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2008.03.13

支出の倫理

 アマゾンの「ほしい物リスト」で本人の名前が表示されるという話が昨日突然話題になり、12日付け朝日新聞記事”アマゾン「ほしい物リスト」、他人に丸見え 本名も表示”(参照)にまで取り上げられた。


ネット通販大手「Amazon」(アマゾン)のサイトで、欲しい商品を登録したユーザーの個人名やリストが、検索すると他のユーザーから見えてしまうことが、ネット上で問題にされている。表示されないように設定もできるが、大半のユーザーは検索されることを知らずに使っている可能性がある。

 この仕様は以前のウィッシュリスト時代からあるのだが、目立つところに配置されていて今月に入り「ほしい物リスト」と名称が変わったをのがきっかけで話題になったのだろう。
 別段それが公開されて何が話題なのかというと、一つには「ほしい物」がプライバシーに関連する部分があるということだ。

 中には、特定の病気について書かれた本が並ぶリストや、アダルトグッズなどが並ぶリストもあり、そのユーザーが「自分の名前とともに公開される」ことを意識しているとは考えにくいものも多い。

 もう一つは、匿名ブロガーの名前がばれたということ。

 「2ちゃんねる」には「単なるお気に入りだと思っていた」「覚えのないリストが(自分の名前で)表示された」などクレームに交じって、「有名ブロガーのアドレスを入れたら、本名が出てきた」という書き込みもされている。

 私は「有名ブロガー」のうちには入らないと思うが、この件で探した人もいるのかもしれない。私はこの機能を使っていないのでそこからは情報は探れないだろうし、匿名に隠れてなにか書いているという意図はないので公的な必要性があれば公開します。
 匿名ということの余談になるが、マルタのカトリック的な風俗を調べているときKKKのような装束を見つけて驚いたことがある。理由を探ったのだが、善行は匿名でするということが起源で、異様に見える装束も逆の起源があったようだ。つまり、匿名とは善行を隠すためのもの、というのが西洋史的には原義に近い。アルファブロガーというのもがありうるとしたら、有名であるよりマスメディアから独立した匿名の良心の一つの形態であるべきなのかもしれない。
 アマゾンの問題に戻ると、同記事ではアマゾン側の態度をこう伝えている。

サイトを運営するアマゾンジャパンの広報担当者は「公開になるという説明は、必ず目につくような場所につけている。設定の変更もできるようになっている」と説明。「そもそも、ほしい物リストは、アメリカの文化で、友人や家族にプレゼントして欲しいものをあらかじめリスト化する習慣に合わせてできた機能。公開して使うことが前提になっている」としている。

 文化的な背景もあるのかもしれないが、私は、米国的な「ウィッシュ」(ここではサンタさんにプレゼントもらえないかなというような願望だろう)と、「ほしい物」(これ今は買わないけどほしいなという願望)の違いかもしれないと思った。
cover
静かなる細き声
山本七平
 今回のネット的な騒ぎで、「支出の倫理」も思い出した。山本七平「静かなる細き声」(参照参照)にその章題の興味深い話がある。

 中学何年のときか忘れたが、ヘニガーさんという宣教師(?)の講演会があった。確か、全校生徒が聞いたのではないかと思う。
 もう相当な年の方で、真っ白な頭髪と上手な日本語が印象的だった。


 ただ強く印象に残ったのが、ヘニガー先生の「支出の倫理」という考え方であり、これが私には、今まで耳にしたことのない、全く新しい考え方に思えたからである。先生は確か、次のように話されたと思う。

