父性

8 斎藤学氏と村本邦子氏への反論

 

 この二人は、『父性の復権』に対する批判の仕方が非常によく似ているという特徴を持っている。すなわち一方では私の言う「父性」を「父権的」(権威主義的)なものとして描いて否定しておきながら、自分が父親役割を提唱するとなると、私の「父性」の中身を借用するというやり方を取っている。

 普通の人は、相手の本を否定しているのだから、その中身を借用しているとは(私の本を読んでいない人には)思いもよらないであろう。彼や彼女の本の読者の中で、私の『父性の復権』をきちんと読んでいる人は少ないだろう。まして、彼や彼女の本で否定的に描かれていれば、ますます私の本を読んでみようという気にならない。そのために、「否定」しながら内容を借用しても問題にされない、などということが可能になるのである。

 

斎藤学氏への反論──借り物の父親論

 

 斎藤学氏の提唱する父親論は急ごしらえであり、すべて借り物から成り立っている。彼は一方で「父性の復権」論を「新保守主義」の政治運動であり、「父親は厳然たる権力を持つのがいいのだという論理」だと否定しておいて、他方では私の「父性の復権」論から内容をいただくのである。

 

 彼は『「家族」はこわい』(日本経済新聞社)の「あとがき」の最後でこう言っている。

 

 わたし自身、きちんとした父親などやった覚えはなく、人に説教をたれる資格はないので、わたしの周辺で生じた出来事を話し、読者の皆さんに考える素材を提供するくらいがちょうど良いと思ったのです。

 

 いかにも謙虚そうに聞こえる「あとがき」である。積極的な徳を説く者を「よくできるねえ」と皮肉っているようである。それほど謙虚で、「いろいろあってもいい」という言葉に真っ先に賛成しそうな斎藤氏は、気に入らない説を批判するときだけは、「それもあってもいい」とは決して言わないで、妙に攻撃的である。

 

『父性の復権』への政治的批判

 斉藤氏は『父性の復権』を次のように批判する。ここで前もって注意を促しておくと、彼ははっきりと拙著『父性の復権』を読んでいるということである。それまでは母子関係についてしか言ったことがないのに、この時点から急に父親について発言しはじめている。明らかに『父性の復権』を意識して、流行に乗り遅れまいとする行動である。彼は次のように『父性の復権』を貶める。

 

 最近、「父性の復権」というような言葉を、しばしば聞きます。家庭や子育てを妻まかせにしている父親や、満足に子どもを叱れない「だらしない父親」が普遍的になっているからでしょうか。この主張は、男が弱くなり、父親の権威が失墜しているとの指摘に呼応して出てきたようです。かつての権力的な家父長的な父親とは一味変えたところで、冷酷な父はいけないが、愛をもった父権主義は必要だとの、それは主張です。父親は厳然たる権力をもつことがいいのだという論理です。この主張の底流には、世の中の秩序の乱れは家族に始まる、だから男はもっとしっかりしなくてはならない、という考え方が横たわっています。これは日本人であることを誇れるような国にしよう、という考え方とも繋がっています。 

 これら「新保守主義」の「健全な家族」の提唱は、何よりも政治運動だということを念頭におく必要があると思いますが、この主張の一番の過ちは、まず自分たち男あるいは父親が、自己尊厳とかプライドをもつべきだと主張していることです。そもそも自己尊厳とかプライドという言葉は、尊厳を汚され、もうダメだと思っている弱者の視点、たとえば虐待された子どもや親に愛されなかった子ども、あるいはレイプされた女性などに使われる言葉です。

 それなのに、権力をもつ側が、まず自分たちが自己尊厳やプライドをもとうと言うとき、これは暴力となることがあります。なぜなら、支配される者たちは自信満々の権力者の説教を聞いているうちに、それを自分の心のうちに取り込んでしまうからです。そして、心の中に過酷な暴君をつくりだして、その奴隷になってしまうのです。

 そもそも家族とは権力機構であり、父親は基本的に権力者であり、女性と子どもは弱者です。母も子どもとの関係では権力者になります。権力には、それ自体がもつ悪、力のもつ悪があります。そういう側が、弱者や被害者に対する視点を欠落させてしまうとき、これは非常に危険なものとなります。「新保守主義」の危険性は、この点にあります。どんな父親をやるか、それについて考えるとき、何よりこの視点を念頭に置く必要があります。

