言葉の手引き

 

 ここに紹介したQ&A集は,書き表し方や読み方が複数並行して行われているものや,異なる語形が共存しているもの,あるいは慣用的な表現が変形しつつあるものなど,いずれも一方が正しく,他の一方は誤りだと断定しがたいものばかりです。言葉が時代とともに変化するものである以上,それは当然のことなのですが,教育の現場はこれらの問題について一定の判断を下す必要にせまられるところでもあります。
 そのような教育現場における判断に資するため,多くの信頼すべき文献や資料をもとにし編集部としての見解を述べるように努力しましたが,問題によっては,現在の一般社会における慣行よりもやや進んだ見解と思われるものもあれば,規範性を重んじ,いささか伝統的な語感や語法に従いすぎていると思われるものもあるかと思います。このページの記述は,単に結論を示すのではなく,そのよりどころや結論を導く課程を重視するかたちをとりました。
 ここに示した見解は,現時点における一応の結論であって,むしろ「ゆれ」そのものこそが,言葉の生きた姿であると考えるからです。


 「中学文法」表紙画像
 
『中学文法』北原保雄 著/(教育出版刊)¥451


 『中学国語』の執筆者で,筑波大学の学長でもある北原保雄先生による中学生のための文法書。中学3年間で学習すべき文法事項のすべてをふくんでいます。口語文法が中心ですが,文語文法や,敬語の要点も扱っています。チェックテスト,練習問題も便利です。



 


Q1 「年齢」か「年令」か?
Q2 「附属」か「付属」か?
Q3 「一所懸命」か「一生懸命」か?
Q4 「友達」か「友だち」か?
Q5 「・・・士」「・・・師」「・・・司」はどう使い分けるか?
Q6 「鼻血」は「はなぢ」か「はなじ」か?
Q7 「美しいです」「大きいです」は正しい言い方か
Q8 「とてもいい」という言い方は正しいか
Q9 「全然すばらしい」という言い方は正しいか
Q10 「的確」か「適確」か
Q11 「独擅場」か「独壇場」か
Q12 「二男」か「次男」か
Q13 「遵法」か「順法」か
Q14 「不気味」か「無気味」か
Q15 「注文」か「註文」か
Q16 「人々」か「人人」か「人びと」か
Q17 「手短」か「手短か」か
Q18 「交ざる」と「混ざる」はどう使い分けるか
Q19 「離れる」と「放れる」はどう使い分けるか
Q20 「調う」と「整う」はどう使い分けるか
Q21 「速い」と「早い」はどう使い分けるか

(参考)手紙の用語/電報文のいろいろ


Q1 「年齢」か「年令」か?

A1 「齢」は「よわい」「とし」という意味であるが,「令」は「おきて」「いいつけ」などの意味であり,正しくは「年齢」と書き表すべきである。国語辞典・用字用語辞典などのたぐいも,定評のあるものはほとんど「年齢」を採っている。(『NHK編 新用字用語辞典』には「表などで略記するときは『年令』としてもよい。」の注記がある。)
 しかし,学校教育においては,現行の小学校国語教科書のすべてが「年令」を用い,中学校の教科書では「年齢」を用いている。「令」は教育漢字であるが「齢」はそうではないことが主たる理由であり,あくまで便宜的なものである。その根拠は必ずしも定かではないが,昭和36年3月17日,第42回国語審議会総会に国語審議会第二部会が提出した「語形の『ゆれ』について」では,次のように述べている。

 年齢を数える場合に,「歳」のかわりに「才」を使い,また「年齢」の「齢」のかわりに「令」を使うことはこれまでもかなり普通に行われている。「才」「令」は教育漢字,「歳」「才」はそうでないことなども考え合わせると,今後はこのような場合,「才」「令」の使用がいっそう一般的傾向になるであろう。これを一概にとがむべきではないと考えられる。

 引用文中にもあるように,「何歳」か「何才」か,という問題も同様の関係にあり,小学校の教科書では「才」,中学校の教科書では「歳」が用いられている。ただ,冒頭でも述べたように,多くの国語辞典が「年齢」を採って,「年令」を採っていないのに対し,「何才」を認めている国語辞典・用字辞典はかなりあり(『三省堂 国語辞典』『東京堂 用字用語辞典』など),漢和辞典においても「歳」の代用として「才」を示しているものが多い。
 このことは,年齢を表す場合にのみ「歳」のかわりに「才」を用いることが,かなり一般的に行われていることを示しているといえる。


ページの先頭に戻る     手紙の用語・電報文へ

Q2 「附属」か「付属」か?

A2 本来の表記は「附属」であるが,一般には「付属」もかなり広く使われている。戦前は,「附」と「付」の使い分けがほぼ定着していて,「つく・つける」の意を含む語には,「附属」「附表」のように「附」を用い,「わたす・あたえる・さずける」などの意を含む語には,「交付」「給付」のように「付」を用いていた。
 しかし,もともと「付」には「つく・つける」の意があり,「当用漢字表」制定の際も,「同じ音で意味の近いものは一方を省く」という方針から「付」に統一する方向にあった。最終的には,日本国憲法に「附」が用いられていることから,「当用漢字表」に「附」も採用されることになったが,この考え方は「当用漢字補正資料」に生かされ,「附」は「当用漢字表から削る字」の中に入れられた。こうして新聞など一般には「付属」が用いられ定着したが,一方,法令や公用文においては「附属」が用いられ,現在にいたっている。
 「常用漢字表」が告示された現在,「当用漢字補正資料」は効力を失ったが,前述の考え方は依然として受け継がれていると考えてよい。したがって,「常用漢字表」の「附」の項には,語例として「附属」「寄附」が掲げられているが,なるべく「付」を用い,「付属」「寄付」と書き表したほうが望ましいと思われる。

 ただ,法令や公用文では,「附則・附属・附帯・附置・寄附」については,「附」が用いられることになっているので,それらの文書,また,その引用等においては,当然,それに従うことになる。また,それとの関連で,国・公立の「ふぞく小・中・高等学校」などの場合には,「附属」を用いることになっている。


ページの先頭に戻る     手紙の用語・電報文へ

Q3 「一所懸命」か「一生懸命」か?

