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日本語の乱れ

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日本語の乱れ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2007/09/27 04:00 UTC 版)

日本語の乱れ(にほんごのみだれ)とは、規範とされる日本語標準語)(国語)と現実の日本語の食い違いを否定的に捉えた語である。食い違いは現実の日本語が変化することでも規範が変化することでも生じうる。乱れは、なくなることもあれば定着するものもあるが、その受容の過渡的段階で特に盛んに取り沙汰される。 正しいとされている日本語も、古来は今とは違った意味である場合が多数あり、昨今言われている日本語の乱れというのは野暮なことと考える意見もある。この立場からは「言葉は生き物」などと喩えられる。

日本語の乱れ言語学上の概念ではない。科学人文科学)の一分野である言語学では物事に対して良悪の価値判断をせず、言語の実態と文法が一致しない場合、言語学では実態に合わせて文法を修正すべきだと考える。また、規範とされる文法については規範文法と呼んで区別し、その影響などは社会言語学などで研究の対象となる。このような中立の視点からは「文法的におかしい」のような表現は「規範的な日本語と異なる」ことに対する捉え方の一つと解釈する。

ウィキペディアでは、規範的に誤った表現であるものなどは日本語の誤用として、変化が定着したものは日本語の変化として日本語の乱れと便宜上区別しているが、本来三者に明確な境界線を引くことはできないことに留意されたい。


目次

概要

日本語の乱れは近年に始まったことではなく、古くは清少納言が作者とされる『枕草子』においても若者の言葉の乱れを嘆いている。

なに事を言ひても、「そのことさせんとす」「いはんとす」「なにせんとす」といふ「と」文字を失ひて、ただ「いはむずる」「里へいでんずる」など言へば、やがていとわろし。(『枕草子』)

一般社会では往々にして憂慮される現象だが、専門家の間には「言語は変化するのが当然であり、乱れでなく「変化」である」という意見が多くみられる。実際、上記枕草子に批判される「ムズ(ル)」も中世期に入るとひとつの助動詞として定着していくことになる。

また、日本語の乱れは、個人の「語感」によるほかに、政府によっても少なからず注意を払われる。政府が言葉の変化に敏感になるのは、国語統制が国民国家における国民統合の上での重要なイデオロギーのひとつであるためでもある。ただし政府の姿勢は、単に日本語の変化を即悪いことと考えるようなものではなく、より冷静である。特に敬語に対する姿勢は「敬語は封建制度の名残であり将来的に無くなるべきもの。無くなる過程では用法も乱れるだろう」とのもので、敬語の用法の乱れを平等社会に相応しい日本語が形成される過程としてある種肯定的に捉えている。

古くからある表現や文法現象でも日本語の規範が変化することで日本語の乱れとされることがある。例えば、「全然」が否定的意味を持たない語を修飾する表現は明治時代には広く見られたが、現在では「全然」は否定の表現を伴うべきであるという規範が定着している。

一方、最近の変化であっても批判なく受け入れられるものもある。例えば、動詞アクセントの起伏化は名詞アクセントの平板化と違い、あまり批判されない。

※日本語の変化の一例として指摘すれば、この「日本語の乱れは……注意を払われる」という表現も昔ながらの日本語ではない。「注意を払う」は英語の pay attention の直訳であり昔からある慣用句ではないし、「乱れ」という抽象概念を主語にした表現法も西欧語の直訳から生まれたものである。このような西欧語の直訳のような表現を欧文脈という。

批判

日本語の乱れについては様々な批判がある。箇条書きで挙げる。

使われ始めた時期が古くても
  • 年配の人が「最近の若い人は日本語が乱れている」という場面は多々見かけられる。目新しい表現であるからといって乱れだとか誤用だとか揚げ足を取るものである。一方、少しでも今使われている言葉ではないと感じると「それは死語だ」と揚げ足を取る風潮が見られるのも事実である。しかし、ここで取り上げるのはこうした細かいことではなく、たとえ万葉集の頃から使われていたとしても、違和感を抱くものは乱れとしてみなされるわけで、そもそも年配者だから、若年層だからというのではなく、正しい日本語を見直そうというのであればもっと抜本的に議論する必要があろう。ましてバイト敬語のように、根本的な原因はマニュアルを作る大人である場合もあるわけだから、そうしたステレオタイプには注意すべきである。
方言は別問題
  • 近年の乱れの代名詞とされる「ら抜き言葉」が岡山県や静岡県の一部などで方言として古くから話されているように、ある言葉が、政府が定めた言葉や中央都市の特定の階層で話されている言葉からかけ離れているからといって、異端として排除するという姿勢は、日本語の多様な実態を無視するものとも言える。この行き過ぎた傾向は言うなれば「標準語至上主義」であり、他の文化・風習にも当てはまる。
乱れとは何か
  • 乱れとはバラバラであることである。かつての日本語は地域ごとに方言があり意思疎通ができないほどだった。共通語が普及し方言が消えつつある現在は、かつてバラバラだった日本語が統一されつつあるのだから、「日本語の乱れ」どころか日本語が整いつつある状況である。事実、学校教育では基本的に共通語による教育が行われているし、山村部であってもテレビなどで標準語に触れる機会が多くなり、若い世代ほど標準語に慣れ親しんでいるからである。ただし、こうした傾向に、地方の高齢者は子や孫の世代が地元の方言を蔑ろにしていると勘違いして、「ひょうずんご」と揶揄することで水を指しているのも現実であり、言葉が時代に即して変化し続ける限り、乱れの問題は議論し続けられるのかもしれない。