 わたしは、二十世紀最大の功績はフェミニズムだと思っています。わたしはフェミニズムから、男はそんなに頑張らなくてもいいよというメッセージを読み取っていますが、女と男の関係を愛や性ではなく、権力で言い換えたことがフェミニズムのすごいところだと思います。この洗礼を受けていない父親論はおかしくなる、古臭いものと変わらなくなってしまうと思っています。

(斎藤学『「家族」はこわい』日本経済新聞社、平成9年、p.7〜9)

 

 彼によれば、「父性の復権」論は新保守主義であり、「愛をもった父権主義」であり、「父親は厳然たる権力をもつことがいいのだという論理」であり「政治運動」だとされる。「何よりも政治運動だということを念頭におく必要がある」。

 このような性格づけをされても、とくに「父親は権力を持て」などという考え方とは無縁の私としては、言いがかりとしか思えない。

 彼はこう言っている。「そもそも家族とは権力機構であり」「女と男の関係を愛や性ではなく、権力で言い換えたことがフェミニズムのすごいところだと思います。この洗礼を受けていない父親論はおかしくなる、古臭いものと変わらなくなってしまうと思っています」(p.9)。

 要するに斉藤氏はフェミニズムの公式に従って「父親は権力者なのだから、気をつけよ」と言わない父親論は古臭いと言っているにすぎない。私は『主婦の復権』(講談社)や『フェミニズムの害毒』(草思社)で論じたように、家族の愛や母性を否定して権力関係としてしか見られないところがフェミニズムの根本的な間違いだと考えている。ところが斉藤氏のようなフェミニストは、「父性」とか「権威」と聞くと、すぐに「権力」や「権威主義」だと思いこんで、女性や子どもがその被害者だの「弱者」だのと言い、「父性の復権」論が男性の支配を肯定しているかのように歪めて批判するのである。

 

 そのように彼は、権力者としての父はいけないと言っておきながら、冒頭に

 

家族というものは、「これは俺の家族だ」という父親の宣言によって成立すると考えるようになった

 

「おまえたちの生存の責任は俺がもつ」──この「父親宣言」があってこそ、家族は成立する

 

と述べている。

 「これは俺の家族だ」「おまえたちの生存の責任は俺がもつ」──権力機構としての家族を否定する人の口から、こんな権力的な言葉が飛び出すとは驚きである。これはまたなんと強くたくましい父親像であることか。「きちんとした父親などやった覚え」のない人にしては、きちんとした覚悟を宣言することが、父親の役目だと言っている。

 それどころではない。父親がするべきこととして、彼が具体的に提示することは、すべて私と河合隼雄氏の父性論の焼き直しなのである。

 

借り物の父親論

 彼は親の役割には

(1)「抱くこと」、

(2)「限界を設定すること」、

(3)「子別れ」

の三つがあるが、今までは(1)のみ言われて、(2)と(3)が言われなかったと言っている。とんでもない、彼が(1)についてのみ言ってきて、(2)と(3)を言わなかっただけである。この(2)と(3)の父性の役割については拙著で詳しく述べていることであり、それを彼は「限界設定」「子別れ」と言葉だけ変えてそのまま借用したのではないか。概念を借用しただけではなく、具体例までほとんどそのまま借用している。

 

 この抱くということをしっかりやったうえで、親の仕事の二番目にあげた、子に対する限界設定が可能となります。限界設定は、母親もやるし父親もやります。しかし、ときにこれを妨げる父親がいます。たとえば、母親が子どもに『食べなさい』とか『寝なさい』と言っているとき、『いいじゃないか、食べなくても』とか『まだテレビを見せてやってもいいじゃないか』と言う父親がいます(p.14)。

 

 これは拙著の第二章「子どもの心理的発達と父性」の内容そっくりである(「限界設定」という言葉だけは違っている)。しかも例までそっくり同じである。すなわち拙著53頁で私は父性のない父親の例として、次のような例を挙げている。

 

 昼間は定職がなくてブラブラしていて、夜になると自分の見たいテレビを勝手に見ていて、どんな内容のものでも、子どもが一緒に見ていれば、好きなだけ見させておく。母親が「そんなテレビを見せては困ります」とでも言おうものなら、「いいだろう、なぜいけないんだ」と怒りだす。母親が「もう寝る時間よ」と言っても、父親がテレビを見ていてもいいという態度なので、子どもは言うことをきかない。

 

 斎藤氏は、さらにこう言っている。

 

