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人生という相場に向き合う方法

長い間ブログを放り出してすみません。私事の高波に押し流されていました。その間に和魂洋才シリーズのメモをなくしてしまい、それに凹んで更に更新が遅れたのですが。現在暇を見つけて少しずつ再構成中なのでもう少しお待ちください(色々なことを書く予定なので、どういう順番に書いていくのかが結構問題なんです。一部の説明は他の理解を前提にしていたりしますので)。

そこで、正月に書き損ねた話題を改めて書いてみようと思います。どこで誰が書いていた話題だったかは忘れましたが、「努力したって成功するとは限らないのだから、努力したってしょうがない」または「努力すれば何とかなるとか言う妄言にだまされるな」とか、大意そんな感じの発言をその当時頻繁に見たような気がします。当時はしょうもないことを、と思って読み流したわけですが、色々考えると結構難しい問題をはらんでいそうなので、少し書いてみようと思います。


人生のリスクとコスト

さて、努力してもしょうがないかどうかはともかく、「努力しても報われるとは限らない」のは紛うことなき真実だ。過去問を擦り切れるほどに解いて入試対策は万全と思っていたのに、その年から出題傾向が激変して半泣きで会場を去る小中学生。高1から予備校に通い、通学途中に歩きながらも単語カードをめくるほどに努力をしたのに、試験直前に体調を崩して浪人する高校生。せっかくいい大学に入ったのに、就職氷河期で意中の会社に入れなかった大学生。私生活を全てなげうって高い業績を上げ、ボーナスに期待をしていたら、会社がつぶれてボーナスどころか職を失う会社員。

幾ら努力を重ねたところで、運が無かったり、能力が無かったり(これも厳密には不運の一部)すれば、その努力は結実しない。なんで努力にこんなリスクが付きまとうんだよと思う人もいるかもしれない。努力した分だけ報われる社会がありうるなら、我々の人生はずっと楽になるはずなのだが、残念ながらこれは絶対にありえない。何故なら、努力とは「将来の(より大きな)幸せのために、今現在の幸せを我慢する」ことだからだ。将来を正確に予想することは何人たりとも叶わない以上、努力の結果にリスクが伴うのは当然のこと。これは揺るがしがたい絶対の真実といっても良いだろう。

ちなみに、この努力の定義は投資(貯蓄)の定義と全く同じものだ(経済学の教科書には必ず出てくる言葉だが、投資(貯蓄)とは、現在の消費を犠牲にして、将来の消費を増やす行為)。我々はお金の代わりに時間を投資するわけである。そして、投資において何が問題になるかといえば、可能な限り少ない資金で、可能な限り高いリターンを挙げること。しかも、リスクを出来るだけ抑えながら。

そして、投資の世界にハイリスクハイリターンの原則があるように、人生でもリスクを取らずして大きな成功を望むことは出来ない。色々な人の立志伝が面白いのは、彼らが皆人生を台無しにするようなリスクをかいくぐって成功をもぎ取ってきたからだ。ただし、人生という相場にはもうひとつ重要な要素がある。努力というやつだ。

我々が努力すればするほど、成功の確率は上がる。例え入試の当日に運悪く風邪を引いてしまっても、直前の模試で「合格確実」が出るほど勉強している人なら何とか合格できるだろう。仕事場で上司とそりが合わずとも、それまでにちゃんと努力を重ねてきた人であれば実力で上司を黙らせることができるかもしれない(少なくとも、上司を黙らせられる確率は上がる)。その意味で、我々が今必死に努力するのは、将来の成功確率を上げるための、云わばリスクヘッジのようなものだ。頑張って勉強して有名大学に行き、大学でも更に頑張って研究した人が、不景気のせいで就職浪人する可能性は低い。そもそも、世の中で「成功した」と認知されている人のほとんどが、普通の人よりも遥かに高いリスクに耐え、そしてその高いリスクを少しでも下げるために、ちょっと尋常ではない努力をし続けてきたのだということはもっと理解されていい。そこまでやって、更にそれなりの幸運に恵まれたものだけが「成功」を収めることが出来るのだ。

しかし、努力したところで全てのリスクを取り除くことは出来ない以上、我々の努力には限界がある。筆者だって明日頭上に花瓶が落ちてきてあっさり死ぬかもしれないし、そうすれば筆者が今までいかなる努力をしていようが全ては水の泡だ。もちろん、絶えず安全ヘルメットを被って仕事やら買い物やらに出かければ、その努力を払えば、リスクを下げることは出来る。だが筆者はそれをしない。その努力にかかるコスト(周囲の痛い視線やら、容易に予想可能な警官の職務質問やら)を考えると、どうにも割に合わないのだ。

