イリヤの空、UFOの夏 番外編『それ以外のことについて言えば、』
本編1

 夏なのに春だった。九月も一日といえばまだ夏の真っ只中で、しかし町田一樹は今まさにこの世の春を謳歌している。幼稚園児よりもヒマな大学四年生などそう珍しくはないけれど、夏休みの前に卒業に必要な単位を取り終えてしまった町田は、しかも卒業後は田舎に帰って家業を継ぐ予定なので就職活動とも無縁の町田は、昨夜も昨夜でつい魔がさしてアダルトビデオをいっぺんに五本も借りてきてしまうくらいのヒマヒマな日々を満喫しているのだった。
「だけど、卒業論文とかあるんじゃないの?」
 浅羽理容店のオヤジは刈り布とタオルを手際よく外して、正面の鏡に映っている自分の仕事ぶりを最後にもう一度検分する。町田は肩をすくめて、
「うちの学部、卒論は必修じゃないから。卒論書けばその分の単位がもらえるってだけ。知り合いにもいっぱいいますよ、卒論書かずに授業を何コマか余計に取って埋め合わせるつもりの奴」
「町田君って学部どこだっけ?」
「文学部」
 正確には『人間科学部』である。去年から名前が変わったのだ。
今どき『文学』がエサでは学生も集まらないからせめて看板だけでも――ということらしいのだが、それにしても『人間科学部』という言い草は果てしなくワイセツだと町田は思っている。
「じゃあ、もう卒業まで学校行かなくてもいいってこと?」
「ですね」
 むう、とオヤジはうなり、
「へええ。いいねえ。羨ましいねえ」
 それがどこか気のない口調だったのは、浅羽理容店のオヤジが心から好きで床屋をやっているからなのだろう。町田が床屋椅子から立ち上がったのは、店の隅のテレビで昼のメロドラマが始まるころだった。町田はいつものように常連割引で料金をちょっとだけ負けてもらって、レジ横の小さな籠に入っているキャンディーをひとつ口に放り込んで浅羽理容店を後にする。背伸びと屈伸、夏の日差しとシェービングローションの匂い、空腹で幸福な昼下がり。午後の予定は一秒で決まった。――とりあえず内藤食堂でゴマだれの冷やし中華を食って、それから今津書店で新刊をあさって、近くの喫茶店に寄ってガムシロップを三つぶち込んだアイスコーヒーを飲んで、その後はそのときの気分に任せて出たとこ勝負。
 が、それには財布を取りに戻らなければならない。
 町田は、買い物をした時などに受け取った釣り銭を財布ではなくポケットにねじ込む癖がある。散髪をしようと思い立って部屋を出たときには、昨日と同じズボンのポケットにはアダルトビデオを五本借りた釣り銭が入っていたのだ。が、そこから常連割引の料金を払ってしまった今は、五百円にも満たない小銭が残っているだけだった。
 町田の住むアパートは、浅羽理容店の通りを挟んだ真向かいにある。
 木造二階建ての、隣の奴が女でも連れ込んだら何もかも筒抜けのぼろアパートだ。町田の部屋は二階の真ん中の203号室で、窓からは通りの向かいの浅羽理容店を見下ろせる。むしろ「梯子」と呼ぶのが似合いの急な階段を上がり、右手の指先がポケットの小銭の中から部屋の鍵を探り当てる。
 ドアを開けた瞬間、丸太のような太さの腕に胸倉をつかまれた。
 苦もなく玄関口に引っぱり込まれ、軸足を軽く蹴られたと思ったとき、町田はすでに空中で逆さまになっていた。町田の身体は斜めに回転しながら台所の流し台よりも高く宙を飛び、六畳間の畳に頭から落ちてアパート全体を地震のように震わせる。そのとき町田の脳裏に浮かんだのは、アパートの管理人をしている藤吉老人のあごの先からひょろりと伸びるホクロ毛だった。畜生、クソじじいにまた小言を言われる。――あんたねえ、夜中に足音がどすどすうるさいって下の部屋から苦情が出てるんだよねえ、あんた一人で住んでるんじゃないんだからさあ、もうちょっと周りの人のこと考えてもらわないと困るんだよねえ――
 黙れクソじじい。
 右の手首を踏みつけられた。
 それから先はまるで手品だった。町田は抵抗らしい抵抗もできないまま、気がついたときには両手両足を拘束されて部屋の隅に転がされていた。芋虫のように身をもがき、周囲を見回して思わず息を飲む。
 用途不明の機材の山と、正体不明の二人の男。
 つい一時間ほど前までは大して物もなかったはずの六畳間は、まさに見る影もないほどの変貌を遂げていた。まるで設営途中の作戦本部のような有様だ。留守の間に運び込まれたらしいそれらの機材が一体何をするためのものなのか、町田にはまったく判別がつかない。二人の男はどちらも引っ越し屋の作業服を着ていた。一人は呆れるほどの大男で、魚類を思わせる無表情な目つきで町田をじっと見下ろしている。
「おい、もうちょっとスマートにやれよ」
 そして、もう一人が口をきいた。
 声が若い。町田に背を向けて窓際に座り込んでいる。じっとうつむいて、両手で何かをがちゃがちゃいじくりまわしているように見えるのだが、何をしているのかはよくわからない。
 大男は町田を親指で指し示して、
「こいつどうします? イズミさんの方で何もなければこっちで処理しますけど」
 イズミと呼ばれた男は、窓の外を見つめたまま「うん」とつぶやいて、
「――いいよ、こっちでやるから。残りのコンテナ運んじゃって」
「さっきので最後です」
「じゃあもういいや。ご苦労さん」
 大男はイズミの背中に物問いたげな視線を向けていたが、すぐに踵を返して町田の視界から消えた。遠ざかる足音とドアの開閉音。
 そして、作戦本部のような六畳間には町田とイズミの二人だけが残された。
「――いったい誰なんだよお前ら、俺の部屋で何してんだ」
 それまでずっと言葉を失っていた町田の口から、まるで寝ゲロのように勢いのない疑問があふれ出た。
 イズミは振り返る。
 やはり若い。下手をすると自分より年下かもしれないと町田は思う。ずっと手の中でがちゃがちゃやっていたのは、町田が去年のクリスマスコンパのプレゼント交換で後輩の女の子からもらったルービックキューブだった。
「おまえさ、これ、六面揃えられる?」
 町田を見つめて、イズミは真剣な表情でそう尋ねる。

