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余命半年告げられた元校長、いのちを語る「最後の授業」

2008年03月08日

 がんで余命半年と告げられた大阪府吹田市の前教育長、延地(のべち)和子さん(62)が7日、2年余り前まで校長を務めていた市立竹見台中学校で、卒業を控えた3年生36人に「最後の授業」をした。病気のこと。仕事のこと。24歳で先立った一人娘のこと。自分の人生を教材に生きることの貴さを説き、「人生はしんどいことがいっぱいだけど、しっかりと生きてほしい」と語りかけた。

写真生徒たちに「生きる」ことを語る延地和子さん=7日、大阪府吹田市で
写真延地和子さんの「最後の授業」に教室は静まりかえった=7日、大阪府吹田市で

 「私、なんでもさらけだしてきたの」。視聴覚室に集まった生徒たちの前で、延地さんはニット帽を脱いだ。抗がん剤治療の副作用で一部が抜けた頭髪があらわれた。「顔もむくんで自分じゃないみたいで、20万円もするカツラを買ったのよ。それで旅行に行けたのに」。生徒の緊張をほぐしてから話し始めた。

 延地さんは戦後間もなく神戸・須磨で生まれた。1カ月後に父を亡くし、母と5人きょうだいで貧しさの中で育った。高校時代、家庭教師をして教える楽しさに気づき、大学を卒業後、吹田市で中学校の国語教師に。05年12月、吹田市初の女性教育長に就いた。

 昨年7月、記者会見中に腹部に痛みを感じた。ビール瓶1本分の腹腔(ふくこう)内出血が見つかり緊急入院。副腎皮質のがんだった。担当医に「肝臓やリンパ節に転移している」と言われた。昨年12月に辞表を出し、市議会で「がん患者として生きていきます」と宣言した。

 今年1月の2回目の抗がん剤治療で、髪は抜け、吐き気に襲われ、体重が1日1キロずつ減った。それでも、治療効果はみられなかった。「撤退しましょう」。主治医の言葉に治療の中止を決意し、一人暮らしの不自由から自宅を離れ、ホテルに宿泊しながらホスピスへの入所を待っている。

 そんなとき、竹見台中の山邊義毅校長から「卒業する子に命について語ってほしい」と頼まれた。山邊校長は延地さんが校長時代の教頭。3年生は1年生の2学期まで、延地さんの「最後の教え子」だった。

 この日は、26歳で赴任した2カ所目の中学校での経験を「教師としての原点」として語った。当時は校内暴力の全盛期で、「市内一」と言われるほど荒れていた。若い男性教師らは生徒に教室から引きずり出されて殴られ、辞めたり「不登校」になったりしていた。産んだばかりの娘を校長室のソファに寝かせ、学校や教室に寄りつかない生徒たちを追いかけ回した。

 「そのやんちゃな子たちが50歳近くになって、いま、洗濯とか私の身の回りの世話をしてくれる。大変だったけど、楽しかった」

 一人娘のもと子さんのことも話した。私立高2年のとき、同級生らになじめず、「今日から学校に行かへん」と言い出した。親としては悩んだが、中退を認めた。大検に合格して大学に進んだものの、11年前、自宅で卒業論文を執筆後、眠ったまま息を引き取った。突然死だった。

 「子どもの分まで生きなくちゃ、そう思っていたのに、がんになって、悔しくて悔しくて……」。涙声に教室内は静まった。

 病気になって「自分はひとりじゃない」と気づいたとも語った。教師仲間、大学時代の友人、教え子。800人以上が見舞いにきてくれた。

 「最後の授業」の最後には、「がんと闘っている人は大勢いる。私の使命は希望を失わずに生きること。私の命がなくなったとき、話を聞いてくれた人の中に火種が残ってくれたら、私は第二の人生を生きられる」と話した。

 そして、「いま始まる新しいいま」という題の詩人川崎洋さんの詩を朗読して締めくくった。

 生徒たちは、目を真っ赤にした子も、延地さんをまっすぐ見つめて聞いていた。元生徒会長の覚前雄登さん(15)は「いつも笑顔を絶やさなかった先生が、あんなに重い病気だとは知らなかった。自分たちに全部話してくれてうれしかった」。杉山春菜さん(15)は「今はすぐ理解できないかも知れないけど、託されたんだなと感じた」と話した。

 延地さんは「久しぶりに子どもたちの前で話せて楽しかった。私も勇気をもらった」と先生らに言って学校を後にした。

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