これは標題にあるとおり“草稿”です。少しづつ書き足して行きます。訂正したり、削除したり、
アイデアやメモを書き込んだり。原稿が作られ・推敲されて行く過程をネットの上で公開してしまおうというのです。おそらくインターネット始まって以来初めての試みでしょう。
素人の手すさびですから、内容は大したものではありません。時間があるときに書き足すのですから、
完成まで何年掛かるか見当がつきません。惨めな失敗に終わってしまう可能性も大きいのです。でも、
挑戦してみる価値はあろうと思います。
ご返事できないかも知れませんが、いろいろなご意見をお寄せ戴ければ、執筆の参考にさせていただきます。
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はじめに
文学作品には読者と同数の解釈がある。紫式部がどんな思いを込めて源氏物語を執筆しようと、その解釈は全面的に読者に任される。紫式部が生きた世界を我々はほとんど知らないし、現代世界の住人である我々がどのような舞台に光源氏や夕顔を引摺り出すかは、紫式部に想像できよう筈もない。我々は、現在の時点で自身が所有する世界観・価値観に照らしつつ、己が感性と理性のはざまに登場人物を解き放つこととなる。文学作品の「解釈」とは、畢竟、読者による作者の意図の誤解であることを避けられないのである。
ならば <未完>
非常に困ったことに、Le Petit Prince 愛好家には伝家の宝刀とも言うべき切り札がある。「子供の心を失ってしまったオトナには.....。」と言うやつだ。この一言で、自分の気に入らない物すべてを問答無用で斬って捨てることができる。事実そのようにして多くの Le Petit Prince 愛好家は自らの殻に閉じこもり、異質の解釈を拒絶してきた。自己完結した解釈は確固不動のものとなり、深化も発展も期待できない。
この現象は文学作品の解釈に止まらない。最近の日本人に顕著に現れるようになった風潮である。中学生や高校生は、授業を聞かない、他人の意見に耳を貸さない。自分だけの世界の中で生きて行こうとする傾向が強い。それを脅かす者に対してはすぐ「むかつく」し、簡単に「切れ」てしまい攻撃的な対応を図る。「腹がたつ*」という感情的な状態が「むかつく**」という生理的な反応として表現されること自体、自己観察の冷静さと言語表現の正確さを欠いていると思われるが、沈着と抑制という、社会生活上必須の要件が極めて <未完>
* 腹が「たつ」= 腹が「沸き立つ」(「腸(はらわた)が煮えくり返る」も同義)。怒りの表現。
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** 「むかつく」=「吐き気がする」「気分が悪い」。元来は怒りを表現する言葉ではない。
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星の王子さまの読者層は、かなり昔から、この自己耽溺性と異質者拒否の傾向を強く表していた。とりわけ日本では、信仰と呼んでよいほどのファン(原義通り、熱狂的で非理性的な奉信者)の支持を集めて、この作品は静かなベストセラーとしての地位を確立している。しかし、 <未完>
サンテックス自身が言っている。「大切なものは目に見えない。心で見なくっちゃ」と。作品の行間にちりばめられたさまざまな寓意やメッセージを読み解こうとしない人々は、飲み込まれたゾウを見透すことができず、ウワバミの鱗も見過ごして、「それは帽子だ」と言いつのる曇った目を持つオトナ達だと、サンテックスは言っているのではないか。使われている言葉が子供向きの体裁を取り、メルヒェンハフトな挿絵が夢を誘うからといって、この作品の解釈を子供の世界に閉じ込めてはなるまい。
「子供は純心な天使」なのか?
「お母さんて偉いなぁ、だってもう、晩ご飯のこと考えているんだもの。」
「子供」の年齢を何歳に設定するかによって話は幾分違ったものになる。小学校低学年までは、日常の近未来さえも、自発的に予測して対応策を講ずる能力は備わらない。当然の帰結として、複雑な「はかりごと」をめぐらせる能力は、子供にはない。言うなれば、「無能」なのである。これをもって「純心」と呼ぶのはまったくの的外れであろう。
「思い遣り」の心は、成長と共にめばえてくる。家庭・社会の教育・訓練の賜物なのである。子供を育てたことのある親なら、あるいは、子供の成長過程をつぶさに観察したことがある者なら、身につまされて知っている。本来の子供は身勝手で残酷な生き物なのだ。
はじめて蝶やトンボを捕らえた子供は、必ずその羽を毟り足をもぎ取ってしまう。知的障害があって物事に興味を示さない場合を除き、必ずである。これは子供の特性なのだ。それが残忍な行いであって、命というものは慈しんでやるべきものだということは、年長の仲間か親兄弟や大人達から教えられないかぎり、自発的には育たない。教えなくともやがてそうした行為をしなくなるのは、その行為に飽きてしまったからであって、その性質が消えたわけではない。この時期ちゃんとした「教育」が行われないと、命の大切さや他者に対する思いやりの観念が欠如した人間ができあがる。