 目が覚めてからもしばらくは、町田は自分が死んだのだと思っていた。死後の世界は闇一色で、身動きができないほど狭苦しくて、カビと埃と防虫剤の匂いがした。
「おーい、」
 町田は両足で襖を蹴って、
「ションベン洩れちまうよ、トイレ行かせてくれよぉ」
 ぼんやりと蘇ってきた記憶が正しいとすれば、町田は再び両手両足を縛り上げられて六畳間の押入れに放り込まれているのである。
 ルービックキューブを六面揃えられるかと尋ねられ、そんなの簡単だと町田は答えた。予想に反して、イズミはすぐに町田の手足を拘束している細いベルトを外してくれた。ちょっとやって見せてくれよ、とルービックキューブを手渡されたその瞬間まで、町田の方も逃げようなどとは思っていなかったのだ。
「もう逃げねえからさぁ、頼むよおい」
 返事はない。
 試行錯誤の末に、町田は両足のつま先を使って押入れの襖を20センチほど開けることに成功する。身体の向きを入れ替えて腹這いになり、細く開いた襖から顔だけを突き出して外をのぞいてみる。
 まるで設営途中の作戦本部のようだった六畳間は、設営の終了した作戦本部へと変貌を遂げていた。
 窓のある壁に沿って機材が整然と並べられ、色も太さも様々なケーブルが日に焼けた畳の上を這い回っている。窓のカーテンはぴったりと閉ざされていたが、三台ある液晶モニターの画面には浅羽理容店のオヤジが店じまいをしている様子が別々のアングルで映し出されている。押入れの向かいの壁には新聞紙ほどの大きさのホワイトボードが立てかけられていて、四枚の写真が磁石で留められていた。一枚は浅羽理容店のオヤジ。もう一枚はその妻。残りの二枚は中学生くらいの少年と少女の写真で、町田も顔をはっきりと憶えているわけではなかったが、おそらく息子と娘なのだろうと思う。
 イズミは部屋の真ん中に胡座をかいて座り込み、ふてくされたような顔でルービックキューブをいじくりまわしている。しばらくの間、町田はその様子を見守っていた。どうやらイズミは一面を揃えることはできるのだが、そこから先に進めないでいるらしい。
「まず完全一面を揃えるんだよ」
 イズミがようやく反応を見せた。押入れから顔を突き出している町田を横目で見つめて、
「――何だよ、完全一面って」
 口で説明するのはかなり難しい。町田は眉根を寄せて考えをまとめ、
「――ルービックキューブって、3×3×3個の小さなキューブが積み重なった構造をしてるだろ? 六つあるそれぞれの面の真ん中のキューブを『センターキューブ』って言うんだ。センターキューブは動かせないことには気づいたか?」
 イズミは手の中に視線を落とし、
「動くよ。真ん中の列だけ回せば動くだろ?」
「いや、動かない。真ん中だけ回すってのは、真ん中だけ残して両側の列を回してるってことだから。白の対面は青、黄色の対面は緑、オレンジの対面は赤。どんなにがちゃがちゃ動かしても、センターキューブの位置関係は絶対に変わらない」
 しばらくあれこれやって、イズミは急に「なるほど」という顔をする。
「センターキューブが動かない以上、どの面を何色で揃えるべきかは決まってるんだ。もっと言えば、すべてのキューブに『収まるべき正しい位置』があるわけ。お前がさっきからやってたみたいに、ただ単純にひとつの面の色を揃えるだけじゃあんまり意味がないんだよ。揃ってるように見えても実はバラバラ」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
「だからさ、センターキューブに合わせればいいんだよ。例えば、オレンジと黄色に色分けされたキューブは、オレンジのセンターキューブと黄色のセンターキューブの間に挟まれる位置に入らなきゃいけないよな。そうやって、九つのキューブを全部正しい位置に入れて一面を揃えると、揃えた面を上に向けて横から見たときに、横の面のセンターキューブと上の列の三つのキューブが同じ色で揃ってるはずだよな」
 説明を聞きながらぼんやりと手を動かしていたイズミの横顔に、唐突に理解の色が滲んだ。
「つまり、それが完全一面?」
 町田は肯いて、
「つまり、それが完全一面」
 イズミは子どものような笑顔を浮かべて、ラッキョウを与えられたサルのような勢いでキューブをぎゅるぎゅる回し始める。
「――それと、重要なことがもうひとつ」
 町田のつぶやきにイズミはうるさそうに顔を上げて、
「なに」
「マジでションベン漏れそう」

