特殊なものではなくなりつつある今日、ドナー・レシピエント比の救いがたいアンバランスを考えると、究極のブラックジョークになりかねない)。 たとえ他の部分で、同じ単語が「心臓」の意味で使われていたとしても、この部分では「心臓」ではなく「こころ」「精神」としなくてはならないし、出来れば意訳して「人」とするのが望ましい。
 しかし、Le Petit Prince では、同じ単語が異なった意味で使われ、全体として緩やかな隠喩のネットワークが構成されることがある。「同じ単語」であるからこそネットワークが形成されるのであって、その時々に最適の翻訳を繰り返すと、このネットワークはズタズタに切断されて、作者の意図はかき消えてしまう。

 「文学作品」は注釈書とは異なる。原典の過不足ない再現を望んでは、角を矯めて牛を殺す愚を冒すことになろう。どこかにバランスポイントを求めるざるを得ない。望ましい解決法は、多くの翻訳者がそれぞれに独自の解釈を競い合うことである。現に我々は、晶子源氏・谷崎源氏・窪田源氏・村山源氏・聖子源氏・寂聴源氏・橋本源氏と、多くの「源氏物語」現代語訳を有しており、それぞれが価値と意義とを主張しながら妍を競っている。読み較べることによって、原典を更に深く理解することができる。「翻訳文学」は、こうする以外にその深みを伺い知ることはできない。<未完>

 後に論ずるように、「星の」は暴挙といってよい歪曲であるし、「王子」も誤訳であると私は思う。しかし、「内藤『王子さま』」(「星の王子さま」)の功績は大きく、その地歩は永久に揺らぐものではない。いま望まれるのは、「内藤『王子さま』」の明らかな誤解を指摘しつつ、新しい観点からの「試訳」をできるだけ多くの人が公開することである。
 それにつけても、“著作権法”が生み出した害毒は実に大きい。<未完>

 
どこまでが誤訳か?
 日本語聖書に「出エジプト記」という章がある。“Exodus*”を訳したものである。この言葉は「脱出」「出国」といった意味しかなく、「エジプト」は勝手な付加語である。しかし、内容的にはまったく正しい。モーゼが奴隷状態のイスラエルの民を率いて、エジプトから逃れ去る大脱出を描いた章だからである。

* Exodus
 聖書は本来ヘブライ語が主体のはずである。“Exodus”はギリシャ語由来。この言葉自身が翻訳なので、問題は少し複雑になるが、ここでは誤訳と意訳の論議の材料として、“Exodus”を和訳する場合を例にとる。

 モーゼは指導者失格で、この大集団を当てもなくあちこち引っ張り回し、脱走集団は散々な目に遭う。それならば、“Exodus”を「彷徨」と訳して良いか? これは、少なくとも章の内容から逸脱するものではない。飢えと乾きに苦しみながら、神の試練に耐えてあちこち流れ歩くのであるから、「脱出」よりも「彷徨」の方が重要で本質的である。
 あるいは更に、絶望的な境遇に陥って神に失望しそうになりながら、それでも神を信じたことの重要性を説く章であるから、「神を信じて」という章名にして良いか? 「翻訳」としては容認の範囲を超えるであろう。
 「誤訳」と「意訳」の境界は明瞭な線引きができるものではない。

 Courier Sud の邦訳としては、「南方郵便機」が最も知られている。これを「南方郵便」と訳す人もいる。実はこちらのほうが正しい。“Courier”は郵便物、特に手紙を指すことが多い。「飛行機」という意味はない。しかし、内容を読んでみれば「南方郵便機」は優れた表題であると思う。少なくとも「南方郵便」と較べて遜色はないし、正しい訳ではないことを差し引いても、内容を読者にうったえるという観点からは「南方郵便機」のほうが勝ると思うのである。これは「意訳」ではあるけれど、「誤訳」と呼ぶには忍びない。許される範囲であろう。
<未完>

