4年生の大学通算成績   2003年版完成!

 ここでは、神宮球場ガイドブックなどには載ることがない、卒業した(する)4年生の大学通算成績を試算し、公開しようというものです。ひょっとしたら一部間違いがあるかもしれませんが、なにかございましたら、教えてください。データだけ載せるのも味気ないので、コメントをつけました。まあ、もう大学野球をやらない方たちなので、なるべく茶化さずに書きたいと思ってはいるのですが、いつもながら表現は他意のないものでございます。また、こちらの勉強不足で一部紹介できない選手や紹介内容が浅い選手もいるかと思います。もし、情報を知っていらっしゃる方がおりましたら、是非是非教えてください。みなさんでこのページを作っていきましょう!
 2003年に4年生だった選手について、随時更新していきたいと思っています。この代は公式戦に出場した選手が比較的少なめなので、一部、名前のみの紹介にとどまっている場合があります。

  2002年の選手はこちら ・・・多田野、速水、上重、小林弘、松倉、和田、渡辺、清水、荒木、杉野、榊原
 2001年の選手はこちら・・・佐藤、川島、持永、石川、今村、内田、土屋 
 2000年の選手はこちら・・・小島、上野、石田拓、石田泰、三好、法村、戸川、佐藤
  99年の選手はこちら・・・・矢島、水谷、斎藤、千葉、
               高石、坂本、国領、岡野、関本、出井、川平、野口、梶原


 
2003年度卒業の選手


 投手
 
 
平山 智章  背番号1 右投げ右打ち 
   3試合 
0勝0敗 4イニング 自責点0 防御率 0  
   
   
 緩急自在の投手。球速は直球でも120後半から130Kが最速であったが、120Kのスライダーと90K台のスローカーブでアクセントをつけ、相手打者を翻弄した。とかく球速だけがクローズアップされがちな現代野球において、緩急の差で勝負した姿はピッチングの駆け引きの妙を思い起こさせた。4年生の春(2003春)の開幕法政戦で神宮初登場。人を喰ったようなスローカーブで、法政打線を手玉にとったのは爽快の一言。その投球術は神宮で「おおっ!」という歓声をあげさせた。
 法政2回戦ではピリッとせず、その後は登場がなかったが、秋の最終戦にリリーフで2イニング放る。好調東大打線を無失点に抑え、有終の美を飾った。もっと、神宮での投球をみたかった投手。 
 


 鶴井 一樹  背番号17 右投げ右打ち
        8試合 2勝0敗 12 2/3イニング 自責点5 防御率3.55
  
 130K半ばの直球に変化球を加えて、打たせて取るオーソドックスなタイプの投手。2年生だった2001年秋のシーズンに2勝をあげた。このシーズンは主力の多田野や上重が序盤は活躍したが、怪我でリタイアし、投手陣が火の車だった。そんななか試合に出場したのがこの鶴井だった。リリーフで登場し、7試合、約12イニング投げた。そのうちの2試合、早稲田戦で1イニング、東大戦で3イニングでそれぞれ1勝ずつあげた。その後が期待されたが、なかなか試合出場に恵まれず、早4年生となる。実績のある上級生が卒業する中、鶴井の2勝はチームの最多勝となった。最後の登場は4年春の慶應戦。ピンチを招き、タイムリーを許す不本意な結果となってしまった。もっと出てくる投手と思っていただけに、その後、挽回の機会がなかったのは残念だった。


 徳 賢治  背番号19 右投げ右打ち 
       10試合 2勝 0敗 16 2/3回 自責点3 防御率1.62
      
 
伝説のスローカーブを持つセットアッパー。今でこそ(2003年現在)、立教投手陣には上背のある本格派がズラリとそろっているが、つい数年前はこの手の変則派が多かったよなあ、となつかしさを感じる投手。体格も決して小さくないのに、なんとなく小さく見えてしまうのが不思議。
 
