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邪馬台国って
1 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/13(月) 13:35
邪馬台国って結局のところ、どこにあったんですか?
何かの本で「ある教授が死ぬまでは誰にも言えない(その教授の
説は間違っているのは解っているのだが、力関係があるので)」と
書いてあったのですが・・・。



2 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/13(月) 13:40
邪馬台国は知らんが、力関係云々の話は、日本の歴史学会すべてにあてはまるだろう。


3 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/13(月) 17:34
>「ある教授が死ぬまでは誰にも言えない(その教授の
説は間違っているのは解っているのだが、力関係があるので)」

近畿説全般だね。


4 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/13(月) 17:40
歴史の学会ってそういう社会なんだ。
でもその教授と同じ大学じゃなくても言えないの?
じゃあ現に九州説を唱えている人たちはどうして自説を主張できてんの?



5 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/13(月) 17:41
安本美典の「邪馬台国=高天原」説ってのは学会では評価されているの?


6 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/13(月) 18:18
少なくとも三角縁神獣鏡=卑弥呼の鏡説は、完全に破綻。
はっきり言ってメンツで言ってるだけ。
後、邪馬台国は近畿かもしれないが、いずれにせよ九州からの東遷は動かせない。

これが学者の口に出して言えないホンネだと思うが、どうですか。
皆さん教えてちょ。


7 名前: 平泉澄 投稿日: 2000/03/13(月) 22:44
>6
賛成ですね。
昨年の、歴史教育者協議会奈良大会の学習会の中で、
橿原考古学研究所の寺沢薫さんが、同じようなことを
(邪馬台国東遷説的なこと)
主張していました。
いろんなしがらみがあっってはっきりといえないようでしたが、
はっきりいって、たいへん説得的なものでした。
一日も早く、寺沢氏の主張がまとまったかたちで公表されることを
のぞみます。


8 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/14(火) 13:24
>安本美典の「邪馬台国=高天原」説ってのは学会では評価されているの?
みんなこっそり読んでそうね。例えば森浩一って言ってることがだんだん安本
に似てきたよね。
しかし、彼はアカデミズム外から来た人だし、もともと史学専門じゃないから、
学会では出世しないね。

>橿原考古学研究所の寺沢薫さんが、同じようなことを
教えて下さい >7

他にもドンドン皆さんの大学でのホンネの話を教えて。


9 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/14(火) 14:44
騎馬民族説って東大でも本音はやっぱ基地外扱いなの。



10 名前: > 投稿日: 2000/03/14(火) 21:51
やっぱり九州(宮崎)方面から大和(近畿)に移ったと言うのが妥当だろう。
まあ、神話と言うのも全くの無根拠とは言えないということだろう。


11 名前: >10 投稿日: 2000/03/15(水) 12:14
記紀」は7、8世紀になって中国から史書や魏史などが伝わ
るに及んで文明国の体裁を整えるために書かれたのである。
記紀には朝廷の歴史を権威付けのためにいろんな創作を加えて
ある事は誰でも知っているが、一方、中国の資料にも配慮して
書いてある事は知らない人も多い。
神武天皇が九州日向から発進して大和を征服したと言うのも
大和朝廷が大和で発生したのではなく外から来た征服王朝だ
と言う事が強く伝承されていたのと、魏史の中の邪馬壹国など
の記載を考慮して九州への高天が原降臨の記載となったのだ。
降臨伝説は朝鮮半島の伝承を日本に当てはめただけ
宮崎というのは疑わしい。


12 名前: >11 投稿日: 2000/03/15(水) 13:04
>外から来た征服王朝だと言う事が強く伝承されていた

こういう電波意見は学会では全く相手にされていない。
騎馬民族説なんてのは東大教授が言ってるから人目を引いただけ。
本来ゴミ。


13 名前: >11 投稿日: 2000/03/15(水) 13:06
おっ、さっそく電波登場。




14 名前: 11だけど 投稿日: 2000/03/15(水) 18:22
騎馬民族など私も信じていない。
なぜなら当時の技術であの神経質な馬を
大量に運ぶ事の出来る船など作れなかった
だろうから。
一頭た二頭の馬で騎馬民族なんて笑える。
しかし大和地方に神武天皇が攻め入った事が
「記紀」に記載されている以上、これをあえて
無視する事は出来ない。
私は邪馬壹国が宮崎(日向)にあったとというのが
怪しいと言っているのだよ。



15 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/15(水) 23:20
邪馬台国−>邪馬薹国−>やまと国
根拠:卑弥呼の娘の名(薹与:とよ)と記述、(台=薹)
福岡県山門郡(やまと)−>福岡県京都郡(みやこ)−>近畿に遷都
っていう説は余り聞きませんね。わたしゃ勝手に思ってますが....


16 名前: ? 投稿日: 2000/03/16(木) 12:03
>邪馬壹国が宮崎(日向)にあったとというのが

そういう説は少ない。
しかし、宮崎からは日本最大級の玉が出土している。これは何百枚も出土して
誰もが本音では日本製であると思っている三角縁神獣鏡どころではないものだが、
なぜか誰も言及しない。
また、南九州の地名が機内と酷似していることも誰も言わないね。

おそらく史学会は代々木と関係が深いから口をつぐんでいるんだろうね。


17 名前: age 投稿日: 2000/03/16(木) 12:04
「邪馬台国はなかった」という本を読め。


18 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/16(木) 14:42
どんどん暴露しろ。


19 名前: >17 投稿日: 2000/03/16(木) 18:58
古田の本なんてマジに読むなよ(ワラ)。


20 名前: >16 投稿日: 2000/03/17(金) 09:28
>宮崎からは日本最大級の玉が出土している。
見たいなあ。
インターネット上で写真見れるサイトない?