文法の「ゆれ」に関するもの

ら抜き言葉

「見る」のような上一段活用動詞、「食べる」のような下一段活用動詞、また「来る」のようなカ変動詞の可能表現としてそれぞれ「見れる」「食べれる」「来れる」と綴られるものは、「ら」の文字を含んでいないということから「ら抜き言葉」と呼ばれることがある。

この語法自体は、「左団扇と来(こ)れる様な訳なんだね。」(永井荷風『をさめ髪』1899年)のように明治時代の文献にも観察されるが(松井栄一『国語辞典にない言葉』南雲堂 1983)、第二次世界大戦後には急速に広まった。「ら抜き言葉」という用語が用いられるようになったのは、比較的新しく、1988年の読売新聞社会部『東京ことば』(読売新聞社)では〈ら抜き“れる”言葉〉の見出しのもと、〈「ら」抜きの言葉〉〈“れる”言葉〉などの言い方が使われ、特に〈“れる”言葉〉が多用されている。

「ら抜き言葉」は、標準語圏においては口語として若年層を中心に用いられやすくある一方で、それ以外の一部の地域においては正当な活用形として使われている。土佐弁圏、名古屋弁圏、北陸地方、一部の中国地方などにおいては、かなり古くから、「れる」と「られる」を区別した動詞化が一般的となっている。

ちなみに五段活用動詞を下一段活用化させて作る可能動詞(「行く」から作る「行ける」など)は、既に確立した用法であり、「ら抜き言葉」とみなされることはない。

「ら抜き言葉」の使用は、東京地方においては大正期から始まったが、この傾向は国家の教育方針のもとで抑制されてきた。1970年に調査された東京都内の小中学生1539名は、「れる」と「られる」の使用について以下のような比率で分かれた

見られる――64.5%
見れる――9.5%
両方――24.1%
来られない――41.7%
来れない――10.2%
両方――47.5%

(土屋信一「東京語の語法のゆれ」『NHK文研月報』21-9, 1971年)

見解の一つとして、「ら抜き言葉」の語形は、従来から五段動詞に適用されてきた可能動詞化の法則を一段動詞にも批准させたもの、と解釈されうる。現在においては、「ら抜き言葉」を、無意識的に用いるものと、意識的に用いるものとがある。後者は、可能動詞化の法則にまつわる合理性に準拠するかたちで敢えて非慣用的・非伝統的な「ら抜き言葉」を使う者である。彼らは、「動詞の可能表現をすべて「られる」で一括することは言葉の意味の多義化をもたらしかねない」と議論する。すなわち、従来、標準語圏においては、可能・受身自発尊敬といった種々の意味をすべて「られる」という語形で表すことが規定されてきたが、これが表現の曖昧さをもたらしかねない、ということがここでは問題視されている。この議論によると、「ら抜き言葉」は、日本語を乱すものではなく、むしろ日本語をより合理的な言語体系へと発展させるべく寄与する「機能分化」の現象として認識される。さらには、「れる」と「られる」の合理的な峻別にもとづいて起こる「見れる」などの言葉を「ら抜き言葉」と呼ぶこと自体が疑問視される。

「しゃべれる、食べれる」をキャッチフレーズとしたコンビニエンスストアミニストップは、「ら抜き言葉」を意識的に用いる者のもう一つの例である。ここでは、意味の合理性や明確性ではなく「語感」や「リズム」が重視されている。

「ら抜き言葉」の否定論者は標準語圏における動詞の活用にまつわる誤った慣習に盲目的に従っているにすぎない、という声がある。日本人は従来から主語を明示しない文体を多用してきたが、これによって日本語における動詞の能動表現が貧窮化する一方で受動表現がより一般化してきたことは、「られる」という受動態の語形がなぜ「れる」に勝って広まったのかについて少なからず根拠を提示している。すなわち、「見れる」などの語が標準語圏において従来から正当な可能表現として台頭しえなかったのは、能動表現よりも受動表現のほうに馴れ親しんでいるという条件が既に当事者達の間で根づいていたことによって「見れる」よりも「見られる」の響きを感覚的に受容しやすくあったから、ということである。この事はつまり、「ら抜き」に先立つ「ら付き」の習慣が、文法や合理性よりも「感覚」にもとづいてまず先に定着してしまったものであることを意味している。

また、「ら抜き言葉」を避けようとするあまり、本来「ら抜き」が規範的であるものにまで過剰に「ら」を足してしまう場合もある。たとえば、五段動詞「喋る」に対応する可能表現を「喋れる」とするのは五段動詞「書く」に対する可能表現を「書ける」とするのと同じく規範的な文法に適った表現だが、末尾の「れる」が「ら抜き言葉」の語形と共通していることからこれを「ら抜き言葉」と誤認し余分な「ら」を付け足して「喋られる」としてしまう場合がそれである。 五段活用の動詞は「ら抜き」に当たることはないと考えればこうした過剰修正は起こらない。五段活用かどうかの判別法としては未然形や命令形の語形を見る方法が指導されることがあるが、ある動詞に対する正しい可能表現を ら抜き言葉と誤認してしまう者は、その動詞の未然形や命令形として何が正しいかについても誤認する虞があるので、こうした判別法に頼ることは危険である。辞書を引いて活用種別を確認するのがもっとも確実な方法であろう。