A3 語源的には「一所懸命」が正しく,「一所懸命の地(領地)」という形で,主に中世,武士間で用いられた語である。『日本国語大事典』によれば,その意は,「一所の領地で,死活にかかわるほど重視した土地。」のこと,「元来は,自分の名字の由来する土地(本拠地)をさしたが,のちには恩給地も含め,自分の所領地全部をいうこともあった。」
 したがって「一所懸命」は,「一か所の所領を,命にかけて生活の頼みとすること。」で,それが転じて「生死をかけるような,さし迫った事態。」さらには「命がけのこと。」を意味するようになったのである。それがなぜ「一生懸命」になったのか,ということだが,「一所懸命」が本来の語義を離れて「命がけのこと」を意味する言葉として広く用いられるようになってから,「一生懸命」と字を変えるにいたった。つまり,「いっしょ」を「いっしょう」と長音化し,「一生をかける」に語の由来があると考える語源俗解が,表記の変化の要因であろうといわれている。江戸時代の浄瑠璃などに「一生懸命」の用例が多く見られるのは,このことを傍証しているといえよう。

 さて,それでは,現在採るべき表記法はどうであろうか。最近の辞典類を見ると,『岩波国語辞典』は,「一所懸命」を本見出しとし,「一生懸命」をから見出し扱いにしているが,『例解新国語辞典』『新明解国語辞典』『新選国語辞典』などは,「命がけのこと」を意味する語としては「一生懸命」を本見出しにし,「一所懸命」を併記したり古語扱いにしている。さらに『例解辞典』『NHK編 新用字用語辞典』『朝日新聞の用語の手びき』などの用字用語辞典は,ほとんど「一生懸命」に統一している。
 以上のことから判断すると,現在の学校教育においては,表現学習や語彙学習の場合には「一生懸命」が望ましいと思われる。なお,教科書の文学作品においては,原典を尊重し,『オツベルと象』では「一生懸命」(原典は「いつしやうけんめい」)を,『夕鶴』では「一生懸命」を使用している。


ページの先頭に戻る     手紙の用語・電報文へ

Q4 「友達」か「友だち」か?

A4 「ともだち」という語は,本来「私たち」「君たち」「男たち」などの語と同じように,「とも」に複数の人を表す接尾語「たち」が結びついた語だが,現在では,単数,複数に関係なく用いられ,「ともだちたち」という語も使われている。したがって,「ともだち」という語は,「とも」+ 接尾語「たち」と考えるよりも,「ともだち」で一語であり,「友人」と同義で用いられているようである。
 ところで,「ともだち」という語は,戦前の国語辞典ではすべて「友達」という見出しで扱われていたが,昭和23年に告示された「当用漢字音訓表」において,「達」に「タチ」という音が認められなかったために,教科書や,公用文においては「友だち」と表記されるようになった。しかし,昭和48年に告示された「当用漢字音訓表」の付表,続いて昭和56年に告示された「常用漢字表」の付表に「友達」が加えられ,現在では「ともだち」は「友達」と表記することになっている。これは,おそらく前述のように「友達」の「達」の接尾語としての機能が薄らいで,「友人」と同義で扱われることが多くなったためであろう。しかし,「私たち」「君たち」「男たち」の「たち」のように「複数の人を表す」という本来の接尾語の意味を失っていないものは,平仮名で書くのが穏当であろう。また,複数の友人を表す場合は,話し言葉では「友達たち」が一般的であろうが,文章語では「たち」の重複を嫌い,「友たち」と書き表す場合もある。
 『銀のしずく降る降る』の中で,旭川に出てきた「幸恵」が,登別の友達をしのぶ場面では,「幼いころの友たちが,なつかしく思い出されたにちがいない。」とある。

 参考:「子供」か「子ども」か?

 「当用漢字音訓表」で,すでに「供」に「とも」の訓が示されていたが,教育現場では「たち」と同様の観点から「子ども」という表記が一般的であった。しかし,「常用漢字表」の「供」の例欄に「子供」が掲げられたことによって,それ以降「子供」という表記が採られるようになった。


ページの先頭に戻る     手紙の用語・電報文へ 

Q5 「・・・士」「・・・師」「・・・司」はどう使い分けるか?

A5 「栄養士」「美容師」「福祉司」など,資格や職業名につく「士・師・司」の使い分けの問題である。使い分けは,それぞれの漢字のもつ意味の異同に基づく。まず,「士」は「成年の男子」「役人」の意味で,転じて「学問や教養のある人」「事を処理する能力のある人」「さむらい」をいい,称号や職業名につけた。

「楽士・騎士・義士・紳士・闘士・武士・弁士・名士・勇士・力士・烈士」

この用い方に由来して,「士」はまた,国家試験等によって取得する,次のような資格の名称にも用いる。

「栄養士・海技士・技術士・技能士・行政書士・計理士・建築士・航空士・公認会計士・歯科技術士・司法書士・税理士・測量士・土地家屋調査士・不動産鑑定士・弁護士・弁理士・ボイラー技士・理学療法士」

 次に,「師」であるが,これは「多くの人々」「いくさ」の意味があり,「師団」「出師」などの語に用いられている。また,転じて「教え導くもの」をいうようになり,次のように接尾語的に用いられて,技術者や専門家を示す。

「技師・教師・講師・牧師・伝導師・仏師・導師・漁師・猟師・講釈師・人形師・能楽師・表具師・宣教師」

このような用い方に由来して,「師」は次のように一定の職業に就く資格の名称に用いられる。

「医師・衛生検査技師・灸師・歯科医師・獣医師・診療エックス線技師・調理師・調律師・鍼師・美容師・薬剤師・理容師・臨床検査技師」

 これらも国家試験等で取得できる資格の名称である。その他,訓読語について「占い師・鋳物師・軽業師」などのようにも用いられる。

 最後に「司」であるが,字訓の「つかさ」「つかさどる」は,「役所」や「公の仕事を取り扱う人」を意味し,

「行司・宮司・郡司・国司・祭司・斎院師・造酒司」

などの言葉が生まれた。この用い方の延長の職名として,

「児童福祉司・身体障害者福祉司・精神薄弱者福祉司・保護司」

などがある。いずれも特別の職務の名称であり,前記の「・・・士」「・・・師」とは異なる。これらのうち「・・・福祉司」は地方公務員,「保護司」は法務大臣から委嘱を受けた民間人である。


ページの先頭に戻る     手紙の用語・電報文へ

Q6 「鼻血」は「はなぢ」か「はなじ」か?

