「銀河鉄道と星の王子 二つのファンタジーの、接点」,高波 秋,ジャン・ジャック書房,B6判,208+4p.,2006年12月1日,¥1,200.- +税,ISBN 4-9980745-7-1
「(あとがき)ファンタジーからの脱出」の章で作者は
「ファンタジーに限らず、すべてのフィクションは . . . . . 訪ねてくる読者を自分の世界に誘い込んで閉じ込めようとする意志が感じられるものです。」
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と述べます。筆を進めて最後の部分で、
「だから、ファンタジーを読むときの正しい作法は、解説、評論、研究書のたぐいを、いっさい、斥けて、. . . . . 」
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と力を込めて説くのです。おやおや、これは自家撞着というものではないでしょうか。読み進んで、最後の最後にこう書かれたのでは、困ってしまいます。本書もまた斥けるべき対象であるといわれても、もう読んでしまったものを、今更消し去ることは出来ない相談なのですから。
その同じ(あとがき)で力説します。
「『翌朝、行ってみて、死体がなかったのは、前夜のことが夢であった証拠だ』、と言って、作品が終わる前に、作者をファンタジーの外へ、引っ張り出したい読者が少なくないようです。その人々は、最後のページで、『王子が現れたら、ご一報ください。ぼくは寂しいのです』と言っている作者を、どう理解しているのでしょう。. . . . 夜ごと、空を見上げている作者の心は、作品の最後の最後まで、ファンタジーの中に、留まっているというのに・・・。」 |
【「引っ張り出したい読者」のひとりとしてお答えします。】自ら吐いた言葉に酔っていてはなりません。操縦士は現実社会に生還している、すなわち作者の心は、ファンタジーの世界から(引っ張り出されるのではなく、作品が終わる前に)脱出しているのです。『王子が現れたら、ご一報ください。』という言葉は、ファンタジーの埒外から投げられます。【 このエピローグだけ活字が小さく、本文とは異なった枠組みに押し込まれている事実を見過ごしてはなりません。】 そして、砂漠で出会ったとき既に、王子が肉体を有していた兆候は無いか、または、極めて希薄であったこと【すなわち全編が夢なのであって、(夢から覚めたときに)死体がなかったからといって、現実社会への帰還後もファンタジー(夢)が継続しているわけではないことを】も。 この場面に対する著者の解釈は的外れと言わざるを得ません。
さてそれでは、本書が言う「銀河鉄道の夜と星の王子の接点」とはどのようなものなのでしょうか。
本書を読み始めるに当たって、私が心配したことはふたつありました。
1)“Le Petit Prince”と「銀河鉄道の夜」とはまったく似ていません。そのことは既に、 稲垣直樹さんが「日本では、内藤 濯訳の『星の . . . 』という題名のために、本来似ていないサンテグジュペリと宮沢賢治が比較されることが多い」と指摘しています。作者は似ておらず、作品にも共通点がないのです。にもかかわらず、あえてこの二つを較べようという勇敢かつ意欲的な試みですから、危うさを気遣わずにはいられれません。
2)「銀河鉄道の夜」は、作者の死後に出版されました。そして、その未定稿は極めて錯綜しており、なかなかに定稿を得難いものでありました。内容の哲学性と相俟って、むしろ“Le Petit Prince”よりは「城砦」とこそ比較すべきものであると考えられるのです。更にいうならば、賢治の世界観に較べれば、サンテックスの哲学は矮小なものに過ぎません。本書の題材選びは、出発点を誤っているのではないかと危惧されます。
賢 治 作 品 群
宮沢賢治についてはいくつもの優れた研究がなされており、多くの事柄が明らかにされ、そしてまた、多くの考察が発表されています。そこから読み取られるのは、賢治の世界(彼自身がいうところの四次元芸術)は、茫漠として広大であり、混沌として掴み所のない変化・流転の渦のような存在であるということです。