つまり、努力というのはがむしゃらにすれば良いわけじゃない。努力にはコストがかかる。勉強している間はゲームも出来なければテレビも見られない。体を鍛えるには体を痛めつけなければいけない。ダイエットなら食欲を押さえつけなければならない。もしあなたにとって今日のオンラインゲームが、今日の体調が、今日の夕食が重要なら、努力をすべきではない。そこがあなたにとっての最適な努力の量なのだから。むしろ、今日自分が打ち込める何かがあることを誇るべきだろう。ただし、それによって将来成功する確率が下がることは覚悟すべきだ。リスクとコストは反比例する。努力しないことで確実に得られる今日の幸せと、努力することで得られる(可能性が上昇する)明日の幸せ。どちらを選ぶのも自分次第だ。


人生の選択に失敗はありえない

こうなると、努力しない理由として一番可能性が高そうなのは「努力したって成功の確率が上がらない」というケースだろう。これ自体が錯覚、ないしは努力をしないための言い訳では無いと仮定すると、これにはふたつのケースが考えられる。ひとつは、人生の選択肢それ自体が間違っている可能性。人間には向き不向きというものがあるし、どんな人間だろうが力を発揮しようが無いというどうしようもない職場も残念ながら存在する。そして、更に残念なことに自分の向き不向きというのはやってみなければ分からないし、どうしようもない職場は入ってみないと分からない。もしあなたがこの状況に陥っているなら、もう辞めるしかない。退職でも退学でも。その場で努力を重ねる理由は無い。時間の無駄である。ロスカットはお早めに。相場の鉄則だ。まぁ、余りにも頻繁にロスカットをする投資家はまず儲からないし、それは人生でも同じことなのだが、とりあえずここでは措いておく。

もうひとつのケースは、成功確率が上がらないのは単に努力が足りないか、または努力の方向が間違っているだけという可能性。または、単にタイミングが悪いだけで、我慢するだけで状況が改善される可能性もこちらに含めよう。この場合、あなたは辞めるべきではない。今居る場所に踏みとどまって更に頑張るべきだ。ちなみに、相場用語で言うとナンピンということになる。買った株が値崩れして損をこいても、その安値で更に購入して今後の相場上昇に賭けるという戦略だ。下げ相場で更にポジションを積み増すことになるので、胃壁も財布もそれなりに厚いことが要求される。筆者も人生相場で5年以上ナンピンを続けたことがあるが、結構胃にくるので素人にはお勧めしない。

ロスカットするか、ナンピンするか。どちらが正しいか、ということが問題なわけだが、そんなこと分かる訳が無い。自分の潜在能力がどれだけあるか? 今後の職場(または教室)環境がどう変わっていくか? それまで自分の体と心が耐えられるのか? これらの問いに正確に答えられる人間はこの世には居ない。どうしても答えがほしいなら、天国とかスピリチュアルとか、「あっちの世界」に問い合わせて頂きたい。どこぞの水晶玉ごときに自分の人生を委ねたくないなら、我々は手持ちの不完全な情報をもとに、無理やりでも答えを出すしかないのだ。

正しいかどうか分からない選択をするわけだから、我々はいつだって不安になる。あの時の選択は正しかったのか。今辛い思いをしているのは、あのときの選択を間違ったからではないのか。筆者自身を含め、人生の選択をしたことのある人間なら誰でも通る道なのだが、結論から言うと、この疑問には意味が無い。過去の選択が正しかったかどうか、確認する手段は存在しないからだ。あなたがきつい会社に残って頑張る道を選び、そして更に辛い思いをしたとする。では、会社を辞めておいた方がよかったのか?そうかもしれない。しかし、辞めた後でどこにも仕事が見つからなかったかもしれないし、新しい職場はもっと辛かったかもしれないのだ。選ばなかった自分の人生がどれだけ幸せかを知りようが無い以上、今の人生とどちらが良かったかなど、比較できるわけが無いではないか。

更に言うなら、過去の人生の選択を測るのは、今の自分の行動を無視しているという意味でも無意味である。最初に書いたように、我々は自分たちの将来を予想できない。自分がどんな選択をしようと、成功するかもしれないし、失敗するかもしれない。今日の成功は明日の成功を保証しない。我々は昨日下した人生の選択を正しいものにするために努力するのである。少なくとも筆者はそう思っている。そう考えた時に、過去の人生の選択が正しいか間違っているかという問いに意味があるのだろうか? 


救われない不運について

今まで人生の選択肢の話をしてきたわけだが、「選ぶべき選択肢それ自体が無い」というケースはある。不運にも事故に遭った人、病気にかかった人、皆人生の選択肢を縛られる。不運にも大学を卒業した頃に不景気で就職に失敗するケースでも、多分人生の選択肢は縛られる。中途採用がアメリカほど活発ではない日本では、不運にも自分の企業が倒産してしまえば、やはりその後の人生の選択肢は縛られるだろう。