 山本の記憶に残る「支出の倫理」とは次のようなものだ。

 日本人は、取得もしくは収入の手段方法については、高度の強い倫理観をもっている。これが中国(当時の)の上海などに行くと、「盗む」ことが必ずしも罪悪視されず、盗品市場などが堂々と存在し、盗まれた物はそこに行けば買いもどせるという奇妙な状態である。また盗みの現場を見つかれば返せばよいのであって、それ以上追求すると「返したのだから文句を言うな」と逆襲される。こういう点、日本人とは倫理観が違う。
 ところが、立派な「取得の倫理」をもっていながら、「支出の倫理」となると、日本人はこれが皆無である。
 そしてこの点を指摘すると、必ず返ってくる反論が「盗んだものでも、ひろったのでもない。オレがかせいだカネだ。オレがかせいだカネを、好きなように使って何が悪い。女郎を買おうが、酒を飲もうが、バクチをしようがオレの勝手だ」といった反論である。
 この際、支出とは他にとっては収入であるから、非倫理的な支出が非倫理的収入をもたらすとは考えない。
 そのため、非倫理的収入を得た者が社会的に非難され軽蔑され差別されることはあっても、この収入の原因となった非倫理的支出をしたものは非難されないという奇妙な現象を呈しながら、だれもこれを奇妙とは思わない。

 山本七平のこのエッセイはもう三〇年も前のもので、私は当時これを連載していた「信徒の友」を購読して読んでいたのだが、現代日本ではもう違った部分はあるかもしれない。
 引用が多くなるが興味深いので続ける。

 だが私には、支出は、だれにも拘束されない個人の行為だという点と、拘束されない自由な行為であり、他の収入となる点で他に干与しつつしかも責任を負わないですむ行為であり、いわば「応答の義務のない行為」であるがゆえに、支出は神に対して倫理的な責任を負うという考え方が、非常に興味深かった。

 山本はこうも述懐する。

 支出とは不思議なものである。ふところにカネがあるということは、その範囲内で、それを自由に使いうるということであり、その点、支出は不知不識のうちにその人の本心をさらけ出してしまう。
 こう考えてみると、支出とは、近代人が神と人の前で自覚せずに行っている一種の懺悔であり、偽ることのできぬ自己表現である。

 この山本の印象は、マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(参照)で重視されるプロテスタンティズムの特徴と響き合う点がある。

 これらのさまざまな方向へピュウリタニズムがおよぼした影響をここで詳論することはできないが、次の点だけははっきりさせておきたい。すなわち、純粋に芸術や遊技のための文化財の悦楽にはいずれにせよ、つねに一つの特徴的な許容の限界があった。つまり、そのためには何も支出をしてはならない、ということだ。人間は神の恩恵によって与えられた財貨の管理者にすぎず、聖書の譬話にある僕(しもべ)のように、一デナリにいたるまで委託された貨幣の報告をしなければならず、その一部を、神の栄光のためでなく、自分の享楽のために支出するなどといったことは、少なくとも危険なことがらなのだ。目の見える人々には今日でもなお、こうした思想の持ち主が見あたるのではなかろうか。人間は委託された財産に対して義務を負っており、管理する僕、いや、まさしく「営利機械」として財産に奉仕する者とならねばならぬという思想は、生活の上に冷やかな圧力をもってのしかかっている。

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プロテスタンティズムの
倫理と資本主義の精神
 この思想の根には、聖書時代の貨幣=タラントが才能=タレントとなる構図とも関連し、才能や貨幣は神から貸し付けられた責務を伴う貸与という側面もある。
 山本は日本人には支出の倫理はないというが、物に対するある種のケチの倫理はある。使えるまで使い倒して新製品を買わないというか。私は「物の性を尽くす」という「中庸」(参照)の倫理で教わったように思う。このケチの考えは西洋人もあるが、西洋人の場合は、支出の倫理に関係しているのだろう・日本人の場合は、物に宿る仏性みたいなものとつながっていたのではないかと思う。

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コメント

blog の方にも書きましたが、amazon.com の方はデフォルトでは非公開になっており、日本法人のチョンボみたいです。

投稿 ■□ Neon / himorogi □■ | 2008.03.13 11:48

何か、「一回生」観の違いのようなものが透けて見える気がしますね。

>こう考えてみると、支出とは、近代人が神と人の前で自覚せずに行っている一種の懺悔であり、偽ることのできぬ自己表現である。

投稿 夢応の鯉魚 | 2008.03.13 14:40

支出の倫理は(たぶん)図書館でむかし読んで強く記憶に残っていたのですが、後で買おうと思ったときにどの本に収録されていたのか思い出せずにあきらめた話です。すっきりしました。ありがとうございます。

投稿 これが読みたかった | 2008.03.14 00:18

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