  さて、父親の役割にもう一つ、これはユンク以来よく言われることですが、母子の密着した関係を断つナイフの役割があります。(p.15)

 

 ユンクとはC・G・ユングのことであろう。ドイツ語を少し知っている人で、ユングのことをユンクと発音する人がたまにいる。gをドイツ語では原則として「ク」と発音するからであろう。しかしingやungのときは「イング」「ウング」と発音する。だからドイツ語のできる人はユンクなどとは言わない。

 それはともかく、ユングはどこでも、ただの一度たりとも、「父親の役割は断ち切る」ことだなどとは言っていない。全集18巻(プラスα)、どこを探しても、そんなことは言っていない。

 では、何故そんなでたらめを彼は自信に満ちて断言したのか。それは彼が河合隼雄権威主義にかぶれているからである。河合隼雄氏の言っていることは、ユング心理学の用語だろうと思いこんでいるだけである。

 じつは「切断」という言い方は、河合隼雄氏の独特の表現であり、ユング心理学の言葉ではない。ユングは子の母からの自立ということは言っているが、切断などという言い方は絶対にしていないのである。

 つまり、もうお分かりであろう、斎藤氏は河合氏から考え方を借用して、表現を「切断」から「ナイフ」と言い換えただけなのである。そうしておいて、河合隼雄氏がユングに基づいて発言しているのだろうと推測し、「ユンク以来よく言われる」(河合氏とその追随者しか言っていないのに)などと、知ったかぶりをするのである。

 斎藤氏は今までは、もっぱら母子関係のみを論じてきた。父親の役割には無関心であった。それがここにきて急に「父親」が注目されるようになり、あわてて自分も父親論を出そうとした。しかし自分独自の父親論がない。そこで急ごしらえの父親論を借り物で構築した。こういう精神こそ、父性のなさをさらけ出している。

 

 斉藤氏の借り物の説はなおも続く。彼はこう言っている。

 

  しかしいまは、父親自身の社会性がそもそも欠落しているように思えます。社会的不正というか、掟の執行というものが、非常に軽視されている時代です。そんなもの、みんな蹴飛ばしてきたのが「団塊」の世代です。権威を否定し、神を排除してきた一方で、肝心なルールもなくしてきました。社会的不正の宣言というものは、俺が裁判官だ、わが家の掟だ、ルールだと宣言することですが、それは権威を振りまわすこととはまったく違います。(p.17)

 

 この部分は、私が「団塊の世代」について言ったことの焼き直しであり、「俺が裁判官だ、わが家の掟だ、ルールだと宣言する」というところなどは、私より過激な父権主義者のようである。

 「それは権威を振りまわすこととはまったく違います」と言うけれど、それこそまさに権威と権力とを振りまわしていることではないのか。権力機構としての家族の中での父親の権力なしに、どうして「俺は裁判官だ、掟だ」と宣言することができるのか。彼は父親が権力者であってはならないと言いながら、権力者でなければ言えないようなことを言えと言う。こんな矛盾したことを言わざるをえなくなるのは、自分の年来の主張と違うことを緊急に輸入したからである。つまり借り物だから「板に付いていない」のだ。

 

斉藤氏の父性論の本心は「父親はいらない」

──シングル・マザー礼賛にひそむ家族破壊衝動

 斎藤氏はフェミニストをもって自認している。彼は「そもそも家族とは権力機構であり」「女と男の関係を愛や性ではなく、権力で言い換えたことがフェミニズムのすごいところだと思います」と言っている。要するに父親は権力者であり、それを告発しないような父親論や家族論は「古臭い」と言っている。父親を権力者とみる視点の方が、よほど「古臭い」のではなかろうか。

 彼の本心は、家族は権力機構だから解体すべし、である。自分の生い立ちの中で、よほど家族から辛い体験をしたか、それとも斎藤氏の患者が家族によって辛い体験をした者ばかりだからか知らないが、家族に恨みを持っていることだけは確かだろう。だから家族解体の役に立ちそうなことには、諸手を挙げて賛成する。たとえばシングル・マザーなどは、彼が第一に目をつける現象である。

 斎藤氏は毎日新聞に毎週「オトコの生き方」というコラムを連載している。その平成11年2月2日、9日の二回にわたってシングル・マザーについて、手離しの礼賛を書きつらねているのである。彼の巧妙で欺瞞的な議論の仕方が、じつに典型的に出ているので、引用する。読者諸賢は、斎藤氏のごまかしレトリックを見破ることができるであろうか。

