4年生の大学通算成績 2002年版
こちらの勉強不足で一部紹介できない選手や紹介内容が浅い選手もいるかと思います。もし、情報を知っていらっしゃる方がおりましたら、是非是非教えてください。みなさんでこのページを作っていきましょう!
2003年の選手はこちら・・・平山、鶴井、徳、西川、大坊、山崎、阪長、岩村、福井、出口、
山崎、篠原、羽田野、北原、福田、黒坂
2001年の選手はこちら・・・佐藤、川島、持永、石川、今村、内田、土屋
2000年の選手はこちら・・・小島、上野、石田拓、石田泰、三好、法村、戸川、佐藤
99年の選手はこちら・・・・矢島、水谷、斎藤、千葉、
高石、坂本、国領、岡野、関本、出井、川平、野口、梶原
2002年卒業の選手
投手
多田野 数人 背番号11 右投げ右打ち
56試合 20勝14敗 356 2/3イニング 自責点60 防御率 1.51
奪三振334(通算5位)
2001年春 ベストナイン(10試合4勝3敗69回1/3 自責点7 防御率0.91
立教のみならず六大学を代表する投手となった。左のエース和田(早稲田)、右のエース多田野と評される。カクカクっとした変則フォームから140K台の直球とキレ抜群のスライダーで相手をねじ伏せる投手。学年と共に球種も増え、シュートやフォークも投げるようになり投球の幅が広がる。その投球フォームから繰り出されるボールは魔法使いが火の玉を投げつけるかのよう(なんのこっちゃ)。変則フォームも、改良を重ね、次第にスムーズなものとなっていった。まさに立教を4年間支えてきた大投手。
99年入部し、春からチョコチョコ起用される。(早稲田戦では先発に起用される)。秋には現在巨人にいる上野(当時3年)と2本柱として大活躍。結果優勝に大きく貢献する。このシーズンの対早稲田2回戦、現在ヤクルトの鎌田との投げ合いは壮絶だった。神宮大会(トーナメント)では、準々決勝、準決勝ともに1年生の多田野が先発を任されていた。99年以降も打撃が今ひとつのなか、投手陣の柱となり、チームをAクラスに導いていった。速球の威力、スライダーの驚異的なキレもさることながら、小さい頃にやっていた相撲を通じて体が強かったこと、「大学生らしい野球を」ということで、各打者のデータを分析し、それに基づいた頭脳的なピッチングが、多田野の好投を支えていたらしい。ライバルの早稲田和田、慶應長田、法政土居に比べ勝利数は少ないが、貧打と形容されることの多い立教攻撃陣を背負っての通算20勝は数字以上に大きな価値をもっている。
甲子園ではチームの同僚、上重に負けている。この二人が立教投手陣を支え、10勝して優勝する日を立教関係者は夢見ていたが、上重が調子の良いときには多田野が怪我、多田野が万全なときには上重がピリっとしない、で、この2本柱でシーズンを通して戦う姿自体、2001年春に少し見られた程度だった(このシーズン、上重は安定感を欠き、5回前後で降板し、速水や多田野のリリーフを受けることが多く、2本柱というにはやや物足りなかった)。このシーズンは、最後の最後まで法政と優勝を争い、多田野も先発にリリーフにフル回転したもののあと一歩及ばなかった(多田野はベストナイン受賞)。2002年も秋のシーズンに先発、リリーフとフル回転だったが、力及ばなかった。ともあれ、4年間8シーズンの間、多田野と上重あわせて10勝で優勝というシーンを見られなかったことは残念である。
多田野の良さはピッチングはもちろん、守備のうまさもあり、バント処理などのフィールディングなど実にすばらしい。テキパキと俊敏に動く。牽制もうまく、異常に早い。ランナーはリードがとりにくい。まさに投手として非のうちどころがない選手である。また、人間的にも好青年と評判が良い人物だとうわさされている。
立教の、六大学の右のエースということで、リーグ戦や全日本戦など、試合に数多く登板し、結果としてヒジや肩に爆弾を抱えることになる。特にヒジを悪くし、シーズンを棒に振ることが2回あるほどで(2000年秋・・・2試合1 2/3イニング、2001年秋・・・3試合22 1/3イニング0勝1敗)、それ以降の3年次、4年次のシーズンは怪我との戦いでもあった。2002年秋ラストシーズンは、立教優勝の可能性を最後まで追求し、針をうっての登板だったと聞いている。しかしその奮闘むなしく、優勝を逃した。毎シーズンとまではいわないまでも、毎年優勝戦線に残り、しかしあと一歩及ばないということが多かった。
