2007年9月28日(金)古代史の仮説A〜邪馬台国は宇佐にあった?〜
さて、古代史最大の謎の邪馬台国がどこにあったかについて、今日は僕の説を述べたいと思います。ズバリ僕は「邪馬台国宇佐説」で、卑弥呼の墓は真玉町にある猪群山ストーンサークルだと思っています。僕は「魏志倭人伝」に書かれていることはすべて正しいという立場で、実際に現地調査して考えをまとめました。
通説では、一大国(いきこく)より「又渡一海千余里」の末盧国(まつらこく)は佐賀県の東松浦半島とされています。これは「後漢書東夷伝」に書かれている奴国(なこく)の王がもらった「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印が福岡県の志賀島で発見されているので、奴国=博多付近という固定観念ができあがっているからにすぎません。だから初めに奴国ありきで逆算して東松浦半島が末盧国なのです。地名も似ていますし…。でも考えてみて下さい。「後漢書東夷伝」には「その後倭国大乱す」と書かれているではありませんか! そこで邪馬台国連合が東遷したと考えれば、239年頃に奴国が博多だという前提が崩れるではありませんか!
それと東松浦半島では壱岐より一千里というには近すぎます。むしろ神湊(こうのみなと)の方が距離的にも地名的にもぴったりです。東京商船大学の茂在寅男教授が指摘するように、弥生時代の双胴船に乗ってきた魏の使いが来た「草木茂盛」の季節は、海流から考えても神湊に上陸する方が理にかなっているそうです。神湊の近くには宗像三女神を祭っている宗像大社があります。海北道中の航路にもあたります。神湊にある年毛神社(としもじんじゃ)で代々宮司を務めている永島家に伝わる「永島文書」には、この地がかつて「万津浦(まつら)」と呼ばれていたと書いていました。以上のことから僕は、末盧国は神湊だという説(高木彬光や山上智らの説)を支持します。
末盧国を神湊と比定したら、後は「魏志倭人伝」に従って「東南陸行五百里」が伊都国になります。1里=75mとすると東南に37.5kmの赤池町辺りが伊都国、さらに「東南至奴国百里」すなわち7.5kmの田川市が奴国、そして「東行至不弥国百里」すなわち東に7.5kmの香春町(かわらまち)が不弥国(ふみこく)となります。いずれの地からも内行花文鏡(ないこうかもんきょう)が発掘されていますし、神功皇后の伝説も残っています。
僕は卑弥呼が魏からもらった銅鏡は三角縁神獣鏡ではなく、内行花文鏡だという山上説を支持します。通説の三角縁神獣鏡は発見されすぎで全然希少価値もありません。日本で作った鏡ではという説もあります。その点内行花文鏡は時代は少しさかのぼりますが、後漢時代からの中国伝統の鏡と考えれば、魏の使いが卑弥呼に百枚贈るにはふさわしい鏡ではないでしょうか?
さて不弥国である香春町は、香春岳の麓にある町です。香春岳三の岳からは銅が採れます。神間歩という古代銅の採掘所跡もあります。この地にある古宮八幡(こみやはちまん)には、宇佐神宮御神鏡鋳造の里と書かれています。古宮八幡で造った銅鏡を宇佐神宮に納めるという放生会(ほうじょうえ)という儀式が、奈良時代から昭和時代まで続いていました。(昭和48年に再現されたのが最後です)このことは代々この土地を治めていた長光家に伝わる「長光文書」にも詳しく記されています。
ところで「水行」とは従来「船で行く」と考えられていますが、僕はそうだと思いません。なぜなら船は神湊の浜に置いてきているではありませんか! 僕は「水行=水辺を歩く」と解釈します。大学では第二外国語で中国語を学んだのですが、「行」には「歩く」という意味があります。「行進」という言葉を思い浮かべて下さい。見事に歩いているではありませんか? 道路も整備されていない夏には、川原を歩く方が安全だと思いませんか? 香春町には御祓川(みそぎがわ)があり、それを南に歩いていくと今川にぶつかります。今川は昔は祓川(はらいがわ)とつながっていたようで、それを歩いて行くと行橋(ゆくはし)に着きます。道中には、京都郡という地名が残っています。そして行橋には宇佐神宮の下宮である豊日別(とよひわけ)神社があります。ここが「南至投馬国水行二十日」の投馬国になります。そして神聖なる邪馬台国に入るために、祓川でゆっくり禊ぎなどをして陸路歩いて行くと、宇佐すなわち邪馬台国に到着するのです。「水行十日陸行一月」です。この行程は放生会の記録とほぼ一致するのです。つまり、魏の使いが銅鏡を納めた名残が、放生会という儀式として残っていると考えられるのです。
宇佐は「魏志倭人伝」に書かれている「一万二千余里」という距離的にも一致しますし、風俗も合います。そして何より今でも天皇家の宗廟である宇佐神宮があります。宇佐神宮には前回も述べたように応神天皇・比売大神(ひめのおおかみ)・神功皇后が一の御殿から三の御殿までの順番で祭られています。しかし真ん中にいるのは比売大神です。この比売大神が卑弥呼だと思います。そして神功皇后が台与(とよ)、その子供の応神天皇が東遷して大和朝廷を開き、八幡神として祭られていると思います。作家の高木彬光氏は宇佐神宮の中の亀山こそが前方後円墳で卑弥呼の墓だとしていますが、宮内庁から発掘許可が下りるわけなく調べられません。でも僕は、ここは卑弥呼の墓ではないと思います。僕ら現代人でも、自分の家に墓は作りません。家から離れた所に墓地はあります。
宇佐神宮から南に御許山(おもとやま)という山があります。この山の上には、宇佐神宮の奥宮の大元(おおもと)神社があります。森林の中にある荘厳な神社です。ここの拝殿の奥の丘には、宗像三女神を祭った三巨石が立っているそうです。比売大神の祖先です。ただ禁足地となっていて入ることができません。だからここが卑弥呼が「鬼道」を行っていた所かもしれません。そんな神秘的な場所なのです。そして大元神社の拝殿からちょうど丑寅すなわち東北の方向の真玉町に、猪群山(いのむれやま)ストーンサークルがあるのです。多くの人が指摘しているように、248年に起きた皆既日食のため卑弥呼は殺されたとするならば、その亡骸は鬼門にあたる丑寅の方角に埋葬するのがふさわしいのではないでしょうか? 人里離れた猪群山ストーンサークルは怨霊封じに適当な場所だと考えられたのではないでしょうか? 禁足地と女人禁制という不思議な共通点も見逃せません。猪群山ストーンサークルが女人禁制なのは、神聖なる女王・卑弥呼の墓だからではないでしょうか?
投稿:清水淳司 | 2007年10月15日(月) 16:21
もっとアカデミズムの人たちが(ストーンサークル)について勉強してもらいたいと思います。
これからも応援します。ガンバってください。
投稿:古代史探偵 | 2007年10月14日(日) 20:14