【本物でした。星の王子さまの眠る海に引き揚げまでの苦闘の様子が描かれています。引き揚げまでの簡単な経緯は下に。】
【Philippe Castellano 氏の F-5B 42-68223 Cmd St Exupery(フランス語版・英語版)がとても参考になります。】
サンテックス乗機の残骸や遺品が地中海海底から見つかったという話は後を絶ちません。彼とコンスエロやレイナルヒチコック社の名前と所在地が彫られた銀のブレスレットが、漁網にかかったと騒がれたのは1998年のこと。「彼がそんな腕輪を持っているのは誰も見たことがない」と否定的に扱われています。(ブレスレットの状態や発見状況等、さまざまな観点から、「ほぼ偽物」と決着がついたようです。⇒ ダゲイ一族が仕組んだ嘘だったようです。2005年現在は、墜落時にサンテックスが持っていたであろうと見られています。)
2003年10月にマルセイユ沖で引き上げられた P38 の製造番号から、サンテックスの乗機であることが確認されたというものです。「銃撃を受けた痕跡はない」とも報じられています。事故か自殺である可能性が極めて高くなったわけです。
「2000年にマルセイユ沖で発見された」というのですから、Time 誌に報じられた機体(上記)のことと思われます。(これでハイヒェレ説は、ほぼ完全に潰え去りました。)
出撃当時、コルス岬のレーダーが内陸部へ進入するのを確認しているので、その後にエンジントラブルで引き返したか、偵察任務を終わって帰投の最終段階で墜落したか、いずれかの可能性が一番高いと考えられます。
重要なヒントを示唆するキーワードがいくつか潜ませてあります。
海面に対して垂直に、かなりの速度で機首から突入していること,撃墜されたわけではないこと,等が述べられています。
機首を海面に垂直に保ったままこのスピードで突入することは、サンテックスの操縦技量では不可能でしょう。
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蛇足ながら、旧海軍では、急降下できる爆撃機を「爆撃機」、できない機種は「攻撃機」と区別していました。高々度からの水平爆撃が専門の一式「陸攻」は「(紀元2001年に制式登録された)陸上から発進する(=航空母艦への搭載や飛行甲板からの発着艦はできない)攻撃機」の略称です。これとは別に、もっぱら重い魚雷を抱いて超低空で水平爆撃を行うものを特に「雷撃機」と呼ぶこともありましたが、旧来の攻撃機(たとえば一式陸攻)が行う場合もあり、機種区分としては便宜的なものです。
サンテックスが陸軍に入隊したのは、第一次世界大戦が終了した後です。あれこれ画策して操縦士になりますが、その航空機は「時代物」にすぎません。除隊後、郵便機操縦士として活躍しますが、その乗機はやはり旧式なもので、急降下をできる機種ではありません。近代的な第一線単座機を操縦するのは、P38 が初めてです。偵察機搭乗員ですから、急降下の訓練を受けたことはありません。第一、P38 は彼の操縦能力を超えており、離着陸と巡航飛行が精一杯と考えられます。
水平飛行で最高 666 km/hr を出すP38 にとっては、時速 600 km 以上というのは、驚くほどのスピードではありません。上空から急降下してくれば、もっとスピードがついていてもおかしくないのです。
横山さんが指摘するように、一度は「偽物」として葬り去られた“謎の銀のブレスレット”が、再浮上してきました。同じ海域から水揚げされたことが本物であることの証明となるわけではありませんが、再検討することなしに「偽物」と放置するわけには行かなくなりました。自殺であればもちろんのこと、事故であっても、コンスエロの名が刻まれたブレスレットを彼が身につけていたことの意味は、きわめて大きなものです。
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この記述は重要です。高速で片方の主翼が水面に触れれば、機体は接水部分を中心に回転して胴体は機首から海面に叩きつけられますから、「垂直に激突した」ことは「垂直に落下してきた」ことを意味するとは限らないからです。もちろん、落下してきて、機首から垂直に突入した可能性も否定されませんが、その場合、左右の胴の損傷程度にひどい違いは起こらないはずです。下記 eブックランド 掲載の内容によれば、実際にまとまった大きさで回収されたものは左胴の部分だけで、主翼や操縦席・右胴は破片以外では全く見つかっていません。