「銀河鉄道の夜」に限らず、賢治作品のほとんどは、死後に活字化されたものです。作品原稿は彼の手によって何度も何度も加筆・削除され、その時代変遷を追うことすら困難を極めます。有名な「黒インク手入れ」が、それ以前の鉛筆原稿と一線を画しますが、これとても、何度もの修正や用紙ごとの削除・別紙の追加等で、前後関係すら混沌とします。清書原稿がないばかりか、たとえば、「銀河鉄道の夜」草稿は、反故原稿(「青木大学士の野宿」)用紙裏面を再利用した部分があり、「風の又三郎」「セロ弾きのゴーシュ」等と錯綜しているのです。(その代わり、それぞれの草稿が起こされた時代順の考証には貴重な情報を含みます。)
死後出版(1934年)された「銀河鉄道の夜」は、その後の研究進展に従って何度も誤りを訂正され、エピソードの順序も含めて、内容の入れ替えが行われています。現在でも、「これが最終稿」と呼べる形になっているか否かは疑問を残しているのです。それ以上に問題なのは、賢治作品自身に「最終稿」は存在しなかったであろうということです。生前の行動から考えて、賢治は、生きている限り作品の修正をやめることはなかったであろうと考えられます。変化して止まないのが賢治宇宙の根本理念だからです。
賢治は農民を愛し、その悲惨な生活を改善しようと渾身の力を振り絞りました。そのために、物理学や博物学等々の分野での(その当時の)最新の自然科学の知識と思考法が投入されています。彼が考えた社会構造は原始共産制と呼ぶべきものでしたし、精神世界での救済を追い求めた結果は、キリスト教から仏教へと変遷します。
文学作品は、それ自身で完結した世界をかたちづくります。その鑑賞や理解は、作品に即して為されなければなりません。とはいうものの、作品の背景に潜む様々な伏線や事情も、作品を本当に理解するためには必要なものなのです。
“Le Petit Prince”を一層深く理解するためには、「夜間飛行」「人間の土地」「城砦」といった作品を読み、書かれた当時の世界情勢やサンテックスの立場・経歴、そして、彼を取り巻く人間模様を知っておくことは大切です。
「銀河鉄道の夜」は、ファンタジーとすら呼び得ないほどに、わけの判らない晦渋な物語で、賢治の他の作品や彼の生き様と照らし合わせることなしには理解不能な作品です。「銀河鉄道の夜」を理解するには、賢治という人の人生を知り、その哲学を理解しておくことは必須条件なのです。
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この著者、話題を絞って論旨を統一することが苦手な人のようです。五条大橋の牛若丸さながらに、ヒラリヒラリと俎上の対象が身をかわし、その都度姿を変えるので、追ってい行くだけでもたいへんな難儀。しかも、論証ではなく、自己の信念を一方的に押しつけようとします。その性癖が、本書を非常に読み難くしています。二つの作品をファンタジーとして比較するという標題をたてての単行本なのですから、オムニバスやブリコラージュ仕立てでは読者は戸惑ってしまいます。
書き出しは、ファンタジーを、信ずるか信じないかの宗教的信仰と同列に論ずることから始まります。
鳥を追う猫は崖縁から谷へ飛び込むことはしないのに、団地の(建物の)ベランダから飛び出そうとした幼児がいた。「それは人間なればこそ可能な、いわば宗教の萌芽としての、危険な行為であった。ファンタジーの中に飛び込むのは . . . . . . . 危険の伴う行為と言えるのです。」(p.9)
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高 所 恐 怖
空を飛ぶ鳥や樹上生活をするサル・リス等が高所恐怖症になったのでは生きて行けません。しかし、幼鳥や哺乳類の乳幼児は、落差に対する恐怖心を生得的に有しており、巣の縁や穴の縁に近づくことを怖れます。【ヒヨコの実験が有名です。飼っている箱の底に穴を開け、透明なガラスで塞ぎます。ガラスを通して、かなり下の床が見えたり、真っ暗で底なしの状態に思えたりします。ヒヨコは遠くから恐々と穴を覗きますが、近づこうとはしません。成長に従って接近距離が小さくなり、成鳥は平気になります。】