「ら抜き」を「ar抜き」とする意見もある。対象の語の音素をそのようにローマ字で表記すると問題の性格がより明瞭となることが指摘されている。すなわち、五十音表記のみに注目していると、たとえば「書く」「触る」「見る」のそれぞれの活用変化の間の関係について見いだせるものが無いが、ここで当の語の音素を構成する子音と母音とを峻別して観察してみると、次のような共通点を確認できるようになる:

「kak-u」(原形)、「sawar-u」(原形)、「mir-u」(原形)
「kak-ar-er-u」(受動、尊敬)、「sawar-ar-er-u」(受動、尊敬)、「mir-ar-er-u」(受動、尊敬)
「kak-er-u」(可能)、「sawar-er-u」(可能)、「mir-er-u」(?)

「書ける」や「触れる」を可能表現たらしめている要素を「見れる」が所有していることからこれを正当な活用形として認識できる、ということが主張される。これは更に、動詞の活用にまつわる従来の国学的な解釈にもとづく法則の数々(上一段、下一段、カ行変格など)をより合理的に統一することになる。この場合、「ら抜き言葉」という呼称はおろか、そういった言葉を非文法的として排除する観点そのものが根拠を失うこととなる。

なお、五段活用の「書ける」「読める」のような可能表現も、かつては「書かれる」「読まれる」と受動表現と同じ形が使われたものが「ar抜き」を起こした形であり、通時的に見れば現在は可能表現における「ar抜き」が五段活用から一段活用へも広まりつつある状態と言うことが出来る。

参照: 平成12年度「国語に関する世論調査」の結果について<問14>

い抜き言葉

「~している」のような言葉を「~してる」と表現するのが「い抜き言葉」である。

実際に話される言葉としては「い」の発音されない傾向にあり、これを反映して文学作品では戦前から い抜き言葉が見られた。昨今ではビジネス文書などにも見かけられるようになり、問題視する者がいる。

NHKニュースではアナウンサーは「い」を発音しているが、ニュース字幕にはい抜き言葉が散見されこれに違和感を覚える者もいる。ただしこれは画面内に文字を収めるための省略表記である場合もある。

もっとも「~した」という言葉も「~したり」(さらに遡れば「~してあり」)が約まったものであり、「~したり」という形が標準だった時代から見れば「り抜き言葉」だが、今日これを日本語の乱れとして問題にする者はいない。「~した」を許容して「~してる」を許容しない理由はまだ定着していないことである。(将来広く定着するか否かは別として、これは全ての「乱れ」について言えることでもある。)

さ入れ言葉

使役動詞に本来不要な「さ」をいれる言葉。敬語(特に謙譲語)に不慣れな人が、過剰に敬意表現を並べてしまうために使われるのではないか、ということから若い世代に多いといわれる。しかし高齢者が正しく話せているという調査がなされたわけではなく、中年者の中にも存外「どこも間違っていないじゃないか」と思い込んでいる人はいるようである。

  • 「ら抜き」は以前から乱れの代表格として指摘されているものの、こちらは2000年代に入ってから取り沙汰されるようになった。特に人気バラエティ番組「SMAP×SMAP」のコーナー「ビストロSMAP」で中居正広が「(ゲストが注文した料理を)作らせていただきます」と言っているのはおかしいのではないかと新聞の投書に掲載されたことがある。

例:

  • ×やらせていただきます。(正:やらせていただきます、または単に させていただきます)
  • ×行かせていただきます。(正:行かせていただきます)
  • ×叩かせられる。(正:叩かせられる)

レタス(れ足す)言葉

ら抜き言葉とは逆に、可能動詞に「れ」を足す言葉がある。1971年12月放送のテレビアニメ『ルパン三世』第10話にも「隠せれる」という用例がある。

例:

  • ×行ける(正:行ける)

また、ら抜き言葉「見れる」「来れる」に「れ」を足して「見れれる」「来れれる」としてしまう用例もある。ら抜き言葉が五段活用のパターンを一段活用に一般化しようとする変化であるのに対し、れ足す言葉は「ら抜き」が一般化した状態からさらに一段活用のパターンを五段活用に広げようとする変化であると言える。

音便

歩った
カ行五段動詞が完了の助動詞「た」と接続するとイ音便を起こすのが現代の標準である。したがって「歩く」は「歩いた」となるが、一部で「×歩った」という形も行われている。「行く」もカ行五段動詞なので規則どおりならば「×行いた」となるはずだが、この動詞に関しては例外的に「行った」の形が標準として定着している。「行った」を許容して「歩った」を許容しない理由は「一般的でない」ことである。
い(良・善・好)くない
「いい」は、「よい」が変化した話し言葉である。終止・連体形でのみこの形を使い、それ以外では元の「よい」を使って「よくない」「よかった」などとするのが一般的だが、若者の間で1980年代中盤から表記のように規則的に変化させた形が用いられた。しかし2000年現在は使われていない。

仮名遣いの誤り

現代仮名遣いでは認められないものを挙げる。「おまえ→×おまへ」などの間違いは児童に多く、学校教育を受けるにつれて直るものであるが、以下に記す事例は、雑誌やメールなどで未だに見られる。