        ◎

 ホワイトボードに癖のある字で『守和泉』と書いて、『カミイズミ』と読むのだが仲間からは『イズミ』と呼ばれている、とイズミは言った。

 部屋から一歩も外に出られない。
 電話をかけることも禁止。
 が、イズミはそれ以外は特に何も要求しなかったし、町田もそれほどの不自由は感じなかった。何か必要なものがある場合には、何日かおきに顔を見せる大男に頼めば大抵の用は足りた。町田は次第に大胆になって、昨夜など「久しぶりに酒が飲みたい。ビールとつまみ買ってこい」と言ったら大男は本当に買ってきてくれて、ひとりで飲んでも面白くないのでイズミの手からルービックキューブを奪い取って缶ビールを握らせ、じゃんじゃん飲ませて酔い潰れた隙に逃げよう――などと考えぬでもなかったが、飲みながらバカ話をして大笑いしているうちにそんなことは忘れてしまい、気がついたら朝になっていた。
「陸上自衛軍の特務兵――ってつまり、スパイ?」
 空っぽのビールが散らばっている床に寝っ転がって、天井の木目をぼんやりと見つめながら町田は尋ねる。すぐ隣に寝っ転がっているイズミはルービックキューブをいじくっている手を止めて、少し考え込んで、
「――まあね」
「すげえ。俺、生きて動いてるスパイって生まれて初めて見た」
「そんなはずはない」
「なんだよそれ」
「知らぬが仏ってやつだよな。お前さ、園原市に住んでもう四年だろ?」
「そうだけど」
「おれも今まで任務であっちこっち行ったけどさ、特務機関のディズニーランドみてーなところだぞこの街は。石を投げればスパイに当たるんじゃねえかって思うくらいだ。知らないうちに協力者に仕立て上げられてる奴まで含めたらとんでもない数になるだろうな。そのへんを歩いてるアメリカ兵の中にもそれっぽい奴がうじゃうじゃいるぞ」
「それっぽい奴、ってどんな奴だよ」
「――まあ、一番わかりやすいのは特殊部隊の連中かな。例えばさ、園原銀座商店街の中にある『鉄人屋』って知ってるか? あの店に入り浸ってるアメ公の中で、やけに筋肉ムキムキで、軍服じゃなくて頭悪そうなアロハシャツなんか着て、そのくせ日本語が妙に達者で『ワタシ軍人じゃアリマセーン、ソノハラ基地でこんぴゅーた関係のシゴトしていマース』なんて言う奴はまず間違いなくデルタの爆弾魔かSEALの殺人アザラシだ」
 ほんとかよ、と町田は思う。
「連中はおれたちとは違って根っからのスパイじゃないけどな。でも、情報部とつるんで北の要人を暗殺したり原子力発電所を偵察したりなんてことはしょっちゅうやってる。おれたちよりもむしろ連中の方が、素人の考える『スパイ』のイメージには近いんじゃねえのかな」
 町田は、ふうん、とつぶやいて、
「じゃあ、お前は普段どんなことしてんの」
 そのとき、安物の目覚まし時計のような電子音が鳴り響いた。
 イズミはむっくりと起き上がる。六畳間を埋め尽くしている機材に向き合い、キーボードを膝の上に乗せて不器用に指を走らせる。液晶モニターに電話番号が表示され、スピーカーから漏れる音声に合わせてギザギザの波形が踊り始める。
 ――はい浅羽です。
 ――おお、その声は浅羽くん!
 ――兄なら、まだ寝てますけど。
 ――そんなことだろうと思った。すまんが叩き起こしてくれたまえ。
 モニターの波形を見つめながら、イズミがぽつりとつぶやく。
「運動部で言やぁ、レギュラーじゃなくて球拾いみたいな仕事だよ」
 が、町田は聞いていなかった。 
「あー!! やっべえ!!」
 町田は飛び起きて、部屋の隅に転がっていたビデオ屋の袋からレシートをつかみ出す。
「うおー、あぶねーあぶねー。ビデオ返すのすっかり忘れてた。なあイズミ、ゴリ夫が次に来るのっていつだ?」
「誰だよゴリ夫って」
「いやほら、お前の相棒のデカブツ。名前なんていうのあいつ? ビデオ返しに行ってくれって頼んでも大丈夫かな?」
「そんなん自分で行けよ」
 町田はレシートから顔を上げ、イズミの背中をじっと見つめた。
「――いいの?」
 イズミは振り返りもしなかった。
「ゴリ夫には内緒だぞ」
 ――鼻毛、ズボンのチャック、新しいパンツ。
 ――よろしい。では、速やかに準備にかかりたまえ。幸運を祈る。