多田野の最後の登板は、立教の優勝への望みと生き残りをかけた早稲田との大一番だった。度重なる連投に加え、前日も早稲田和田との投げあい、疲労がたまり、調子自体良くないまま、マウンドに向かった多田野は相手打線に信じられないほど打たれていた。ついに延長満塁の大ピンチをむかえ、最後はサヨナラ押し出しデッドボールだった。それが彼の立教野球部でのラストボールだった。「あっ!」という感じで、マウンドにうずくまってしまった多田野の最後。これだけ立教を引っ張ってきた投手が、立教に優勝の夢を与え続けた男の最後があのデッドボールとは。野球は、勝負はなんと非情なものかと感じてしまう。良くて「Aクラス争い」だった立教を、「優勝争い」に当然のように参戦するチームに変える原動力となった彼の4年間の功労を見れば、胴上げしたい選手であった。
本当にお疲れ様でした。今後の活躍をお祈りしています。
速水 真哉 背番号13 左投げ左打ち
29試合 2勝5敗 55 1/3イニング 自責点28 防御率4.56
貴重な左腕として、1年次から短いイニングを任せられることが多かったセットアッパー。入学時には多田野、上重とともに期待の新戦力トリオとされていた。セットポジションから130K前後の直球に変化球(スライダーとチェンジアップかな?よくわかりません)のコンビネーションで抑えていった。2001年春では上重のあとを受けて登板することが多く、ゲームを組み立てていき、登板イニングは10イニング程だったが2勝を挙げている(無敗。防御率1.74)。球のキレで勝負をするタイプのようだ。派手さはないものの淡々と投げ、抑えていくピッチャー。また、打撃よく、足もなかなか速い。2002年秋には早稲田との大一番で小林のあとをうけ、2番手投手として登板。ホームランを1つ浴びたものの、強力打線をよく抑えていった。ラストゲームの法政2回戦では先発を任され、勝敗には無関係だったが、好投を見せた。
上重 聡 背番号15 右投げ右打ち
30試合 9勝 3敗 105回 自責点27 防御率2.31
2001年秋 ベストナイン特別賞
(7試合 5勝 2敗 49回1/3 自責点13 防御率2.37)
東大戦で完全試合達成。
打者上重 42試合 72打数 20安打 打率。278 本塁打0 打点7 (2塁打4)
球速は130K半ばから後半ぐらいと、それほど速いというイメージはないが、テンポのよさとマウンド度胸で相手を抑え、味方打線の援護を待つ投手。入学当初はもちろん投手として、だったが、途中、野手に転向したり、投手に戻ったり、と神宮のペルドモと呼ばれてはいないと思うが、二刀流をした。2002年には主将を務める。
1999年、もっとも期待された立教の新戦力だった。西武松坂と死闘を演じた投手、ということで世間の注目を一身に集めたし、また松坂と同等の力を持つ選手としてとらえられていた。99年春は、まだ1年生ということもあり、また、当時立教には矢島(4年)、上野(現巨人、当時3年)という柱がいたため、出番はほとんどなかったが、登板のときは拍手が起こるなど球場がざわめいたものだった。入学当初は20勝をあげられる投手になりたいと語っていたものの、秋には勝ち星どころか登板機会もなく、1年目は失意の年となる。折りしも、同学年の多田野が活躍し、優勝に貢献していたため、出遅れた感が否めなかった。それどころか、ボールがシュート回転するという癖があったらしく、それがもとで投手から野手への転向も余儀なくされることとなる。2000年春も多田野が相変わらずの活躍をみせ、4勝をあげるなか、外野を守っていた上重の心境はどんなものだったのだろうか?シーズン後半に入り、外野手として先発で名を連ねることがしばしばでクリーンアップ(時には4番も)を任されていた。それでも、再び投手として復活し、2000年秋には上野と上重の2本柱で投手陣が回転。5勝を上げ、さらに東大戦では完全試合まで達成する。六大学野球史上2人目の大快挙であり、上重聡の名前は六大学野球の歴史に刻まれることとなった。一度、投手をあきらめさせられた男がつかんだ、投手の最高の栄誉。どん底からの生還だった。