A6 現代仮名遣いでは,「はなぢ」と書き表す。昭和61年7月1日告示の「現代仮名遣い」の「第2 特定の語については,表記の慣習を尊重して,次のように書く。」の中に,「5 次のような語は,「ぢ」「づ」を用いて書く。」とあり,その第二項に,

2 二語の連合によって生じた「ぢ」「づ」

 例 はなぢ(鼻血) そえぢ(添乳) もらいぢち そこぢから(底力)
   ひぢりめん いれぢえ(入れ知恵) ちゃのみぢゃわん まぢか
   こぢんまり ちかぢか ちりぢり

と示されている。
 「鼻血」は,「はな(鼻)」と「ち(血)」との複合語で単独で用いるときには清音である「ち(血)」が,他の語「鼻」と複合して濁音に変わるという,いわゆる「連濁現象」を起こしたものである。このような「連濁現象」は,ほかにも数多く見られる。例えば,

  はな(花)+ひ(火)・・・はなび(花火)
  あまい(甘い)+さけ(酒)・・・あまざけ(甘酒)

のようになるのがそれである。これらと対応させて,

  はな(鼻)+ち(血)・・・はなぢ(鼻血) 

と書き表し,一貫性があるわけである。
 したがって,「はなぢ」という書き表し方は,この語が「はな(鼻)」と「ち(血)」とからできているという分析的意識を尊重したものであるといえよう。「もらいぢち(もらい乳)」「ひぢりめん(緋縮緬)」「いれぢえ(入れ知恵)」「ちゃのみぢゃわん(茶飲み茶碗)」「ちかぢか(近々)」などに「ぢ」を用いるのも,同じ理由によるものである。

 また,「一日中」「世界中」など「いっぱい」の意味をつけ加える「中」は,現代語の意識では二語に分解しにくく,かつ常に濁音で現れるので「いちにちじゅう」「せかいじゅう」と書き表すことにし,「授業中」「工事中」など「続いている」意味をつけ加える「ちゅう」とは別なものであるとするような,「現代仮名遣い」の問題点もある。なお,「現代仮名遣い」では,「せかいぢゅう」の表記も認めているが,現在のところ,「せかいじゅう」と書き表すのが一般的であると思われる。


ページの先頭に戻る     手紙の用語・電報文へ

Q7 「美しいです」「大きいです」は正しい言い方か

A7 形容詞に断定の助動詞の丁寧体「です」を接続させる言い方は,昭和27年4月14日に国語審議会で建議された「これからの敬語」以降,今日では,もはや誤用とはいえないのが実情であり,教科書のうえでも認められている。「これからの敬語」の中に,「形容詞と『です』」という項目があって,これまで久しく問題となっていた形容詞の結び方・・・たとえば,「大きいです」「小さいです」などは,平明・簡素な形として認めてよい。とあり,「これまで久しく問題となっていた」というのは,次のような事実経過をふまえている。

 それまでの文法書や国定教科書『中等文法』などでは,「です」は体言と助詞「の」にのみ接続し,動詞・形容詞にはつかないと説明していた。(ただし,「です」の未然形に推量の助動詞「う」のついて「でしょう」の場合は例外とされ,「美しいでしょう」「大きいでしょう」は認められていた。)
 つまり,形容詞を丁寧体にするには,「美しゅうございます」と,「ございます」を下につける言い方しか認められていなかったのである。ところが,この言い方は,丁寧すぎる,冗長すぎるとして,だんだん一般の人の意識にそぐわなくなり,「美しいです」「大きいです」のような言い方が,「花です」「親切です」(学校文法では,「親切です」は形容動詞の丁寧体としている。)などに対応するものとして,実社会で用いられるようになってきた。
 「これからの敬語」が,できるだけ「平明・簡素」な敬語にしようという基本的方針に基づき,「これからの対話の基調は『です・ます』体としたい。」と定めた。
 そこで,名詞の場合の「いい天気だ。(常体)・・・いい天気です。(丁寧体)」,動詞の場合の「よく降るね。(常体)・・・よく降りますね。(丁寧体)」と同じく,形容詞の場合も,「美しいね。(常体)」に対応する丁寧体「美しいですね。」という言い方を,従来の文法書では正しくないとされていたにもかかわらず,積極的に認めていこうという見解を示したわけである。
 なお,形容詞を過去の言い方に用いる場合は,「美しいでした」「大きいでした」「ないでした」というより,「美しかったです」「大きかったです」「なかったです」「有りませんでした」というほうが一般的である。


ページの先頭に戻る     手紙の用語・電報文へ

Q8 「とてもいい」という言い方は正しいか

A8 「とても」は,「とてもかくても」略されてできた語。東京語としては,明治のころには,「とてもできない」のように,打ち消しの表現を伴う用法だけであった。大正・昭和に入ると,「とてもきれいだ」のように使われるようになり,今日,話し言葉では,ごく普通に使われる。初めは打ち消しの照応のある陳述の副詞だけだったのに,後に程度を表す副詞が加わり,それが一般化したものである。現在の国語辞典で「とてもいい」「とてもきれいだ」というような用い方を示していないものはない。ちなみに,大槻文彦『大言海』や,上田万年・松井簡治『大日本国語辞典』には,「とてもいい」「とてもきれいだ」のような用い方は採られていない。
 上に述べたように,現代語としては,「とても」は否定的にも肯定的にも用いられ,どのような叙述を先導しているとはいえない。しかし,一般に陳述の副詞(叙述の副詞)といわれるものは,それ自身,表現者の気持ちを直接的に表し,さまざまの叙述の仕方・態度を先導し,その叙述と呼応する。

1 推量と呼応

おそらく

おおかた

さぞ

さだめし

多分

だろう

でしょう

2 打ち消しと呼応

決して

必ずしも

少しも

たいして

ちっとも

ない 

とうてい

めったに

ろくに

一向に

断じて

ぬ(ん)

3 疑問・質問と呼応

なぜ

どうして

なんで

(の)か

4 依頼と呼応

どうか

ぜひ

どうぞ

なにとぞ

→ 

ください

くれ 

ほしい

5 仮定と呼応

もし

たとえ

万一

かりに

ても(接続助詞)

6 たとえと呼応

まるで

あたかも

さも

さながら

ようだ

ようです

みたいだ

7 打ち消しの推量と呼応

まさか

まい

ないだろう

ないでしょう

       


ページの先頭に戻る     手紙の用語・電報文へ
                

Q9 「全然すばらしい」という言い方は正しいか

A9 若い人の会話などで,

「ゆうべのドラマは全然すばらしかった。」
「Kったら,全然おもしろいのよ。」

といったぐあいに,「全然」という語を「非常に」の意味に用いている場合がある。しかしこれは,現在のところ,多くの人に奇異な感じを与える言い方である。「全然」という語は,下に打ち消しの呼応を伴うのが本来の用法とされ,小型の国語辞典などにも〈打ち消しや否定的な表現を伴って〉のように注記されていることが多い。
つまり,

