現在位置:asahi.com>ニュース特集>ニッポン人脈記> 記事 呼吸器の母 12年の介護2008年03月07日14時23分 川口有美子(かわぐち・ゆみこ)(45)は夫の転勤でロンドンに移り、7歳の娘と2歳の息子の子育てに夢中になっていた。95年6月、電話を受ける。東京の母、島田祐子(しまだ・ゆうこ)からだった。
「……ALSって、変な病気になっちゃったみたいなの」 医師は呼吸器をつければ生きていけるという。でも、介護がすごく大変だから、どうしたらいいかしら。母の涙声を聞いて川口はとっさに答えた。「いいじゃない、呼吸器をつけて生きれば」 天窓から昼下がりの日差し。庭のアカシアが風に揺れていた。その日がすべての始まりだった。 ◇ ALSは進行性の難病だ。筋萎縮(いしゅく)性側索硬化症。川口が家庭向けの医学書を開くと、「運動神経が侵され、あらゆる筋肉が萎縮し、さいごは呼吸もできなくなる」。絶望的な言葉がならんでいた。宇宙物理学のホーキング博士(66)もこの病だった。 その夏に帰国、介護生活が始まった。母の祐子は当時59歳。包丁がもてなくなり、起きようとして布団に倒れ、風呂場でタイルの目地につまずいた。舌がもつれ、うまく話せなくなった。出版社をやめた妹の千佳子(ちかこ)(42)や父と交代で付き添う。 認知症の祖母の介護で苦労した祐子は「呼吸器をつけてまで生きたくない」。でも別れるのは悲しい。つけなければ死ぬ。つけるかどうか。決められぬまま12月、体調が急変し、救急車で運ばれた。 「助けてっ」。集中治療室で祐子は娘たちにいった。医師は気管切開して呼吸器をつけた。 2カ月後、自宅にもどった。ベッドわきに呼吸器や痰(たん)の吸引機。シュポーという呼吸器の音。家族は心配で部屋から出られない。緊張の連続。仮眠は1、2時間。 やがて祐子に気力がもどる。話せないかわりに、50音の文字盤を祐子が目でさし、家族が読み取る。短歌もはじめた。 96年秋、総選挙があった。投票は自筆でないと認められない。祐子は「そんなの、おかしい!」と、千佳子に代筆させて日弁連に嘆願書を送る。ベッドの上から、投票できる日を待っています。のちの制度改正につながる。 さらに病状は進んだ。文字盤をさす目が動きにくくなり、一日に読みとれるのはわずか数文字に。ある日、「し・に・た・い」。 そんなに死にたいなら、いっそ……。そして私も。「妹も私も何度も母を殺そうとしましたね。かわいそうで」と川口。患者家族らが集うALS協会の橋本操(はしもと・みさお)(54)に、つらさ、切なさを訴えた。 橋本もまたALS患者である。千葉の漁師の娘に生まれ、27歳で結婚、32歳で発病したとき5歳の娘の母だった。39歳で呼吸器をつけ、わずかに動く唇と目の動きをヘルパーが読みとって伝える。 「根性がない」と橋本。川口はむっとする。「母を根性なしといったんだと誤解して。でも、あとで根性がないのは私のことだとわかった」。母はほんとうに死にたいのかしら、と泣くと、橋本は「バカな! そんな人間はいない」と目と唇でしかった。 橋本は都の難病支援制度やボランティアを使い、家族以外が介護するシステムをつくっていた。それを学んだ川口も、介護者を養成して派遣する事業を起こす。日本独自の「サクラモデル」と海外に知られるようになる。 99年、祐子はついに目も動かなくなる。意思を伝えるすべがなくなった。川口は、祐子が仏壇に遺書を残していたのを思い出す。封筒をあけると、よろけるような字で「人生は楽しい」。 楽しい? どんなにつらくても人生を楽しんで、という励ましに思えた。ふっと肩の力がぬけた。死なせたほうが、という呪縛から解き放たれ、救われた。 07年9月、祐子は逝った。71歳。川口は母のベッドに大の字になった。12年の間、ここがママの居場所だったんだ。天井をずっとみつめた。 ◇ 実は、ALS患者の8割以上が呼吸器をつけずに亡くなっていく。多くが家族に迷惑をかけたくないと気兼ねして。そんなことをしないですむ世の中にしたい。 だれにもいずれやってくる、その日。その日まで、生きる。 (文を生井久美子、写真を中井征勝が担当します。本文敬称略) PR情報関連情報 (
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