21 名前: >19 投稿日: 2000/03/17(金) 11:57
古田武彦は素人の分際で三国志魏史の解読に取り組み、
それまでの学閥系古代史の嘘をことごとく打ち破り、
論破した。
彼の邪馬台は全くの嘘で邪馬壹とすべきとした論点を否定する事
はもはやいかなる学者でも出来ない。
これを批判するやつは馬鹿にされる。
彼の邪馬壹国が博多付近とする意見には賛成しかねる所もあるが。


22 名前: >21 投稿日: 2000/03/17(金) 12:23
アホか。
青森の偽書オヤジを担ぐような奴だぞ。
少なくとも学会では誰も相手にしていない。江上以下の扱いだ。
問題外だね。


23 名前: >20 投稿日: 2000/03/17(金) 17:50
国宝なのでさがせばあるような気がします。


24 名前: >22 投稿日: 2000/03/17(金) 18:04
だって最近の本には表紙はともかく
中では邪馬壹国って書いているのが
増えてきているよ。
素人には邪馬壹国と書いてもわからんから
表紙だけは邪馬台国って書くけど。


25 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/17(金) 18:27
学会の噂話を出せよ。
電波ばっかじゃない。
院生いないの。


26 名前: >22 投稿日: 2000/03/17(金) 23:53
いや学会が相手にしてないか、
なんてことはどうでもいい事ですよ
要は彼の学説がどうかってこと
とりあえず全否定してしまうのは
良い態度とはいえないですね。
多数決で真実が決まるわけじゃ
ないでしょう?
一応頭の隅にはおいときますけどね
自分は・・・・・。



27 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/19(日) 13:14
歴史版には歴史専攻者がいない?


28 名前: 古田氏は犠牲者か共犯か 投稿日: 2000/03/21(火) 15:06
九州王朝説にはくみしない。しかし学説をとなえたことは評価します。
また独自の神話解釈には見るべきものが多いと思う。
しかし、素人が見てもどうしようもない「外三郡誌」なぞに見せられるようでは人間失格。

どこかで気づいてしまい、あとにひけなくなってヤケクソになってるとしか思えない。
どこをどう読んだらあのヘタクソな文章の、トンデモない内容を信じられるのか。
「ユダヤ・フリーメーソンが株価を操作してUFOをつくってる」
てなレベルだあれは。
古田氏を担いでる人たちのうち、誰か一人ぐらい注意しないのですか。





29 名前: >27 投稿日: 2000/03/21(火) 17:45
どうも残念ながらそのようですな。
社会学とか哲学にはいっぱいいるんだけど。


30 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/21(火) 18:04
高木彬光の「邪馬台国の秘密」も素人ながら
当時の地形(糸島半島は陸続きではなかった)など
新しい考察をいれ、学閥系の邪馬台国比定に挑戦して
いる所があって全面的に否定できない所が有ります。



31 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/23(木) 14:19
筑紫平野の何処かに一票


32 名前: >27 投稿日: 2000/03/23(木) 22:24
いや、私そうですけど考古・古代専攻じゃないんで。

他の人もそうなんじゃないですか?専攻してないからうかつなこと
言わない。専攻してたとしても、やっぱり物と文献、外国の歴史等
と兼ねあわせたような複雑な話だと思うから、こういう場で話す気
がしないのかも。


33 名前: 考古学専攻の不良学生 投稿日: 2000/03/24(金) 01:55
ウチの大学は近畿説を掲げていて、教授の前では口が裂けても
「邪馬台国は九州にあるんだ」なんて言えない。
でも、言ってみたくてうずうずしてます…そんなこと言ったら、
大学をつまみ出されるかもしれない。
わたしが思うに、邪馬台国は発見されないほうがいい!
九州で発見されれば近畿説を唱える研究者の面目がつぶれるし、
近畿説で発見されれば九州説を唱える研究者の面目がつぶれる。
かりに発見されたとしても、関東とか東北とか全く見当違いの
ところで発見されて、九州説・大和説両者痛み分けということで
決着するのが理想だと思う。



34 名前: 考古学専攻の不良学生 投稿日: 2000/03/24(金) 02:04
そういえば、松本清張と高木彬光は邪馬台国の所在地をめぐって、
大喧嘩したんですよね。
清張は近畿説で高木は九州説。
結局仲違いしたまま、二人とも亡くなってしまいました(高木は生きて
たっけか?生きてたら本当にごめんなさい)
とにかく邪馬台国問題はアツくなりやすいので、永久に発見されないに
限る…と。



35 名前: ウチの学長も 投稿日: 2000/03/24(金) 03:00
近畿説。ま、地元だからしかたないけどね。


36 名前: 中世史専攻なんだけど 投稿日: 2000/03/24(金) 09:01
考古ってかなり師弟関係重視なの?
33・34みると自分の周りではちょっと考えられない環境なんで・・・
いや、先生によるのかなあ・・・



37 名前: >33、35 投稿日: 2000/03/24(金) 11:07
京大系の方ですか。
考古学の方で近畿説が多いのは理解に苦しみますね。
三角縁神獣鏡の話なんて本気で言ってるんですか。
教えて。