「犬と子供は厳しくしつけなければならない」。それが中流以上のヨーロッパ白人社会共通の認識である。躾けられていないイヌは、「犬」ではない。南アジアから中近東にかけて旅行した経験がある者は、野良犬の群れがどんなに恐ろしい猛獣集団であるかを身につまされて知っている。野性に帰ったイヌは、人間社会の掟には従わない。行き会った人間は、狼の群れと対峙することとなる。
子供を野放図に放って置いてはならない。まともな社会性のある人間には育たないからである。「オヤジ狩り」「ホームレス成敗」「児童殺し」といった殺伐たる犯罪が横行する現状は、幼児期の情操教育がまともに行われなかった結果である。親が教育責任を放棄して、学校教師や宗教家に押しつけた咎めを、いま、社会全体が被っているのだ。野良犬青少年は、大人になれなかった「子供」達である。子供は天使などではない。放っておけば悪魔に成長する生き物なのだ。【サンテックスの筆法を借りるならば、「その上を精神の風が吹く」ことなしには、人間にはなれないのである。】
そもそも子供の可愛らしさは、大人を欺くために備わった外見に過ぎない。もっと正確に言えば、大人の「心」が、その外見に騙されるようにできあがっているのだ。それでなければ、人類は存続できなかった。
哺乳動物や鳥は、生まれてすぐの行動機能によって早成性(鳥の場合は離巣性)と晩成性(留巣性)とに分けられる。シマウマやキリンの仔は、生まれたときに目が見え体毛が生えそろっている。体温の調節もできる。産み落とされて短時間の内に、立ち上がって歩きだす。草原に産み落とされ、捕食動物の脅威にさらされているのだから、移動能力がないようでは生き延びることはできないからだ。
ネズミやサル(ヒトを含む)は、体毛が生えそろわずまだ開眼もしていない子を産む。まともに体を動かすことさえできず、水分補給や体温保持(体温調節機能がまだできあがっていない)も含めて、親に哺育されなければ生き延びられない(外敵に襲われなくとも、親の世話がなくては生命維持そのものが困難)。未熟児で出産するわけである。ネズミは多産戦略を採用して、数多く妊娠・出産するために小さく未熟な状態で分娩する。動けない仔を外敵から守り哺育するために、巣が必須である。サルの仲間は逆の戦略を採った。数少ない仔を母胎の中でできるだけ大きく育ててから産み落とすのである。母体の骨盤と胎児の頭の大きさが制約条件となって、未熟児の状態で分娩せざるを得なくなった。成熟するまで親や集団が育て上げる。
親に疎まれたら、子は生きて行けない。親が子を命がけで守る気にならなければ、種族は存続不可能となる。そのため、小さなもの、頭が大きく手足が短く、部分も全体も丸っこいものを「可愛い」と感ずる性質がサル(ヒト)には備わっている。子の方はひたすらその形態的特徴を維持して、親の気を引き続けるのである(サルばかりではなく、哺乳動物一般に備わった性質)。更に、未成熟なメスが成熟したオス同士のメス争奪の標的にされたり、未成熟なオスが競争相手として成熟オスから攻撃されたりしたのではいろいろと不都合が起きるから、性的成熟までは「子供シグナル」を発し続けることになる。とりわけヒトの子は「子ども期間」が長く、笑顔・仕草・音程の高い声・その他、大人からの保護を引き出す様々な方策を獲得した。
ネズミもヒトも、生まれたばかりの赤子の脳は、その一部分がまだ完成していない。ある種の神経細胞は、それが位置すべき場所に向かって、脳の中を游走中なのである。ヒトの場合、実に十数年かけてニューロンネットワークを完成する。しかるべき時期(臨界期という)に上記の情操教育がなされなければ、その機能の獲得は極めて困難になってしまう。しかし、そうした脳の発育が正常に進行中であろうとなかろうと、外見は同じ。子どもは、子どもであるというだけで可愛いのである。外見で天使と悪魔を区別することはできない。バオバブではないけれど、悪魔だってはじめは子どもだったのだ。いや、身勝手で残忍なのが子どもの本性である以上、子どもは本質的に悪魔なのである。騙されて、子どもは物事の本質を心で捉える天使だなどと、うつつを抜かしていてはならない。
挿絵の重要性。
Le Petit Prince には、著者自身の手になる独特のタッチの挿絵が添えられている。どの絵であれ、一目でそれと判る、紛れのない図柄である。
世の中には Le Petit Prince ファンが多い。サンテックスの著書の中では、桁違いに多くの読者を獲得し、世界中で売られる Le Petit Prince は信じ難いほどの部数に上る。この読者たち、もしあの挿絵がなかったならば、すなわち、Le Petit Prince が文字ばかりの書物であったならば、果たして愛読者となったであろうか?