船長のジャンクロード・ビアンコを含めて乗組員4人のトロール漁船ロリゾン号は便乗者一人を加えて、曇天のソマシー漁港を出航した。目的海域は、マルセイユ-カシス間にひろがるカランク台地の沖合だ。リュー島を過ぎ、グランゴングルエ島の沖合で網を入れる。ここから東へ向けてカシス南のカシデーニュ信号所まで直線距離で12 km ほどの間を、等深線に沿って弧を描きながら深さ100メートルあまりの海底で網を曳く。
家へ帰って、どうしたものか考えた末、夜になってビアンコはコスメック社に電話した。翌朝、同社へブレスレットを持参する。社長のアンリジェルマン・ドローズは、飛行機を探し当てるまで秘密にしようと提案し、協定書を交わした。P-38 型機を求めて、必死の海底探索が始まった。が、努力は報われなかった。
秘密がばれ、ブレスレット発見の第一報がラ・プロバンス紙10月28日朝の第一面に大きく報道された。大騒ぎになった。悪いことがいろいろ重なった。引き揚げたものを届け出ずに隠し持っていたのは法律違反だった。もっと悪いことに、ダゲー一族が乗り出してきた。引き渡しを要求し、提訴すると脅し、ブレスレットを強引に取り揚げた挙げ句の果ては、「ブレスレットは偽物だ」と公言する。マスコミは以前にも増してそのことをはやし立て、世界中に配信した。
ビアンコとコスメック社は、必死にサンテックス乗機の残骸を捜した。汚名を雪ぐのはそれしかない。「今度こそ!」の期待と、何度もの落胆。時は空しく過ぎていった。
ブレスレット発見が報じられる前から、ロリゾン号やコスメック社の探索船ミニベックス号がしきりに行き交うのを、やきもきしながら眺めている男が居た。ダイバーのリュック・ヴァンレルだ。1982年に、そのあたりの深みで飛行機の残骸を見つけ、写真撮影もしていた。彼の父親は1950年代にその残骸を目視していた。コスメック社はあの飛行機を見つけたのではないか? そして、ブレスレットのことが報じられた。あれはサンテックスの乗機かもしれない。だったら早く手を打たなければ。彼は1982年に撮影した写真を携えて、発見の申請に行った。だが、地中海には飛行機や船の残骸は、文字通り腐るほどある。特別に意味があるもの以外は取り合ってはもらえない。何度も潜って調べてみた。あちこちに問い合わせをしたり、インターネットで調べたりした。残骸は混ざりものだった。ドイツの飛行機、アメリカの飛行機 . . . 。2000年5月24日、カメラマンを伴って、こっそりと出航、残骸の細部を調査し、撮影もした。車輪が残っており、その支持アームが新型特有の形であることが確認できた。F-5B 型機であることは確実だ。この海域で未発見の F-5B はサンテックス機しか残っていない。
またもやダゲー一族がしゃしゃり出てきた。引き揚げには反対だという。【ブレスレットと異なり、ダゲー家には何の権利もない。機体はアメリカから貸与されたもので、フランス空軍の所有物だ。海底に沈んだ現在は、考古学調査局の管轄下にあり、船舶の航行に支障があるようなら海事局が処置権限を持っている。】 考古学調査局も、勝手な引き揚げは禁止であることの念押しをして来た。
中東情勢を巡って、フランスとアメリカは鋭く対立し、険悪な仲となった。2003年になってそれが緩み、フランスはアメリカに何らかの好意的メッセージを伝える必要に迫られた。引き揚げて、それがサンテックス乗機であると確認できれば、第二次世界大戦中にアメリカから得た恩を、フランスが忘れていないことを示す格好の話題となる。遙か上層部からの「天の声」が、引き揚げを決定させた。
深い窪みに移しておいたにもかかわらず残骸は移動しており、見つけるのに手間取った。心なしか小さくなっているものの、何とか形を保っていた左エンジンナセルが引き揚げられた。正確な墜落現場がどこであったかは、トロール漁のせいで定かではない。リュウ島からカシデーニュ信号所までの広い海域に散乱していた多くの破片が数ヶ月かかって拾い集められた。回収物は丹念に付着物を取り除き、洗浄して、左エンジンカウリングに刻まれたロッキード社の製造番号により彼の乗機であることが最終的に確認された(産経新聞、2004年3月26日〜4月3日。LE MONDE、2004年4月7日)。