38 名前: >37 投稿日: 2000/03/24(金) 17:49
何処か(京都だったかな)に鏡神社とかいうのがあって
三角縁神獣鏡の鋳型を御神体にしている、というのを
昔テレビでやっていたような記憶がある。


39 名前: 考古学専攻の不良学生 投稿日: 2000/03/25(土) 02:42
ウチの大学はこってこての京大派です。
考古学系の教授はみんな京大出身。

>三角縁神獣鏡の話なんて本気で言ってるんですか。
…本気で言ってます。
考古学者はモノ(遺物)こそが動かし難い証拠と
考えてるみたいですから。

>考古ってかなり師弟関係重視なの?
考古学に限らず、どんな学問もそんなもんだと思います。
医学界での頑なな師弟関係がもたらした弊害と
悲劇をテーマにした松本清張の小説を読んだことがあるのですが、
考古学は人の命に関わらないだけまだマシ。




40 名前: どしろうと 投稿日: 2000/03/26(日) 03:47
なるほどー近畿説はダメなんですか。
ためになった。


41 名前: >39 投稿日: 2000/03/26(日) 16:34
>…本気で言ってます。

本気だったんですね(絶句)

私は考古学専攻でないのでよくわかりませんが、
○中国で発掘されないこと
○銅成分の分析から華北の原料とは思えないこと
○官製の表示がないこと
その他いろんな疑問についてはどう思っているんでしょうか。


42 名前: age 投稿日: 2000/03/28(火) 17:43
ホケノ山古墳から「画文帯獣面鏡」が出たといって
大騒ぎしているけど


43 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/28(火) 18:48
邪馬台国が魏かもらったのって銅鏡だけじゃないでしょ。
絹織物とかもあるのにね。鏡に固執すぎて、
三角縁神獣鏡のようなことになるんだよ。
で、今度はまた違う鏡ですか?


44 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/28(火) 19:29
今日、フジテレビで、松尾が、耶馬台国の場所を
特定するのを、反対している、団体がいる、みたいな事
を、言っていたけど、誰か、詳しい人いる?
知ってたら、教えて。


45 名前: >42 投稿日: 2000/03/28(火) 20:48
邪馬台国時代の中国鏡なら北九州でもいくらでもあります。
そんなものは全く証拠にならんでしょう。



46 名前: 浮動票 投稿日: 2000/03/28(火) 21:09
ホケノ山古墳の発掘でも、
近畿説の優位には働かないんですか?
近畿にあったような気がしてきたんだけど。


47 名前: > 投稿日: 2000/03/28(火) 21:18
弥生式墳墓と古墳の中間型というのがミソ。古墳がここで発展改良したと考えられる。


48 名前: >47 投稿日: 2000/03/28(火) 23:35
今回の発見で大きいのはそれだけじゃないの。
しかし弥生式墳墓も九州起源だわな。


49 名前: 【^▽^】どうもです【^▽^】 投稿日: 2000/03/29(水) 00:30
今回のホケノにおける発見の画期性は、
前方後円墳と弥生式墳丘墓の間に
関連性が確認されたことではないでしょうか?
これまでは、両者に関連性が認められないことが、
邪馬台国所在地論争の核心だったのですから…。

(つまり、
(「大和朝廷の陵墓と邪馬台国の陵墓には関連性が認められない」という未熟な仮説が
(「邪馬台国=大和朝廷」という自然は図式の成立を拒んでいたのですから…

今回、巨大古墳が群立する大和朝廷の中心地の古墳内部から
弥生式墳丘墓の痕跡が発見されたことは、
個人的にはチェックメイト(王手)だと思うでし。

邪馬台国が九州から東遷したかどうかはともかくとして、
少なくとも卑弥呼の時代は、既に大和に居住していたと考えるのが
自然な感じがするでし(素人には)。

そもそも邪馬台国九州説のベースには、
「古代日本の優れた特徴はすべて朝鮮半島経由でもたらされたもの。
 日本の内陸部(近畿)にそのように強大な権力集団があるはずがない。」
という先入観を前提として成立している。
これは敗戦後、朝鮮から政治的に輸入されて日本の学会に定着したものである。

しかし現在の研究では、邪馬台国は朝鮮よりも、
むしろ中国江南地方との関係が濃厚だったとの見解が示され始めている。


50 名前: 47 投稿日: 2000/03/29(水) 06:42
詳しい解説ども。概ねその通りでしょう。朝鮮半島が、むしろ、文化に被流入地域だった可能性さえある。


51 名前: 47 投稿日: 2000/03/29(水) 06:42
詳しい解説ども。概ねその通りでしょう。朝鮮半島が、むしろ、文化の被流入地域だった可能性さえある。


52 名前: >50 投稿日: 2000/03/29(水) 11:15
>朝鮮半島が文化に被流入地域だった可能性さえある。
なに馬鹿な事言ってんだろうね。
日本書紀に文字や仏教が百済から伝えられたと書いて
あるのに。
確かに米は中国江南地方から伝わった。
中国北部では米は取れなかったから。
でもそれはベトナムのボートピープルのようなもので
文明の流入とは程遠い。


53 名前: >49、52 投稿日: 2000/03/29(水) 12:19
>「古代日本の優れた特徴はすべて朝鮮半島経由でもたらされたもの。
>日本の内陸部(近畿)にそのように強大な権力集団があるはずがない。」
別に九州説がそんなことを言っているわけではありません。古代日本の文化に
大きな影響を与えたのは江南地方の文化であることは多くの学説が説いている
ところです。
それから弥生式墳墓にせよ北九州の起源であり北九州の方がはるかに多いこと
は間違いないでしょう。
おっしゃるように邪馬台国が250年頃に近畿にいたのかどうかは微妙な問題
ですが、少なくとも弥生時代の近畿圏の文化とその後の古墳文化はつながらな
いことから東遷が確実ではないでしょうか。

>でもそれはベトナムのボートピープルのようなもので
>文明の流入とは程遠い。
もっと勉強しなさい。




54 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/29(水) 16:03
昔、ブルガリアだかどっかの物凄い超能力者にいろんな未解決の謎を霊視させるというテレビ番組あって、
「耶馬台国はどこか?」という問いに、その人は「……奈良……」と答えていた。


55 名前: >54 投稿日: 2000/03/29(水) 17:47
傑作!