 全然できない   全然おもしろくない
 全然だめだ    全然無意味だ

のように用いるのが規範的である。「全然すばらしい」のような言い方は,教育という立場からすれば「俗な言い方」「好ましくない言い方」ということになる。国立国語研究所の調査(「語形確定のための基礎調査」)の結果でも,「全然すばらしい」という言い方を是とする人はごく少数である。
 しかし,この語が肯定の意味に用いられることが全くないかといえば,そうではない。

 僕は全然恋の奴隷であつたから(国木田独歩『牛肉と馬鈴薯』)

 腹の中の屈託は全然飯と肉に集中してゐるらしかつた(夏目漱石『それから』)

 これらは,「すっかり」「まるっきり」の意味であり,字義から見ても自然な使い方であることがわかる。『日本国語大辞典』の「全然」(副詞)の項には,

 1 残すところなく。すべてにわたって。ことごとく。すっかり。全部。
 
2 (下に打ち消しを伴って)ちっとも。少しも。
 
3 (口頭語で肯定表現に)非常に。

とあり,の用法(右の独歩・漱石のような)がもとになって,それから(「全然すばらしい」の類)が生じたとみることができる。こういう見方からすると,「全然すばらしい」「全然すてきだ」のたぐいを退けるのは速断にすぎるともいえよう。ただ,教育の場では,の用法を好ましくないとするのが妥当だとおもわれる。


ページの先頭に戻る     手紙の用語・電報文へ

Q10 「的確」か「適確」か

A10 『大言海』や『大日本国語辞典』などを見ると「的確」の表記しか示されていない。また,中国の古典にも,「的確」は見られるが,「適確」は見あたらないようである。

 現在の辞典類でも,

 日本国語大辞典………………的確・適確

 例解新国語辞典………………的確・適確

 新選国語辞典…………………的確〔適確〕

 岩波国語辞典…………………的確(「適確」は当て字)

 新明解国語辞典………………的確(「適確」と書く向きもある。)

 朝日新聞の用語の手びき……(適確)→的確

となっていて,まずは,「的確」が望ましい書き表し方であるといってよい。

 ところで,なぜ「適確」という語が用いられるようになったかであるが,例えば,地方自治法の第二百二十二条に「必要な予算上の措置が適確に講ぜられる」という一節がある。この場合の「適確」の意味は,予算上の措置が「必要にして十分に」講ぜられる,という意味で,一般に使われる「的確」とはやや意味が異なる。ちなみに,『岩波国語辞典』では「的確」の意味を,「的をはずれず確かなこと。真相を突いていて正確なこと。」としている。

 一般に,「適確に遂行する」「適確な措置を講じる」などと用いられる場合の「適確」は,この法令用語と同じ意味で使われ,その点では,「的確」を誤って「適確」としたのではなく,「適正確実」「適切確実」を略した形として,「適確」という語が生まれたと考えてよいだろう。

 以上の点を考えると,使い分けが必要であるともいえるが(『例解新国語辞典』は使い分けを示している。),教育現場で,漢字のこのような意味の違いをどこまで重視するか,という問題が残る。

 国語審議会は,第四十二回総会(昭和三十六年三月)で「語形の『ゆれ』について」の審議報告を行っているが,その中の結論の一つとして,「漢字の意味のわずかな相違にあまりこだわることは,社会一般としては限度があるであろう。」と述べ,その例の中にこの「的確(適確)」を取り上げている。

 したがって,教育現場においては,「的確」を使い,厳密な使い分けが要求される場合は,「適正確実」「適切確実」などと書き表せばよいのではなかろうか。


ページの先頭に戻る     手紙の用語・電報文へ

Q11 「独擅場」か「独壇場」か

A11 「ドクセンジョウ」か「ドクダンジョウ」か,という読みの問題でもある。

 本来「独擅場(ドクセンジョウ)」が正しく,明治時代に刊行された国語辞典には「独擅場」しか見あたらない。昭和十一年初版『大辞典』(平凡社刊)には,「独擅場」の項に「独壇場はこの誤りか」とあり,昭和十八年初版の『明解国語辞典』(三省堂刊)では,「ドクダンジョウ」も見出しに掲げ,「独壇場 どくせんじょうのなまり」としている。このころから,「独壇場」の用例がかなり見られるようになったのであろう。
 「擅」は,「もっぱら。ほしいままにする。」の意で,「セン」という音をもち,これを「ダン」と読むことはない。なお,「独擅場」の意味は,「その人だけが思いのままにふるまうことができ,他人の追随を許さない場所・場面。独り舞台。」のことである。

 では,なぜ「独壇場」という語が使われるようになったのかであるが,「擅」を「壇」と見誤ったか,「擅」を「ダン」と読み誤って「独壇場(ドクダンジョウ)」という言葉が生まれ,それが,「独り舞台」の意にひかれて,広く使われるようになったのであろう。
 現在の用例では,むしろ「独壇場」のほうが一般的である。『岩波国語辞典』では,「独壇場」を本見出しにし,「独擅場」を,から見出しにしている。また,『NHK編 新用字用語辞典』では「どくだんじょう 独壇場」しか見出しになく,『朝日新聞の用語の手びき』では,「独擅場」は「独り舞台,独壇場」に書きかえることになっている。
 以上のことから判断すると,原文に「独擅場」とあれば,当然「ドクセンジョウ」と読むが,語の指導としては,むしろ「独壇場」を用いるほうがよいのではなかろうか。

 

 やや似た問題に,次のようなものがある。

「カンカンガクガク」か「ケンケンガクガク」か

 「カンカンガクガク(侃侃諤諤)」が正しい。「ケンケンガクガク(喧喧諤諤)」は,「カンカンガクガク」と「ケンケンゴウゴウ(喧喧囂囂)」とが混同して用いられた語であり,いわゆるコンタミネーション(意味や語形が似ている二つの単語または句が交差して,新しい単語または句ができること。)である。一般的にはかなり用いられているが,国語辞典や用字用語辞典などでは,まだ見出し語に取り上げられていない。現時点では,誤用の範疇に入るといえよう。


ページの先頭に戻る     手紙の用語・電報文へ

Q12 「二男」か「次男」か

A12 一般的には「次男」が使われているが,戸籍や履歴書などでは「二男」が使われる。

 『日本国語大辞典』では,「じなん」の見出し語に,「次男・二男」と二つの書き表し方を掲げ,「むすこのうち,二番目に生まれた子。次子。次郎。」という説明を付している。その用例を見ると,『吾妻鏡』と『平家物語』では「次男」を使い,『太平記』では「二男」を用いている。つまり,古くから両様の書き表し方があり,ともに「じなん」と読まれていたのである。

