今年3月はじめ、国内SNS最大手mixiで「規約改正騒動」があった。新たに4月1日からmixi内で施行されるという規約の18条に、以下の条文があったからだ。もともとのmixiの利用規約は、著作権についてここまで突っ込んでユーザの書いたものの扱いについて書いていなかったため、より詳細に内容が書かれた、という印象だ。
--- 第18条 日記等の情報の使用許諾等 1 本サービスを利用してユーザーが日記等の情報を投稿する場合には、ユーザーは弊社に対して、当該日記等の情報を日本の国内外において無償かつ非独占的に使用する権利(複製、上映、公衆送信、展示、頒布、翻訳、改変等を行うこと)を許諾するものとします。 2 ユーザーは、弊社に対して著作者人格権を行使しないものとします。 --- 要するに、この条文をそのまま読めば、「mixiは、ユーザの日記等を、その書き手に無断で使うことができる」ということになる。多くのBLOGなどでこのことが話題になり、たとえ数行の日記程度のものでも「著作権」がいかに扱われているか、ということを、考えさせる騒ぎとなった。 この騒動の鎮静化のため、mixiはそのトップページに、「新規約18条については、mixi利用者の著作権の明記などを検討する」という文面を出さざるを得なかった(3月5日現在)。また、それ以前には「作者の了解を得ずに、mixiは出版などをしない」ということをユーザ向けのインフォメーションに書いている。 日本の著作権法は、諸外国の著作権法に比べて、著作者人格権が強いとされる。文化庁の元著作権課長である岡本薫氏によると、著作者人格権とは、著作者の心を守るもの、この権利が侵害されると著作者がムカつくこと、著作者がムカつかないようにするための権利だという(参照:岡本薫『著作権とのつきあい方』(商事法務、2007年)。 この人格権は、著者が著作物を書いたそのときに発生する。つまり著作物の出現とともに「自然発生」してしまう。そのため、これを乱発行使されたら、出版社はたまったものではない。特に著者が「この本の版権を引き上げる」などと言おうものなら、それは出版社にとっては、著者が究極の権利を行使したことになる。 そして、これは日本という国の法律なので、それに反するような「著作者人格権は行使しない」という文面そのものは、実際の法廷にこの問題が上るのであれば、「この契約条項は無効」とさえ、判断されかねない。特に、ネットの影響もあって、著作権についてはかなり騒がれている昨今である。このことが大きな社会問題となれば、ブロガーのみならず、マスコミも黙ってはいないだろう。 実はこの条文に似たものを、私は何度も見ている。著書を出すとき、出版社との契約書に、特に「2」については、必ず書いてある項目だからだ。特にIT系の出版社の場合だけかも知れないが、最近はかなり多く見る。 著者と出版社、という関係だと、そこにはどうしても「お金」がからむ。著者は出版社なくしては著者たりえない、と言う面もおおいにあるから、著者はこの条文のある契約書にサインすることが普通だ。つまり、自分の持つ究極の権利を、個別契約において放棄させられる。でも、そこはお金も絡むからお互いに納得ずく、と言う面がある。 さらに、前述のように、いざとなれば「出版権を引き上げる」と、いう選択も、著者にはできるから、いざ著者と出版社が喧嘩、という事態になれば、やはり著者のほうが強い。おそらく、日本の著作権法は、もともと文学者などの立場の弱い「個人の著作者」を守るためにできた法律であったから、このようなことになっているのだろうと思われる。 ところで、オーマイニュースにおける著作権については、ここに書いてある。記事となったものの著作権は、記者とオーマイニュース社と共有する、と書いてある。実際、市民記者はプロ記者ではないため、記事の情報収集の詰めが甘かったりする部分を、編集の方が追記してくれていたりすることがある。本文そのままの掲載であっても、表に出すときの体裁を整えたり、写真を加えたり加工して、記事とする場合が多い。たしかに、この場合は記事という著作物は「市民記者と編集者の共同著作物」と言っても差し支えないだろう、と私は思う。編集部に聞いたところによれば、オーマイニュースの記事は原著者(市民記者)も、オーマイニュース社も、いすれもが自由に使えるコンテンツ、という積極的な意味がある、とのことだ。 今回問題となったmixiの場合、CGM(消費者が作り発展させるメディア)であるし、さらに、mixiのユーザの多くは無料のアカウント取得者だ。mixiのユーザこそが、mixiを成立させている。mixiにとって、「書き手」は、「お客様」という面も強く持つことになる。「出版社と著者」のような金銭的なつながりは薄い。であれば、数行の文章であっても、mixiの事務局は著作者の権利を大幅に認めざるを得ないだろう。 著作権法の権威、東大の中山信弘教授は原著作者の強大な権利を認めた日本の現在の著作権法そのものが「もはや時代にあわなくなってきた」と講演で語っている(参照:ITメディア記事 http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0803/03/news033.html)。 中山教授によると、19世紀にできた権利者だけを守る古い著作権法では「形式的には“一億総犯罪者”とも言える」。現在のあまりに強い原著作者の権利は、コンテンツの2次利用などの点で、ビジネスを大幅に防げ、日本のコンテンツ「大国」化への足カセになっている、という。私もコンテンツ制作の現場にときどきお邪魔するとき、その「足枷」をリアルに感じることも多い。 私は、日本にインターネットを作る仕事の一部にかかわってきた。だから、ネットがあるからこそ、日本人の「著作権意識」が、個々人に至るまで定着してきたと感じる。ネットが作った新しい変化が、いよいよ著作権法そのもにメスを入れざるを得ない時代を作った、という感慨もまたある。 加えて、3月11日にはニコニコ動画が、「著作権侵害をしている動画はすべて削除の方針」を、テレビ局6社に申し入れをした、というニュースが流れた(参照:RBB-TOTAYの記事 http://www.rbbtoday.com/news/20080311/49416.html)。たとえ悪法でも、法は法であり、現行法の尊守は必要なことではある。しかし、このままではパロディの文化など、豊かな文化の土壌が、権利の主張のみによって制限される、ということもまた、事実なのではないだろうか。 中山教授の指摘、mixiの「第18条事件」、加えて、ニコニコ動画のこの申し入れ。この3つがほぼ同時期に起きたのは、偶然ではない、と記者は思う。われわれはなぜ、この法律を、このように作ったのか? その根本に立ち返って、著作権を考える時期に来たと思う。 われわれは、日本の国民として、法律を守る義務があるが、その一方で、時代にあわなくなったおかしな法律を、作り直す主体でもある。 |
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