答えは明らかに「否」である。あの挿絵がなかったならば、手に取ることすらしなかったであろう読者が大部分である事は想像に難くない。売上部数は現在の千分の一にすら達しないであろう。“挿絵の重要性”は、まずもってその売上部数への貢献度が筆頭となる。
出版社の収益性だけが、挿絵の効用ではない。物語の内容やその進行に、挿絵は深くかかわっている。Le Petit Prince の文章は、説明的な描写力に欠けるところがある。もしあの挿絵を欠いていたら、物語りの印象が別物になるだけでなく、その読解は極めて難渋な作業になる部分がある。
挿絵がなければ、“子供向けの読み物”との評価を受けることは絶対になかったろう。逆にいえばそれは、“子供向けの読み物”という判定が如何に誤ったものであるかの証左でもある。多くの母親は、挿絵にだまされて「星の王子さま」を子供に与える。あの強烈な毒を秘めた厭世的な物語を、それと知らずにである。言うなればあの挿絵は、白雪姫に差し出される「おいしそうな」リンゴなのだ。内に秘めた毒は、子供にではなく母親に向けられている。
<未完>
大衆作家サンテックス:読者層のレベル。
「サンテグジュペリの読者の多くは、高い教育を受けていない」といわれる。その売上総数のあまりの多さから逆算して、高等教育を受けた人々だけの購買では説明がつかないからである。その驚異的な売上部数の責任は Le Petit Prince にある。そして、Le Petit Prince の読者層に関する限り、先の言葉は的を射ている。少なくとも先進国では、学歴に関係なく、広く愛読されているのである。
<未完>
片言隻句を弄ぶ傾向が強い。曰く、「大切なことは目に見えない」「子供の心を失ったおとな達」......。前後の文脈を抜きにしては、言葉というものは生命を持ち得ないものなのだが、読者の多くは抜き出した句に一人よがりの意味付与を行い、「お気に入り」のフレーズをお題目のごとく大切に繰り返す。
物語の読み解きに関しては、信仰と呼んでよいほどの堅さがある。とりわけ理性的な文学論を忌み嫌い、幻想の世界からの脱出を許さない。自分のそれと異なった解釈に対しては、さながらエホバかアッラーのごとく非寛容である。<未完>
日本では、さらに別の要因が加算される。「星の王子さま」(内藤王子さま)ファンの大部分は、清純派女優の熱狂的ファンに似ている。自分こそが最も良き理解者であり、相手も自分を思い返してくれていると、とんでもなく滑稽な思いこみを疑いもしない。世界の回転軸はこの自分なのだ。「王子」を、ラプンツェルさながらに高塔の牢獄に閉じ込めて他人が近寄るのを許さない。「おとなの解釈」が披瀝されようものなら、「イメージが穢された!」と怒り狂うのだ。他の文学作品はおろか、サンテックスの他の作品との読み比べさえしたことがない。独りよがりと無知が大きな特徴である。
「星の王子さま」/ Le Petit Prince は児童書なのか?
「童話」と「児童書」は同じではない。偉人伝記や科学読み物を初めとして、童話ではない児童書はいっぱいあるし、おとぎ話は子供向きとは限らない *。童話仕立ての「おとなのための」物語は珍しくはない。冒頭に述べたように、文学作品の解釈は一方的に読者の権限であるから、作者が子供向けのつもりで書いた物語であっても、おとなの「童話」として読まれている作品も世の中には存在するだろう。
* 「とぎ」は夜伽である。秋の夜長、囲炉裏を囲んで子供達に話を聞かせながらする家庭教育も「とぎ」ならば、主君と同衾して、しばしの時間をつなぐためにするうわさ話や物語も「おとぎばなし」なのだ。アラビアンナイトは後者の体裁をとっている。もちろん(子供向けに作り変えられたものは別として)かなりきわどいおとなの読み物である。 |
* 「子供向け」の「童話」ならば、満たさなければならない要件が幾つかある。解りやすく易しい言葉使いで、子供を飽きさせない場面展開が必要である。さらに、主題を明確に絞って、子供が解釈に戸惑ったり、誤解したりするような記述は避けなければならない。読後には強い印象が残る物語でなければ、傑作の評価は得られない。できれば(おとなの勝手な要求に過ぎないのだが)、その印象は爽やかで、一生を通じて心の深層に生き続けるものであることが望ましい。
Le Petit Prince がどれだけこの要件を満たしうるか。物語の構成は複雑、かつ、難解で、子供にはとうてい理解できない内容を多量に含んでいる。筋立ての展開も素直ではない。時間軸ひとつとってみても、現在から始まって、6年前と、さらに時間が定かではない複数の大過去との間を行きつ戻りつしながら話が進む。人情の機微や人生論に至っては、どれをとっても子供向きの内容ではない。 |
“はじめに”の項で述べた言葉を繰り返すことになるが、Le Petit Prince は児童書ではあり得ない。言葉遣いの易しさと形式的な童話仕立てに幻惑されて、砂中に潜む深い意味を読み解くことなく、これを「純な」子供の読み物だと主張する人々は、ゾウやウワバミを見透すこと叶わず、その表面だけをとらえて帽子を論じているのと同列である。
この草稿も、リンクフリーです。ご自由にリンクしてくださって構いません。ただし、著作権法に定める権利を放棄している訳ではありません。テキストや画像をダウンロードしてお使いになる場合は、引用元を明記してくださるようお願い致します。
恣意的な改変や、部分部分をつまみ食い的につなぎ合わせて趣旨の誤解を起こすような要約はご遠慮下さい。
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