        ◎

「ただいまー」
「おかえりー」
 部屋に帰ってきた町田は、スーパーの買い物袋を流し台の上にどさりと置いた。クーラーの冷気に安堵のため息をつき、冷蔵庫から取り出した麦茶をグラスに注いで一気飲みする。六畳間をのぞいてみると、イズミはいつものようにルービックキューブをいじくり回している。
「お。ちょっと進歩したじゃん。真ん中の列のエッジキューブ全部入ってんじゃん」
 が、イズミは憮然として、
「もういっぺん最初からやり直そうと思って、ぐちゃぐちゃに崩して完全一面を作り直したら勝手に揃っちまったんだよ」
 わはは、と町田は笑って、
「ラッキーパターンってやつだ。でもやり方がわかってなきゃ意味ないわなあ」
「ああくそ、やり直しやり直し」
 と口では言うのだが、いい線まで行ったものを崩してしまうのはやはり惜しいのだろう。イズミは町田が晩メシの支度を終える頃になってもまだ手の中のキューブをじっと見つめているのだった。
「なあイズミ、いいこと教えてやるよ。スピードキューブの世界選手権レベルの連中になるとなあ、六面揃えるまでに二十秒かからねえんだぞ」
 それを聞いたイズミはまさに「うんざり」といった顔つきでがっくりと肩を落とした。
「さ、がっくりきたところでメシにしようぜ」
「――今日のメシ、なに」
「ゴーヤチャンプルー」
 町田は、料理は結構やる方なのである。
 二人はちゃぶ台を挟んでどんぶり飯に手を合わせ、
「いただきます」
「いただきます」
 どちらもしばらくの間、黙々と箸を動かしていた。やがてイズミが、
「なあ、」
「ん」
「さっきの、世界レベルだと六面を二十秒、ってホントなのか」
「らしいよ。『マイ・キューブ持ち込み可』の大会だともっと早いらしいけど」
「マイ・キューブ、って――ひょっとして、プロ用とかあんの?」
「そうじゃなくてさ、例えば、」
 町田はイズミの傍らに置かれているキューブを指差して、
「そいつはロゴ入りの純正品だけど、新品のうちは回すときも硬いし、角が尖ってるからちょっと歪んでるだけで引っかかって回せなかったりするんだよ。スピード勝負の場合は、半値くらいで売ってるパチモンとかの方が具合が良かったりするわけ」
「は〜あ」
 呆れた世界もあったもんだ、とイズミは目をぐるりと回す。
 黴臭い冷気がふと気になって、町田はクーラーを止めて窓を開け放った。通りの向かいを見下ろせば、浅羽理容店が珍しく店を閉めている。
 部屋に這い込む夕暮れの風が、間の抜けた音楽と微かなざわめきを彼方から運んできた。
 祭りの喧噪だった。
「悪いな」
 唐突なそのひと言に町田は振り返り、
「何が?」
「――いや、やっぱりさ、旭日祭だしさ。行きたかったんじゃないかなって思ってさ」
 自分でビデオを返しに行ったあの日以来、実質的には何の制限も受けてはいない町田であるが、旭日祭についてだけはやんわりと釘を刺されていた。旭日祭には園原基地の人間も大勢つめかけるし、もし万が一ゴリ夫に気づかれでもしたらヤバい――という理由だ。が、それを言うならゴリ夫はもうとっくに気づいているのではないだろうか、というのが町田の率直な意見である。