 
名訳「星の王子さま」
 Le Petit Prince は名作である。そして、「星の王子さま」は疑いもなく名訳である。独特の言葉遣いと文章の雰囲気は、ある意味では原作をも凌ぐ世界を作り出している。日本の読者は幸せというべきであろう。しかし、前述のごとく、翻訳文学には宿命的な問題がつきまとう。意訳が深ければ深いほど、原作がもっている意味の多重性が損なわれやすいのである。訳者が誤解や読み落しをすれば、読者はもはや原作に込められた意味を読み解くことは出来なくなってしまう。
 内藤 濯氏は意志堅固な、別の言い方をすれば思い込みの激しい、頑迷固陋ともいえる程の人だったようである。「童話」としての「星の王子さま」に、徹頭徹尾こだわり続けたふしがある。 <未完>

 繰り返すが、「星の王子さま」は疑いもなく名訳である。今日我々は、内藤 濯氏の日本語訳を踏み台にして Le Petit Prince を論じ、氏の日本語訳に難癖をつけるけれど、白紙の状態から出発して、「星の王子さま」程のこなれた日本語訳は到底出来るものではない。が、しかし、名訳すなわち良訳とは限らない。
 「風と共に去りぬ」を日本語に訳すに際して“Tomorrow is another day!”を「明日は明日の風が吹く」としたのはすばらしい名訳である。しかし、良訳とはいえない。同じ意味において、内藤王子さまは名訳であることに疑いはないけれど、良訳とは呼びがたい。のみならず、そこには訳者の恣意的な、あるいは不用意な「ねじ曲げ」が随所に潜んでいる。
<未完>

 
「星」とは何か。
 外国のあるホームページで、書名「星の王子さま」を英訳する必要に迫られて、困り果てたことがある。 「星」をどう訳したものだろう?
 王子が住んでいたのは小惑星 B-612 だった。何処の住人(もしくは、王子なのだから領地)であったかを示しているのであれば「小惑星の王子さま」ということになる。“The Prince of an Asteroid”もしくは“The Prince from an Asteroid”だ。別れに際して、夜空には5億の星があり、それぞれがひとつづつの鈴を持てば.....というのだから、“The Prince of Star”でも構わない。
 とはいうものの、最後の“Star”は(最も一般的で何にでも通用しそうなのだが、それだけに)焦点がぼけていて何をいっているのか判らない。説明が必要なようでは題名としては失格である。一番まともなのが“Asteroid”であることは言うまでもない。しかし、内藤 濯 氏はそんなつもりで「星の」王子さまと題名を付けたのだろうか? そうではあるまい。彼の気持ちを忖度すれば、正解はおそらく“Star”であるに違いない。「星の世界の住人」という、そこはかとないムードを込めたネーミングであって、論理性はないのだ。
 この反論理性は「星の王子さま」全編を貫き通す軸として良くも悪くも
<未完>

 
題名「星の王子さま」の功罪
 ある言語で書かれた文章を他の言語に翻訳するとき、もう一度元の言語に訳し直して同じ単語の列に戻るような翻訳ができれば理想的である。しかし、異なる言語体系の間では望み難い点が多々ある。とはいえ、意識的に異なった単語を選ぶとなれば、その妥当性が検証されなければならない。
 むかし、「上を向いて歩こう」という歌謡曲が日本でヒットした。その当時としては珍しくアメリカでもレコーディングされる事となったが、題名は“SUKIYAKI song”というものであった。原曲の題名や歌詞内容とはまったく関連がない。多分、訳詞者の言い分は「日本の歌であることが判りやすくて良いだろう」というものだったろう。“日本=フジヤマ・ゲイシャガール”と同列の発想法である。アメリカという国は、とりわけこの種の無頓着・思い上がりが多い。「歌謡曲なんてこの程度のものさ」と言ってしまえばそれまでのこと。しかし、これが文学作品だったら些か情けないのではなかろうか。原作を損なう暴虐と呼んでよい所業。翻訳者の見識が問われよう。
 内藤 濯氏は“Le Petit Prince”を「星の王子さま」と翻訳した。百十数種類の“Le Petit Prince”翻訳中、原語に訳し直して絶対に元に戻らないおそらく唯一の例となる。「星の」という意訳に妥当性があるか否かは、「星の」と言う付加語に伴う得失によって判断されねばならない。
 「小さな」もしくは「かわいい」と訳すべきところを「星の」と変えた、その功罪や如何?