56 名前: >52 投稿日: 2000/03/29(水) 21:44
あのねえ、弥生時代〜大和朝廷(〜AD400)のことを言ってるんで、それ以後の大陸文化の伝来を言ってんじゃないし、文化全部が「日本発朝鮮行」って言ってんじゃない。というより、私だって、「大陸」文明のほうが、日本なんて言う島国文化のほうが巨大だってのは分ってるって。
ただ、日本の朝鮮経営はあったし、好太王碑も、肯定の余地があるということ。


57 名前: 56 投稿日: 2000/03/29(水) 21:46
「大陸」文明のほうが、日本なんて言う島国文化の「より」巨大


58 名前: >56 投稿日: 2000/03/29(水) 22:49
>日本の朝鮮経営はあったし、好太王碑も、肯定の余地があるということ。

これ、かなりの部分で事実だと思う。
でも、戦争に負けてから言えなくなったね…


59 名前: 平泉澄 投稿日: 2000/03/30(木) 00:34
>日本の朝鮮経営はあったし、好太王碑も、肯定の余地があるということ

好太王碑文のリアリティーを疑う研究者は、現在ほとんどいないのではないかなあ

ところで、邪馬台国畿内説(東遷説でも同じ)現在のところの最有力地はまきむく遺跡
になるんでしようかね?


60 名前: >59 投稿日: 2000/03/30(木) 07:16
Yes!


61 名前: 素人 投稿日: 2000/03/30(木) 07:44
そういえば、どうして日本は親百済・反新羅だったんだろう?
その「日本の朝鮮経営」ってのに関係あるのかな?
ご存知の方、いませんか?


62 名前: >59 投稿日: 2000/03/30(木) 10:12
好太王碑文は旧陸軍が二度に渡って改ざんしたと
韓国の学者が発表した。
現在は痛みが酷く解読不能らしい。
当時の中国の情勢、文献などからみて日本陸軍
の捏造は間違いないだろう。


63 名前: >62 投稿日: 2000/03/30(木) 10:36
↑電波発見


64 名前: そういえば 投稿日: 2000/03/30(木) 11:15
「魏志の編纂者はどうせ又聞きの又聞きなんだから、
正確に記述しているわけじゃない。

明代の地図をみると日本列島が90度右に回転してて、
当時の中国人もそう見てた可能性が高い。
だから又聞きをその地図に従って記述したため、
東夷伝倭人条の記述と当てはめると邪馬台は大和に当る。
途中経由したツマ国は頭の音が消失した出雲である。
つまり北九州から山陰を海沿いに経て舞鶴から南下した。」

なんての読んだことあるなあ。
詳しいこと知らんけど。
とりあえず卑弥呼の時代は近畿だったんじゃないの?


65 名前: ぼそ 投稿日: 2000/03/30(木) 12:10
鯨統一郎でしたか・・・。
彼によると近畿ではなく八幡平だったのではないかと・・・。


66 名前: >65 投稿日: 2000/03/30(木) 17:46
安本美典では?


67 名前: 東遷だね 投稿日: 2000/03/30(木) 17:56
当時の人は、やたらと移動する習慣があったのかも。
土地に固着するようになったのはかなり後みたいだね。
やはり、邪馬台国は九州から東遷してきた権力集団で、
そのまま大和で初期大和朝廷に発展した、と見るのが一番客観的な感じがする。



68 名前: >67 投稿日: 2000/03/30(木) 18:15
そうだろうね。東遷は確実だろうと本音では思っているだろうね。
ホケノ山で騒いでるが、あの形式の古墳は、北九州にも存在するからね(誰もいわないが)。
問題はいつ移動したかだ。
つまり250年より前か後か。


69 名前: >62 投稿日: 2000/03/30(木) 18:25
好太王碑文は、今、中国にある。
中国・吉林省社会文化院(だったと思う)の中国人学者が
「日本人による改竄はなかった。
石灰が塗布されたのは、中国人の拓本業者が
文字を見やすくしようとしたため」
と発表している。
石灰が塗布される前の拓本とも比較して
そのように結論づけた。
韓国人学者による碑文の漢文の解釈も、
中国人学者によって否定されている。
1990年代に発行されている古代史関連の書籍には、
この事情について詳しく掲載しているものがある。
そこには、恥をかいた韓国人の学者名や
正しい漢文の解釈を施した中国人の学者名も掲載されている。


70 名前: >69 投稿日: 2000/03/30(木) 19:45
電波相手にするのやめようぜ。


71 名前: >64 投稿日: 2000/03/31(金) 08:33
あなた自身は非難しないけど、参考にしてる例はちょっと…。
それじゃぁご都合主義だ。


72 名前: 名無し 投稿日: 2000/03/31(金) 10:36

最初の方に、安本美典説のことがでてたけど、ちょつと疑問。

そもそも、安本が主張してるのは、三世紀後半に、

甘木市→豊後→南九州→機内

の王権の移動があったっていうんでしょ。厳密にいえば、東遷説じゃないよ。
これを支持してるのって、他に誰がいるわけ?