こんにちわ→正:こんにちは

  • 「わ」と発音する音節は「わ」と表記するのが現代仮名遣いの原則だが、「こんにちは」は特例として「は」と表記すると定められている。

ゆう→正:いう

  • 動詞「言う」は、発音どおりに表記するという現代仮名遣いの原則に従えば「ゆう」だが、特例として「いう」と表記すると定められている。

品詞の転成

品詞の転成は古くから見られる現象である。「白・青・赤・黒→白い・青い・赤い・黒い」「群れる→群・村」「すごい→すごむ」「涼しい→涼む」「広い→広める」「見せる→店」「~すべし→~すべきだ」「好く→好きだ」のように、今日普通に使われている語の中にも、元々は品詞の転成によって生まれたものは枚挙に暇がない。古くに品詞の転成を起こしたものは日本語の乱れとされないが、比較的最近に品詞の転成を起こしたものは日本語の乱れとされることがある。

動詞の形容詞化

  1. 動詞「違う」を「違かった」「違くない?」のように形容詞化。同じように動詞から形容詞に転成した例には「涙ぐむ→涙ぐましい」「恐る→恐ろしい」などがあるが、これらは転成した時期が古いので日本語の乱れとはされない。
  2. 「好きではない」→「好きくない」。もっとも「好きだ」という形容動詞自体「好く」という動詞から転成したものだが、「好く→好きだ」の変化は同じ品詞の転成でもやや古いので通常日本語の乱れとはされない。

形容詞の副詞化

  • 形容詞「すご(凄)い」を無活用のまま「すごい速い」と連体修飾で副詞的に使用。
    • 形容詞でも、「-い」の形で連体修飾を成すものがある。これは存外古くからあり、たとえば「えらいきつい性格やな」のように、関西方言では副詞的に用いられるし、「おそろしい」も、「恐ろしい沢山書いたね」(夏目漱石)や「恐ろしい長い物を捲り上げる」(樋口一葉)、「恐しい利く唐辛子だ」(泉鏡花)、「可恐い光るのね、金剛石」(尾崎紅葉)のように副詞的に用いられていたようである。「すごい」は、戦後の作品には見られるが、古いものには見られないことから、比較的新しいために不自然に感じてしまう人も少なくないのかも知れない。「えらい」「おそろしい」も、おかしいという意見はあるのだから。しかし、頭ごなしになんでも乱れとか誤用として排除してしまうのは、前述のように日本語の多様な使い方を否定するもので、そうした副詞があるくらいに捉えたほうが良いかもしれない。
    • もっとも現在普通に使われている「かなり早い」の「かなり」も「可である」の意の「可なり」をそのまま副詞化するというかなりの強引さである。

鼻濁音の消失

鼻濁音[ŋ]については、以前より西日本方言ではあまり使われていなかったが(鼻濁音は本来、関東・東北地方など東国方言だけに認められる特徴であった)、若年層においては東京など東日本でも使われなくなる傾向がある。さらに、鼻濁音と同様の用法を持つ有声軟口蓋摩擦音[ɣ]が広まっている。これについても、年配層からは日本語の乱れであると指摘する声がある。

たとえば、程度を表す副助詞「~くらい」と「~ぐらい」の混用が目立ち、

  • 「これくらい」と「これぐらい」
  • 「息もつかないくらい」と「-つかないぐらい」

などが挙げられる。

外来語表現の「ゆれ」

この節は執筆の途中です この節は、書きかけです。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。

機械を表す外来語では、長音を伴わないのが専門用語的、伴うのが一般語的とされる傾向にある。また世代差、各人が持つ表現の嗜好によっても左右される。

固有名詞でも「ゆれ」の収まったもの(「レーガン」と「リーガン」など)と「ゆれ」の残るもの(「リンカーン」と「リンカン」、「ヒトラー」と「ヒットラー」など)がある。「BMW」の読み方は、以前はドイツ語読みの「ベーエムヴェー」が一般的だったが、近年は英語読みの「ビーエムダブリュー」(若しくは略して「ビーエム」)の方がよく用いられる。

「一緒」と「同じ」の意味は一部共通している

「一緒」と「同じ」の意味には共通部分がある。「一緒」は同一である、一つになる、同じ行動をする、同時であるという意味になるが、「同じ」は同一である、変わらない、共通しているという意味であり、「同一である」という意味が共通しているので、「同じ」はほぼ「一緒」と言い換えられる。下は言い換えられる例である。これを「同じ」=same、「一緒」=togetherなどと英語と一緒くたにしてしまうと、英語の意味に引き摺られて日本語の意味を見誤り、誤用でもないものと誤用と錯覚してしまうことがある。英語は日本語と一対一に対応するように作られた人工言語ではないし、日本語も英語と一対一に対応するように作られた人工言語ではないので、ある英単語とある日本語の意味や語法が完全に同一であることなど滅多にない。単語同士でさえ完全に同一ではないのだから、ましてある二つの日本語の単語の使い分けをある二つの英単語の使い分けに置き換えて考えるのは無意味である。

正:僕のテストの点数は彼と一緒→ 正:僕のテストの点数は彼と同じ。(どちらも正しい)