 まずは「功」から。 この題名無くしては、日本でこの作品がこれほどまでに人口に膾炙することは無かったろうと思われる。とにかく「カワユイ!」のである。書店を訪れてはじめて「星の王子さま」にあいまみえる若い女性の大半は、この題名と表紙の絵に惹かれて本を手にとる。「星の」が無かったならば、伸びる手の数が激減するであろうこと、想像に難くない。アピール度は満点以上である。表題の第一の役割が、存在を訴えかけることであるのを考えれば、大成功例のひとつと言ってよい。 <未完>


各論

第1章

第2章
 
 2-1 panne は「パンク」か?
 “panne”は「故障」である。正常に動いていた機械が、その動き(特に回転運動)をとめることをいう。それは修復可能な一時的不具合(ガス欠によるエンジン停止も“panne”)である。
 対して、パンク(crevaison)というのは、内圧に耐えられずに容器が破裂する現象をいう。“panne”に「パンク」という意味は全くない
 その事は、内藤 濯氏は重々承知であったろう。彼が「パンク」を選び取った理由は、音の類似性を重視したからに違いない。音読したときの韻律を非常に重視する人だったと伝えられているからだ。しかし、言葉が持つ響きとリズムは、その前後の文を無視しては効果のあるものにならない。この日本語訳で「パンク」にこだわったのは“愚か”と断じてよい。原文を朗読すればそのことは極めて明確である。この訳文では音韻上に得るところはなく、意味上の誤りを導入する結果しかもたらしていない。童話仕立てのこの文章にあって、(とりわけ、この文章が翻訳された時代の児童にとって)「パンク」は「故障」よりも難しい概念である。子供に判り易い「故障」・「壊れた」の方が、優れた選択であると考えられる。
 残念なことに、この種の、音韻に対する無意味(もしくは独り善がり)な拘泥は他の箇所にも散見され、翻訳の質の低下を招いている。

 
 2-2 飛行機はモーターでは飛ばない
 フランス語の“moteur”は「エンジン」である。“moteur électrique”と言った場合にのみ、「電動機,モーター」の意味になる。この誤訳は(pannne の場合とは異なり)、内藤氏の知識不足によるものと考えられる。氏の書いた文章を検討すると、氏は機械類や軍事技術に関しては全く無知であったと思われるからである。飛行機がモーターで飛ぶわけはないが、氏にはそれが判っていなかっただろう。日本語の「エンジン」と「モーター」の区別がつかないままに、原語そのままである「モーター」を選んだものと判断できる。

 
 2-3 千マイルもはなれた.....
 サンテックスの文体には、独特のリズムがある。韻を踏むと言うほどではないが、同じ系統の音を繰り返すことによってリズミカルな起伏を作る手法がその一つである。
   Le premier soir je me suis donc endormi sur le sable à mille milles de toute terre habi.
 録音テープやレコード盤でこの部分のフランス語朗読を聞くと、緑色の箇所が打ち寄せる波のように連続した起伏を作り、文中にリズムを作り出す。「繰り返しの美学」とでも呼ぶべき文筆のあやである。しかも、この箇所は、短く,長く,短く、と異なった波長と強弱を演出しているのだ。このリズムを翻訳できれば素晴らしい。
 内藤 濯氏はそれを目指した筈だった。前述の「パンク」では、それで大失敗をしている。この“à mille milles”は、挽回のチャンスだった。それなのに氏は、「千マイルもはなれたところで」と、何とも無骨な直訳を行なっている。
 言うまでもないことだが、この「千」は「沢山」と言うほどの意味であって、正確に「千」マイル*と言っているのではない。 この部分、私ならばこう訳す。(子供に読み聞かせる気持ちで、声に出して読んでみて欲しい。)
   「とってもとってもところで」
 どちらの訳が優れているか、判断は読者の皆さんにお任せしたい。