そもそも、邪馬台国東遷説っていうのは、北九州と畿内の遺物の連続性
がその根拠だよ。間に南九州をいれたら、破綻するね。

森浩一が安本の影響受けてるっていうのは、疑問。
少なくとも、年代論は無視してるね。




73 名前: >69 投稿日: 2000/03/31(金) 15:19
倭が新羅、百済を破って臣民となす、など記紀それらしい
記載は神功皇后の時だよね。
神功皇后は実在が疑われているし、変だよね。





74 名前: >73 投稿日: 2000/03/31(金) 16:14
神宮皇后云々と関係なくこの時期日本が海外出兵していたのは学会の常識。
勉強しな。


75 名前: 名無し 投稿日: 2000/03/31(金) 16:29

邪馬台国関連の議論がまともにできる掲示板があったら、教えて。




76 名前: うむ… 投稿日: 2000/03/31(金) 16:37
随書の東夷伝によると、
「日本とは倭の別種なり」との記述があるとか。

又、桓武天皇の頃までは、
「日本と六韓は同種なり」という記述をもった書物が存在したという。
(北畠顕房の「神功皇統紀(だっけ?)」にそう書いてあるそうです)

これらを見ると、「倭」とは必ずしも日本列島のみの権力集団を指すのではなく、
むしろ南朝鮮を含むかなり広範な勢力を指すような…
(怒られるかもしれないけど、個人的には
(百済の朝廷は、日本と同種だったと思うです…ゴメン)


77 名前: 平泉澄 投稿日: 2000/03/31(金) 19:12
邪馬台国東遷説をとる場合、2世紀後半のいわゆる倭国の大乱の位置付けは
どうなるのですか?


78 名前: >77 投稿日: 2000/03/31(金) 19:55
たしかに弥生時代の大和盆地の集落が突然消滅し、全く新しい集落ができるのは
3世紀初頭です。
しかし、銅鐸が消え、古墳文化が急に発生するのは3世紀後半です。

つまり大きな断絶が2回あることになりますね。
この解釈は難しいですが、紀記には物部氏の祖先が先に大和に入った
とあります。神話ですので本当分かりませんが。


79 名前: 名無し 投稿日: 2000/04/03(月) 11:30

結局、九州説の根拠はなんなの?

近畿説がダメな理由は?




80 名前: >79 投稿日: 2000/04/03(月) 12:29
近畿説がだめということはありません。
250年当時邪馬台国が近畿にあった可能性はあるでしょう。
これは今後巻向遺跡の発掘で明らかになるでしょう。

問題はこれらの遺跡が地元で発生したか東遷したかということです。
様々な状況から見て地元で発生したとは考えにくいのですが、近畿説の
学者はこれを無視していますね。
また、近畿説の三角縁神獣鏡の解説はほとんど電波系ですね。


81 名前: >80 投稿日: 2000/04/03(月) 14:03

地元で発生したと考えにくい理由を教えて




82 名前: >81 投稿日: 2000/04/03(月) 22:35
北九州と大和盆地の墳墓はそれぞれ濃厚に共通性がある。
別個に発展したとは考えにくい、という説です。
異論も当然あります。



83 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/04(火) 03:34
そもそも『邪馬臺國』(邪馬台国)などという記述は『魏志』中に一切なく、
『邪馬壹國』(邪馬壱国やまいちこく)の誤記なのではないか?(笑)
と一気にふりだしに戻らせる研究報告もあります。

そうするとヒミコの後継者が『イヨ』(壹輿/壱与)だったり
『臺輿/台与トヨ』(台)だったり
複数併記する大正以後の文献が多い理由って、、、

日本の王権研究では奈良時代以前を単純に日本史に加えることは避けはじめて
います>今谷明など



84 名前: 平泉澄 投稿日: 2000/04/04(火) 08:58
畿内説や東遷説をとる場合、唐古・鍵遺跡の位置付けは
どうなるのですか?
古代史の人教えて下さい


85 名前: 投稿日: 2000/04/04(火) 12:24

>82

なるほど。異論としては、たとえば、古墳にしても、日本全国、もしくは
朝鮮半島から出土してるでしょう?普通は、それをいちいち、王権の移動して、根こそぎ
各地の支配者や住民が変わったとは考えない。

建築が共通するにしても、それが、王権自体が移動したのか、単に影響を受けた
だけなのかは、難しいね。

東遷説について思うのは、結局そういうこと。
九州起源のものが大和で発展したにしても、王権が移動したのか、単なる文化輸入なのかを、
考古学的に立証するのは不可能じゃないかな。

どんな文化にも、在来性と、外来性があるからね。





86 名前: >81 投稿日: 2000/04/04(火) 13:36
魏志倭人伝を素直に読めば九州以外に考えられないでしょ。


87 名前: >86 投稿日: 2000/04/04(火) 14:47
素直に読めば、はるか海上じゃなかったか?


88 名前: >87 投稿日: 2000/04/04(火) 15:08
『邪馬台国はなかった』『邪馬台国の秘密』
を読んだ事があるか?


