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2008.3.15









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愛の旅人
斎藤茂吉と永井ふさ子
「愛の手紙によせて」

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ライトアップされた松山城をバックに伊予鉄道の路面電車が走る。茂吉はふさ子の案内で名所旧跡を訪ねた=松山市で

■恋しくてもう駄目です

 松山市の真ん中にそびえる城の天守から、かすみがかかったような早春の瀬戸内海が見える。

 70年あまり前、親子ほどに年の離れた恋人同士が、微妙な距離を保ったまま、この光景を見ていた。男には妻がいる。別れを決意しながら、完全には別れきれないふたり。

 年老いてかなしき恋にしづみたる
 西方のひとの歌遺(のこ)りけり

 そう詠んだ男は、近代を代表する歌人、斎藤茂吉。1937(昭和12)年の当時55歳で、東京の大病院の院長。妻輝子が男性関係の醜聞を起こし、長く別居状態にあった。

 女は弟子の永井ふさ子。27歳。3年前に東京で茂吉と出会い、歌の指導を受けるうちに深い関係になった。しかし、婿養子の茂吉は離婚に踏み切る気はない。関係もひた隠しにしていた。

 「先生との恋愛を諦(あきら)めるためには、無理にでも他の人と結婚してしまうより道がない」

 そう考えたふさ子は、実家がある松山に戻り見合い結婚する決意を固めた。茂吉もそれを受け入れる一方、激しい思いを歌にして贈っている。

 こひしさのはげしき夜半(よわ)天雲を
 い飛びわたりて口吸はましを

 双方とも、迷いと未練があった。茂吉は広島の知人の結婚式に出席した帰途、ふさ子の歌の師匠という立場で、松山に立ち寄った。

 俳人・歌人の正岡子規を生み、夏目漱石の「坊っちゃん」の舞台となったこの町は、ひなびた雰囲気と文学的な香気が同居する。城を下りて、ふさ子の実家の医院があった一番町の繁華街を歩く。ふさ子がこのあたりを歩くと、必ず男たちが振り返ったという。

 ふさ子がそのまま結婚すれば、文学史の片隅に名を残すこともなかっただろう。しかしふさ子は婚約を解消した。やがて日本は戦争に突入し、茂吉との関係も途切れる。

 茂吉が世を去って10年後の63(昭和38)年、ふさ子は茂吉の書簡を公開して関係を明らかにした。この恋文のうち百数十通が『斎藤茂吉・愛の手紙によせて』として書籍化されている。

 茂吉研究の第一人者、藤岡武雄さん(82)はふさ子にその心境をたずねたことがある。答えは複雑だった。

 「戦後のふさ子さんは、茂吉への愛情と恨みがこもごもで、それでもしだいに慕情が強まっていたようです」

 手紙の文面の真摯(しんし)さ、ひたむきさは茂吉の情熱をよく伝える。

 「ああ恋しくてもう駄目です。(中略)恋しいひと、にくらしい人」

 「あなたはやはり清純な玉」

 一方で、若い美貌(びぼう)を手中に収めた有頂天ぶりもあからさまに表れる。

 「ふさ子さん! ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか」

 こういう部分が注目されるのは現在も変わらない。世間は「歌聖」茂吉の意外な人間くささを知ることになる。

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雪が横なぐりに吹き付けてくると、最上川の対岸も見えなくなる=山形県大石田町で

■合作した歌をお守りに

 「窓際OL」シリーズなどで人気のエッセイスト、斎藤由香さんが先月出版した『猛女とよばれた淑女』(新潮社)は、破天荒とも言える生き方を貫いた祖母、斎藤輝子の評伝である。

 父の命で茂吉を婿にしたが、夫婦仲は最初から悪かった。別居の直接のきっかけになったのは、1933(昭和8)年、ダンス教師と有閑夫人や令嬢たちの遊興関係が警察ざたになり、新聞にも取り上げられた「ダンスホール事件」だった。

 これに関係した輝子に、茂吉は家を出るよう言い渡す。永井ふさ子を知るのはその翌年である。

 「ふさ子は、家庭的に恵まれない茂吉への同情が、愛情に転化していった面がありますね」。茂吉研究者の藤岡武雄さんは指摘する。

 「茂吉はふさ子に出会って初めて本当の恋愛を知ったと思います」

♪  ♪  ♪

 輝子は茂吉の死後、その印税を用いての世界旅行が趣味となり、89歳で亡くなるまで南極やエベレストも含めて108カ国を旅した。由香さんは「今の世の中、うつ病になる人が多い。どうしたら輝子のように毅然(きぜん)として強く生きられるのか、知りたかった」と執筆の動機を語る。