飛翔性の鳥は、翼が成長するに従って羽ばたき練習を行うようになります。充分飛べるようになってから巣離れをしますが、初めて飛び出す際には、決断に躊躇する様子が見て取れます。やはり怖いのです。遺伝的に組み込まれた漸減性の落差恐怖と、同じく遺伝的に組み込まれ成長のある時点で発動される、飛び立とうという衝動との兼ね合いで、決断時期が決まります。過早な決断は死を招きます。巣立ちが遅すぎれば、餌をとるための訓練期間が不充分なままに冬を迎えてしまいます。不出来な遺伝子は、個体の死によって排除され、子孫を残すことはありません。
特殊例はオシドリです。樹木の、数メートルもの高さにある穴の中で子育てをします。雛鳥は、まだ翼が未発達で飛翔能力がない時期に、巣を飛び出して水辺へ移動します。落ち葉や苔・腐葉土でフカフカの地面の直上に巣穴が選ばれるのですが、雛にはそんなことは判りません。離巣衝動に突き動かされ、親鳥の呼び声に促されて次々に巣から落下してゆきます。離巣開始から、水辺まで走って水上に浮かぶまでの数分〜数十分間が、オシドリ一生の内で最大の危機なのです。恐怖心克服の過早・過延な遺伝子が個体死をもって取り除かれるのは、上記と同じです。
サルやリスは、恐怖心が親への抱き付きを強化します。成長に伴って自立心が芽生えます。鳥の場合と同じく、不出来な遺伝子は個体死によって取り除かれます。
地上生活者であるヒトは、乳幼児の落差恐怖はむしろ希薄で、成人になってからの方が強力です。サルの仲間ですから、落差恐怖は残っていますが、経験による危険回避学習の方が主力であるように見受けられます。社会生活を営むことによって乳幼児を強力に保護し、落差恐怖薄弱な遺伝子取り除きをしなかったことがこの傾向に拍車をかけたことでしょう。
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続く2ページ目で、
「引力から解放された人 . . . . . イエスが、水の上を歩く奇跡を . . . . 」. . . . 「 . . . 『真実の世界、すなわち、聖書の世界』. . . . 決して . . . 宗教研究の資料を提供することが目的ではありませんでした。」(p.10)
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と述べます。何という理不尽な主張でしょう。
「事実」と「真実」
私は断固として言葉を返します。「『事実』はひとつしかない。しかし『真実』は人の頭数だけある」と。
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ナザレのイエスが水上を歩いたと信ずる著者の独り善がりな『真実』を押しつけたのでは、この後の記述はまったく説得性を失ってしまいます。この後、第14ページまでを費やして、ファンタジーに関する(信仰の告白にも似た)著者の考えが一方的に述べられるのです。そこには、読者に対する説得性が考慮されているとはとても思えません。
残念なことに、二つの「ファンタジー」を解説する本文でも、この主観性の強さは発揮されてしまいます。作品の読み方のひとつとして見るべきものがないわけではない著述なのに、自らその価値を低めてしまうこの論法は惜しまれます。
裏表紙には
「主人公カムパネルラは . . . . 、死んだ妹トシがモデルであることを証明し」
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と謳います。
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」【永訣の朝:自費出版詩集「春と修羅」収載】と賢治に甘えたトシは、幼女ではなく、24歳の成人女性であり、その才媛ぶりを謳われた花巻高等女学校時代、音楽教師に抱いた慕情を社会面トップで新聞に報じられて故郷を立ち去ることになった経歴の持ち主であったことと、カムパネルらはどのように結びつくのでしょう。
また、著者はサンテックスとプランスを同一化させたがりますが、女たらしで借金魔であったサンテックスの実像と、作中のプランスのイメージはどのように重なり合うのでしょう。
『証明』とは程遠い、論証抜きの、著者の勝手な思い込みに過ぎないのではありませんか?