上野が卒業後の2001年、多田野、上重の2本柱が期待され、特に上重の飛躍が予想されたが、今ひとつ伸び悩んだ。完全試合という世間の注目がありすぎて集中しづらい環境にあったのか?春は5回前後から速水のリリーフをあおぐことが多く、結局2勝どまりだった。秋には怪我もあり、また、同学年の小林弘典が力をメキメキとつけてきて、登板機会自体も少なくなった(2試合13イニング1勝1敗 防3.46)。1戦多田野、2戦小林、という構図ができあがり、試合に出ることがめっきりと少なくなった2002年だったが、主将としてチームをよくまとめ、春、秋ともにAクラスでシーズンを終えている。2002年、最終節の法政1回戦でのリリーフが最後のマウンドとなる。球速はそれほどでもなかったそうだが(130K前後と聞いている)、テンポの良さは健在で、好投をみせたという。(ちなみに最後の打席は翌日の法政2回戦。チャンスに代打で登場し、ショートゴロだった)
過去の立教の投手をみれば9勝は立派だが、周りの期待が異常に高すぎただけに、この通算成績は今ひとつという感がある。そうはいっても、完全試合など、大騒ぎしたくなるドラマを常に感じさせる、華のある選手だった。最近の六大学野球では一番有名で、大人気の選手だった。
小林 弘典 背番号18 右投げ右打ち
22試合 5勝6敗 80 1/3イニング 自責点32 防御率3.59
高校時代は県大会1回戦で敗れたこともあるという無名の選手だったそうだが、次第次第に頭角を現わし、4年では多田野につぐ二番手投手として成長を果たす。「今日は多田野だった。明日の立教の先発は?」となると「小林」と、名前が最初にでてくるようになる。伝えられるところによれば、努力一筋でここまでこれた、「学生野球の手本」と斎藤監督に言わしめた選手らしい。なんとなく上野(2000年卒現巨人)や多田野が入ってくる前の立教のエースを彷彿とさせる空気を持っている。決して体格のがっちりした、雰囲気のある選手ではないものの、全身を使って気持ちのこもったボールをミットめがけて投げた。特徴はなんといっても右ひざがマウンドの土にべったりとくっつくぐらいの低い姿勢から、真上から勢いよくふりおろされて、しなる右腕だ。とにかく本当に右腕がよくしなり、そのフォームは基本をつきつめたというか、見ていてすばらしさを感じるものである。球速はMAXで138Kぐらいだったが、実際にはもっと速く感じそうで、威力もありそうだった。スピードガンをみて「もっと球速はでてるはずだ!!」という印象だ。また、本人の弁によれば「球種の多さが武器」とのこと。とにかく、見るたびに投球がよくなっていて、常に進歩している気がする選手だった。
飛躍の土台となったのが2001年秋だった。怪我等で主力投手がピリッとしないなか、10試合に登板し、チーム最長の29イニングマウンドを守っていった(10試合1勝3敗防御率4.55)。その経験を活かしたか、2002年春には2勝(2敗、防3.26)をあげるなど、とどまらない成長をみせていった。2002年秋は多田野の登板機会が多かったが、任される試合は好投し(早稲田戦はツイていなかったが)、2勝で負けなし(防御率2.25)だった。どこかのスポーツ紙にCランクながらもドラフト候補に名前がでるような選手にもなった。大学では常に上昇していった。どこまで上昇するのか、これからも野球を続けていってほしいなあと思う選手だ。
野手
松倉 良介 背番号1 右投げ右打ち 内野手(ファースト)
87試合 286打数 72安打 本塁打8 打点38 打率.252
2001年春 ベストナイン
(40打数13安打 打率.325 本塁打1 打点6)
2002年秋 ベストナイン
(47打数15安打 打率.319 本塁打4(リーグ1位) 打点13(リーグ2位))
立教の頼れる主砲。2002年秋、最後のシーズンに大ブレイク。勝負強さが光り、4ホームラン 打点13の活躍をみせる。
甲子園出場の経験がないものの、99年にスラッガーとして入部。春には出番がなかったものの、秋、実力主義を強烈に推し進めた手島監督(当時。このシーズンは彼の任期最後のシーズンでもあった。)に見出され、5番を任される。確実性は今ひとつだったが、長打がある怖い存在で、現在ヤクルトで活躍している藤井(早稲田)からホームランも放っている。あれは見事な当たりだった。