どの破片にも被弾・火災の跡は認められないものの、機体の損傷が激しいために墜落原因は不明である。(従来から疑問視されていた 「哨戒飛行中のドイツ軍戦闘偵察機Fw190Dに撃墜された」という説は、墜落地点がまったく異なり、また、機体状況も銃撃を支持しないことから、ほぼ完全に否定された。現在その残骸は、ル・ブルジェの航空宇宙博物館に展示されている。
「またか」という思いが拭えませんが、P38 の残骸なるものがマルセイユ沖で見つかったと報道されています。英字週刊誌 Time(アジア版,香港で編集。2000年)6月12日号にその海中写真が掲載されました。表題は少し皮肉っぽく、“A Deep Mystery” つまり、サンテックスにまつわる謎が深いというだけでなく、今回の発見自体がまだ本物かどうか謎であることと、85メートルの深みから発見されたこととをかけた見出しになっています。
別の新聞で報道されているところによれば、今回発見された車輪部分は「J型」と呼ばれる改良型で、これを着けて地中海で行方不明になったのはサンテックスを含めて4機。そのうち3機は既に発見されているのだから、今回の P38 は残るサンテックス機に間違いないと主張されているとか。文化庁による正式調査が予定されているそうです。
この種の報道に対しては眉に唾つけて聴く癖がついてしまった者は、ヒネクレモノということになるのでしょうか。因みに、ハイヒェレ説での撃墜地点サンラファエルとマルセイユは直線距離にして約100km、海流に流されるためには岬をぐるりと回って行かねばなりません。その岬には、2000m以上の深海に向けて急激な傾斜が迫っています。仮に浅瀬を辿って流されたとしても、まとまった形をとどめることは不可能でしょう。今回の発見物がサンテックス機であるならば、ハイヒェレ説は極めて苦しい立場になります。(2000.06. )
【サンテックスの名前と血液型が刻まれた “金”のブレスレットなら、1943年の別れの際にシルビア・ハミルトンから贈られています。経緯は不明ですが、後にコンスエロの手に渡り、彼女の死後はグラース(フランス)の遺邸に保管されているそうです。】
2004年4月7日夜9時の NHK テレビニュースで「サンテグジュペリの乗機が確認された」と報じられました。
「高速で垂直に墜落」し、「残骸は広い範囲に散乱」しているといいますから、機体の状態からでは、事故・自殺どちらとも判断できません。
自殺するのに海まで引き返すのは考え難いですし、任務を終えて基地まであと少しという地点が自殺を敢行するタイミングとしてありそうなものかどうか、疑問が残ります。なんらかの「事故」が起きた可能性が高いと判断するべきではないでしょうか。
産経新聞に掲載された横山三四郎さんの署名記事を読むことができました。2004年3月26日から4月3日にわたって連載された6部構成の特集です。(横山さんはサンテグジュペリ研究家で、 星の王子さまの作者 サンテグジュペリ(講談社火の鳥伝記文庫)の著書があります。)
「ターボチャージャー(過給器)が前後に押しつぶされひとかたまりになっている。」
「時速600キロ以上のスピードで、ほぼ垂直に墜落したと考えられる。」
「拾い集められた機体には、銃撃を受けた痕跡がないことも分かった。」
海面に激突した瞬間、サンテックスは不時着水の体勢をとっていなかった/とれなかったことが判ります。意識的にそうしたのなら自殺です。すでに意識を失っていたか、失速/錐揉み状態でコントロール不能であったのなら事故と見るべきでしょう。
飛行機の翼は、速度が上がるにつれて大きな浮力(機体軸方向に対して上方に働く力)が生じるように作られています。最初は海面に垂直に機体を保っていても、スピードが上がるに従って機首があがり、ついには宙返りをしてしまう* のです。
急降下爆撃の経験がないサンテックスに、長時間機首を垂直に保って降下する技術があったとは考えられません。つまり、意識的な突入である可能性はきわめて低いと思われます。(もし「垂直」ではなく、飛行姿勢を保ったまま急角度で突入しているのであれば ―P38 の最高速度での突入ですから― 自殺の可能性がきわめて高いといわざるを得ません。)