敬語に関するもの

日本語の誤用敬語に関するもの)も参照されたい。

二重敬語

尊敬語や謙譲語を重ねる表現。万葉集の時代から第二次世界大戦に至るまで特定の場面では積極的に使われ、また口語では幅広く用いられた。戦後になって、敬語の簡略化を目指した政府により、これからの平等社会には相応しくないとされるようになった。特に皇室関連では、それまで通例であった二重敬語が意識的に排除された。

一般に日本語の規範と考えられているNHKアナウンサーも、中立性を求められるNHKが皇族を過剰に敬ってはならないので皇族に対しては二重敬語を使わないようにしているものの、それ以外ではしばしば使っている。ただし、敬語の使い方を特に取り上げた番組では、誤りではないが好ましくない敬語として扱う。

例:

  • 先生が来るようにとおっしゃられました。

かつては普通に用いられた表現だが([1])、現代社会においては、尊敬語「おっしゃる」と尊敬を表す助動詞「れる」を二重に用いるのは過剰で、「おっしゃいました」または「言われました」が相応しい。

  • 拝見いたします。

かつては普通に用いられた表現だが([2])、現代社会においては、「見る」の謙譲語「拝見する」に対してさらに「いたす」をつける必要はなく、「拝見します」で十分である。

謙譲語+れる・られる

決して新しい表現ではなく、古典文学[3][4]から明治期の文学[5][6]、そして現在に至るまで使い続けられてきたものだが、敬語の理論を機械的に当てはめると矛盾した表現としても解釈できるため誤りとされることがある。古典で使われる場合は二方向敬語であると解釈する。最近ではその用法でない場合がある。

  • おられる
「いる」の謙譲語「おる」+尊敬を表す助動詞「れる」。明治期の文学にも多数現れる表現だが、この表現を誤りと見る人もいる。
  • 申される
謙譲語「申す」と尊敬を表す助動詞「れる」を接続した表現で、「申された」人を上位に置きつつ下位に置くという矛盾から誤りとする人もいる。誤りだと言われないためには「おっしゃる」が無難。
  • 参られる
誤りとする人もいる。誤りだと言われないためには「いらっしゃる」が無難。理由は「申される」と同様である。

形容詞・動詞+です

丁寧な断定の助動詞「です」が形容詞や動詞に接続することが誤った用法とされることがある。このうち「おもしろいです」のように形容詞に接続したものについては、昭和27年の国語審議会『これからの敬語』により「合法化」された。動詞に接続したものについては『これからの敬語」でも合法化されず「ます」を接続するのが正しいという感覚をもつ者が多い。ただし、動詞・形容詞のいずれに接続するのも昨日今日生まれた用法ではない。1906年発表の夏目漱石坊っちゃん』にも、「来るです」「思うです」のように動詞に接続したものを含め多数の用例が見られる。

「~させていただく」の濫用

上記の「さ」入れ言葉以前の問題として、誰かの許可を得て何かを「させていただく」わけでない場面で、単に「いたす」の代用として「~させていただく」と言うこと自体を嫌う向きもある。形式的にだが、反対する余地を残した言い方をすることで、高圧的な印象を薄める、同意を得て進行するという印象を持たせる、という意識が働いているわけで、これはいろいろな敬語表現に共通する発想であるとあまり否定的な評価をしない見解もある。さらに、一見、反対する余地を与えるような表現をしながら結果的には一方的に進めていくこと自体があまりに形式的として反発する向きもある。

例:

  • ×それでは閉会させていただきます。(「誰も閉会していいとは言ってない」「嫌だと言ったら閉会を取り止めるのか」などとして「閉会いたします」が正しいとする人もいる)

「~していただく/お~いただく」の誤用

「~してもらう」の謙譲語という意味を離れて「~していただく/お~いただく」を使ってしまう現象。これが定着すると、本当に誰かに依頼して何かを「していただく」ことを言いたいときに困ってしまう。

例:

×取扱説明書をよくお読みいただいてからお使いください 
この文の書き手Aと読み手Bの他に、Bより身分の高いCを想定して、(1)BからCに説明書を代読を依頼 (2)Cが説明書を読む (3)Bが機器を使う――という手順を踏むべきだと言っているなら正しいが、読むのも使うのもBの場合は正しくは「取扱説明書をよくお読みになってからお使いください」。常体に戻して「よく読んでから使え」と「よく読んでもらってから使え」を比べてみると分かりやすい。

アクセントに関するもの

名詞アクセントの平板化

かつて起伏型に発音されていた名詞が平板型に発音されるようになる現象。

一般に新語や外来語は後ろから3番目の音節にアクセント核が置かれる。使用頻度が低いうちはそのままのアクセントが保たれるが、使用頻度が高くなると発音に要するエネルギーの低い平板型に移行する傾向がある。

外来語を中心に日々増える新語の多くは起伏型であり、また後述するように動詞については近年起伏型に発音される傾向が強い。せめて定着した名詞は平板化しなければ起伏型ばかりになって発音しにくくなってしまうとする意見もある。