 やや下手気味のサイドから変化球主体で投球を組み立てた。球種はよくわからなかったが、100K前後が多く、時折投げる120K半ばの直球がやけに速く感じられた。そして、極めつけは必殺のスローカーブ。やまなりで、ふわ〜んという軌道を描くボールは70K台をマークしたという未確認情報があった。それ以降、徳のスローカーブは伝説となり、いつそのスローカーブが出てくるか、一部で話題となった。なお、管理人が確認したときは90Kだったが、本当はもっと遅いのではないか、というほどゆっくりとしたボールだった。案の定、「90も出てないだろ・・・」という声が周りできこえてきた。
 主に登場したのは3年次、2002年の秋。本格派多田野、努力人小林弘、人気の上重、いぶし銀速水、という実力派がそろう投手陣のなかで、目先を変えることのできる貴重な存在として、ワンポイント的に起用された。3試合で約5イニングを無失点だった。4年になった2003年春は登場が少なく、ラストシーズンもワンポイント的な起用であまり目立たなかった。だが最終節東大戦で大活躍。1回戦では東大の反撃ムードを断ち切る見事なロングリリーフをみせ、2回戦でも後輩投手が招いたピンチにストッパー的に登場し、ピシャリと抑え、一気に2つの勝ち星をマークした。最終戦、最後の打者を打ち取った徳はマウンド上で、スタンドからでもわかるほどの満面の笑みで、控えめに両手をあげてガッツポーズ。照れがあったのか、その動作は速く、軽いものだったが、それがかえってナチュラルでうれしそうな様子がよく伝わってきた。(4試合10 1/3イニング 1失点 2勝0敗)。最後の最後で神宮のマウンドをこれでもかとばかりに堪能し、まさに有終の美を飾った投手である。
 
 ブルペンからベンチへの移動中、スタンドにきている立教野球部関係者とも笑顔でやりとりしていたのが印象的で、応援席では「とくさん」の愛称で親しまれていた。


 西川 昌宏 背番号21 右投げ右打ち
  2試合 0勝0敗 4 1/3イニング 自責点0 防御率0
  
 アンダースロー投手。彼のいかにも下手投げという投球フォームをみて、徳はアンダーではなくサイドスローだと考えと表記を改めた。4年の2003年春のシーズン、優勝候補(で実際優勝した)早稲田との2回戦で公式戦初登板初先発。秘密兵器だったが、2回にヒットと四球で塁上をにぎわされると、交代させられてしまった。それ以降ずっと登場はなかったが、秋のシーズン最終戦に先発。本格派に強い好調東大打線を相手に、シンカーなどで揺さぶりをかけて、攻撃をかわした。3イニングスを無難に投げきり、4年間の大学野球の集大成とした。


 大坊 聡  右投げ右打ち
  出場なし
  
 2年生の秋の新人戦で登板経験があった。公式戦は出場なし。高校時代はドラフト候補にもあがったらしい。


山崎 聡介  右投げ右打ち
  出場なし
  
 よく知りません。すいません。


野手

 
阪長 友仁 背番号10 右投げ左右打ち 外野手(センター)
  51試合 88打数 20安打 本塁打0 打点1 打率.227
  

 2003年度チームの主将。
 新潟明訓高校で甲子園に出場し、トップバッターでホームランを放った経験があり、入学当初から非常に期待されていた選手。出来たばかりの当時の立教大学野球部のHPの掲示板には「阪長選手がんばれ」といった書き込みが多かったことを記憶している。経歴、人気ともに抜群であったが、公式試合出場にはなかなか恵まれず、それでも新人戦に出ると「甲子園経験者の阪長選手はやっぱりいい選手」といった評をよくみかけた。練習の虫でガッツあふれていたらしく、それこそが通称「がっさん」の由来といわれている。その豊富な練習量から、3年生の2002年の夏には俊足を活かすため、パンチのある右打席を捨て、左打者に転向。そして、斎藤監督をして「打撃開眼」「イチローのような…」と言わしめ、2002年秋のシーズン開幕は1番センターのレギュラーポジションを奪い取り、リーグ中盤まで出場し続けた(10試合28打数6安打 打率.214)。
 翌年、4年になると主将に就任。惜しいところで優勝を逃していた昨年から、優勝をするには選手の意識改革が必要ということで、攻守交替では全力疾走をかかげ、実行していった。春、秋ともにチームは5位。阪長自身もスタメンと控えの行ったり来たりだったが、秋のシーズンは打撃が好調で23打数9安打 打率.391をマークした。ピンチのときには外野からマウンドに行ったりもし、守備でも目立っていた。

 ラストゲーム終了後、応援席に訪れ、応援団の舞台に立ち、あいさつを行なった。あまりよく聞こえなかったが、熱い想いが伝わってきたひとコマだった。


 徳田 乾 背番号27 右投げ右打ち 捕手
   46試合 99打数 12安打 本塁打0 打点2 打率.121
  

 高校時代はチームのキャプテンをつとめ、甲子園にも出場した。攻守に期待されて立教に入学してからの4年間は、打撃は物足りなかったが、守りでは期待通りの結果を残した。管理人はこんなHPを作っているが実は野球にあまり詳しくなく、特にキャッチャーのリードというものはまるでわからない。そこで、いろいろなところから情報を集めようとするのだが、それによると、2002年度卒業の通算20勝の多田野などの好投の陰に徳田あり、ということらしい。たしかに2003年秋のシーズンも、若いキャッチャーのミスが目立つ中、徳田のキャッチングは他の選手に比べ割と安心してみることができたし、投手が落ち着かないときは、気遣うような仕草が見られたような気がした。多分。
 打撃は成績こそ残しておらず、特に2002年秋は怪我でリタイアするまでマスクをかぶり続けていたわけだが、27打席(21打数)でヒットがなかった。しかし、その打撃フォームは決して頼りないものではなく、どっしりとした雰囲気があり、大学4年間でここまでの低打率だったのは意外の一言だった。
 