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旧日本海軍の特攻機は、幸運にも撃墜されずに目標に接近・突撃開始しても、目標をオーバーランして遠方海面に突入することがしばしばでした。十分な体当たりの訓練をしているわけではありませんから、空中分解すれすれの速度で急降下する経験がなく、機体の浮き上がりを予測制御できなかったのです。(そのため、出撃前の訓辞で、「突入速度を充分低く抑え」「目をつぶらない」よう注意されているほどです)
神風(しんぷう)特別攻撃隊突入第一号とされている敷島隊の指揮官 関 行男 大尉は「戦闘機に乗れない分隊長」と呼ばれていました。戦闘機隊に配属されながら、艦上爆撃機**「彗星」の搭乗員出身だったからです。できれば彗星で隊員を訓練してから全機彗星で出撃するのが、機種の特性からいっても望ましかったのですが、機体領収も戦況もそれを待ってはくれず、急遽、不慣れな零戦の操縦を習って、爆装零戦(全部で5機。他に直援4機)を率いての出撃になりました。新婚ホヤホヤの彼が隊長に選ばれるについてはいろいろないきさつがありましたが、積極的な理由の一つは、急降下攻撃の専門家だったからです。ベテランの戦闘機乗りが、使い慣れた自分の愛機に重い(250kg)爆弾を吊って(つまり、機体は浮き難い状態で)突入するのでさえ命中は難しいと、上層部が心配して艦爆乗りを指揮官に当てるほど、過加速状態の飛行機はコントロールが難しいのです。
【このスピードで水面に衝突すると、コンクリートの壁に衝突するのと変わりない衝撃を受けます。(水の粘弾性のせいです。その瞬間、水中には、まるで氷を割るような裂け目が走り、一瞬の後にはふつうの水に戻って亀裂はふさがってしまうはずです。) 飛行機は木っ端微塵に砕け散ることでしょう。】
仮に、(急降下ではなく)上空でエンジン停止して墜落(自由落下)を開始し、時速 600 km に到達するまでに何秒かかるかを計算すると、空気抵抗が全くなければ、約17秒という答えが得られます。同じく空気抵抗が全くなければ、海面まで墜落するのに17秒かかる高度は、約 1.4 km です。空気抵抗の影響をどの程度に見積もるべきなのか、素人の私にははかりかねますが、実際の墜落時間は 20〜30 秒,高度は 2〜3 km 程度でしょうか。アクシデントによる墜落と見るに不自然な高度***や時間幅ではありません。
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通常は 10km の高度を飛んだようです。エンジン不調で引き返していたのであれば、高度が下がっていても不思議ではありません。
記事について横山さんにお伺いした際に、「文藝春秋」2004年5月号(p. 88-90)にも寄稿なさっていることをお教え頂きました。内容は上記新聞記事と同様ですが、現在発売中の雑誌ですから、新聞を読み損ねた人にはお勧めです。
機体特定に至った製造番号が、エンジンカウリングのジュラルミン板に刻まれたものだったこと,海面にほぼ垂直に「激突した*」こと、などが判ります。
左胴が比較的よく保存されていたのなら、下の ICARE 96号掲載の絵のように右主翼端から接水して回転激突 した(右胴と主胴が緩衝器の役目を果たします)際、左胴が主胴(操縦席胴)からはずれて海面をバウンドし、遠方へ飛ばされた(衝突のエネルギーが減殺されます)可能性があります。逆に、左の翼端から斜めに着水して左翼付け根が最初に折れた(エネルギー減殺。一体だったものが分離すれば、運動エネルギーはそれぞれの質量にしたがって分配されます)のかもしれません。ブレスレットが本物なら、それが回収された付近が操縦席(主胴)の沈没地点の筈です。右胴破片,主胴破片,左胴が一直線上に並んでいるのなら、高速のまま不時着水を試みて失敗した可能性も否定できなくなりました。