「別にいいよ。それは別にいいけどさ、」
 町田は液晶モニターに表示されている監視ログに目をやる。門前の小僧は何とやらで、町田は略号だらけの文字列が何を意味しているのかを何となく読み取れるようになっていた。
「――浅羽一家はまだ帰ってきてないのか」
「ああ」
「一家総出で旭日祭、か」
「ああ」
 町田は大げさにため息を吐いて、イズミの向かいにどかりと腰を下ろした。
「お前もご苦労さんなこったな。何があっても持ち場を離れちゃならねー、ってか」
「そういう命令だからな」
「何だか空しくなるなあ」
「なるよ。だけど、一応押さえておく、ってのはそれなりに重要なんだよ」
 町田は意地悪く笑って、
「じゃあ、お前も上からそれなりに信用されてるってわけだ」
「悪かったな、それなりで」
 イズミがヘソを曲げた。そのとき、町田の笑みから意地悪さが溶け落ちて、
「でも俺は何だか羨ましいんだ」
「――は?」
「俺、学校の方はもう卒業するばっかりで、卒業したら実家を継ぐことになってんだよ。うちの実家って地元じゃ結構有名な蕎麦屋なんだ。だから、卒業したら田舎に帰って、そのへんの専門学校行って調理士免許取って、最初はオヤジの手伝いみたいなところからのんびり始めればいいや――って、そう思って、それで納得してたんだけどさ」
 イズミは眉をひそめて、
「――いきなり何の話だよ?」
 いきなり町田はちゃぶ台の上に身を乗り出して、
「なあ、スパイって、どうすればなれるんだ!?」
「はあ!?」
 イズミは呆気にとられて町田を見つめ――
 やがて、身を仰け反らせて大笑いした。
「ばぁか、決まってるだろそんなもん。まずは自衛軍に入隊するんだよ。なにしろ万年人手不足だからなあ、最寄りの地連に電話して『来春卒業予定の大学四年生です』なんて言った日にゃお前、担当者が資料一揃い抱えてすっ飛んで来るぞ」
 今度は町田が呆気に取られる番だった。
「で、班長ドノのシゴキを一年間我慢すりゃあ『情報戦』のどこかの部署の受験資格がもらえるから、そっからは毎晩毎晩お勉強しながら試験の日を指折り数えて待つわけよ。しかしまあ普通は二浪三浪は覚悟の上だな。入隊一年目で情報戦試験一発合格なんて偉業を成し遂げたら連隊の語り草になるぞ。もっとも、そのくらいのツワモノでなきゃあ、その先の中野学校や登戸研究所へ行くなんて夢のまた夢なんだけどな。俺なんて、そんなもん夢のままで終わったけどな」
 気が抜けた。
 そして、「スパイ」という言葉の響きに目が眩んでいた自分が死ぬほど恥ずかしくなってきた。頭の悪い女子大生の「もう一人の自分探し」といい勝負だ。
 ところがイズミは、
「おれの方こそ、お前のことが羨ましいよ」
 恥ずかしさの反動で、思わずむきになってにらみつける。しかしイズミは、窓の外にぼんやりと視線を逃がしている。そのとき、西日が幽かに角度を変えて、彼方から大歓声と脳天気な音楽が流れてきた。
 マイム・マイムだ。
「おれさあ、ほんとは、大学に行きたかったんだよな」