 

  日本の社会はシングルマザーに苛酷すぎると、先週述べた。その結果、日本では未婚の母の占める割合が1%をわずかに越える程度と低すぎる。・・・スウェーデンなみといかないまでも、イギリス、フランス程度、新生児の母の30%前後がシングルマザーということになれば、現在のような突発的人口減少は免れるはずである。

 スウェーデンの場合、シングルマザーと言っても、性的パートナーを欠いているとは限らないそうだ。婚姻という制度を選択しないだけの話である。未婚の母である女性とその子ども、それにその女性の子育てに参加するパートナーという組み合わせで出来ている世帯・・・では子の養育と成長に深い関心を示す男しか母親のパートナーになれない。

 こうした家族形態が不安定とは限らない。日本のように『制度としての家族』の中でしか子育てができないということになると、えてして子どもは冷たい夫婦関係を維持するための道具にされてしまう。一方、産みたくて産む母は、どんな子であれその子の存在を心から受け入れるだろう。その母のパートナーは愛する女性が何よりも大切にしている彼女の子の父の「父」という役割を喜んで果たすはずだ。

 

 これが斎藤氏一流のごまかしレトリックである。ごまかしの第一は、前者の悪い点、後者のよい点だけを挙げて、後者の方がよいと言う。こういう論理を使って比較をすれば、どんなことでも「よい」ことになってしまう。このごまかしは誰にでも分かる。

 第二のごまかしは、言葉の意味をいつの間にかすり変えてしまうというやり方。ふつうは誰でもシングル・マザーと聞けば、母親一人で子どもを育てるものだと考えるが、「いやそうではない、母親のパートナーなるものがついていて、その男性が父親役をするものだ」「形式はシングルでも、実質は両親で育てるのと変わりない。いや、冷たい夫婦関係の両親よりも、よりよく子どもを育てるだろう」と言っている。このごろよく使われる日本語で言えば、「事実婚」や「通い婚」を指しているのであろう。事実上の父親もコミでシングル・マザーと言うのだ、という斎藤氏の言葉の意味の転換を、いつのまにか読者は押しつけられている。これも一種の言いくるめである。

 この言いくるめのごまかしを見破るのは簡単である。彼のシングル・マザーの意味が、現実と合っていないことを指摘すれば足りる。シングル・マザーの多くには、父親役などついていないのである。文字どおりたった一人で、子どもを育てている母親が多いのである。それに、もし母親の性的パートナーがいるといっても、同居しているわけでもなく、たまに訪れるだけの男性に、どうして父親役が十分に果たせるであろうか。シングル・マザーの現実は、孤独であったり、経済的に苦しかったり、一人で子育てをしなければならない身体的・時間的な苦労があったりと、決してバラ色ではないのである。

 とくにシングル・マザーの問題点は、父性が欠けてしまう点である。子どもに秩序感覚やルール感覚を与えることができず、また人間関係の距離感をとれなくなる可能性が高い。いまや子育ての質が問われているのであり、ただ子どもの数を増やせばよいというのではないのである。斎藤氏はシングル・マザーの現実を見ようとはしないで、母親の理想的なパートナーがいる場合だけを想定し、シングル・マザーが理想であるかのように賛美している。

 しかし、現実とは違うとはいえ、斎藤氏が理想にしていることは、間違ってはいないと言う人がいるかもしれない。彼はシングル・マザーの言葉の意味の転換をはかりながら、制度の形式にはこだわらずに、本当に母親が子どもを受け入れることのできる形を見つけることが大切だと言っているように見える。

 表面的に読むと、彼の言いたいことは、戸籍上の婚姻にはこだわらないで、男女が愛情でむすばれて、子どもの父と母になる形態がよいと言っているようである。その場合、父は実際の血のつながりはなくてもよい。母のパートナーであればよい、と言っている。

 しかし彼の本当に言いたいことは、戸籍制度そのものの否定である。そのことは、次の文章の中に、にじみ出ている。

 

 戸籍が幅をきかせているうちは、家族形態の多様化など望むべくもなく、したがって少子化の勢いは止まらない。

 