水上機のテスト飛行をしたことがある(着水失敗で水没)とはいえ、サンテックスの操縦技量でまともな不時着水ができるとは思われませんが、P38 の長いプロペラが水を引っ掻いて前部急ブレーキ状態になり、前方回転・転覆となることを避けるため、スピードを殺しながら機首上げ状態で尾部から着水するのが常法と思われます。機が傾いていたり、うねりがあったりすれば一枚尾翼のどちらかの端が先に接水して側方回転を起こしますから、主翼端で接水したのと同じような結果になります。ただしこの場合、主翼と側胴側面が海面にたたきつけられますから、「垂直に激突した」形にはなりません。右のプロペラが最初に接水すれば、接水点を中心とする右下方回転を起こして、機種から海面にたたきつけられ、左胴は比較的残りやすいでしょう。
横山三四郎さんがこの件についてまとまった発表をなさっています。
『赤いバラと銀の腕輪――『星の王子さま』の作者サンテグジュペリ搭乗機の奇跡の発見物語』です。
電子書籍による自費出版サイトeブックランド に収録されています。このサイトはソニーのBBeBフォーマットを使った新しいサイトです。Windows 版のパソコンで LIBRIe LE for Windows をダウンロードして使えます(残念ながら、マッキントッシュでは動きません。)。
1998年9月に銀のブレスレットを引き揚げてから、2000年5月サンテックス乗機の残骸を発見し、ダゲー一族その他の妨害に遭いながら2003年9月最終的に引き揚げるまでの苦闘の様子は、星の王子さまの眠る海 に詳しく述べられています。
下の記事は主に「星の王子さまの眠る海」の要約ですが、まったく同じではありません。他のウエブサイトを参考にしたり、地図の上で距離を測ったり、地名を確かめたりして追補した部分があるからです。
サンテックス乗機残骸引き揚げ
往復する予定だったが土砂降りになった。予定を打ち切り、悪化しつつある天候の下で網を揚げる。不漁だ。網からは、がらくたばかりが転がり出る。仏頂面で黙々と海へ捨てて行く。ハビブ副長は、投げ捨てようとした石灰の塊から小さな鎖がのぞいているのに気づき、捨てるのをやめて甲板の隅に置いた。大漁ならばそんなことはしていられないが、今日は暇だ。
仕分けを終わり、僅かばかりの魚を収納した後、くだんの塊を取り出した。石灰を砕いて金属を回収する。真っ黒に変色した材質は恐らく銀だろう。プレートの両側に鎖が付いている。片方は環がひとつしかないが、もう一方は少し残っている。ブレスレットのようだ。船長室へ持って行った。不漁でがっくりしていた船長は、海底から装身具を引き揚げたのが初めてだったこともあって、興味を示した。プレートに文字が彫ってある。指で拭いたがよく読めない。スポンジで慎重に擦ってみた。少しずつ文字が浮き出してくる。アントワーヌ・ド・サンテグジュペリ(コンスエロ)、レイナル & ヒチコック気付 . . . . 。1998年9月7日のことだった。
ビアンコやドローズの信用は失墜した。とりわけビアンコは周りからひどい扱いを受けた。マルセイユの面汚し、ペテン師という訳だ。
漁場に沈んだ様々なものは、網口にセットされた金具によって壊されたり、突起物が網にかかって引きちぎられ、あるいは引きずられて少しずつ移動したりする。網に入って引き揚げられた破片(時間が経ったものは石灰の塊で包まれている)は、収穫した魚からより分けられた後、海に捨てられる(通常は、港へ帰る途中になる)。また、網を傷めたり、網の回収を諦めなければならないような大物は、できる限り漁場の外へ運び出される。廃棄場所はトロール漁が禁止されている浅瀬か、沖合の深い海底かのいずれかである。どちらにせよ残骸は、その場所を大幅に移動することになる。
その日の内に申請のため海事局を訪れたが、アクシデントのため申請できなかった。25日、書類不備で出直しのハプニングがあったものの、結局受理された。サンテックス機であることは伏せて、単なる水中漂流物発見の届け出にするために、文化省水中海底考古学調査局を避け、海事局を選んだのだ。そして、情報をル・フィガロ紙に売り込んだ。26日金曜日、ル・フィガロのスクープを世界中が知ることになる。
引き揚げ許可は下りなかった。このままではトロール網に引きずられて、残骸はただの破片になってしまう。幸いなことに、海事局へ届け出た位置は大まかなものだ。めぼしい残骸を、トロール網が届かぬ窪みへこっそり移動させた。
乗機の呼称について
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