 小型の国語辞典ではその取り扱いはいろいろであるが,いずれも「次男」を正しい書き表し方として示し,「二男」という書き表し方もあること,法律上では「二男」と書くこと,あるいは,「常用漢字表」の音訓外で「二男」という書き表し方もあること,などが参考として書かれている。

 法律上で一般に「二男」が使われているのは,必ずしも明確な規定によるわけではない。「戸籍法施行規則」の付録に,戸籍の記載のひな型があり,それに「長男・長女・二男・二女」と例示されていることによるものである。また,それが履歴書や身上書でも用いられるようになったのは,一般に履歴書や身上書が使われるのは入学や就職のときであり,そういうときには,戸籍抄本や戸籍謄本の添付が必要とされることが多いからである。

 ところで,「二男」の読みであるが,先にもふれたように,常用漢字の「二」の音には「ジ」はなく,「ニ」だけである。しかし,戸籍の担当者はこれを口頭で言い表すとき,「じなん」と読みならわしているとのことである。もともと「二」の字音は,「漢音ジ・呉音ニ」で,「二男」は「じなん」と読んでよいのであり,前述のように,「二男」は古くから「じなん」と読まれていたのである。

 これに対して,「次」の字音は「漢音・呉音ともシ」であり,「ジ」というのは慣用音である。なぜ慣用音「ジ」が生まれたかというと,「次」の旧字体は,そのへんの部分に「二」という形が用いられていたことによる,とされている。

 「二」を「ジ」とよむのは,他に,手紙の末尾に記す「不二」,人名の「二郎」などがあるが,いずれも特殊な語や固有名詞の読み方であり,常用漢字の音として取り上げられなかったのであろう。


ページの先頭に戻る     手紙の用語・電報文へ

 Q13 「遵法」か「順法」か

A13 国語辞典や用字用語辞典の多くは,「じゅんぽう」の項に「遵法・順法」と,両方の表記を掲げているが,新聞・テレビ・雑誌等のマス‐メディアにおいては,むしろ「順法」のほうが一般的である。なぜ,このような書きかえが定着するにいたったかは,次のような事情による。

 「当用漢字表」が制定された時,「同じ音で意味の近いものは一方を省く」という方針が採用され,その方針のもとに,漢字書きかえの例として,「同音の漢字による書きかえ」が国語審議会報告として示された。それによって「焔→炎」「稀→希」などの漢字の書きかえが行われたが,「遵→順」は,その中には示されていなかった。それは,「遵」「順」のいずれもが,「当用漢字表」に掲げられていたからである。

 ところで,国語審議会は,五年間の実施に基づいて当用漢字表の再審議を行った。その結果は,昭和二十九年三月「当用漢字補正資料」としてまとめられたが,その中の「当用漢字表(音訓表・字体表を含む。)から削る字」に,「遵」が掲げられた。国語審議会は「当用漢字表の補正は,その影響する方面や範囲が広く深いので,この漢字部会の補正資料は,このさい一般の批判をもとめ,今後なお実践を重ねることによって,その実用性と適正さが明らかにされると考えられる。」と,その取り扱いについての意見を付し,また,文部省は,「教育の上でのその取扱いは,これによって別に変更されません。」という通知を出した。

 しかし,各新聞社は,この補正資料に基づき,当用漢字表を補正して使用し,また,国語辞典なども,補正資料に基づく書きかえ表記を並列して掲げるようになった。その結果,両様の表記が並列して行われ,マス‐メディアにおいては「順法」のほうが定着するにいたったのである。

 したがって,「常用漢字表」が施行されている現在,「当用漢字補正資料」は効力を失ったわけで,「遵法」が本来の正しい表記ということになるが,広く一般に使われている「順法」を否定するわけにもいかない。(「順法闘争」の語は今後も定着するであろう。)なお,「常用漢字表」の「遵」の語例欄には,「遵法」が掲げてあるが,「順」の語例欄に「順法」はない。

 これと同じような例として,「濫(乱)用」「濫(乱)費」「鍛錬(練)」などがある。


ページの先頭に戻る     手紙の用語・電報文へ

Q14 「不気味」か「無気味」か

A14 手もとの国語辞典を見ると,『岩波国語辞典』は「無気味・不気味」と,『例解新国語辞典』は,「不気味・無気味」と,二つの書き方を並列して掲げ,『新明解国語辞典』は,「不気味」を採り,「無気味とも書く。」と注記している。その他の辞典も同様で,ほとんどが両様の書き表し方を示しているが,やや,「不気味」を望ましいとする傾向が見られる。

 ところで,『言葉に関する問答集』によると,この二種の表記には,次のようないきさつがある。

1 従来,「不気味・無気味」両様の表記が行われていたが,「不気味」のほうがやや優勢であった。

2 昭和二十三年内閣告示の「当用漢字音訓表」では,「不」には「フ」の音だけしか掲げてなく,「無」には「ム・ブ」と掲げてあった。そこで「無気味」または,「ぶ気味」という表記が広く行われた。

3 ところが,昭和四十八年内閣告示の「当用漢字音訓表」では,「不」に「フ・ブ」と掲げてあるので,「不気味」と書き表せることになり,「1」の関係から「不気味」と書き表すべきとするか,「2」が定着したと考えて「無気味」と書き表すべきか,再び問題になってきたわけである。

 結論的にいえば,両種の書き方ともかなり古くからあったのであるから,どちらか一方を正しいとか,誤りだとするわけにはいかない。現在行われている表記法を調べ,より一般的な表記法に従うということになろう。

 武部良明氏の『漢字の用法』では,漢字の意味の上から,

不(否定。そうでないこと。)
  
不器用・不格好・不細工・不風流・不気味・不調法・不用心・不祝儀・不粋・不精・不躾

無(「有」の対。それがないこと。)
  
無愛想・無遠慮・無作法・無頼の徒・ご無沙汰・無礼・無難・無様・無事・無音・無勢

というように,「不」「無」の使い分けが示してある。この使い分けは,現在のところ,かなり一般的なもので,各種の用字用語辞典とも,かなりの部分が重なる。このなかで問題になるのは,「不粋・不精・無作法」などであろう。例えば『朝日新聞の用語の手びき』では,これらは,「無粋・無精・不作法」と表記されることになっている。また,「常用漢字表」では,語例欄に「不精」「不作法」が掲げられており,教育現場における一つの目安となっている。