        ◎

 有事休校――という言葉はいつまでたっても耳に慣れなかったが、郵送されてきた通知にも確かにそう書かれていたし、正面のゲート横にある掲示板にも同じ言葉が書かれている。ここからゲート越しに見渡しても構内にひと気が無いのは明らかで、数年前に建て直されたばかりの第一学棟はまるで真新しい巨大な墓石のように見えた。
「――ここが、お前の大学?」
「そう」
 町田とイズミは広い歩道に立ち尽くして、十二階建ての第一学棟を見上げている。
 町田ひとりなら到底ここまで来ることはできなかっただろう。途中で二人は軍の検問に幾度となく行く手を阻まれたが、イズミの身分証明証はまさに水戸黄門の印籠の如き効力を発揮した。町田のアパートから大学までは原チャリを飛ばして十五分ほどの距離があり、まさか二人乗りというわけにもいかないのでここまで歩いて来たのだが、行く先々に途切れなく続いていく非日常の光景には疲労を麻痺させてしまうくらいの力は常にあった。
 町田はイズミを促して歩き始める。
 有事休校につき立ち入り禁止――とはいえ、大学の敷地全体が刑務所のような壁で囲まれているわけではまさかないし、見張りがいるわけでもない。目指す場所はすぐに見つかった――陸上競技用のグランドと道路を隔てている高さ1メートルほどのフェンスだ。乗り越えるなど造作もない。背後は夏の緑が折り重なる山の斜面で、誰かに目撃される心配もない。
「ここから入ろう」
 町田はフェンスを乗り越えた。
 イズミがその後に続く。
 正午を過ぎたばかりの青黒い空。二人は顎の先からつま先に汗を垂らしながら、陽炎に揺らめく第一学棟とその背後に聳え立つ積乱雲を目指してゆっくり歩いていく。


 世界が変わってしまったあの夜、町田とイズミは一緒に「揉んで悶えて・爆乳アルマゲドン1999」を見ていた。突然の衝撃を感じ、続く爆発音が女優の喘ぎ声を圧倒して、部屋から飛び出した町田は殿山の中腹から立ち上る巨大な爆煙を見たのだ。
 ――輸送機が落ちたらしい。おれが戻るまで絶対に外に出るな。
 直通回線で状況を確認していたイズミは、そう言い残して部屋から飛び出していった。六畳間にひとり残された町田はその後の数時間をテレビにかじりついて過ごし、夜明けと同時に眠りに落ちた。
 イズミが戻ってきたのは、それから三日が過ぎた夕方のことである。
 ――再来週に世界が滅亡するんだとしたら、お前ならまず何をしたい?
 鍋、と町田は答えた。
 すでにほとんどの商店が営業していなかったので、材料を揃えるまでに何日もかかった。ガスコンロに火を点け、土鍋の中身がぐつぐつ煮え立つころになると六畳間はまさにサウナと化して、町田とイズミはパンツ一丁になって灼熱地獄に立ち向かったのだ――缶ビールをがぶ飲みしながら、全身から滝のように汗を流しながら。最後はきっちりと雑炊で締め、窓を開け放って大の字に寝転がると、生ぬるいはずの夜風がまるでクーラーの冷気のようだった。

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