*  フランスはメートル法発祥の地。距離を表すには「キロメートル」が用いられる。日常会話に「マイル」が使われることはない。航空・航海関係者は「浬」(カイリ,mille marin,=1852m。赤道で緯度1分に相当する地表面の距離。1時間に1浬の速度が1ノットであり、船や飛行機のスピード表示にはこの単位が用いられる)を使用する。この場面では、操縦士は航空関係者であるから、「マイル」を使うこと自体に不自然さはないが、サンテックスの意図は明らかに音韻上の効果をねらったものである。
 「マイル」が「千」と同じ綴りであるのは、この言葉の語源に鍵がある。古代ローマ帝国で、歩兵が行軍する際の千ダブルペース(ダブルペース=2歩幅)がそのまま距離の単位となった。現在の1マイルはそれよりずっと長く、国際マイルは約 1472m、英マイルは約 1609m。
 余談ながら、2歩幅という不思議な単位は、おそらく重装歩兵の運用と関係がある。長槍は身体の右側に抱える。密集戦闘隊形で槍ぶすまを作るためには、左脚を半歩前に出して半身に構えなければならない。一歩進む毎に体の向きが変わるから、戦場で重装歩兵集団を移動させる際には、2歩単位で前進・後退しないと都合が悪い。「10ダブルペース前へ!」といった号令が必要となる。

第3章
 
 3-1 ぽうっと光った ?
 「そのとたん、王子さまの夢のような姿が、ぽうっと光ったような気がしました。」
 これではまるで、王子が一瞬オーラを発したように誤解されてしまう。更に進んで、「王子の顔がぱっと輝いた」となれば、王子がこの飛行機にどのような期待を抱いたかの決定的な判断材料になってしまう。「ぽうっと光った」という解釈が成り立つ余地があるのか原文を検討したが、完全な誤訳としかいいようがない。
 この箇所の原文は、“J'entrevis aussitôt une lueur, dans le mystère de sa présence, et j'interrogai brusqument:”である。すこし意訳になるが、「謎だらけの王子さまの正体に、一条の光がさした思いで、勢い込んで訊ねた:」というのが正しい。

第7章
 
 7-1 きのこ
 “champignon”を「キノコ」と訳すのは正解だ。フランス人は日本人以上に茸好き。本が高価な中で、“champignons”と銘打った立派な図鑑が幾種類も出版されている。秋になれば森へ茸狩りに出かける家族も多い。食べられると知っているキノコだけを選んで摘み集め、その日の夕食は茸料理となる。“champignon”と聞いてフランス人がまず思い浮かべるのがさまざまな茸であることは間違いがない。
 フランス語は単語数が少ない言語である。“champignon”が茸だけではないことは知っておく必要がある。英語で fungi というのと同じで、フランス語でも「菌類」すべてが champignonだ。アオカビもミズムシも“champignon”なのである。

 
 7-2 赤黒先生
 “Monsier cramoisi”“Monsier rouge”を内藤氏は「赤黒先生」と訳している。翻訳としてはばかばかしいという以外に評しようがないし、そう訳した意図も不明である【著書「星の王子とわたし」には、「赤黒い顔色の . . . 」と述べている】。「赤黒」をスタンダールの「赤と黒」の連想から、軍人と僧侶と結びつけて議論を展開しているウエブサイトを見かけたことがある。原文を読めない読者はこうなることを避けられない。翻訳をするからには、もっと心を込めて真摯に作業を進めて貰いたいものである。

第21章
 

 21-1 「飼い慣らす」?
重大な誤訳。飼い慣らされるのは家畜かペット。王子さまの教師としての役割を果たすキツネに対してはまったく不適切な訳語である。野性であるキツネの方から提案すべき言葉でもない。「ねんごろになる」(apprivoiser は男女間の性的な間柄にも使われる)あたりが適訳と思われるが、通常この日本語は男女間の濃密な関係にのみ使われるので、キツネと王子さまの間柄を表現するには問題がある。子供にも判る言葉でというのならば「仲良くなる」が良い。もっと軽く「つきあう」でも「飼い慣らす」よりはずっとましだ。「手懐ける」と訳している人もいる。
 おなじ“apprivoiser”を、内藤氏は2様に訳し分ける。“ S'il te plaît .... apprivoise-moi!” 「なんなら .... おれと仲よくしておくれよ。」 この部分が「飼い慣らしておくれよ」では、いくらなんでもおかしいと氏は考えたのだろう。ならばなぜ、「仲よくなっちゃいないからね」ではなく「飼い慣らされちゃいないからね」なのか。
<未完>

