イリヤの空、UFOの夏 番外編『それ以外のことについて言えば、』
本編2
 ――あー、もう思い残すことはないっす。
 ――安上がりなやつだなお前。
 ――そうかな。ほんとは誰だってこんなもんじゃねえの。
 ――かもな。
 ――じゃあ今度はお前の番だ。お前は、人類滅亡の前に何をしたい?


「お前だって安上がりじゃねえか」
 先を行くイズミの背中を見つめて町田はつぶやく。
 二人は無人の敷地内を、気の向くままに歩き回った。
 イズミはピッキングツールで大抵の鍵を開け閉めすることができただろうし、その気になれば警備会社への回線をカットすることもできたはずである。しかしイズミにはそこまでやるつもりはないらしく、百六十万冊の蔵書を誇る図書館も一度に三百人を収容できる大教室も、建物を外から眺めたり窓から中の様子をのぞき込んだりするだけで満足しているようだった。――もっとも、学食を利用できないのだけは心残りのようだったが。
「すげえな。お前こんなところ通ってんのか」
 イズミはただひたすらに「すげえ」を繰り返す。
「やっぱり高校とは全然違うよなあ。すげえなあ」
「――おれの高校時代の知り合いでさ、『大学って勉強するところだろ? だったらバカから順に入学させてほしいよなあ』って言った奴がいる」
 イズミは足を止めて振り返る。
「設備は確かに立派だけどな、大学教授ってのは研究のプロであって、教えるプロじゃないわけよ。一年間ずっと授業聞いてたけど何言ってんのかさっぱりわからなかった、なんてことザラにあったぞ。そのくせA取れちゃったりしてな。『大学は自分で勉強するところだ』なんて言い方もあるけどさ、でもそれってちょっとズルいと思う」
 電源を切り忘れたと思しきジュースの自販機を見つけ、缶コーヒーのボタンを押したらイチゴ牛乳が出てきた。芝生の上に腰を下ろして、ひぐらしの声を背に受ける。
 町田がふと、
「お前、人殺したことある?」
「ない」
 町田が横目を使うと、
「なんだよ。今さら嘘ついたってしょうがねえだろ。あのなぁ、今までずっと見てりゃわかるだろ。おれなんて所詮は下っ端なんだよ」
「けどさあ、『見られたからにゃあ生かしちゃおけねえ』みたいなときとかさあ、」
「ああ、そういうときは薬を使う」
「薬?」
 イズミは烏龍茶をひと口すすって、
「――注射が多いな。それと催眠誘導を併用して、相手の記憶をある程度選択的に消去したり変更したりできるんだよ。普通はそうする。――っていうか、殺しちまったら逆に面倒だし」
 初めてスパイらしい台詞をイズミの口から聞いたような気がした。町田は興奮して身を乗り出す。
「やられた方は全然気づかないのか? 副作用とかは?」
「記憶に断絶があることには気づくさ。いきなり意識が途絶えて全然知らない場所で目が覚めたりとかな。でも、自分が何をされたのかは憶えていない。副作用の話も聞いたことないな。もちろん薬にも色々あるけどさ、おれは実績の浅い新薬は使わない主義なんだ。――むしろ問題なのは、薬理的な副作用なんかよりも精神的な後遺症の方だよ」
「――精神的な後遺症?」
 イズミは横顔で町田をちらりと見て、ズボンのポケットから煙草とライターを取り出した。
「お前、煙草なんか吸うの?」
「人ん家だからな。一応遠慮してたんだよ」
 町田は目を丸くしてイズミを見つめ、ついに堪えきれなくなって、芝生に転がって大笑いし始めた。人の家を問答無用で占領して作戦本部にしたくせに煙草は遠慮するという中途半端な常識がたまらなく可笑しかった。
「――この科学万能の世の中で、占い師とか拝み屋なんかがいつまでたっても廃れないのはどうしてだと思う?」
 イズミは石の磨り減った百円ライターでようやく煙草に火を点けると、いきなりそんなことを言った。町田は身を起こして、
「何だよいきなり」
「おれに言わせればな、人間誰しも、自分の抱えている悩みの原因が本当は自分自身にあるんだってことを認めたくないからなんだよ。普通の人に悩み事の相談したら『お前の努力が足りないんだ』とか『もう少し生活を改めろ』とかお説教されちゃうだろ? だけど占い師とか拝み屋は『星の巡りが悪い影響を及ぼしています』とか『三代前の先祖が恨みを残して死んだせいです』とか言って、よそに責任を転嫁してくれるわけだ。占いなんか信じない奴だってな、『回りの奴らがバカばっかりで足を引っぱられてる』とか、『誰もオレのすごさをわかってくれない』とか、みんな多かれ少なかれそんなこと言って、自分のくだらなさを人のせいにしてどうにかこうにか生きてるもんさ」