 2003年は若手の台頭か、監督の方針だったかはわからないが、出番が少なく、下級生の高橋泰、鈴木宏、横山、藤村などが起用され、専らブルペンキャッチャーとしての神宮だった。しかし、他の4年生のご多分に漏れず、秋のラストゲーム東大戦ではスタメンで活躍。西川、平山、徳の同学年投手とともにゲームを作った。決して派手ではなく、また傍目からは目立つことのない守りの人だった。

 


 岩村 高志 背番号31 右投げ左打ち 内野手(ショート、セカンド)
       67試合 149打数 32安打 本塁打0 打点8 打率.214


 確実な守備と足の速さが特徴。守りで貢献。野球を知り尽くしているかのような、玄人のようなオーラをかもし出していた。
下級生のころは、ショートには石田泰隆、渡辺といったこれまた守備の達人が常時試合に出場しており、あまり目立つことはなく、試合に出ても、当初はセカンドを守っていた。しかし、のちにショート岩村、渡辺はセカンドにコンバートされ、渡辺卒業の2002年秋まで、鉄壁の2遊間を組んでいた。機敏な動きと正確なグラブさばきは特筆ものだったが、打撃成績は常に2割をきるという成績に甘んじていた。それでも俊足と立教随一のバント技術は光っており、ツーアウト満塁の場面でセーフティーバントを決め、決勝点となる試合もあった。サード前に転がしたり、ファーストとピッチャーの間に転がして、がらあきの1塁にセーフ、というようにバントのバリエーションも豊富だった。内野を抜くのが難しければ、叩きつけて高いバウンドの打球を生み出し。内野安打にするというプレーもあった。このあたりが野球を知り尽くしているオーラが出ていた一因だろう。
 
 最上級生となった2003年は、内野の司令塔として活躍していたが、従来の打撃の弱さが祟り、有留、秋には荒井といった選手達の登場を許してしまった。…が、それでも岩村のいる布陣は不思議な安定感があり、途中からの試合出場も多かった。出場すれば確実な守備に、相手の一瞬のスキをつく走塁で立教を盛り立てた。秋のシーズン、法政戦でシングルヒットをダブルにした走塁は圧巻で、プロ顔負けで神宮を魅了した。また、試合に出ていないときにも1塁ベースコーチで大きな声をあげていたり、四球ででたライバルの後輩有留と握手してみたり、攻守交替の際に多幡にアドバイスしたりと存在感があった。
 最終戦では、内野安打ばかりで課題だったのがうそのような、見事な右中間を破るバッティングをみせている。やや前進守備だった外野に加え、俊足だったことが合わさり、悠々の3ベースヒットとなり、ガッツポーズ。守りの人が最後にみせた派手なスポットライトオンステージに応援席は大盛り上がりだった。
いなくなるととたんに寂しくなってしまうような渋い選手。こんな選手、また出てくるだろうか・・・?
 


 福井 健太 背番号3 右投げ右打ち 外野手(レフト)内野手(セカンド)
       33試合 63打数 15安打 本塁打3 打点10 打率.238

 腕が目立ち、いかにもホームランバッターの雰囲気が漂っている選手。東京六大学野球連盟のHPには様々な記録が記されており、最近では早稲田和田(ダイエー)の奪三振記録や慶應喜多(ロッテ)のシーズン最高打率、法政後藤(西武)や早稲田鳥谷(阪神)の三冠王などが目新しい。立教では、上重の完全試合達成、多田野の奪三振歴代5位などがあるが、実は、この福井も記録保持者なのである。初回先頭打者初球ホームラン、である。3年生で1番セカンドで出場し、その日はHRに始まり、3ベースを含む4打数4安打の大暴れ。強烈なインパクトを残した。その後レギュラー定着に向け、また待望の強打者誕生に期待が高まったが、率を残せず、代打の切り札的存在に甘んじてしまった。しかし、登場すると一発長打への期待が高まり、応援席は燃えた。
 