『事実』から目をそむけ、著者にとっての『真実』のみを言い立てたのでは、客観性ある論証は不可能です。もちろん、作中人物は作者によって抽捨象を受け、純化された存在なのですから、実在した人物そのままであるわけはありませんが、どのような部分が捨象され、どの側面が作中人物に反映されているのかという議論がなされなければ、「証明」という言葉を使うべきではないと思われます。【トシとカムパネルラの異同についての議論は珍しいものではありません。ローマ字表記についても同様です。】
本書の内容を、こと細かにあげつらって論評することは、ページスペース上不可能です。議論の余地ない例をひとつだけ挙げておきましょう。
「『銀河鉄道の夜』のあらすじと説明」「説明(その三)」の中で、
. . . 「大きな大きなけもの」が、もしマンモスだとすれば、. . . 生存した時期は、約百八十万年前から、約一万年まえ。. . . もしも、恐竜だとすれば、. . . それが埋まっている地層は、約六千五百万年まえ、または、それ以前のものの筈です。だから、恐竜だったとすれば、. . . . 「百二十万年ぐらいまえ」といわれる、「たしかな」根拠があったことになります。(p.24) |
と書きます。
(1)論理の誤りは明らかです。恐竜だったら「約六千五百万年まえ、または、それ以前の」地層ですから、「百二十万年ぐらいまえ」は否定されるのです。多分、「恐竜」ではなく「マンモス」と書くつもりだったのでしょう。
ボス/ウシの祖先
家畜として現在飼われている牛の学名は Bos taurus(ボス・タウルス)といいます。
その祖先と目される原牛 オーロックス Aurochs(学名:Bos primigenius)の出現は約30万年前のこと。現在の牛よりも大型で、ラスコーの洞窟画に描かれていることで有名です。“ボス”と名がつくのはこれが一番古く、120万年前には遡りません。【1627年、ポーランドで最後の一頭が死滅。】
1927年に岩手県の花泉町(約2万年前の花泉遺跡)からハナイズミモリウシ(Leptbison kinryuensis, 野牛の一種)の化石が多数発見され、それと共にオーロックスの化石も見つかっています。
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(2)原文は「プリオシン海岸」での発掘現場。「けだものの骨」というからには哺乳類です。「ひづめの二つある足跡」で偶蹄類と確定されます。「ボスといってね、いまの牛の先祖で」というからには、この化石はオーロックスです。(ただし「120万年まえ」は賢治の誤り。)
恐竜はおろか、マンモスも原文にはありません。「説明(その三)」は間違っているわけです。仮に、地質年代確定の原理を説明するために、わかりやすい動物名を使ったのだとしても、(1)のような誤りがあったのでは無意味になってしまいます。【ここで指摘されるべきは、賢治の二つの誤りです。ひとつは、120万年前と30万年前。そしてもう一つは、オーロックスの生存期間です。最後の一頭がいなくなったのが1627年なのですから、その化石が出る地層は30万年前から現代までの可能性があり、30万年(賢治が言う120万年)前である「確かな証拠」にはなりません。ここでは、(「ボス」ではなく)約120万年前の短い期間にだけ生存した、示準化石を持ち出さなくてはならないのです。時代の制約があるとはいうものの、賢治の科学知識も限界を抱えています。】
これほどあからさまではありませんが、不注意な記述は散見され、「論証」とは程遠い説明・解説といわざるを得ません。
二人の画家が、「 . . . 『かんじんのもの』を描こうとして、風景を『心』で見ています。 . . . . いま、その風景をカメラが撮すとします。 . . . . 『写真が、二枚の絵よりも優れている』という人は、おそらく、一人もいないでしょう。」(p.120)
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独り善がりもいいところ。「カメラマンの目と心」が欠落しています。絵よりも優れた写真は星の数ほどあるのです。
. . . すると、賢治とサンテクスのそれぞれが、自分の殻を抜け出して、星空の中で、同じ幸福の歌に、溶け合っている、と言えます。(p.198-199)
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本書の肝心な結論部分の筈ですが、ここに至る論理性・説得性がありません。
ところで、ファンタジーが、一種の虚妄であるとしたら、『星の王子さま』、浦島伝説、『銀河鉄道の夜』などを読み終えて、我に返ったとき、「楽しい虚妄だった」と、笑って忘れ去るどころか、恐怖に包まれてしまうのは、なぜ、でしょうか。(p.206)
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読者の皆さん。あなたは「恐怖に包まれ」ますか?