ページの先頭に戻る     手紙の用語・電報文へ

Q15 「注文」か「註文」か

A15 「注」という字は,「そそぐ。一点に集中する。」という意味で,「注入」「注目」「注視」,などと用いられる。それが転じて,「注釈」「頭注」など,「語句を解釈する書きこみ。」の意味に用いられ,更に,「書き載せる。」「くわしくときあかす。」意に用いられるようになった。そして,このような転じた用い方はすべて言葉に関係があることから,さんずいをごんべんに入れかえた「註」という異体字が造られ,用いられるようになったのである。

 したがって「註」という字の意味は,当然「注」に含まれているわけで,「ちゅうもん」も,本来は「注文」であり,それが「註文」とも書かれたわけである。

 そこで『大言海』は「注文」のみを掲げ,『大日本国語辞典』は,「ちゅうもん」の項では「注文・註文」と併記しながら,「注文書」「注文先」などと,複合語の見出しにはすべて「注」のみを用いている,というように,かつてはむしろ「注文」のほうが優勢であった。しかし,簿記で「註文」のみを用いたために,「註文」もしだいに使われるようになり,やがて次のようなかたちで,「注」と「註」の使い分けが広く行われるようになった。

 「そそぐ」の意・・・・注射・注入・注意・傾注

 「しるす」の意・・・・註釈・頭註・評註・註文

 ところが,「当用漢字表」が制定された時,同じ音で意味の近いものは,一方を省き,他方に書きかえるという方針が採用され,使用範囲の広い「注」が選ばれた。そして,「同音の漢字による書きかえ」(昭和三十一年,国語審議会報告)が発表され,「註文」は「注文」に書きかえることが望ましいとされたのである。
 したがって,一般には「注文」「註文」の両方が使われているが,学校教育においては,「常用漢字表」に掲げられている「注」の字を使い,「注文」と表記すべきである。

 なお,「同音による漢字の書きかえ」では,

  註解→注解  註釈→注釈  註文→注文

と,三語が掲げられているが,同時に,

  註→注

として,「註」を用いた全ての語の場合に,「注」に書きかえることを示している。


ページの先頭に戻る     手紙の用語・電報文へ

Q16 「人々」か「人人」か「人びと」か

A16 教科書においては,「人々」と書き表す。「国々」「年々」「日々」「堂々」なども同様である。ただし,行頭に第二字がくるときは,「々」の使用を避け,「人人」と書き表す。

 そもそも「々」は漢字ではなく,重出する漢字をいちいち書く手間を省く,繰り返し符号である。このほか,「ゝ・ゞ」などの繰り返し符号があるが,これらの符号は,固有名詞でないかぎりは,教科書では使用されない。 「々」のみが用いられる根拠は,昭和二十七年の「公用文作成の要領」の中に,「同じ漢字をくりかえすときには『々』を用いる。」と示されているからである。

 したがって,漢字の二字以上の組み合わせが重なるもの,例えば,「一人一人」「一試合一試合」などや,二語の連合で,前の語の最後とあとの語の最初が重なるもの,例えば,「民主主義」や「説明会会場」などの場合は,「々」を用いないのが望ましいし,教科書では用いていない。

 ところで,用語辞典の見出し語を調べてみると,多くのものが「々」を用いていない。「々」が漢字ではなく符号であり,語として規範的に示すには望ましくないという判断がはたらいているのであろう。「公用文作成の要領」で「々」について述べた一文は,「第3 書き方について」の項の中にあり,同項の冒頭に「執務能率を増進する目的をもって,書類の書き方について,次のことを実行する。」としていることとからんで,そのような判断は十分うなずけるところである。

 では,教育現場で,書き取りなどの場合にどれを正しいとするかという問題が生じるが,当然,「人々」「人人」のいずれもが正しいとするべきであろう。語として「人人」を採り,書き表し方として「人々」を採るというような使い分けは,かえって混乱を生じさせると考えられる。

 北杜夫の『楡家の人びと』のように,最近,「人びと」という書き方も見られるが,これは繰り返し符号を避けたいという考え方とともに,「ひとびと」という連濁の読みをわかりやすくしたいという意識がはたらいているからであろうか。また,「一人ひとり」というような書き方が見られるのも,繰り返し符号を避けたいという意識が強くはたらきすぎたためだと思われる。


ページの先頭に戻る     手紙の用語・電報文へ

 Q17 「手短」か「手短か」か

A17  「テミジカ」は,形容動詞である。形容動詞には,「確か」「静か」「厳か」「定か」「暖か」「細か」「豊か」「愚か」などのように,「か」という送り仮名をつけて,「─か」という形をとる語が多い。送り仮名の付け方のよりどころとして示された,昭和四十八年内閣告示「送り仮名の付け方」の,通則1の例外2に,

 2 活用語尾の前に「か」,「やか」,「らか」を含む形容動詞は,その音節から送る。

とあり,その例として,「暖かだ」「細かだ」「穏やかだ」「健やかだ」「明らかだ」「柔らかだ」などの語があげられているからである。

 しかし,「テミジカ」は,「テ・ミジカ」という複合語であり,この通則1の例外2は適用されない。それは,「送り仮名の付け方」の本文の構成が,大きく「単独の語」と「複合の語」に分けられていて,複合語については,同告示の通則6が適用されるからである。

 通則6 複合の語の送り仮名は,その複合の語を書き表す漢字の,それぞれの音訓を用いた単独の語の送り仮名の付け方による。

 つまり,「テミジカ」は,「テ」と「ミジカ」のそれぞれについて送り仮名を考えなければならない。「テ」は「手」であり問題はないが,「ミジカ」にどう送り仮名をあてるかが問題である。

 「短」という漢字を単独の語として用いる場合の読み方は,形容詞の「ミジカイ」であり,これについては,通則1の本則に,

 本則 活用のある語は,活用語尾を送る。

とある。他の形容詞「赤い」「高い」「深い」「濃い」などと同じように「短い」と送り仮名をあてればよく,「短」は「ミジカ」と読むことになる。同じ形容詞でも,「細かい」「重たい」などの場合には,「細い」「重い」などとの区別をはっきりさせるため,活用語尾以外の音を送るが(通則2の2),「短い」の場合には,そのような心配はない。したがって,「テミジカ」は「手短」と書き表すべきである。

 同様の語に,気短,間近,身近,目深,声高などがある。


ページの先頭に戻る     手紙の用語・電報文へ

Q18 「交ざる」と「混ざる」はどう使い分けるか

A18 「交」と「混」の字義と語例を比べてみると,

……人が足を交差させた姿を描いた象形文字で,「まじわる」「まじる」「こもごも」「たがいに」などの意をもつ。
交互・交代・交付・交易・交通・交配・交流・交渉・交換・交番・交際・交歓・交錯