89 名前: 87 >88 投稿日: 2000/04/04(火) 15:20
ない


90 名前: 大杉 博 投稿日: 2000/04/04(火) 16:30
おれは、四国山上説。


91 名前: 常々思っておったのですが、 投稿日: 2000/04/04(火) 16:36
ヤマトの音を写したとすれば、トにあたる漢字はいくらでもある。
わざわざ「ダイ」としか発音できない感じを使ったからにはそう言う音だったのでは。

実は「ヤマダ」国だったようなきがする。



92 名前: >91 投稿日: 2000/04/04(火) 16:52
それじゃまるで「いしいひさいち」のマンガみたいだ(笑)


93 名前: >91 投稿日: 2000/04/04(火) 17:20
当時発音って現在の発音と同じなのかなぁ?
あ、これは当時の日本ではなくて魏の発音が現代に当てはまるのですか?
「YAMATAI」と発音していたかどうか。
どなたか教えてプリーズ。

何年か前にNHKでやってたよーな。
あ、これは卑弥呼は当時なんと発音されていたか?
というような番組でした。




94 名前: >93 投稿日: 2000/04/04(火) 17:43
邪馬台国は、ヤァ〜マァ〜タア〜イと発音してたとテレビでやってた。

卑弥呼は、ピィ〜メィ・クゥオ〜

確かどの国か忘れたけど、ファ〜クァ〜トゥア〜(博多か?)という発音もあった。

ピィ〜メィは「姫」の意味かもしれないと言ってた。クゥオは接尾語だとか何とか。



95 名前: 【^▽^】おはよう【^▽^】 投稿日: 2000/04/04(火) 18:18
今日、図書館で
「三角縁神獣鏡の死角」(武光誠 新講社1998・10月初版)
「邪馬台国の時代」(黒岩重吾・大和岩雄 大和書房1997・9月初版)
という二冊を借りてきました。

両方とも九州説の立場に立つ本です。
ボクは一応、今流行りの東遷説を支持しているのですが、
他の学説も知りたくて…

内容が把握できたら、ここで紹介するです。
両冊とも結構新しい本なので、最新の説が披露されていて欲しいですな…


96 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/05/11(木) 07:20
>88
今どき、古田学説を信じてる人なんかいるの?




97 名前: ぼそ 投稿日: 2000/05/11(木) 09:33
魏書の倭人に関する記述って、かなりいいかげんなような。
だって、倭国の先にお歯黒の国とかこびとの国があるんでしょう。
それはいまの、どこにあたるんだろう。
蜀の山奥に生まれた人が、東夷にどれだけの関心があったのかも
?なところです。


98 名前: >96&97 投稿日: 2000/05/11(木) 19:58
古田学説によると、お歯黒の国とかこびとの国とはペルーあたりのことで、
「倭」は、冠太平洋を取り仕切る大国なんだとか。
それで、魏書に書かれている、入れ墨してるだとかの倭人の特徴は、南国の
土人たち(彼らも倭人)の特徴なんだってさ。

古田学説って大胆だけど、一応スジは通ってるんだよね。
信じてみたかったりする(笑)。



99 名前: 平泉澄 投稿日: 2000/05/11(木) 20:14

なんか、また議論が振り出しに戻っているようですね。
OKです。また盛り上がってください!

けれども、やはりマキムク意外に考えられないのではないですか。


100 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/05/11(木) 23:08
マキムクは大物主だろ?
卑弥呼は九州で、その一族の子神武が東征で
ヤマト入りするんじゃないのか?
そんで、大物主の娘と神武が結婚すんだろ?



101 名前: 96 投稿日: 2000/05/14(日) 06:34
>古田学説って大胆だけど、一応スジは通ってるんだよね。

そうかなあ。単に自分に不都合なところには触れないようにしてるだけでしょ。





102 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/05/14(日) 21:25
>101
古田クンは東日流外三郡誌でミソつけちゃたからね。
ウサン臭かったのがあれでいっぺんに化けの皮はがれちゃった、って感じ。
彼の読者って彼がとりあげた書物の検証とか、ハンロンの検証とかしてない
人が多いから、自己完結してる彼の説を「説得力がある」って思ってしま
うんですよね。



103 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/05/20(土) 15:10
古田説についてだけど、例え東日流外三郡誌がうさんくさいとしても、
何でその他の論証までいっしょくたにダメだって事になっちゃうの
でしょうか?1つ1つの問題を、個別に考える事ができてない証拠
なんじゃないかな?何か自説に破綻があるとその人は研究者として
失格なの?不都合なところに触れない人なんていくらでもいるじゃ
ない。と言うかみんながそう。
あれだけいろんなテーマに手を出してりゃ、いろいろあるわな・・・。
でも、吉武高木とかあのへんに何かあるはず、って言ってたら
出てきたとか、出雲の勢力について早くから指摘してた事とか
縄文人が海を渡ったとか、そのへんは評価されてもいいんじゃ
ないかな。

 
 


104 名前: にーちぇ 投稿日: 2000/05/20(土) 19:06
八幡平にあります。


105 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/05/21(日) 07:10
>例え東日流外三郡誌がうさんくさいとしても、 何でその他の論証まで
>いっしょくたにダメだって事になっちゃうのでしょうか?