内容からは離れますが、表紙デザインのすばらしさは特筆に値します。ダークブルーの背景に白い銀漢が流れ、大きな赤いバラの花が浮き出ています。裏表紙には流れに身を浸す赤いサソリ。「星の王子さま」といえば、ひとつ覚えにサンテックスの挿絵が表紙に使われる風潮にあって、紅バラでそれを表現するセンスは賞賛すべきでしょう。バラとサソリの表紙デザインは(見返しの深いブルーと相俟って)、本書の狙いを余すところなく表現したすばらしいもの。ジャケットなしのペーパーバックながら、ハードカバーの類書を凌駕します。デザイナーの名を明記するか、謝辞を献ずる位のことはするべきではないでしょうか。
憂い顔の『星の王子さま』,加藤 晴久 著,書肆心水,A5判 21 cm, p.256, 2007年5月22日,¥2.310- (税込み),ISBN 978-4-902854-30-5
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「『星の王子さま』賛歌」,岩波書店編集部編,岩波ブックレット No.176,54p.,1990年,¥350.-,ISBN 4-00-003116-3
何のために作ったのか良く判らない本です。全体は4部構成になっています。最初は本の題名にもなっている『賛歌』。女優の岸田今日子さんを筆頭に、いわゆる有名人の短い寄稿(岩波書店発行の「図書」その他から)が9ぺーじほど。眼を洗われる程の言葉には、残念ながらお目にかかれません。次がサンテグジュペリの著作からの断片的な文章の抜き書き集。そして、サンテグジュペリ研究の最高権威といわれる山崎庸一郎さん(学習院大学教授)による作者と作品の簡単な解説。最後がサンテグジュペリの人生を年表で追っています。350円の価値があるだろうかと考え込んでしまう出来映えです。お勧めはしませんが、サンテグジュペリフリークならば持っていなくては肩身が狭いかも。
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「APIED 第5号」,アピエ社,サン=テグジュペリ「星の王子さま」 特集,66p.,2004年7月7日,¥500.-,ISBN なし
京都で発行されているとてもマイナーな文芸誌<アピエ>第5号。14人の読後感想文オムニバス。多くは、寄稿を依頼されて初めて、または、久しぶりに「星の王子さま」(内藤 濯 訳しかない時代です)を読んで、その「感想」を述べています。いろいろな「おとな」が先入観なしに「星の王子さま」を読み、それぞれの感性・知識で読んだ結果を述べるというおもしろい趣向。小中学生の感想文とはひと味違ったものになります。
解説ではありませんし、読解もあまりレベルの高いものではありませんが、「おとな」の平均からすればかなりまともな方でしょう。生半可な知識をもとに解説を試みている人に事実関係を誤ったり、読みが偏っていたりするのも興味深い現象です。ベタベタの賛歌がないのも小気味よい出来になっています。
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「星になったサン=テグジュペリ」,文;新井 満,絵;はらだたけひこ,文春ネスコ,四六判,78p.,2000年5月29日,¥1,200.- +税,ISBN 4-89036-106-5
童話仕立て、とでも言いましょうか。ほんのり・ほのぼのとした、はらだたけひこさんの筆遣いがとても効いています。
内容はサンテックス最後の一日を描いたものですが、当然のことながら、たくましい想像力にものを言わせる作品になります。判明している事実にそぐわない描写も出てきますが、目くじら立てる種類の書物ではありません。
ボクの星を照らしてくれる、良い匂いで満たしてくれる、そんな一輪の小さな花の一つとして、残しておいても良い本。わざわざ探し出すほどのことはありませんが、見つけたら手に取ってページを繰ってみる事をお勧めします。
「星の王子さまへの旅」,狩野 喜彦 著,東京書籍,159p.,2002年8月12日,¥1,700.-,ISBN 4-487-79837-X
奥付に「本書は2000年6月に放映された NHK-BS「星の王子さまと飛ぶ空中大旅行」(同年8月放送 NHK 総合「星の王子さまに会いにいく」)の取材をもとに書き下ろしたものです。」とあります。著者の職業は映像作家だそうです。