一方、使用頻度が低い語や、特殊な語と意識される語では、逆に平板型から起伏型に移行する現象も見られるが、こちらはなぜかあまり問題にされない。

用言アクセントの起伏化

用言のアクセントについては名詞とは逆に起伏型に移行する傾向がある。

動詞はアクセントの点で、

  1. 終止形が起伏型に発音されるもの
  2. 終止形が平板型に発音されるもの

の2つに分類されるが、かつて(2)に属していた動詞が(1)に移行する傾向が近年強まっている。複合動詞で特にこの傾向が強い。保守的なアクセントで話していると考えられているNHKのアナウンサーでも既にかなりの揺れが見られる。

例:

  • 立ち寄る - たちよる → たちよ

また、形容詞のアクセントも同様に2つに分類されるが、もともと(2)に属する語が少ないこともあって、混乱している。

例:

  • 赤い - あかい → あ

若者に多い事例

別項若者言葉も参照されたいが、ここでは30代以上の間でも使用され、言葉の乱れとして考察の余地があるものを取り上げておく。

ぼかし表現

「ぼかし表現」とは、あらかじめわかり切っている事柄であろうがなかろうが、はっきり言い切らないことで曖昧にしてしまうことである。従来から敢えて匿名にするため「某○○」「さる~」としたり、「ある種」「ある意味」などは広く用いられてきたが、主として若者の言葉遣いで指摘されているのがバイト敬語に多い「~のほう」、「私的には…」、あるいは不必要な場面での「~とか」「~と言うか」「~みたいな」である。また「~する人」といった自分を第三者に見立てた表現も然りである。もっとも今日普通に使われている「立派な」や「田中」の「方」や「様」も、元々は人を直接指し示すのを避けて方角や様子のことのようにぼかした表現である。ぼかし表現を参照のこと。

感動表現の濫用

形容詞の語幹の用法
  • 「すごっ」、「はやっ」のような表現は形容詞の語幹用法といって、平安時代以前からある感動表現である。口語における形容詞の終止形が「~し」から「~い」に変化したのは鎌倉時代なので、「すごい」「はやい」よりむしろ古くからある表現である。しかし、こうした表現を若者流と捉える者もいる。

接客に関するもの

バイト敬語
  • とりわけ、ファミリーレストランやコンビニエンスストアなどで、若者のアルバイトが使っていることが多い。詳細は別項を参照されたいが、ここではパートや従業員も用いることの多い言葉をいくつか採り上げる。
  • いらっしゃいませこんにちは。→いらっしゃいませ。「こんにちは」は不要。
    • 一語として成立しているかのように聞こえるため、聞く側はマニュアル的というか、いささか語弊はあるかもしれないが社交辞令的に感じてしまうことが間々ある。
  • 1221円からお預かりします。→正: 1221円お預かりします。「から」は不要である。
    • なお、「預かる」自体が不適切で、「頂く」「頂戴する」が正しいとする人もいる。500円の支払いに対して1000円札を差し出す場合、おつりの分を含めて「預かる」と表現していると見ることもできるが、お釣りがないにもかかわらず「ちょうどお預かりします」というのは違和感があるという捉え方もあろう。こちらに面白い例が記載されている。
  • レシートのお返しです。→正: レシートです。 または、 レシートでございます。
    • レシートは客が預けたものではないという理由である。しかしながら、「返す」には、「相手が何らかの働きかけをしてきた場合に、等しい価値を持つ働きかけをする」という意味があり、その意味でとらえれば正しいとする人もいる。
  • もりもりハンバーグのほうお持ちしました。→正: もりもりハンバーグをお持ちしました。 または、 もりもりハンバーグです。「ほう」は不要。
    • これは場合による。客がもりもりハンバーグのほかに何かを注文したのであれば「~のほう」を使ったとしても違和感はないが、それ以外の注文がないのであれば不自然である。また、大抵はあらかじめ分かりきっていることであろうがなかろうがぼかしてしまう傾向が若者には多いので気をつけたほうが良い。
  • こちらがデザートになります。→正: こちらがデザートでございます。
    • 何かが「デザート」に変化するわけではない。
  • ご注文の品はひょうたんでよろしかっでしょうか。→正: よろしいでしょうか。
    • 既に注文したような表現であると不快に感じる人がいる。1か月前に注文した商品を今渡す場合に、記憶があいまいでないか確認するために言うのなら不自然な表現ではない。たった今目の前でした注文に対してこのように確認すると、「今言ったのにもう忘れてしまったのか」という印象を与えかねない。

若者流の敬語表現

ここでは、若者に限らず中年層でも用いられる場合が多く、かつ「乱れ」として取り上げる余地のあるものを取り上げる。

誤用

ここでは、場合によっては失礼に当たる可能性がある敬語表現について述べる。

私ってコーヒーとか好きじゃないですか。→正:私はコーヒーが好き(なの)です

  • 下記「語尾上げ」を伴う。中高年層で用いられる場合もあるものの、ともすれば自分の意見をことさら強調して押し付けがましく思われたり、目上の者に対して使うと馴れ馴れしく思われたりすることがあるため、フォーマルな場では差し控え、右記の表現を用いたほうが良いだろう。
  • 広辞苑によれば、例文の中に出てくる接続助詞「とか」には、「コーヒーとかお茶(とか)が…」には二つ以上の事柄を並列して述べる用法の他に、近年の用法としてここで用いられているぼかし表現としての使い方もある。

