ヤマタノオロチはどこに  

簸 の 河 の 流 れ に 沿 っ て

 

 スサノオが降りたった鳥上山を源とする斐伊川、『出雲国風土記』では出雲の大川と表し「河口より河上の横田村に至るまでの間、五つの郡の百姓、河に便りて居めり」と説明する。さらに河の流れについても「河内・出雲郷を経て北流しさらに折れて西流し神門の水海に入る」と描写し、また「河の両辺は土地豊かに沃え、穀物のみのりたわわに百姓のゆたかな薗」と表現する。

 肥沃な土地をつくりだしたこの河は出雲の母なる河であったが、また洪水を起こす暴れ河としても恐れられていた。その暴れ河は寛永年間におそったたびたびの洪水により向きを東に変えて現在の流れになったと云う。

 スサノオが退治したヤマタノオロチについて『古事記』では「その目は赤いホオズキのようで、身一つに八つの頭八つの尾があり、身に苔や檜や杉が生え、長さは八つの谷八つの丘に渡り、腹は血に爛れている」と書き記し、まるで、たたらに汚され、風雨に暴れる

大河・簸の川のことのように説明するが、この河の流れのほとりには多くの伝説・伝承が残されている。

古代ロマンをさがしてこの河、斐伊川の流れに沿ってくだってみた。

 ひとまたぎの小川であった斐伊川も横田の市街地に入ると、幅も広くなった河となり清流がながれ続けていた。国道三一四号線に入り細越峠の登りにかかるころには、河の流れは三成ダムによる緩やかな流れとなっていたが道は川筋から離れ、河のながれははるか下方に隠れていった。峠を下り切ったところで再び河の流れを目にした。安来・広瀬からくる国道四三二号線と合流し、斐伊の流れに沿ってどんどんと下る。

 大穴持命が「ここは大きからず小さからず、にたしき(豊潤な)ところ」といったので仁多となづけたと伝えられる仁多町、その中心部へと入るころには、ワニの恋物語・鬼の舌震の中を流れてきた大馬木川と合流し、斐伊川の水量も多くなり、大河の名に恥じない堂々   とした流れが目についた。右に左にと橋を渡り、足下に流れを見ながら道は進む。

 アジスキタカヒコが淋浴したという聖なる水沼「御澤の水沼」への入り口三沢尻を越えたあたりで国道に別れを告げ、旧道へと入った。車がやっと通れる川筋の細い道だ。河は曲りくねり蛇行して進む。あるときは河すれすれに、あるときは川岸の高い所へと道はつけられていた。絶壁が迫り来る渓谷を走りぬけながらやっとたどりついたのが『風土記』の仁多郡神社列記の最後に記されている石壺社、今は木次町平田の石壺神社だった。

 

 私がたずねた時は橋脚改良工事のためか建物は取り壊され、境内はきれいさっぱりと整地されており、社は対岸の公民館横の仮宮に遷座されていた。境内からみると斐伊の流れの中に大きな岩が立っており、その岩の下にはいかにも石壺を感じさせる淵が見えた。

 

菅谷の大杉(葦鹿社・あしかのやしろ  飯石郡吉田村菅谷

 ここから車を再び国道へ戻し、発電所を横目に見ながらどんどんと進み、吉田村深野の集落へ出た。ここでも『風土記』記載の深野社に参拝したあと、前から気になっていた菅谷の大杉を探して道をそれ吉田村の菅谷へと車を進めた。

 『風土記』記載の葦鹿社は加藤義成氏によれば、出雲風土記抄に「同郷吉田村須我谷大明神なり」とあって、天御中主神を祀っていたが、今は神社はなく、田圃の中の大杉を祀っていると紹介されており、神社がなく大杉そのものが社になっていることに興をそそられていたからだった。神籬としての大木はよく見かけるのだが、大木そのものが社というのはこれまでの私が訪ねたところではほとんどなかったからである。

 菅谷高殿山内タタラの建物を見学したあと探し歩いたがどうしても見つからず、半分あきらめながら畑仕事の人に聞いたがそれでもわからなかった。ところがその女性が親切にもお年寄りに問い合わせて下さり、やっと訪ねることができた。ここでも出雲人の親切さをあらためて感じた。