写真は(大・小,カラー・モノクロ,タイトルページと目次、すべてを含めて)50カットに過ぎません。つまり、写真集としては不十分な量です。当然、本書の価値は紀行文によって計られることになります。
放映された番組は、視点が定まらず視るに耐えないものでしたが、本書に採録された写真の大半も、「星の王子さま」を冠するに値しないものです。それ以上に悲惨なことに、(本職の「もの書き」ではないから無理もないのですが)文章は中高生の作文なみ、ひとさまに読ませるレベルのものではありません。随所にサンテックスの文章がはめ込まれますが、それぞれのシーンとの必然性が薄い内容のもので、サンテックスの作品を理解しているとは到底思われません。独りよがりで情緒的な文が、押し付けがましく続きます。意味も解らずに、糊と鋏で作った文章と言わざるを得ないものです。
内容も無責任です。たとえば、プロローグの舞台がモロッコなのは許すとして、第1章をアンベリュウから始めてリヨンへ飛び、サンモーリス・ド・レマンスへ戻るという、わけの解らないコースは、このあたりの地理を知らない読者に誤解を与えかねません。そしてそこで、「サン=テグジュペリが空を羽ばたくことを夢見た城館の上空から大きく旋回し、教会の塔が聳える村の中心へと向かう。」(22ページ)とあります。私は目を剥きました。これを読んだ読者は、サンモーリス・ド・レマンスをどんな大都会かと思うことでしょう。大きく旋回どころか、精一杯操縦桿を倒しても、人家密集地域をはみ出さずに周回することすら難しいのではないかと思ってしまう程の、小さな小さな村なのです。館から教会までは、坂道を下って目と鼻の先。教会の塔も、「聳える」と形容するには余りにも気恥ずかしいサイズのものです。この著者は、実際には体験していないことをさも見てきたように書き綴るか、あるいは、針小棒大の表現を許容範囲と心得る人のようです。
これ以上の論評は不要でしょう。本書を読んで得た唯一の収穫は、随分の時間とお金を掛けたであろうあの映像番組が、なぜあれ程までに不出来であったかと言う原因を納得できたことです。
「星の王子さまの眠る海」,エルヴェ・ヴォドワ,フィリップ・カステラ−ノ 著,香川 由利子 訳,ソニ−・マガジンズ 社,20cm,p.278,2005年8月9日,¥2,000. -+税,ISBN 4789726118
まずもって、編集者と訳者に苦情があります。一体何を考えて、このような書名と表紙デザインにしたのですか。原書はまだ手許に届いておりませんが、おそらく、似ても似つかぬ表紙デザインであろうと思われます。書名も“Saint-Ex, La fin du mystére”です。どうしたらこのような日本語題名になるのですか? 竹書房が全くくだらないファンタジーものに「ノンフィクション」と銘打って売り出したことを、私は厳しく非難しました。本書はまったく対蹠的な意味で、出版業界の恥さらしと呼ばれるべき売り出し方です。内容はしっかりと腰の据わったノンフィクションのルポルタージュ。星の王子さまとは何の関わりもありません。それなのにこんな書名とジャケット図柄では、騙して買わせようと企んでいると非難されても返す言葉はないでしょう。近年、出版物が実に軽佻なものとなりました。著者・編集者のモラルの低下がその根底にあることは明らかです。出版に携わるものとしての矜持をもって編集にあたって頂きたいと願わずにはいられません。
付け加えるならば、帯の最後にある「『世紀のミステリー』の真相を解き明かした」という文言は、内容をちゃんと読んだのか疑ってしまうキャッチフレーズです。タイトルページの裏にある「この本で利用されている図版はすべてサン=テグジュペリ権利継承者から原版を提要され、複製されたものです」には、ただただ仰天する他ありません。提供された図版はジャケットと表紙だけでしょう。もう少し責任ある記述をしてください。これでは、本の内容にまで不審を抱かれてしまいます。
訳者は、あの「 バラの回想 」を翻訳した 香川 由利子さん。首をかしげる部分がないではありませんが、完全な翻訳はあり得ませんから、まずは大過ない文章に仕上がっています。原書にはない南フランス一帯の簡単な地図が付け加えてあるのは、この地方になじみがない日本人に対して親切な配慮です。