主任も行かれるのですか。→正:いらっしゃるのですか

  • 「行かれる」は受け身と勘違いされやすくいささか中途半端なため、誤解が生じることがしばしばである。「言われる」も同様で、「~と言われた」のか、「~と呼ばれる」の意か、それとも「お言いになった」のかあやふやなため、尊敬語としては「おっしゃる」がより無難で、間違いのない言い方。ただし、大正時代や戦前にも見られる(例1例2例3)ので若者流といえるかは疑問である。例に引いた文の書かれた時代には「行ける、行くことができる」の意味でも「行かれる」と言ったので誤解の生じやすさでは今日以上である。

学生が上級生に敬語を使うこと

  • 学生が一学年でも上級の者に対して敬語を使うことはかつては当たり前のことであった。しかし、近年はこれに違和感を持つものや体育会系特有のものと捉えるものもいる。

先輩は明日休みなんすか(っすか)?→正:休みなんですか

  • 1962年の映画「ニッポン無責任時代」において植木等が多用しているが、「で」を発音していないことについて他の登場人物はなんら突っ込みを入れていない。


文章上の表現

かな書き

新聞や広告、テレビなどは、できるだけ多くの人がわかりやすいことが前提であるべきで、そのために制定されたのが常用漢字であり、現代仮名遣いである。新聞などではかつては常用漢字外の文字は使わずにかな書きするのが原則だったが、近年は読みを括弧書きするなどした上で漢字表記することが増えた。これに比べて、雑誌または書籍は購読者層がある程度絞られることが多いため、以前からかな書きはあまり行われてこなかった。その一方で、例外的に誤読防止や文面を和らげるために意図的にかな書きを用いることも少なくない。

例えば、

  • 「何」は、「なに」と読むのか、それとも「なん」なのか紛らわしい場合に「なにより(何より)」「なんの(何の)」と表記
  • 「私」を、「わたくし」と読んでほしいのか、それとも「わたし」であるのか明確にするために「わたし」と表記
  • 「~の方」を、指示語の「ほう」か、「~の人」の意の「かた」なのかを明確にするためにかな書きとする

といったケースは少なくない。ただし、この中で「わたし」という読み方は常用外でも認められていないことで前述したような場合はかな書きが無難であるが、それ以外は文面からどちらの読みであるのか、大抵の人はわかるので、漢字書きでよい。このほかにも、

  • じつは」「じつに」「そのじつ」→
  • とくに」→「特に
  • なかでも」「~のなか」→「

とする場合があるが、表記をなるべく統一することは当然であろう。だが、編集者以外の記者が書いた原稿は、筆者のオリジナリティーを尊重する観点から原文ママとすることがある。

交ぜ書き

公文書でも、かつては常用外漢字については基本的に交ぜ書きまたはかな書きされることが多かったが、この常用漢字も別記のように限界が見えてきたので、文部科学省は2005年、「数年以内に見直しを検討する」としている。
新聞・雑誌・書籍などにおいてもこうしたケースは少なくなく、たとえば

  • 「荒唐無稽」→×「荒唐無けい」
  • 「誹謗中傷」→×「ひぼう中傷」
  • 「拉致」→×「ら致」

といった具合に表記することがある(「ひぼう中傷」「ら致」は実際にニュースや新聞で用いられた)。これでは中途半端で逆に文面栄えがしない・また誤読の恐れがあるので、別な言葉を用いるか、ルビを振ったほうが無難であろう。

当て字

当て字」とは、規範的な漢字の読みを無視して、便宜的または慣用的にまったく別の読みを当てることである。江戸時代から明治時代にかけては盛んに行われたが、近年はあまり行われない。それでも歌謡曲の歌詞では近年でも次のような表現が残る。

  • 理由 - 「わけ」(正しくは「りゆう」)
  • 孤独 - 「さびしさ」(同上「こどく」)
  • 娘 - 「こ」(同上「むすめ」)
  • 宇宙 - 「そら」(同上「うちゅう」)

送りがなの区別

「行」は「い・く/ゆ・く」「おこな・う」の2つの訓を持つが、連用形や過去形では両者の区分が付かない(「行った:いった/おこなった」)。このため便宜的に「おこなう」の送りがなを「おこ・なう」として区別することがある。

カタカナ文の濫用

女性や若者、小中高生に多い表記のゆれが、文章中にカタカナをやたらに多用することである。手紙を書く時や個人経営の商店のチラシ、10~40代前半が対象の雑誌、テレビバラエティ番組等でのテロップ、そして携帯端末パソコンe-メールなど、数えだしたらきりがないが、次のような表現が目に付く。強調のために用いたり、おどけた表現をこめる場合であるが、後者は常用していると軽率な人間と受け取られかねず、慎んだ方がいい。雑誌であっても読者が若者とばかりは限らず、時として不快感を与えることがあるので控えた方がいい。ここでは比較的目新しいものをいくつか取り上げる。

  • 「今が旬です! とっても美味しいです!」
    • 比較的広域に複数の店舗を展開する大型食料品店のチラシから。女性(主婦)の心を捉える表現として、古くからある。
  • 「そうした危険性もアル
    • 「~もアリだね」と同様な表現と考えられる。
風刺の意図を込める表現
  • 「チョー」などがあげられる。