期待された2年次だったが、春は32打数8安打、秋にいたっては30打数5安打と、精彩を欠いた。しかし、3年生となった2001年春にはベストナインに選ばれる活躍をみせ、久々にホームランも放ったことから飛躍が期待された。だが、秋には49打数12安打(245)ホームラン1本と、どこか殻がやぶれないような感のある成績にとどまった。4年になっても春はホームラン1つあるものの45打数8安打と、どうもその高い潜在能力が成績に反映されなかった。
しかし、右の本格長距離砲はこの秋突如、覚醒した。このシーズンは、立教の主役は投の多田野、打の松倉だった。慶應戦では好投長田から均衡破るきっかけをつくった内野安打を放ち、明治戦では2本のホームランを放つ。圧巻は早稲田戦。この日負ければ優勝がなくなるという大事な試合で、同点に追いつかれ、勢いが衰えてきた立教打線にあって、流れを再び引き寄せる勝ち越しソロアーチを放つ。狙い打ったような勢いで、滞空時間の長い、きれいな弧を描いたアーチだった。。残念ながら試合には敗れてしまったものの、たしかに誰もが松倉=欲しいときに打てるホームランバッター、という目で彼をみたはずだ。(続く法政戦でもアーチをかけ、今シーズンは4本塁打でホームラン王となった。)また、この秋は、守備(決してうまくはないのだが)にしても走塁(どちらかといえば遅いが)にしても気迫を感じ、勝つぞ、多田野を盛り立てるぞ、という意気込みがこわいほど伝わってきた。最後の打席はランナー1塁において、1点ビハインドで迎えた。サインだったか送りバント。しかし失敗だった。スラッガーの最後
の打席としては冴えないが、その前の打席も似たような場面で、強攻し、ゲッツーだったので仕方ないか・・・。
まだまだその可能性に思わず期待してしまうこの選手が、ひそかにドラフト指名されるのではないかとも思ったが、そうはなかなかいかないもんですね。今後、野球をつづけるのだろうか・・・?続けて欲しいなあ。
和田 隼人 背番号5 右投げ右打ち 捕手、内野手(サード)、外野手(レフト)
79試合 234打数 51安打 本塁打3 打点25 打率.218
2001年春 ベストナイン
(44打数12安打 打率.273 本塁打2(リーグ1位) 打点10(リーグ1位))
智弁学園出身の強打者。当初はキャッチャーとして期待されていたが、1つ上に今村がすでにキャッチャーとして、また打撃ではクリーンアップで活躍していたために、その出番はなかなか与えられず、松倉や清水、渡辺よりもそのデビューは遅い。結果としてサードにコンバートされることになる。非常にがっちりとした体格でパワーヒッターの雰囲気をかもし出す選手であり、斎藤監督からは「こだわりの4番」として大きな期待が寄せられていた。
斎藤監督就任の2000年(和田は2年生)から試合にたびたび出場し、ときには4番も任されるが、2000年のシーズンは全く結果を残すことができず、打席には数多く立ったものの、通算打率が1割に満たなかった。それでも大きな期待はかけ続けられ、2001年は4番として起用され、春にはベストナインに選ばれ、優勝争いの原動力となる。打点、本塁打ともに同点ながらリーグトップの成績を残し、斎藤監督の期待に見事、応えたのだった。だが、輝きはこのシーズンを最後に失ってしまい、どうしても結果がついてこなかった。打撃にアラがあり、続けて結果を残すことができず、そのパワーも十分に発揮できなかった。ラストシーズンも序盤こそ調子が良かったが、シーズンが進むにつれ、調子をおとし、大きな結果を残すことはできなかった。
2002年秋には、優勝をかけた早稲田戦で、痛恨のプレーをし、追いつかれるきっかけをつくってしまう。送球後の茫然としたあの姿は忘れられない。あのとき和田のまわりだけ、確実に時が止まっていた。試合が延長になだれこみ、負けてしまったあの試合後、礼が終わったあとも、グランドにひとり、両手を両ヒザにおいてうなだれていた。思えば、追い上げムードの立教の中、その波にイマイチのれないという、苦悩のシーズンだったのかもしれない。秋のシーズンでは、中盤以降、明らかに野球を楽しくなさそうにプレーをしているようにみえた。それが4番サードの重圧だろうか??