……「水+昆(まるくまとまる)」の会意兼形声文字で,「いろいろなものが一つになって区別がなくなる」「まぜ合わす」の意。
混合・混成・混同・混乱・混迷・混然・混戦・混濁

 「まざる・まじる・まぜる」を,漢字を使って書き表す場合,「交」と「混」のこのような字義の違いを生かして使い分けを行っているが,おおよそ,次のようにまとめることができる。

 交を使う場合……2種以上のものが入り組んでいて,しかもそれ自体の性質を失っていない状態。

 ・麻にナイロンが交ざっている。
 ・漢字仮名交じり文
 ・男たちの中に女が1人交ざっている。

2 混を使う場合……2種以上のものが,一緒になっていて,区別しがたい状態。

 ・和風と洋風が混ざりあったような建築。
 ・コーヒーにミルクを混ぜる。
 ・絵の具を混ぜ合わせる。

3 (本来「雑」であるが,)混を使う場合……本来のものに,別のものが混入している状態。

 ・外国人の血が混じっている。
 ・雑音が混じる。
 ・頭髪に白髪が混じる。

       *

 椋鳩十の『大造じいさんとがん』の中に,「……左右のつばさに一か所ずつ,真っ白な混じり毛を持っていたので……」とあるが,この場合は,がんのつばさに,本来の色とは異なる真っ白な羽毛が混入している状態なので,に該当すると判断し,「混」を用いている。これが,「インコは,赤・黄・緑などの交ざり合ったきれいな鳥である。」などの場合になると,に該当し,「交」を使う,ということになる。


ページの先頭に戻る     手紙の用語・電報文へ

Q19 「離れる」と「放れる」はどう使い分けるか

A19 まず,二つの漢字の意味から考えてみよう。『角川漢和中辞典』によれば,「離」は,「ばらばらになる」「とおざかる」「わける」「ひらく」「さる」「そむく」などの意味をもつのに対して,「放」は,「ときはなす」「ゆるす」「おいやる」「ほしいまま」「うっちゃっておく」などの意味をもっている。

 また,この二つの漢字の含まれた熟語をそれぞれ挙げてみると,

・「離」……離脱 離反 離別 離陸 別離 分離など

・「放」……放任 放言 放浪 放免 解放 奔放など

がある。

 これらのことから,「離れる」を使った場合には,「ものとものとの距離が広がる」ということに重点が置かれ,「放れる」を使った場合には,「動いた結果,束縛から解放される」という意味に重点が置かれることがわかる。したがって,「離れる」「放れる」の使い分けを具体例によって示せば,次のようになる。

・飛行機が陸を離れる。 ・私の家は,町から離れている。

・故郷を離れる。 ・しばらくあの会からは離れている。

・子が親の手から放れる。 ・犬が鎖から放れる。

・凧が糸から放れる。

 「離れる」「放れる」はいずれも自動詞であるが,これと対応する他動詞の「離す」「放す」についても,同じことがいえる。

・仲を引き離す。 ・不要な部分を切り離す。

・危険防止のため火から離して使う。

・野に馬を放す。 ・私は,彼を見放している。

・野放しの状態に放置されている。

 「はなれ島」を「離れ島」,「はなれ馬」を「放れ馬」と書く理由も,その「はなれ方」が異なるからである。「離れ島」は,ただ距離があることに重点が置かれているのに対して,「放れ馬」は,束縛から解かれて自由になるところに重点が置かれている。

 「親元をはなれる。」という一文についても,「親元を離れる。」と,「離」をあてた場合と,「親元を放れる。」と,「放」をあてた場合とでは,同じような意味上の違いが現れる。


ページの先頭に戻る     手紙の用語・電報文へ

Q20 「調う」と「整う」はどう使い分けるか

A20 「調」と「整」の字義と語例を『角川漢和中辞典』でみてみると,

調──和合の意の語源(合)からきていて,口をきいて和合させる意,ひいて,調整の意となる。字義は,「ととのう・ととのえる」「あう・あわせる」「そろう」「したがう 」「ならす」「しらべ」「しらべる」「物を買う」などの意をもつ。
   調合・調味・調和 ・調剤・調馬・調達・調節・調教・調理・不調。

整──そろえる意の語源(斉)からきている。きちんと整列させる意。字義は,「ととのえる」「物事が乱れないように正しくそろえる」「おさめる・おさまる」「完全で分解 しないものの称」「きっちり」「ちょうど」などの意をもつ。
   整列・整斉・整理・整備 ・整然・整頓・整形・整合・修整・不整脈

とある。

 以上の語例の意味を各種の国語辞典で調べてみると,おおよそ,「調」は「何かをするため,始めるための必要なもの(状態,条件)をそろえる。」「物事がまとまる。成立する。」という意味で使われ,「整」は「乱れたもの,まがったもの,くずれたものを正しくする。なおす。きちんとする。」という意味のときに使われているといえよう。

 『NHK編 新用字用語辞典』『東京堂 用字用語辞典』『朝日新聞の用語の手びき』『例解辞典』など,現行の各種用字用語辞典が,「調う」「整う」をどのように使い分けているか整理すると,次のようになる。

調う──資金が調う。商談が調う。道具が調う。旅行のしたくを調える。
    味を調える。費用を調える。家財道具を調える。晴れ着を調える。

整う──準備が整う。隊列が整う。整った文章。態勢が整う。調子を整える。体調を整える。

 したがって,例えば,同じ「準備がととのう」でも,なにか作業を行うために必要な道具を買いそろえれば,「準備が調う」であり,散逸した道具類を使いやすいようにかたづけ,そろえれば,「準備が整う」と表記すべきであろう。

 『走れメロス』の中に「祝宴の席を調え」とあるのは,単にテーブルやいすをととのえる意味ではなく,祝宴のための料理や飾り付けの準備をする意味で,「ととのえる」という言葉が使われているからである。


ページの先頭に戻る     手紙の用語・電報文へ

Q21 「速い」と「早い」はどう使い分けるか

A21 「速」は「速球・速攻・速成・速断・快速」などと用いられ,「一定の距離を動くのに(あるいは,一定の行為をするのに)要する時間が少ない」という意味である。また,「速度・時速・風速」などのように,「速さ・スピード」の意でも使われる。したがって,「決断が速い」「呼吸が速い」「球が速い」「車の出足が速い」「流れが速い」などは,「速」を用いる。

 これに対して「早」は,「早朝・早暁・早春・早退」などのように,「物事を始めたり終わったりする時期や時刻が前である」,あるいは「朝のまだはやいとき」の意で,「時期が早い」「気が早い」「起きるのが早い」,また,「早帰り・早咲き・早死に・早じまい・早出・早手回し・早作り・早寝・早々・早番・早引き」などと用いる。