「――それで?」
 イズミは空を見上げて長々と煙を吐きだして、
「二年前のちょうど今ごろだ。そいつは、妻も子もいるごく普通のハゲオヤジで、たぶんお前も名前くらいは聞いたことのある半導体メーカーの管理職で、ミサイルのシーカーに転用可能なセンサーの部品の横流しをやってたんだ。取り引き相手は、とある広域指定の傘下で金貸しをやってる企業舎弟で、上の方で北の大物工作員とつながってる可能性があった。おれのターゲットは北の大物だったんだが、まずはそのとっかかりとして、ハゲオヤジに三回ほど接触して情報を取ったんだ。その三回とも薬を使って記憶を飛ばした」
 そのとき、二人の頭上を自衛軍のヘリが通過していった。イズミはそのローター音が遠ざかるのを待って、
「――するとそのハゲオヤジはな、家族や近所の住人に妙な話をするようになったんだ。『自分は宇宙人につけ狙われている。会社帰りにUFOにさらわれて、頭の中にへんなものを埋め込まれたせいで近ごろ身体の具合が悪くなった』」
「でもそれは、七十点くらいはやってもいいんじゃないの? お前にさらわれて記憶を飛ばされたのは事実なんだろ? 頭にへんなもの埋め込んだのか?」
 イズミは首を振って、
「酒の飲みすぎなんだよ。ハゲオヤジは昔から筋金入りの大酒飲みでさ、顔なんか黄疸でまっ黄色だった。身体の具合なんておれが接触するずっと前から悪かったはずなんだ。確かに記憶は飛ばしたさ。やったのはおれだ。ハゲオヤジにしてみりゃ説明のつかない出来事だし、そこにUFOだの幽霊だのを持ち出してなんとか説明をつけようとするのもよくあるパターンだ。そこまでは普通の反応なんだよ。ところがハゲオヤジは、普段から自分にとって都合が悪いあれやこれや全部、記憶を飛ばされたことに結びつけて考えるようになっちまったんだよ」
 ――つまり、
 町田は思う。
 ひと言で言えば、そのハゲオヤジは陰謀論者になってしまった、ということなのだろう。イズミの接触を受けて記憶を消され、常識の裏側にあるもうひとつの世界の存在を垣間見た。しかし、その「もうひとつの世界」はハゲオヤジにとって「直視したくない嫌なこと」を押し込んでおける格好のゴミ箱になってしまったのだ。
「――それからどうなったの、そのハゲオヤジ」
「まずは会社をクビになった。当然だよな、誰彼構わずUFO談義をふっかけて、その挙句に得意先に逃げられたことまで宇宙人のせいにするんだから。それからは部屋に閉じこもってUFO関連の本を読み漁る日々だ。もちろん家族の目だって冷たくなるわけだが、それだってハゲオヤジに言わせりゃあ『宇宙人に洗脳された』からさ。上の娘の部屋に仕掛けた盗聴器がバレて、嫁さんが子供連れて実家に帰っちゃって、だけどオヤジとしてもここまで来ちまうともう引き返せないんだよ。残された道は妄想を補強するための妄想を自家製栽培し続けることだけさ。あるとき、嫁さんが実家の人間と一緒に様子を見に来たんだ。オヤジの部屋は窓がアルミホイルでびっちり目張りされて、頭だけがぐちゃぐちゃに切り開かれたマネキンが何体も転がっていたらしい。たぶん、『頭に埋め込まれたへんなもの』をどうにかして取り出す研究をしてたんだろう。嫁さんが入院をすすめて、オヤジは包丁を持ち出した。そこから先は事件になったから、ひょっとしたらお前も新聞かテレビで見たかもしれん」
 黒いほど青かったはずの空は、いつの間にか夕暮れの色が滲んでいた。
 イズミは烏龍茶の缶に灰を落として、大きく背伸びをして芝生に寝転がった。
「いざとなったら脆いぞぉ常識なんて」
 町田は笑って、
「そうだな。もうすぐ人類も滅亡するしな」
「たいていの宗教に『悪魔』っているだろ。自分らの都合の悪いことを押しつけられる悪者がいないとやっていけないんだよ人間って。生存本能の一変形なんだろうけどな、人類が滅亡するんだとしたら理由はたぶんそれだよ」
 大学生になりたかったスパイは、そう言って煙草をふかした。
 スパイになりたかった大学生は夕暮れの空を見上げる。
 二人はそうして、滅亡の時を待った。