優勝の望みの消えた、法政戦では斎藤監督はついに「こだわり」を捨て、和田を4番から降ろす(途中交代)。第2戦からはスタメンにも落ちた。いつもの4番には松倉が、いつものサードには2年生ホープ多幡がいた。グランドはじのブルペンで、レガースをつけてキャッチをする大柄な背番号5はたしかに見慣れない、寂しい風景だった。それでも赤いリストバンドは太陽に照らされきれいな光を放っていた。長く4番をはってきた男の最後の登場は、残りイニングで打席がなかなかまわってこない打順におかれた、守備要員としてだった。高校時代から親しんできたキャッチャーとして神宮のラストゲーム。来年以降、チームを盛り立てるだろう1年左腕平田と、3年技巧派の徳のボールをつかんで、神宮をあとにした。
渡辺 克郎 背番号7 右投げ左打ち 内野手(ショート、セカンド)
86試合 228打数35安打 本塁打0 打点13 打率.154
確実な守備と足の速さが特徴のつなぎ役の小柄な選手。1年生から2番ショートで試合に出場。15犠打で、チームの優勝に貢献する。4年間、立教内野陣の要だった。
バッティングは今ひとつだったが、選球眼は特筆に価する。例えばこの秋は30打数1安打と全く精彩を欠いた打撃成績だが、四球の数は実に9つにも及ぶ。つまり、打率は。033だが、出塁率となると。250を超えるのだ。規定打席に達している過去のシーズンを振り返ると、四死球の数はこの春は3つだが、2001年秋は5、春には実に13という成績だ。これは、出塁するという他に、相手投手に球数を多く放らせるという効果もあり、地味ながら相手投手にプレッシャーをかけていたといえる。その意味で、試合に出場しながらも陰で立教を支えてきた選手といっても差し支えないだろう。立教の好成績の陰に渡辺あり、である。
また不思議と勝負強いことも特徴で、99年には延長11回に勝ち越しのタイムリー、2001年春には、優勝のかかった法政戦で、サヨナラヒットを放っている。この秋の最終戦、法政戦で、立教は9回ツーアウトから劇的な3ベースで試合をひっくり返したが、その3ベースも、粘ってつかんだ渡辺の四球が呼び込んだものだった。土壇場の集中力はどの選手にも負けなかった。数字や風貌だけでは表われない強さを持っていた。
守り、選球眼、犠打、足・・・。派手な武器を持たない、目立たないつなぎ役だが、ここぞというときに活躍する奥ゆかしい(?)選手だった。
清水 智寛 背番号8 右投げ右打ち 外野手(ライト)
51試合147打数31安打 本塁打3 打点15 打率.212
上背のある、いかにもホームランバターの雰囲気をかもし出す選手。1年生秋から試合に出場し、2本のホームランを放っている。続く2000年春にもホームランを放ち、隠れたスラッガーともいわれ、4番に座ることもあった。しかし、確実性に欠け、また守備が不安定だったこともあり、徐々に出場機会が減っていき、3年生では数えるほど、4年生春に至っては出場すらなかった(怪我をしていたのだろうか??)。この秋のシーズンにはレギュラーに復帰し、スタメンに名を連ねることとなるが、守りの不安からか、途中交代も目立った。しかし、バットにボールがあたった瞬間はとても期待してしまう選手だったことも事実。どこか、97年卒業の長島大輔(一茂ではない)に通ずるところがあった。(わかるかな〜・・・)
神宮は未完の大器の完成を許さなかった。
荒木 拓人 背番号27 右投げ右打ち 外野手(レフト、センター)
65試合158打数34安打 本塁打0 打点10 打率.215
俊足好守巧打の選手。3年生(2001年)に主に活躍。渡辺と1,2番コンビでチャンスをつくっていった。3年秋には3割をマークするも、4年春には伸び悩んだ。秋になると、多幡(2年)、出口(3年)のほか、清水の復活や阪長(3年)の台頭などもあり、外野手の定位置争いが激化し、出場機会が減っていく。主に守備固めとして使われていた。
立教野球部掲示板には、荒木くんはどうしたの?(どうして試合に出ないの?)という書き込みが多数あり、その存在感や野球センスは多くの人に認められていた。
杉野 健 背番号36 右投げ左打ち 外野手(レフト ライト)
17試合 21打数2安打 打率.095
主に2001年春季リーグで登場。スタメンや途中交代を行き来した。(すいません。よく知らないんです)
**上山隆之様より情報提供をいただきました。ありがとうございます!(細かい文末表現等を一部変えました)
立教高校時代は4番を任された選手で、大学でもチーム一の筋肉マンだったそうです。 しかし同じ学年に、荒木、清水、下級生に多幡、阪長、出口などが居たため、4年生では出場機会がなかったが、3年生春のリーグ戦(2001春)では多く出場し最終の雨の中の法政(勝てば優勝)の試合で敗れ、試合終了後のスタンドへの挨拶の時に号泣していたのが印象的だった。
大学選手では珍しく頭を坊主に丸めたガッツ溢れる選手だった。
榊原 憲 背番号9 右投げ左打ち 内野手(ファースト)
7試合 9打数
主に2001年春季リーグで代打などで出場。勝ったほうが優勝という緊迫の法政戦では、初スタメン5番に起用される。
深谷 恭行 外野手(レフト)
14試合24打数4安打
2001年春季リーグにスタメンで起用されていたが、途中交代されることがしばしばだった。
4年になってからは試合出場がない。