「星の王子さま」にしか興味のない方には、本書を買う理由はありません。星の王子さまには全く関係がないからです。この本は、「 謎の銀のブレスレット 」を網にかけてしまった漁師とその協力者達が、最終的にサンテックス乗機の残骸を確認・回収するまでの6年間に及ぶ、凄まじい執念と迫害・妨害の物語です。彼らが「マルセイユ人一味」としてならず者/詐欺師呼ばわりされ、周囲の人からも日常生活にも支障を来す偏見にさらされた事実や、悪名高いダゲー一族から、裁判をも含む執拗な妨害を受けたいきさつが、押さえた筆致で克明に綴られています。読者は、ドロドロとした人間関係を、行間に目をこらして読み取る必要があります。それでなくては、このルポルタージュの真価を理解したことにはなりません。
残骸は優良な漁場のまっただ中で、トロール漁網に何度も引きずられ、場所を移動し、バラバラにもぎ取られて、辛くも残ったものが引き揚げられるに至ったであろうことが読み取られます。もっと早くこの残骸を見つけていたら、そして、ダゲー一族や役人達の妨害がなく、もっと早く引き揚げが実現していたら、もう少しましな状態で乗機残骸の回収が出来たであろうことが、悔やまれます。
最後の章で著者は、結局謎は(原題とは裏腹に)一つも解決されていないことを、残された検討課題をあげつらいながら淡々と述べます。筆者が「本物」であると信じ切っている「銀のブレスレット」でさえ、「本物である証拠」は一つもないことが明らかにされます。「ニセモノである」という証拠もないことが、長年にわたって苦汁を飲まされてきた漁師にとって唯一の慰めであり、消滅寸前の運命にあった「本物」の残骸を、数々の障害を乗り越えて引き上げるのに成功したことが、「マルセイユ人一味」の快哉をもって祝う勝利なのです。
「Saint-Ex LA FIN DU MYSTÈRE 」, Hervé Vaudoit, Philippe Castellano, Alexis Rosenfeld 著, Éditions Filipacchi, 2004, ISBN 2 85 018 960 X
左の画像が原書の表紙です。ペーパーバックで、もちろんジャケットはありません。日本語訳の表紙デザインがどんなにくだらない改竄であるか、お判りいただけると思います。
以前も指摘したのですが、この訳者は章の見出しを原書とは異なったものに変えてしまう趣味があるようで、10章すべてが原題とは異なったものになっています。第一章“Le Petit Prince 最後の飛行”が「『星の王子さま』帰投せず」は許される範囲だとして、あとは皆原題からかけ離れたものになります。たとえば第8章“あの飛行機、ライトニングだ”が「全世界に流れた衝撃のニュース」となるのは、翻訳とはいえません。第10章に至っては、“墜落までの筋書きの数々”が「『墜落のシナリオ』を読み解く」と、読者をミスリードする見出しになっています。著者は、淡々と可能性をあげつらって「謎」が未だ解かれないことを暗黙裏に示唆しています。読み解きを行っているわけではありません。
原書の写真は、往時のサンテックス関連を除きすべて上質紙へのカラー印刷です。日本語訳ではその一部が本文と同じ紙質のモノクロ印刷で、解像度がひどく悪化しているのは残念です。
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「サン=テグジュペリ」,齋藤 孝 著,大和書房,A5版,p.126,2006年3月10日,¥1,400. -+税,ISBN 4789726118
シリーズものの一つで、齋藤孝の天才伝2 と副題があります。
まずは価格の高さにびっくり! 後述する評価と関連しますが、定価で買う価値はありません。古書店のワゴンセールで100 - 200円になったら買えばよいでしょう。その程度の価値しかありません。
「バオバブの芽」に分類すべきか否か、迷いました。そうしなかった理由はたった一つ、「『星の王子さま』の人気の秘密は、人間がいかに生くべきかが、やさしく、しっかりと、しかも詩的に説かれているところにあります。」(p.24)という箇所があるからです。「大人社会批判」などというピント外れの主張をしない点を買って、この欄で評価することにしました。