 ジャンバルジャンじゃないけど、一度嘘ついた奴はそれ以外でも
嘘ついてると見なされる。

 東日流外三郡誌って捏造だったんだろ。じゃ他の学説の「資料」も
全部捏造していてもおかしくない、と考えるのが自然じゃないか?
資料の捏造なんて研究者として最悪の行いだぞ。



106 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/05/21(日) 18:48
外三郡誌について。
史料の真偽というものをみきわめるには長い時間と広範な時代背景の理解が必要だと思います。
捏造と言っている人たちも確かにいますが、それは誰が決めるのでしょうか。多数決で決る
のでしょうか。多数決だとしても、そもそも和田家文書に直にあたっている研究者がそれほど
多くはないですしね。ちなみに古田氏自身が捏造(という行為があったとして)に関わってい
るという証拠は多分、上げていないんじゃないでしょうか?安本氏などの本は立ち読みしか
した事ないので存じませんが。
外三郡誌が×であったとしても、古田氏は「嘘をついた」のではなくて、「ミスをした」
という事にしかならないと思います。そして学問はいろんなミスや試行錯誤の末に
成り立っていると思います。
他の学説の史料も全部捏造してる、っていうのはものすごい飛躍ですね。驚きました。



107 名前: 古田氏の功罪 投稿日: 2000/05/22(月) 14:55
功 従来「当然のこと」とされていた事項を、原点を調べ直すことで疑ってみた。
罪 その結果が間違っていた。

邪馬台国北九州論にたつものですが、「九州王朝」はいただけません。
しかし氏の出雲解釈などは見事だと思うし、「九州王朝説」もそれなりに説得力を認めます。
しかし「ツガルソトサングンシ」は酷い。伝奇ファンタジーとしても粗雑すぎる。
一応「専門家むたるものが、あんな下手な詐欺の片棒かつぐとは言語道断。
古田氏は和田某の胡散臭さをとっくに気づいていて、意地になっているとしか思えません。
さもないと、「共犯」とみなされても仕方ない。
そしてそんな古田氏を応援し、結局はますます泥沼に沈めているのは、狂信的「ファン」です。



108 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/05/22(月) 15:29
少なくとも『邪馬臺國』(邪馬台国)などという記述は『魏志』中にはなく、
大和と関連づけする為に『邪馬壹國』の『壹』を『臺』の誤記とした
彼に言わせれば京都学派と九州学派の共同改訂という説は正しいと思う。

東夷「東の蛮人」国名に魏の皇帝の住む所の『臺』と言う字をつけるはずが
ないという説は納得せざるを得ない。

>魏書の倭人に関する記述って、かなりいいかげんなような。
『邪馬壹國』を奈良に持っていきたい人に取っては魏志倭人伝がいいかげん
でないと都合が悪いから自分達の読解力の無さを棚に上げて「いいかげん」
な事が書いてあると言い立てているに過ぎない。

『邪馬臺國』と言う言葉が中国の史書に初めて出てくるのはずっと後になって
書かれた後漢書だそうな。


109 名前: >108 投稿日: 2000/05/23(火) 20:00
結局、邪馬台国を自分達の住む町にあったことにしたい、関西人の情報操作に、
みんな、まんまとはまってるわけなのね?

なんか、何でも自分達の発明だとする、朝鮮人そっくりだね。

さすがは、大挙して渡来してきた朝鮮人の、直系の子孫達だけのことはある。



110 名前: 投稿日: 2000/05/24(水) 14:06
このひとは
朝鮮人が嫌いなのか
関西人が嫌いなのか
その両方か.... 


111 名前: つがるそとさんぐんし 投稿日: 2000/05/26(金) 01:15
でも、あの方、今だに飽きた高据え(←なんじゃこりゃ^_^;)を尊敬
なさってるよし。和田さんに関しても、うさんくさいとは思ってない
感じですよ。荷担してるとも言えない気が。。。
まぁ、一個人の家系に伝わる古文書(and、遺物)ですからね。
その歴史や怨念を背負っているわけではあるし、書き継いだりとか、
信念を増幅させたり、そういう思いや作業は綿々と引き継いでいる
のかもしれません。それをもってしてうさんくさいと言うのなら、
その史料の性格上しょーがない事かと思います。
でもあんなものを一個人が全て一から雑作するのは不可能なんじゃ
ないかな。それが素直な感想。
導き方が真摯であるなら、結果が間違っていてもそれは罪ではないと
個人的には思います。その結果を支持するかしないか、それは当人の
問題じゃないかなぁ?
古田教とか言って彼のファンを忌避しようとする向きがありますけど、
みんな誰かしらの影響を受けてる。誰かを信じたり、支持したりしてる。
それは忌むべき事なのかなぁ。盲目的なのはいけないとは思うけど、
彼は支持者の声を聞いて、一緒に考えていきましょうっていう姿勢は
ありますよ。九州王朝もねー、九州年号とか以外にも最近はまた
いろいろ発展があるみたいで、玉垂命とかねー。そもそも「九州」
っていうのが天子の支配領域っていう意味なんだとかいろいろ。
なんかまとまってないですね。すみません。




112 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/05/26(金) 08:39
星新一氏はハワイ説。


113 名前: >111 投稿日: 2000/05/28(日) 15:55
おいおい・・・
うさんくささのレベルが違うでしょ、三郡誌は。
戦後に立てた家から何百年前の本が落ちてきたり、
なんだかんだ言って原本をださなかったり。
(批判や古田が興味をもった遺跡が発見されると改訂版がでてくる)
一個人が云々っていうけどさ、あんなのムーと古田の著書が何冊かあれば
作れないか?
そもそも連中のどこを真摯と思えるのか疑問。明らかに詐欺だろ?

