■告知について

 ガン患者。とりわけぼくのような慢性骨髄性白血病の初期症状の患者に対しては、積極的にその病名を告知するべきだと強く思う。患者ははっきりとした病名を知ることによって、自分が受けている治療がどのようなものであるのか、また自分がどのような状態であるのかを自分自身によって調べることができる。病気への正確な知識を、患者は絶対に身につけなければならない。

 ぼくは、病名を知らないが故の苦い体験をしたことがある。

 退院して数ヶ月。ぼくは二週間に一度病院へ行きながら、家では毎日900万単位のインターフェロンによる治療を行っていた。食欲もなく、仕事ができるどころではなかった。毎日、家にこもり、ベッドに横になる毎日を繰り返していた。

 ところが三回目のマルク(骨髄穿刺という検査)で、病状は劇的に改善した。マルクを受けると骨髄、つまり血液の元になる細胞にどれくらいの割合で悪い細胞があるかわかるのだそうだが、最新のマルクの結果、悪い細胞がわずか2%になっていたのだ。入院当初は約8割が悪い細胞だったので、この結果にぼくは希望を持った。毎回受ける血液検査でも、白血球の数は3000前後で、正常値の範囲内を維持している。先生は「とてもよく効いている。これなら注射を減らせるかもしれない」と言った。やった、治るんだ。治るに違いない。

 ぼくは、インターフェロンの量を毎日600万単位に減らすことになり、さらに一ヶ月後にはその量は300万単位に減った。徐々に食欲も回復し、少しずつではあるが気力が沸いてきた。血色もよくなってくるのが、自分でもわかった。

 このとき、ぼくは思ったのである。もうぼくは治ったのではないか。そうだ、そうに違いない。普通の人と血液の状態も全然変わることはない。病院の先生は相変わらず注射を打つように言うけれども、そもそもこのインターフェロンのせいで、ぼくは体調を崩したのだ。それが証拠に、注射の量が減るに従い、体調はよくなっているじゃないか。この注射さえなければ、普通の生活に戻せるかもしれない。そうだ、注射を止めてみよう。それで様子を見て、結果がよければ病気でもなんでもなかったのだ。

 ぼくはもらったインターフェロンを冷蔵庫に入れたままにして、注射を止めてしまった。そして、わくわくしながら次のマルクを受けた。

 果たして結果は凶と出た。悪い細胞は40%に増えていたのである。すぐさま、インターフェロンの量を900万単位に戻すように指示された。先生が「減らすのは失敗だったかなあ」とつぶやくのを、ぼくは内心動揺しながら黙って聞いていた。誤診でもなんでもない、ぼくは間違いなく病気であり、先生の指示に従わなかったことこそ大きな間違いだったのだ。

 数ヶ月前に感じていた希望は吹き飛んだ。注射の量が増えるにつれ、再び食欲がなくなり、気分も滅入ってきた。発熱、倦怠感に加えて、今度は頭髪が抜けはじめた。脱毛はインターフェロンによって顕著にあらわれる副作用のひとつである。これは本当にショックだった。シャンプーをするたびにいつまでもいつまでも髪が抜けた。浴室の排水溝があっという間に自分の髪の毛で埋まって、ぼくは滅入りながら、それを掃除した。寝床につき、翌朝目がさめるとシーツが黒く見えるほど大量の髪の毛が落ちている。手櫛で髪を梳くたびに不自然な量の髪の毛が手にまとわりついた。脱毛がはじまって二週間も経つと、地肌が透けるほど髪が薄くなり、鏡を見るのが苦痛になった。頭髪が抜けることがこれほど気分を落ち込ませるとは思わなかった。

 もし、ぼくがきちんと自分の病名を「慢性骨髄性白血病」とわかっていたなら、そしてその病気がどのようなものか、きちんと理解していたなら、決して注射を止めてみるような無謀なことはしなかっただろう、と今になってみれば思う。慢性骨髄性白血病は化学治療によって、普通の人と変わらない血液状態になることがある。これを血液学的寛解と専門用語では呼ぶ。だが、それは一時的なもので、数年後には急激に病状が悪化し、急性骨髄性白血病と同様の症状が現れ(これを急性転化という)、死に至るのである。化学治療は基本的には時間稼ぎであり、それによって治癒するわけではない。できるだけ急性転化を遅らせることが主眼の治療なのだ。もちろん、これらの知識はそのときにはまったくなかった。

 陰鬱な日々が再びはじまったその頃になって、ようやくぼくは自分がどんな病気なのか、きちんとしたところを知りたいと思った。だが、参考になるような本など手元にはない。パソコンの前に座るのも億劫だったけれど、以前に聞いたことのある「骨髄移植」「白血球増多症」「血液疾患」などのキーワードをもとに、インターネットで検索してみた。その結果は、驚くべきものだった。「白血球増多症」などという病名はどこにもない。自分の症状や、受けている治療と照らし合わせて考えると、一番可能性の高い病名は「白血病」だった。そして、白血病はとてつもなく恐ろしい病気だったのだ。

 次の診察の時に「ぼくは白血病ではないのですか」と先生に聞いた。先生はしばらく考えてから「恐らくそうでしょう」と言った。予想はしていたとは言え、ぼくは驚きを隠せず絶句した。家に帰り、両親にそのことを告げると、両親はあらかじめぼくが白血病である可能性が高いことを、病院から知らされていたという。ぼくの精神状態を考えて、敢えてそのことを告げなかったというのだ。

 両親の配慮を責めることはできなかったけれど、ぼくはもっと早くに告知されるべきだったと思う。たとえ本人に知らせなかったとしても、遅かれ早かれ患者は自分の病気についてわかってくる。むしろ、自分の病気を知らないがゆえに判断を誤ることさえあるのだ。ぼくはまさにその轍を踏んだ。

 自分の病気を知ることで絶望に打ちひしがれるかもしれない。それでも、あえて自分の病気について患者は知るべきだ。敵を知らなければ闘うことはできない。そして、白血病との闘いは長いものなのだ。

 とはいえ、やはりその頃ぼくは絶望のどん底にいた。1997年の年が明けても、心は落ち込むばかりだった。

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