 これがひどいごまかしフェ理屈であることは、こう言い換えてみるとよく分かる。「戸籍制度をなくせば、シングル・マザーがどんどん子どもを産む、すると少子化が止まる。」この因果関係は「風が吹くと桶屋が儲かる」程度のものである。こういう無茶苦茶な論理で、彼は戸籍制度が「悪」だということを強引に結論したいのである。彼の場合、戸籍制度があっては困るような個人的事情でもあるのかと、疑いたくなるではないか。

 もし、形式など問題でない、実質が問題だというのならば、戸籍制度があろうがなかろうが、なんの変わりもないはずである。愛し合っている夫婦にとっては、戸籍制度はなんの不都合にもならない。もし夫婦が憎み合うようになってまでも無理に一緒にいなければならないのが不合理だというのなら、離婚の制度をより合理的に改定すればすむことである。

 戸籍という制度は、家族の「形」であり、内容に見合った形式は必要である。この場合、内容とは家族の一体感である。一体感というものは実質さえあればいいのだから、形式はいらないというのは間違いである。内容には内容を表現する形式が必要になる。一体感のためには、夫婦が同姓であることも大切な形式である。とくに子どもの心の安定的な発達のためには、家族の姓が一つであることは、大切な要素と言わなければならない。

 斎藤氏は「家族の多様化」が第一の価値であり、そのために戸籍をなくせと言っているようである。しかし「家族の多様化」などは、別に理想にしなければならないような形ではない。彼はフェミニストたちが「家族の多様化」を唱えているのに媚びて、「家族の多様化のための戸籍制度廃止」を唱えている。本末転倒もはなはだしいと言うべきである。

 斎藤氏のシングル・マザー礼賛は、決して形式主義批判のためなどという殊勝な動機からではない。「家族の多様化」とシングル・マザー礼賛の背後には、健全な家族の内実と形式の両方を破壊したいというアナーキーな動機が隠されている。シングル・マザーという存在は、制度としての家族を破壊する要素をはらんでいる。だからこそ破壊衝動を内にひめる斎藤氏が、しきりに礼賛するのである。斎藤氏の隠された本質は公序良俗の破壊であり、一種のアナーキズムであることを、的確に見抜いて批判していかなければならない。

 

村本邦子氏への反論

 

 権威主義的な父を持っていると、「父性」に対するアンビバレントな感情と態度を持つようになるらしい。一方では感情的に反発し、他方ではひそかなあこがれがあるせいか、内容を剽窃する。

 村本邦子氏がまさにその心理を明瞭に示している。彼女の『「しあわせ家族」という嘘』(創元社、1997)は、「娘の立場から」「父」「父性」を考える「サイコ・エッセイ」だと銘打っているが、「娘の立場から」を標榜するということ自体が度し難い思い上がりである。

 なぜなら「娘の立場」にもいろいろあり、「娘の立場」一般などというものがあるはずもないからである。そんな簡単なことさえ意識化できていないということは、自らの心理を意識化できていないことをうかがわせる。

 じつは彼女の「娘の立場」とは、「権威主義的な父を持つ娘の立場」である。

 

村本邦子氏の父は権威主義的であった

 村本氏が父について回想しているところによると、彼女の父の口癖は「父ちゃんにできないことはない」だった。

 

 娘たちは、父にできそうもないことを一生懸命考える。「あれはできないでしょ!」「これはできないでしょ!」、思いつく限りあげてみるけれど、たしかに父は器用な人で、いろんなことができた。印象に残っているものには、こんな会話がある。

 娘「いくら父ちゃんでも、家を造ることはできないでしょ」父「いや、できるぞ」。その五〜六年後、父は友達を集めて、素人大工で、子どもたちのそれぞれに部屋を作ってくれた。(p.254)

 

 それさえなければと思う父の嫌なところは、感情的な侵入、つまりカッとなったら、大きな声で怒鳴ることだった。(p.259)

 

 このように、何かをできるということによって自分を権威づけようとする態度、あるいは家族の関心を買ったり人気を得ようとする態度こそ、フロムやアドルノらのフランクフルト学派が「権威主義的パーソナリティ」と名づけたものである。

 「権威主義的パーソナリティ」の父親は、なにも命令したり、怒鳴ったり、権力を盾に威張る父ばかりではない。たとえば、恩に着せる、生活を保証してやっているんだと、心理的な圧迫をかけるなどの特徴がある。このタイプの父の口癖が「俺が稼いでやっている」「俺が食わせてやっている」「誰のおかげで大きくなったと思っているんだ」である。