上で散々強調したように、人生に完全な自業自得は(犯罪などの極端なケースを除いて)存在しない。どれだけ「正しい」選択をしてもうまくいかないときはうまくいかない。しかし、それで「不運は全てあきらめろ」となると、人生のリスクが余りにも高すぎて社会の効率が悪くなる。そこで編み出されたメカニズムが保険である。死んでしまうリスクには生命保険が、病気にかかるリスクには健康保険が、会社が突然倒産するリスクには失業保険がそれぞれ存在し、我々はこれらの保険で人生のリスクを軽減することで少しは人生設計という難事業を行えるわけである。

そして、それなら「就職時期に不景気」という不運だって保険が用意されてしかるべきだ、という意見は当然にありうる。しかし、生命保険が成立して不景気保険が成立しないのにはちゃんとしたわけがある。モラルハザードだ。

モラルハザードとは、例えば車両保険に加入した後、ドライバーが「保険に入ってるんだから少しくらい擦ったっていいや」と雑な運転をするようになり、最終的に保険会社が赤字になって保険契約それ自体が成立しえなくなることを言う。原則として、保険が成立するのはモラルハザードがないイベントに対してだけである。生命保険があるからといって「死んでもいいや」と思う人はあまりいないし、健康保険に入っているからといって「癌になっても保険があるからOK」と思う人もいない。本人の意思とイベントの発生確率に関係が無いから、これらの保険は成立するのである。

一方で、上で書いたように、我々の努力で人生の成功確率は変わる。つまり、「保険があるから頑張らなくてもいいよね」と思うことで人生の成功確率は下がり、実際に人生に行き詰まる人も増えてしまう。つまり、人生そのものについての保険はモラルハザードの問題があるので、保険が成立しないのである。言い方を変えると、努力した末に就職に失敗した人と、努力しないせいで失敗した人とを正確に分類することが不可能だから、保険が成立しないということだ。これが損害保険であれば、「もし今日事故を起こしたら明日から保険料は値上げね」と言うことで、モラルハザードをある程度回避できる。しかし、人生は「あなた人生に失敗したから次の人生では保険料は値上げするね」という訳には行かないのだ。この手のマクロな救済策がうまくいかない理由は他にもたくさんあるが、それは別エントリ「救われない不運について」を参照されたい。


選択肢が無い人の選択

では、極端な例として、「人生の選択肢が無く、そしてその発端が不景気であるために保険でも救済されない」不運な人はどうすればいいのだろうか。筆者としてはそもそも「選択肢が無い」という現状認識が間違っている可能性をまず疑うべきだと思うのだが、とりあえずここでは実際に選択肢がないと仮定しよう。その時の最適な「選択」とはなんだろうか?

どうあれ、生きていくためにはお金は必要である。仕事でそのお金を得ることが不可能だと仮定すると、ご近所からふんだくると強盗になる以上、ふんだくる対象はやはり政府ということになる。では、政府からの救済を待って今日は寝るべきだろうか? しかし、何もしなければそんな救済策が決まる可能性は非常に低いということは前掲の別エントリーで書いた。結局、政府からお金をふんだくるためには、その可能性を少しでも高めるためには、やはり努力するしかないのだ。人を集め、スポンサーを募り、そのためのパフォーマンスをする。政治を動かすには頭数がいる。就職氷河期世代だけでなく、もっと問題を一般化して(または、そう見せかけて)別の世代の注意を喚起してもいい。場合によっては、国会議事堂によじ登って旗を振ってみせる位のことはすべきかもしれない。

もちろん、最初に書いたように、そういう努力をしろなどと僭越なことをいうつもりは無い。どの程度の努力をすべきかは人によって違う。ただし、果報を寝て待つつもりなら、それによって果報が来る確率が下がることは覚悟すべきだ。結局どこまでいっても、リスクとコストの2択からは逃れられないのだから。


本日のまとめ

人生にはリスクがある。そのリスクを下げるために努力をする。どのくらい努力すべきかは人によって異なるので、他人が努力の多寡を測ることに意味は無い。ただし、努力しない結果としてのハイリスクな人生を引き受けるのもまた自分だけ。

世の中で成功した人の多くは並外れたリスクをとり、そして並外れた努力でそのリスクを薄めて、更に幾分の運に恵まれて成功を勝ち得ている。運だけで稼げるお金はたかが知れている。

将来のことは誰にも分からないし、自分が選ばなかった人生のその後も決して分からない。だから、人生の選択が正しかったかどうかは本人を含め誰にも、絶対に判断できない。

過去の人生の選択が正しかったかどうかを考えるのではなく、過去の選択を正しいものにすべく努力するべき(もし正しい選択にこだわるならば)。

政府によるマクロな救済を要求するという行為についても、結局努力が要求される - もし高い確率での成功を望むのならば。自ら動かないならば、マクロな救済が自分の手元に落ちてくる可能性はその分だけ低くなる。

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Tracked on March 02, 2008 at 06:33 PM

Comments

面白かったです。

この記事のリスクとコストについて、女性の視点で「結婚」という要素を交えると一体どうなるのだろうと、ふと興味と疑問がわきました。

Posted by: porori | March 03, 2008 at 02:13 AM

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