>彼は支持者の声を聞いて、一緒に考えていきましょうっていう姿勢は
>ありますよ

あのねー、批判者の意見を聞かなくちゃ考えたことにはならないの。


114 名前: 一ファン 投稿日: 2000/05/29(月) 16:12
「国史絵巻大和桜」だったっけ、正式名称忘れた。
外三郡史擁護の古田先生はもうむちゃくちゃ。
あれほど似通った絵がある。かたや広く流布して美術的にもすぐれた画集。
かたや「門外不出」で戦後突然あらわれた、へたくそ極まりない墨絵。
どっちが真似たかなんて、小学生でも判る。

ギリシア祭文ねそう。野上ヤエ子は「外三郡史」持ってたのか。
そのうち「野上から和田某への感謝状」なんて出てくるぞ。
ところで和田某って、最近死んだの?
私は詐欺で裁判にかけるべきだったと思う。


115 名前: 実は 投稿日: 2000/05/30(火) 16:07
「ヤマト」と言う音を聞いて字をあてたなら、
わざわざ「ダイ」と言う音の字をあてないと思う。
ひょっとして「ヤマダ」国だったのではないか。
だとしたら岡山だ。いしいひさいちは子孫だ。


116 名前: >108 投稿日: 2000/06/02(金) 23:04
>『邪馬臺國』と言う言葉が中国の史書に初めて出てくるのはずっと後になって書かれた後漢書だそうな。
 三国志魏書は後漢書よりもずっと早いの?
 後漢書の書かれたのが後漢時代じゃないのは確かかも知れないけれど
 三国時代は後漢よりも後だから、三国志は後漢書よりも後だと思っていました。


117 名前: > 投稿日: 2000/06/07(水) 15:47
大和政権とは別説を採る方々は征服王朝説を採られる場合が多いのでしょうか


118 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/06/07(水) 16:34
後漢書は魏志より後代の記述だ


119 名前: >116、118 投稿日: 2000/06/08(木) 01:46
「三国志」晋の陳寿
「後漢書」宋(南朝)の范曄(←すげー変換できた)
作成年代は分かんないけどこれ見りゃ分かるでしょうね。


120 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/07/31(月) 07:53
後漢書の記述は、それ以前のものを参考にしているわけですが、
かなり作者の推測(読み間違い?)がはいっているように感じます。


121 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/06(日) 13:58
後漢書の倭国大乱とかは間違いといわれてるね。
ただし、いまだに巷では、倭国大乱を信じてる集団も。


122 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/06(日) 22:58
魏志倭人伝にも乱の記録があるよ。
121の間違いの根拠が知りたいな。


123 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/09(水) 18:43
ところで邪馬台国は近畿にあって大和朝廷と同一だ、という説は
なぜにメジャーにならないのですか?

僕はこれが一番妥当だと思うのですが。



124 名前: >123 投稿日: 2000/08/09(水) 19:24
妥当な理由を列挙してただけますか。


125 名前: >122 投稿日: 2000/08/09(水) 19:51
倭国大乱がまちがいだというのは、卑弥呼の時代よりも前に、すでに
大和政権が日本を統一していた。ならば、大乱など起こるはずがない
という、邪馬台国幾内説派の論理だよ。



126 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/09(水) 21:36
>125
最近の学者さんでそんなこと言ってる人はさすがにいな
いんじゃないの?


127 名前: 125>126 投稿日: 2000/08/10(木) 01:38
そんなこと言ったら邪馬台国畿内説は崩壊するよ。

「水行10日陸行1月」を、瀬戸内海の入り口あたりまで船で来て、山陽地方を
1月かけて近畿まで歩いて行ったというのが畿内説。しかし、その頃、
出雲や吉備などが大和と敵対していたなら、そんなちんたらした行程が
取れるわけがない。また、大和がそれらと同盟関係にあったので行程が
保護されたのだとしても、それなら、魏史に出雲や吉備に関する記述が
ないのがおかしい。結局、畿内説は、卑弥呼の時代までに、大和が出雲や
吉備を滅ぼしていないと成り立たないのだ。

ところが、魏史では、大乱を収めるため、各国が協議の上、卑弥呼を
共立したとあり、大和が出雲や吉備を滅ぼして統一王朝を作ったという
感じには取れない。結局、畿内説では、当時、大和はすでに日本を統一
していた。大乱と言ってもそれは単なる内乱であって、たいした戦争じゃ
なかったんだとするしかないのだよ。



128 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/12(土) 08:10
>108
>東夷「東の蛮人」国名に魏の皇帝の
>住む所の『臺』と言う字をつけるはずが
>ないという説は納得せざるを得ない。

その説は誰の説ですか?
また、どうして納得してしまったのですか?



129 名前: >128 投稿日: 2000/08/12(土) 12:03
ちゃんとこのスレッド最初から読みなさい。
それが古田説だよ。


130 名前: >127 投稿日: 2000/08/12(土) 12:37
水行1月ってのが先にあるので、船で大阪湾か舞鶴湾かまでいって上陸したという考えもあるよ。
あと、当時の政権は後の朝廷のような中央集権化したものではない。邪馬台国が局地的な小さな勢力だったとしても、その内部では豪族の同盟程度の連携しかなかったとも考えられる。
むずかしいねー


131 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/12(土) 12:38
ごめん。さっきのデタラメだらけだった


132 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/12(土) 20:20
>129
それは、分かっている。
けど、あえて聞いてみたんだ。
古田氏以外にも、その説を唱えている人がいるのかなと思ってね。



133 名前: 116 投稿日: 2000/08/14(月) 12:56
>118,119
 ありがとうございます(遅レスごめんなさい)