 村本氏の父親は、そこまで露骨ではなかったらしいが、人格的な模範を示すというのではなく、「父ちゃんにできないことはない」と自らの力を誇示する態度は、この「権威主義的な」タイプの特徴に当てはまる。

 このような父親に育てられた子どもは、無意識のうちに「権威」に対してアンビバレントな態度を取るようになる。すなわち一方で権威に反発するが、他方で他の権威を受け入れるようになる。

 このことは拙著『父性の復権』の第五章「父性の権威」の中に詳しく書いてあるが、その箇所を彼女はまったく理解できなかったようである。

 さらに村本氏が挙げている彼女の父の「感情的な侵入」というのも、権威主義的な父の顕著な特徴である。

 

あいもかわらぬ「神話」という批判の仕方

 村本氏は「父性」とは「神話」だと批判している。というのは「現実には、これらの役割を十分に果たせるほど立派な父親は、めったにいない」からだと言う。

 私は「立派な父が現実にいる」などとは一言も言っていない。はじめから「父性とは理想だ」と書いている。理想を書いているのだから、現実には滅多にいないのは当然である。

 理想を言ってはいけないのだろうか。「生身の人間としての父」(p.163)を描けば、何か父について参考になることを言ったことになるのだろうか。現実については、さんざん言われつくした。では、どうすればいいのかを、皆が知りたがっている。それに答えることが求められているのである。

 村本氏の批判の仕方は、徹底して「崩しの思想」である。すなわち理想とか、「しあわせ」というカタチが「嘘」だと言っている。「しあわせ家族」なんて実在しないと言っている。「しあわせな家族」と見せかけているが、じつはしあわせではない、という例を一生懸命に羅列する。

 ここには「理想」とか「しあわせ」というものを、なんとかして貶めたいという心理が現われている。本当はほしいが、嫉妬や羨望のために素直になれない心理が見えている。

 そういう心理を持つ村本氏は、「理想の父親」「立派な父」を貶める手法として、次のような典型的なテクニックを使う。すなわち彼女は、「理想の父」と言われている父が、少しも立派ではなく、むしろ娘を圧迫する「侵入する父」だったというお話を紹介するのである。私の批判している権威主義的な父をもってきて、それを私が理想にしているかのようにスリカエ、それが娘に悪影響を与えているとして、私の父性概念を批判しえたと思いこんでいる。手のこんだ、いやらしい手を使うものである。『父性の復権』を批判する人間は、不思議なほどに必ずこうした汚い手を使う。

 村本氏はこう書き出している。

 

 よく読まれている林道義氏の『父性の復権』によれば、父の役割は、「家族を統合し、理念を掲げ、文化を伝え、社会のルールを教える」ことであり、父性の条件として、1 まとめあげる力、2 理念、文化の継承、3 全体的・客観的視点、4 指導力、 5 愛、の五つを挙げている。当然ながら、このような役割を果たさなければならない父は、「自らの欲望をコントロールし、全体の将来を考えてリーダーシップをとり、各成員の調停をして取りまとめ、ルールを教えるという『立派な』人格」でなければならないという。

 こんな立派な父が世の中にどれほどいるのだろうと思っていた矢先、ちょうど、これにピッタリあうような父の娘がいた。なかなかいないであろうこの種の父は、娘の眼にどう映り、娘にどんな影響を与えるのであろうか。

 

 その正江さんという36歳の「娘」が語る「立派な父」とは、こんな父である。

 

 父は役人で、厳格な人だった。接待とかそういうことが大嫌いで、来たものは返す。家の電話も公的なものだったので、長電話は許されなかった。

 

 正江さんは小さい頃から、いつも、「父ちゃんは偉い人だ」と母から聞かされてきた。実際、父は何を聞いてもよく知っていて、教えてくれた。社会的なこと、政治的なこと、世の中のこと、植物の名前とか、そんなことまで本当によく知っていた。父は絶対者だった。

 

 その分、父がいると、緊張するような感じがあったと思う。冗談でも言おうものなら「くだらない」と叱られそうな雰囲気で、朝食のときなど正江さんが何か言ったとき、無言の父のメガネがキラリと光ると、「ああ、私のこと、くだらないと思ってるな」と、自分を恥じた。

 

 父に対して反発もあり、何とか抜け出したいと思いながら、相矛盾していて、一筋縄ではいかない。父に対する感情を自分でも持ち余してきたところがあった。一目置いているぶん、「目の上のたんこぶ」だったりする。一緒に住んでいた頃、父がいなければ、どんなに自分の心が晴々するだろう、のびのびするだろうと思う反面、父がいなかったら、どうやって生きていこうと不安だった。(p.133〜136)