 確かに輝子ほど好き勝手に生きられれば、悩みとは無縁かもしれない。一方で、戦中戦後の混乱期、度胸の良さと迅速かつ的確な判断で病院と茂吉一家の没落を防いだ様子も伝えられ、器の大きさを感じさせる。藤岡さんの目にも「茂吉より輝子さんの人生の方が面白い」と映っている。

 もし彼女が戦後に生まれていれば、起業か政治か社会運動か、何か大きな仕事をしたと想像したくなる。次男で作家の北杜夫さん(80)=由香さんの父=にそうたずねると、即座に「そんな才能はありません」と答えた。

♪  ♪  ♪
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浴衣姿の観光客でにぎわう道後温泉本館=松山市で

 ここまで書くと、輝子の「悪妻」ぶりばかり強調するようだが、今の目で見れば茂吉にも相当問題がある。夫婦仲の悪さは、茂吉の暴力が原因の一つであった。

 口論になるとすぐ手が出る、今日でいうDV(ドメスティックバイオレンス)である。お嬢さん育ちの輝子は、殴られてどれほどの屈辱を感じたことか。また結婚後の茂吉が、女遊びをしなかったわけでもないようだ。

 「母も勝ち気で、父とは相性が悪かったんですね」と北さんは語る。茂吉は子どもに手を上げることはなかったが、いったん怒り出すと、殴られるより怖いと感じるほどのすさまじさだったという。

 優れた芸術的才能の持ち主は、常人より極端に神経が鋭かったり、恨みがましいほど感受性が強かったりする。そうした天才から被害を受けるのはたいてい家族である。

 一方で、こうした憤怒とはまったく違う顔を、茂吉はふさ子に見せていた。ふさ子は茂吉に自分のどこが好きかと問われ、「非常に素朴で純粋で、偉い方のようでなくて子どものようなところが好きです」と答えたという。どちらも茂吉の本質といえる。

 戦時中、茂吉とふさ子の関係が終わってゆく経緯は、はっきりしない。確かなのは、終戦前の混乱の中で茂吉が輝子を呼び戻し、やがて病み衰えた最晩年の茂吉を、輝子が優しく介抱したことだ。茂吉の死後、輝子は夫の偉大さを語るようになった。これも、愛の形と呼ぶことができるだろうか。

 その後、忘れられた存在であったふさ子は、茂吉が「焼却を」と念を押していた手紙を公開したことで注目を受けた。同時に、茂吉を神聖視する人などから非難も浴びた。ふさ子は生涯、独身を通すことになる。

 「地元では、ふさ子はお人よしだったと言われています」と語るのは松山で文芸同人誌「アミーゴ」を主宰する菊池佐紀さん(78)だ。手紙が公開されたことは、茂吉のふさ子への贖罪(しょくざい)の意味を持った、と考えている。

♪  ♪  ♪

 ふさ子の墓は、松山市内の静かな住宅地の中にある長建寺に立つ。生前に、同じ寺にある永井家累代の墓と少し離れた場所を、自ら選んだ。茂吉とのことで家族に迷惑をかけた、という思いは終生去らなかったようだ。

 住職の隈江弘皎(ひろあき)さん(63)は、晩年のふさ子に会った。「背筋がぴしっとした、美しい人でした」と振り返る。

 没年は93年。すでに世は平成になり、女性の社会進出は進んでいた。

 茂吉とふさ子が合作した歌が残る。長い戦後を生きたふさ子の、お守りになっていたと推定される。

 光放つ神に守られもろともに
 あはれひとつの息を息づく

 この愛を、一時のはかない夢とは誰も言えない。ふさ子にとって、生を燃焼させた確かな時間だった。

文・及川智洋、写真・内藤久雄
相関図

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40年撮影の茂吉と20代のふさ子
〈ふたり〉

 山形県金瓶(かなかめ)村(現上山(かみのやま)市)の農家、守谷家に生まれた茂吉は、同郷に近く開業医として東京で成功していた斎藤紀一の家で旧制中学時から養育され、1905年に紀一の娘輝子の婿養子に。東京帝大医科大学を卒業して紀一の後を継ぎ青山脳病院の院長となる。

 この間、歌人・伊藤左千夫の門下に入り「アララギ」に短歌を発表、歌集『赤光』『あらたま』『白き山』などで文学的声価を不動のものとした。51年文化勲章。2男2女をもうけ、長男は日本精神科病院協会名誉会長や日本旅行作家協会会長を務めた茂太さん、次男は作家北杜夫さん。

 永井ふさ子は松山市の医師の四女に生まれ、松山高女を卒業後、東京女子高等学園に入学。33年にアララギに入会して茂吉と知り合う。戦後は静岡・伊東に暮らした。



〈ぶらり〉松山
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