 

 たずねた菅谷の大杉はいまはなくなっていたが、その跡には神石がおかれ柵に囲まれて静かに祀られていた。参道だったと思える畔道には昔の名残りか古い石灯籠がおかれ、往時をしのばせていた。吉田村吉田の兎比神社の由来には、「古典 出雲風土記 に兎比社 多加社 葦鹿社 と明記されているのは即ちこの神社である」と書かれていた。

 

スサノオも浴びた?薬湯 出雲湯村温泉  飯石郡吉田村・大原郡木次町

 斐伊川に戻り出雲湯村温泉をめざした。湯村温泉は漆仁の薬湯と『風土記』ではいう。漆仁の川の辺に薬湯あり、「一たび浴すればすなわち身体やわらぎ、再びすすげばすなわち万病消える。男も女も老いも小きも夜昼やまずつらなり往来いて、験を得ずということはなし」とこの温泉を賛美している。  

 『風土記』では意宇郡忌部神戸の条でも玉造温泉の賑わいを書き記しており、古代出雲人も現代の我々と同じように温泉で遊び、明日への活力を生み出していたことがわかる。 出雲の大川について『風土記』では流域ごとに違う名を記す。上流域は横田川・室原川・斐伊河上、下流域では出雲河・斐伊河下、そして中流域は斐伊河・温泉川と記し、湯村温泉の流域については漆仁川と書かれる。斐伊川にかかるその名もずばりの漆仁橋を渡ると元湯があった。ヤマタノオロチを退治したスサノオもこの温泉の湯につかりながらその疲れを取ったのかと思うと、何やら嬉しくなり湯の中にざぶんと飛び込んだ。

アシナヅチ・テナヅチの神岩 温泉神社  大原郡木次町湯村

 湯村大橋を渡ったすぐに脚摩乳・手摩乳の社・温泉神社の案内板がありそれに従って山手に入った。『風土記』の漆仁社に比定される温泉神社は静かな森の中に、古を感じさせる趣をもってアジスキタカヒコを主祭神として十三の祭神が祀られ鎮座されていた。

 ここにイナダヒメの両親、アシナヅチ・テナヅチを祭る二神岩が垣に囲まれ、しめ縄をまかれて神陵として祀られていた。由来には両神を祭った二神岩は万歳山の中腹にあるが、山崩れで参詣道がなくなり、天ヶ淵の上に玉垣を設けて拝神していたが、国道改修にともない、その神陵が温泉神社に遷座されたものであると書かれていた。

 

 

ヤマタノオロチの棲家・天ヶ淵  大原郡木次町湯村

 温泉神社の少し下流に天ヶ淵が公園として整備されている。斐伊川もこの辺りまでくると、川の両辺は沃野として開けのどかな田園風景を見せている。 

 天ヶ淵の説明板には「万歳山のふもとに住んでいた足名稚と手名稚には八人の娘がいたが、ここの天ヶ淵に棲んでいた八俣の遠呂智(大蛇・八岐蛇)によって次々にたべられ稲田姫一人になった。そこへスサノオが現れオロチ退治となる」と記されていた。 

 しかし周りがあまりにも開拓され、田園としての風景が板についたためか、あるいはダムのために水量が減ったためなのか、この淵はオロチが棲むという雰囲気はなかった。

ヤマタノオロチの頭を埋めた八本杉  大原郡木次町里方

 稲田姫が子神を生むのに「くまくましい(奥まったいいところ)」と云ったという熊谷を通り車は、斐伊川をさらにくだる。やがて木次の町並みに入り斐伊神社から参道づたいに斐伊川に向かって進み八本杉に着いた。

 八本杉は「スサノオが八俣大蛇を退治した古戦場で、退治したオロチの八つの頭をここに埋め、記念に杉を植えたことから八本杉の名が起きた。長い年月の間、幾度も洪水により流失したがその度に補植され、現在の杉は明治六年(一八七三年)に植えられたものである(斐伊神社境内)」と由来があった。ヤマタノオロチを求めての斐伊川くだり、オロチの墓に来たところで、一旦おしまいにしておこう。

 

次へ

とびらへ戻る サロン吉田山トップ 民族学校を考える