 2003年春の開幕戦では、立教は法政に対し、リードを許す苦しい展開だったが、代打福井が反撃のムードを更に高める強烈なレフト線への2ベースを放ち、存在感を示した。秋のラストリーグには、スタメンに名を連ねることもしばしば。最大の見せ場はやはり、東大1回戦。この日負ければ連敗新記録達成という不名誉な記録がかかり、重苦しい雰囲気の中、東大がリーグで善戦を続けた牽引者木村から、豪快なスリーランをレフトスタンドへ放ち、序盤のリードへつなげた。なおも中盤には、もう一度レフトスタンドへ持っていき2ホーマー。どうしても勝てないという、長く苦しまされた呪縛から立教野球部を解き放った。「木村のカーブを想定して、カーブを何度も打った」という福井の練習がドンピシャリだったわけだが、勝利への執念が結果になった一瞬だった。


 出口 敏之 背番号16 左投げ左打ち 外野手(レフト)
        42試合113打数29安打 本塁打1 打点10 打率.256
 
 バットコントロールがうまい器用な中距離ヒッター。不思議と期待感を抱かせる選手でもあり、立教野球部のHPでも出口スタメン待望論は強かった。
 それほど目立つ選手ではなくオーラは感じないものの、流して長打が出たり、しぶとく1,2塁間を破ったり、スイングしているのにサード前へのセーフティーバントのような打球で出塁したりと、巧みなバットコントロールでボールに当てていた。最後までしっかりとボールをみている、ということなのかもしれない。そのため、バスターなのに右中間を深々とやぶる3ベースを放っていた記憶もある。
 
 出口の魅力は2ベースや3ベースをコンスタントに狙えるバッティングだ。2年春のシーズンは19打数5安打で2ベース1本、3ベース2本。3年春のシーズンは35打数9安打2ベース2本、3ベース1本、ホームラン1本。3年秋は14打数4安打で2ベース1本、3ベース1本。4年春は31打数10安打で2ベースは1本だったが、2、3年生の18安打のうち2ベースは6本、3ベースは4本、ホームラン1本と約6割が長打なのだ。ミスター2ベースと呼んでもよかったかもしれない。その実績を買われたか、4年春の開幕戦では、スラッガー多幡を退け、堂々の4番をつとめ、4安打の活躍(内野安打も多かったが)を見せた。このシーズンは結果として3割を超える打率をマークしたが、シーズン序盤の勢いが失速し、スタメン落ちを経験するなどで規定打席には達さなかった。
 
 集大成をみせたい秋のシーズンだったが、調子があがらなかったのか試合に出ず、スタンドで観戦する姿すら目撃してしまったが、シーズン後半に出場。ヒット1本を放った。最終の東大戦では、4年生がそれぞれ思い思いに活躍を見せる中、出口だけ彼らしいパフォーマンスをみせることはできなかった。だが、ひとつだけ確実なことは、一般的な知名度では阪長などに劣るが、立教ファンのなかでは、この代で最もメジャーで、最も印象に残っている選手であることは間違いない、ということだ。
 試合前、球場の周りで、選手名鑑の写真の笑顔とは対照的な険しい表情で黙々とアップしている姿は、野球に対する真摯な姿勢が伝わり、印象的だった。


 羽生田 淳 背番号29 右投げ右打ち(両打ち?) 特別要員、内野手 
     出場なし
 
 大型選手。入学当初は両打ちで登録されていたような…。
2000年秋のシーズンの「大学野球」に「長打力はチーム1,2を争う大型ルーキー」と紹介されており、期待されたが、公式戦の出場はなかった。
 4年生になると、3塁ベースコーチなどを務めることもあり、チームに貢献していた。
 


 山崎 智洋 背番号50 右投げ右打ち 学生コーチ、捕手
      出場なし
 聖望学園出身で鳥谷(早稲田→阪神)と同期にあたり、甲子園出場もあるらしい。試合出場はなかった。
4年生になると学生コーチとして、神宮でもよく声を出していた。阪長体制になり、攻守交替は全力疾走が義務付けられたというが。秋のシーズン序盤はあまり全力疾走の姿はみられなかった。それでも山崎は、春も秋もベースコーチボックスに全力疾走で向かっていった。その姿は印象的だった。


 篠原 哲也 外野手
 7試合4打数1安打打点0 打率.250

 上記通算成績はすべて3年春のもの。どんな選手かよく知りません。


 羽田野 祐介 外野手(レフト)
 13試合10打数1安打 打点1 打率.100
  

 1年生の春にすでにリーグ戦を経験しており(1打数0安打)、その後の成長が期待された。2年秋に最多登場、9試合を経験。早稲田戦2回戦では堂々の3番で出場した。新人戦でも3番をつとめるなど、期待が高かった選手だったが。2年秋を最後に公式戦には出てこなかった。


 北原 克治 外野手
 

  出場なし


 福田 浩之 内野手

   出場なし


 黒坂 祐介 内野手  

  出場なし

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