連用形の連体修飾

「×許可なく立ち入りを禁ず」の類。「立ち入りを禁ずる許可を受けていないがそれでも禁止する」という意味ならば正しいが、おそらくは「無許可で立ち入るな」という意味であろう。「許可なく」は連用形なので「立ち入り」という名詞を修飾することはできず、「禁ず」を修飾しているとしか文法的には解釈のしようがない。正しくは「許可なき立ち入りを禁ず」のように「許可なく」を連体形にするか、「許可なく立ち入ることを禁ず」のように形式名詞を用いる必要がある。

全然~ない

全然 - 「全然~ない」などと後ろに否定や打ち消しを伴うのが正しいとされ、そうでない場合に「日本語の乱れ」とされる。しかし夏目漱石などによる近代初期の文学作品に否定を用いない例があり、社会における規範の方が変化した可能性が高い。「漢字の意味を考慮するなら『乱れ』どころか自己是正現象である」とする立場もある。全然の後ろに肯定を伴いたいときには、「全く」、「とても」、「完全に」、「非常に」などと言い換える方法などがある。全然の後ろに肯定で伴うと違和感を覚える者がいる。但し、「全然違う」、「全然だめ」、「全然反対」などは、内容的に否定的な要素が含まれていて、古くから使われているので、正しい言葉であるとしている。話し言葉では正しく、書き言葉では誤りとすべしという意見もある。

例:

  • 全然大きい

正: 全然小さくない、全く大きい、完全に大きい、明らかに小さくない

例:

  • 全然平気

正: 全然問題ない、全然構わない

新たな解釈として、本来「全然~ない」という言い方をするつもりだったのが、途中で肯定語による表現に変わってしまったために起こったというものがある。

例:

  • 全然大きい
    本来は「全然小さくない」ということを伝えたいのだが、「全然」と言った後で、(前の「全然」と言ったことはとりあえず抜きにして)「小さくない」という表現よりも「大きい」という表現が簡潔で明快だということで『小さくない→大きい』の変換が頭の中で瞬時に無意識的に行われた結果、「全然大きい」となってしまった。

よって前述した「話し言葉では正しく、書き言葉では誤り」というものは、話し言葉に関しては頭の中を整理してから話すことを瞬時かつそれを常時完璧に遂げるのは現実には不可能であるため便宜的に正しいとし、書き言葉に関しては考えてから書ける、また推敲できるというところから認めないということであろう。

「全然」は、否定的表現を伴うわけではなく、「予想に反するもの」を伴うという説もある。 例:

  • 「コンサートは楽しかった?」「(あなたは楽しいと思っていたでしょうが)全然楽しくなかった」
  • 「この本はつまらなかったでしょう」「(あなたはつまらないと思っていたでしょうが)全然良かった」

語尾上げ

文節の語尾をいちいち上昇させて話すこと。「今朝ねバタートースト?食べたんだけど、まだ消化してない?のかしらおなか空いてない?つうかあ、…」話す内容は肯定文なのに疑問文のように聞こえるため、聞き手にとっては逐一確認されているように感じて疲れてしまう。語尾上げ症候群とでも言うべき現象で広い層にわたって蔓延している。自分の話す内容に自信が持てないか、話すのと同時進行で相手から同意を得ていないと不安になるという心のありようが原因と推察される。米国の"Up talking(upspeaking)"が輸入されたものとみられ、日本にも受け入れる下地があったということである。

外来語

  • 日常生活の中で、わざわざ外来語(欧米語)を使おうとしたり、あらゆる場面で難解な外来語を濫用したりするのは日本語の退化につながる危惧があると捉えられることは当然である。こうした流れから国立国語研究所では2002年から4回にわたって「外来語」言い換え提案を国民から広く意見を募った上で行ってきたが、これでもまだ不充分な点はあり、さらに検討が必要であろう。カタカナ語は若い人ほど使いたがるという見方がある一方で、現実問題は中年層ほどみだりにカタカナ語を多用して若作りをしているという傾向にあるのも事実で、国会でカタカナ語が多く、高齢者には分かりにくいという批判があるようである。

その他

  • 「×ご利用できます」のような中途半端な敬語(「ご利用いただけます」「ご利用になれます」なら、正統的な表現)。
  • 1980年代生まれの日本人からは、話し言葉における音便化や子音が転換された誤発音(舌足らずな幼児を演出)などをそのまま音写する表記をすることが多くなった。インターネットスラングの類には、この傾向が顕著である。
  • 「×ご利用いただけますようお願いします」→「○ご利用いただきますようお願いします」これは、「ご利用いただけます」という許可文から類推して、「お願いします」で終わる命令文にも「け」でつないだものと考えられる。そもそも、「ご利用いただけます」における可能表現は、「ご利用いただく」という話者にとって望ましい行為をしていただくことが「できる」という<ありがたさ>をへりくだって表現していると言え、「ご利用いただけますようお願いします」の場合も同様のメカニズムが働いているのであろう。

海外での事例

  • このような「乱れ」は歴史上どの言語でも起こっていることである。また、本来生き物である言語を過剰に統制しようとすることを批判する立場も古今東西で共通している。
  • 近年の日本の曲(いわゆるJ-POP)の中にも、「乱れた」日本語を用いた歌詞を持つものが多くある。そういった曲も台湾香港等で発売されていたりする。それらの曲を聴いた現地の人が、それが標準的な日本語だと思ってしまうという問題もないとはいえない。

参考文献

^1 『岡山県人じゃが』岡山ペンクラブ

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