 

 この最後のところなどは、権威主義的な父に育てられた娘の心理が、じつに生き生きと描かれている。このアンビバレントな心理こそ、権威主義の特徴なのである。

 そう。もうお分かりだろう。ここに描かれている父は、私の分類によれば「権威主義的パーソナリティ」にピッタリの父親なのである。つまり村本氏は、私が「悪い父性」の一つとして挙げている「権威主義的パーソナリティ」を持ってきて、私が理想としている「立派な父」だとこじつけ、それが娘の心に葛藤を生み出していると言って「理想の父」を貶めようとするのである。

 これは理解できていないための間違いではない。彼女の知的能力は相当なものである。普通の心理状態で読めば、この読み間違いは簡単に認識できるはずである。では、何故こんな間違いをしでかすのか。それは私の「理想」にケチをつけたいという心理が優越しているからである。「理想」どおりの父親は、じつはこんなに問題だと言いたい心理が先走ってしまうので、公正な理解ができなくなってしまうのである。

 このような心理状態こそ、真の父性が欠けて育った者の特徴なのである。

 

村本氏が提唱する「支え・導き機能」とは何か

 村本氏は「神話としての父性」を否定した上で、しかしそれに代わるものが必要だと感じているようである。それに代わるものとは、「支え・導き機能」だそうだ。

 

 父が「母」になるだけではなく、父としての機能を果たす

 

ことは必要だと言っている。どうも村本氏は、「父性」という言葉は嫌いだけれども、「父性」の内実は必要だと思っているらしい。その証拠には、彼女が「父性」の代わりに提唱する「支え・導き機能」とは、すべて私が「父性」の概念として述べていることばかりである。すなわち、

 

 モラルを教える父、経済的に支える父、モデルとなる父の部分になるが、社会的経済的保護、指示する、方向づける、教え導く、価値観の枠組みを与える、律する、自立を促進する、意味の伝達、ルールや規範を教える(p.180)

 

 これらは、私が言っていることをそっくりそのまま真似たと言えるほどに同じである。(唯一違う点は「経済的に支える父」「経済的社会的保護」を入れているところである。この項目を入れたところに権威主義的な父の呪縛から逃れられない特徴が象徴的に表われている。)

 彼女は私の言っていることとまったく同じことを、素直に教わったとか、『父性の復権』に書いてあるとおりとか言わないで、自分のオリジナルであるかのように書く。

 彼女は「あとがき」の最後に正直にこう書いている。

 

 ふりかえれば長いあいだ、私は父と母、あるいは父なるものと母なるものをはっきり分ける考え方をしてこなかったような気がする。男と女という役割分担そのものに、あまり馴染みがなかったからかもしれない。(p.260)

 

 馴染みがなかったことについて、『父性の復権』に対抗して何か急ごしらえで言わなければならなくなって、別の言葉は考え出したが、内容は同じことしか思い付かない。それで同じことを羅列するにとどまった。

 ケチをつけておいて、内容はちゃっかりいただく。斉藤学とまったく同じやり方である。性別役割分担を否定しておきながら、「父の責任が問われている」と書く。自分の支離滅裂ぶりを意識していない分、始末が悪い。

 矛盾と言えば、彼女はこう書いている。

 

 父としての権威にこだわったり、がむしゃらに頑張らなくても、ごく自然な関わりができるはずなのだ。理想的な父でなくても、ありのままの父でいいのだと思う。(p.200)

 

 「ありのままの父」とは、「友達パパ」「子どもと同じ目線」「子どもの人権を認めよ」系統の言い方である。彼女は、今までの流行の考えをそのまま無反省に述べているところと、新しく私から学んだ「父性」の内容とが、矛盾しているという意識がない。つまり、「ありのままの父」で、「支え・導き機能」を果たすことができるのかという問題意識がかけらもない。本当に「支え・導き機能」について考えつくした上で出していない証拠である。手軽に剽窃したものは、使いこなすことは難しい。自分のものになっていないからである。

 いたずらに「父性」とか「権威」という言葉に反発しないで、その意味するところをもっと素直に学びたまえ。学んだことを素直に認めたまえ。それができないうちは、いつまでたっても権威主義的な父の呪縛から逃れられないであろう。