        ◎

 十月の二十七日。
 撤収は、ゴリ夫の手にかかれば三十分とかからなかった。すっかり元通りになった六畳間を見回して、イズミはどこか照れたような笑顔を浮かべる。
「面倒かけたな」
 町田も笑った。
「まったくだ」
 イズミは小さな注射器を手にしていた。中に入っている液体は水のように無色透明で、まるでブドウ糖の注射のように無害なものに見えた。
「それか」
「これだ」
 町田はふと、夏休み前に夏カゼをひいて医者に注射を打たれたときのことを思い出して、
「まさかケツに注射するんじゃねえだろうな」
「そうしてほしいんならそうするぞ。場所はどこでもいいんだ。相手がお前みたいに協力的な奴ばっかりじゃないからさ、そういうふうにできてるんだよ」
「ほんとに大丈夫なんだろうなそれ」
「大丈夫だって。それから、何か言い忘れてることはないか? 金返せとか言うんなら今が最後のチャンスだぞ」
 町田は苦笑して右腕を差し出す。イズミはその腕を取って指先で血管を探り当て、針の先を皮膚に当てて、
「――なあ、」
「なんだよ、やるんならひと思いにやってくれよ。俺ほんとのこと言うと注射って苦手なんだからよお」
「記憶を飛ばした後遺症でイカレちまったオヤジの話を憶えているか」
 どうして今になってこちらを不安にさせるような話を蒸し返すのか――町田はイズミをにらみつけたが、予想外に真剣な眼差しに射すくめられて言葉を失った。
「お前にあんなふうになってほしくないし、お前なら大丈夫だと信じてる」
 町田は理解した。
 不安なのは、自分よりもイズミの方なのだろう。
「この先、お前が何かヘマをやらかすことがあったらそれはお前の責任だし、何事か成し遂げたとしたらそれはお前の手柄だ。そのことだけは、忘れないでくれ」
 町田は、満面の笑みを浮かべて答えた。
「無理だね」
 イズミは呆気に取られ、しかし自分の手の中にある注射器を見つめて苦笑する。
「――そうだな」
 そして町田は、右腕に小さな痛みを感じ、イズミの最後の言葉を聞いた。
「来世で会おう」
 ――それ、なんだっけ。
 昔見た映画で、似たようなセリフが出てきたような気がするのだ。
 ものすごく気になった。必死になって頭をひねる。デニーロの映画だったような気がするのだが、それ以上はどうしても思い出せない。
 すぐに、それ以外のことも思い出せなくなった。

 そして、町田は目を覚ました。
 二つ折りにした座布団を枕にして、六畳間の真ん中で横になっていた。
 ――あれ。
 身を起こす。何も思い出せない――なぜ自分はここで寝ているのか、寝る前は何をしていたのか。まだ半分は寝ぼけたような状態のまま立ち上がって、ふと尿意を覚えて、トイレに行って戻ってきたとき、それに気づいた。
 二つ折りにした座布団の傍らに、六面が揃ったルービックキューブが置かれていたのだ。
 町田はキューブを手にとってまじまじと見つめる。
 シールの剥がれ具合に見覚えがある。それは確かに町田の私物の、去年のクリスマスコンパのプレゼント交換で後輩の女の子からもらったルービックキューブだ。凝り性な性格も手伝ってしばらくは夢中になっていたが、飽きてしまってからはずっと本棚の隅に転がしておいたはずである。それがなぜ枕元に置かれているのだろう。
 やがて、キューブを見つめる町田の口元に笑みが浮かんだ。
 なぜ笑みを浮かべているのか、自分でもよくわからなかった。
 ふと、目にかかる前髪が気になった。台所の鏡をのぞき込んでみると、ずいぶん髪が伸びている。町田はルービックキューブを本棚の隅に戻して、財布と鍵をポケットにねじ込んで部屋を後にする。

 浅羽理容店は、町田の住むアパートの真向かいにある。


[1]←前

見出し一覧へ


TOPへ