 したがって,「速い電車」といえば,特急などのスピードの出る電車のことであるが,「早い電車」は朝早く出る電車のことである。

 また,「早い」は,転じて「物事を急いで行う様子」の意味にも用いられる。「早合点・早のみこみ・手早い」などがそうである。しかし,「物事を急いで行う様子」と「速」の「所要時間が少ない」の意味の違いを判断するのはむずかしく,むしろ,これらは慣用によっているというべきであろう。

 例えば,「早打ち・早撃ち・早馬・早かご・早鐘・早変わり・早口・早道・早耳・早業」なども同様で,「早」を用いるのが一般的であるが,意味からすれば,「速」を用いることも否定できない。現在使われている国語辞典・用字用語辞典のほとんどは「早」を用いているが,『新明解国語辞典』は「速」を用いている。

 なお,動詞として「はやめる」「はやまる」があるが,この使い分けも「速い・早い」の使い分けと同じで,「速度を速める・速度が速まる」,「出発を早める」「出発が早まる」のように用いる。

 ところで,「常用漢字表」では,「早」の項には「はやまる」という字訓が掲げられているが,「速」の項には,「はやまる」という字訓が掲げられているが,「速」の項には,「はやまる」がない。しかし,「表の見方」に「派生の関係にあって同じ漢字を使用する習慣のある……類は,適宜,音訓欄又は例欄に主なものを示した。」(傍点編集部)とあることからもわかるように,音訓のすべてが示してあるわけではなく,「速める」と対応関係にある「速まる」も,「常用漢字表」に従った用い方と考えてよい。


Q22 「日本」は「ニッポン」か「ニホン」か

A21 結論から先にいえば,どちらか一方に統一することは不可能で,現在のところ,どちらに発音してもいいということになる。

国号としての「日本」の読み方
はがきや切手にNIPPONと印刷表示したりしてあるが,国家的に読み方を決定したことは,これまで一度もない。昭和9年3月19日に臨時国語調査会(国語審議会の全身)で「国号呼称統一案」を発表し,「ニッポン」とすることを決議したが,これは政府で採択するまでにはいたらなかった。その後,戦前の帝国議会,戦後の国会を通じて,何度か国号呼称の統一が問題になったが,そのたびに政府側の答弁は,にわかにどちらかに決めることは困難であるという点で一貫している。
また,日本放送協会の放送用語並発音改善調査委員会(略称,用語調査委員会)では,昭和9年に国号としては「ニッポン」を第一の読み方とし,「ニホン」を第二の読み方とすることを暫定的に決め,昭和26年の同委員会で,正式の国号として使う場合には「ニッポン」,その他の場合には「ニホン」と言ってもよいという決定をしている。
では,なぜこのような二通りの発音が存在するのだろうか。「日」は漢音「ジツ」,呉音「ニチ」,また,「本」は漢音・呉音とも「ホン」」である。「日本」は呉音の字音読みとして,まず「ニッポン」と発音されたものが,しだいに促音を発音せず,やわらかな「ニホン」に変わっていき,両者が併用されてきたという説が有力である。室町時代には,国号呼称として両者があったことが,謡曲や『日葡辞書』『日本大文典』などであきらかにされている。

「日本」を含む複合語あるいは複合的固有名詞の読み方
『NHK放送ことばハンドブック』では,「日本」の読み方について,次のようにまとめている。
(1)「ニホン」という発音のみを認める語
  日本画/日本海/日本海溝/日本海流/日本髪/日本共産党/日本紙/日本酒/日本書紀/日本大学/日本脳炎/日本橋(東京)/日本風/日本間/日本霊異記/日本料理
(2)「ニッポン」という発音のみを認める語
  日本永代蔵/日本国/日本国民/日本賞/日本社会党/日本橋(大阪)/日本放送協会
(3)「ニホン」「ニッポン」の両用の発音を認めるもの
  日本一/日本記録/日本犬/日本語/日本三景/日本時間/日本製/日本男子/日本刀/日本晴れ/全日本
(4)「ニホン」を第一とし,「ニッポン」を第二とするもの
  日本アルプス/日本銀行(紙幣には Nippon Ginko としてあるが,日本銀行内部ではどちらとも決めていない。)
また,『日本国語大辞典』では,「ニッポン」としか読まないとする語例として,
  日本永代蔵(書名)/日本銀行/日本銀行券/日本興業銀行/日本国有鉄道/日本左衛門(人名)/日本社会党/日本専売公社/日本中央競馬会/日本橋(大阪)/日本不動産銀行/日本放送協会/日本郵船 など
が見出し語として揚げられており,「ニホン」の見出し語の中には,次のような語例を揚げている。
  日本アルプス/日本医科大学/日本育英会/日本医師会/日本狼/日本オリンピック委員会/日本音楽著作権協会/日本画/日本海/日本海員組合/日本海溝/日本外史(書名)/日本開発銀行/日本学士院(賞)/日本学術会議/日本学校安全会/日本カトリック教会/日本髪/日本剃刀/日本官公庁労働組合協議会/日本棋院/日本共産党/日本教職員組合/日本基督教会/日本近代文学館/日本経営者団体連盟/日本経済新聞/日本芸術院(賞)/日本犬/日本原子力研究所/日本工業規格/日本航空株式会社/日本国憲法/日本国民/日本語版/日本座敷/日本三景/日本史/日本紙/日本字/日本歯科大学/日本時間/日本式/日本酒/日本住宅公団/日本自由党/日本将棋連盟/日本商工会議所/日本書紀(書名)/日本女子大学/日本シリーズ/日本新聞協会/日本相撲協会/日本赤十字社/日本体育協会/日本体育大学/日本大学/日本魂/日本茶/日本長期信用銀行/日本著作権協議会/日本的/日本鉄道建設公団/日本手拭/日本電信電話公社/日本道路公団/日本脳炎/日本農林規格/日本派/日本橋(東京)/日本美術院/日本標準時/日本風/日本服/日本武道館/日本舞踊/日本文/日本文学/日本文学科/日本文芸家協会/日本ペンクラブ/日本弁護士連合会/日本貿易振興会/日本間/日本米/日本町/日本民芸館/日本訳/日本薬局方/日本輸出入銀行/日本ライン/日本栗鼠/日本流/日本霊異記(書名)/日本料理/日本歴史/日本列島 など     

 

 

 


ページの先頭に戻る     手紙の用語・電報文へ