 飼い主であるための最低条件:1)危害を加えないこと 2)餌をくれること。
<未完>

 
 21-2 「ひまつぶし」!
誤訳の糊塗が傷口を広げたと思われる。
 原文は“le temps que tu as perdu pour ta rose”、つまり、“あんたのバラにあれこれしてやるのに『使った時間』”である。【あるいは、「バラがそんなにも大切な存在になったのは、バラのためにあれこれ時間を使ったからなんだよ。」】
 as perdu は「失った」「費やした」と訳すべきものであって、「ひまつぶし」などという意味はない。

 バラに仄かな恋心を抱いた王子は、繰り出される要求や試練に翻弄される。悶々たる思いに耐えきれず、ついには星を捨てて放浪の旅に出ることになるほどのバラとの関係に、「ひまつぶし」が入り込む余地などありはしない。これは滅茶苦茶な誤訳と言うべきものであって、文学者でありながら言葉に対する感性が鈍く、単語を大事にしない内藤氏の資質が問われる箇所である。

 実は、1953年に出版された初版第一刷には「時間をむだにした」とある。それがいつの間にか「ひまつぶしした」に変わってしまったのだ。翻訳の観点からすれば、改悪である。なぜこのようなことが起こったのか。
 「ひまつぶしした」よりは「時間をむだにした」の方がましであるし、原義に近い。とはいうものの、「むだ」という価値判断を含んでいる。作品を損なう誤訳であることに変わりはない。
 邪推するに、内藤氏は「むだ」というマイナス評価を含むこの言葉が失策であったことに気づいたに違いない。考えた末、文字数がほぼ同じ「ひまつぶしした」に置き換えるよう岩波書店に申し入れたのだろう。ただし、こっそりと、読者に気づかれぬように、である。なぜならば、岩波書店は改版を公表していないから、秘密裏に改訂が行われたと断ぜざるを得ないのである。一部分とはいえ紙型を作り直したのであるから、立派な「改版」である。また、内容から言っても重要な改訂であるから、当然そのことは「星の王子さま」の履歴に明記されなければならない。それがなされていないのは、岩波書店が内密裏の改ざんを申し渡されたのだと考えるのが妥当であろう。

 後になって引っ込めざるを得ないような拙劣な訳をなぜしたのか、謎である。
 「むだにした」という表現で思い出されるのは、Katherine Woods 女史の英語訳(初版)であろう。この部分は “you have wasted”と訳されている。これには「浪費した」「無駄にした」というニュアンスが極めて強い。
 では、内藤氏は Woods 訳を読んだのだろうか? 「読んではいないだろう」と私は思う。内藤氏の英語力はかなり低かったはずだからだ。旧制高校では第一外国語を甲・乙・丙の3クラスに分けた(実業学校や兵学校では英語を教えた)。 それぞれは、甲:英語,乙:ドイツ語,丙:フランス語。フランス文学志望者・外交官志望者・数学科志望者はフランス語コースを取る。大学ではフランス文学専攻であるから、英語とは疎遠。氏が唯一受けたであろう旧制中学での英語教育がどの程度のものであったか私には判らないが、The Little Prince を読み解くのは無理だろう。「むだにした」という訳を「have wasted」から採ったとは、私は思わない。

第23章
 
 23-1 
 内藤 濯氏は“fontaine”を『泉』と訳している。例によって『共同水栓(23-2)では座りが悪い』からであろう。しかし、『泉』では日本の読者は木立に囲まれて地中からわき出る清水を連想してしまうだろう。配された挿絵の意味を解釈し兼ねることとなる。たとえ座りが悪くとも、『村の共同井戸』位にはして貰わないと、翻訳文学としては具合が悪い。<未完>

第26章
 
 26-1 5“億”の鈴 :桁取りの違い
 誤訳ではなく、対処の仕方もないのだが、3桁系と4桁系の計数文化の違いには気を配る必要がある。“cinq cents millions”を単に「5億」と訳したのでは、なぜ「5億」なのか?という疑問が生じてしまう。これは「数え切れないほどの」とか「たくさんの」とかといった意味に解するべきものである。
 「5億」は、“cinq” “cents”の音韻上の繰り返しと、地球で出会ったバラの数が“cinq mille”であったが、それをはるかに凌駕する*量であることを表す桁数が選ばれているに過ぎない。

*  【“cent million”は、日常会話の範囲で理解できる最大限の桁数である。Giga や Terra は当時の一般の人々に理解できる単位ではなかった。】

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