とはいえ、積極的に害毒を流さないというだけの話で、読むほどの価値があるわけではありません。少し厚めのパンフレットで済むほどの内容を、弱視者仕様かと思うほどの大きな活字の二色刷で印刷されています。帯には「この1冊でサン=テグジュペリ通!」と謳います。内容は、見出しと簡単な解説だけの、拾い読み用の構成で、最も程度の低いハウツーものの典型。他人の仕事から糊と鋏で切り貼りしただけの無意味な内容で、誤りも多々あります。「ドイツ軍戦闘機に撃墜されたものと推測される」(p.35)等と、時代遅れの記述を見れば、そのお粗末さは知れましょう。著者は大学教授、専攻は教育学・他だそうです。
私とても大学に奉職する教育者の端くれです。将来、国民の健康の一端をあずかることになる学生諸君を相手に、生命機構や人体機能について講義をしています。学生諸君が内容を理解しようとせず、結論だけを摘み採る(つまり、試験用の答えを覚える)ことばかりを指向することに頭を悩ませ続けています。彼らは、労せずに表面だけを取り繕おうとしがちなのです。「独自の教育法」なる代物で学生達をそうした気質に仕向けた張本人が、金になりそうなテーマを狙って、サンテグジュペリにまで手を伸ばしてきたというわけです。
今回の「星の王子さま」ブームに乗って、また粗悪な書物が氾濫するのではないかと心配していました。幸いなことに杞憂に終わりそうだったのですが、遂にそれが現実のものとなったわけです。本書は、昨年(2005年)1月の「著作権切れ」以降発売された書物の内で、最も粗悪な品です。絶対にお勧めできません。【他にも同じ出版社から、「サンテグジュペリ 星の言葉」なるものを上梓しているようですが、評価用に購入する気も起きません。既に山崎庸一郎氏が、浩瀚な文献逍遙の結果をよく似た表題で出版なさっていますから、この著者が出る幕はないと思われます。】
「夢をみる言葉」,山口 昌弘 写真,イーストプレス,B6版,p.118,2006年6月1日,¥1,200. -+税,ISBN 4-87257-665-9
価格と実態の不釣り合いという観点からすると、「何と贅沢な」もしくは「何と無駄ばかりの本だ!」ということになります。写真家が作ったのですから、写真を除くわけには行かないのでしょうが、文との関連はありません。そして、フランス語と日本語が見開きで1ページずつ占領している配置は、空白部分に金を払っているようなものです。遊びの本、なのでしょう。
選び出した片言の出典ぐらいは明らかにすべきだと思います。この本、はたして買う人がいるのでしょうか。
「新訳『星の王子さま』を読む×8」,森 絵都,yom yom 2(小説新潮三月号別冊),版,428ページの内の pp.15-20,2007年2月27日,¥680. -(税込み),ISBN なし
軽い(実に軽い)エッセイ主体の雑誌の1項目です。保護期間の戦時加算を知らずに、1995年に「星の王子さま」の著作権保護期間が終了すると誤解して、「星の王子さま」を映画化するという企画があったのだそうです。もちろん立ち消えになったのですが、その時(つまり1995年の数年前に)著者は、シナリオ作成を持ちかけられたのだと言います。【内藤 濯さんの日本語版を使用するつもりだったようですから、そのアニメーション制作会社は二重の誤りを犯しています。内藤氏の著作権は、現在でもまだ生きています。】
その「あたかも成就しなかった恋の相手と再会したかのような疼きとときめき」に突き動かされて、自身で所持する新訳群8冊を読み比べての簡単な(簡単すぎる)感想を述べます。ただし、「枚数の都合で」8冊すべてに言及するわけではありませんし、文庫版があるものは文庫版で済ませているようで、「イラストがカラーでないのが唯一の惜しい点だが」といった、失笑を誘うコメントがあったりします。何より致命的なのは、筆者はフランス語を解せない人のようで、原文を読んでいません。そのために、「ひまつぶしという言葉を用いるセンスが好きだが」といった、話にならない文章を披瀝してしまいます。これ一つをとっても、サンテックスの作品を(誤訳・曲解だけでなく、文学作品としての内容そのものを)理解出来ていないことは明らかで、原作を無視して、日本語訳の読み比べと、それに対する自分の好みを述べ立てているに過ぎません。とても書評と呼べる代物では無く、参考にする価値はない記事であると思います。
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