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2008-03-09 ブログとか書いてる場合ではない、多分本当は

[]小学生はガンガン犯行予告とかすればいいと「本気で」思うよ

前回のエントリの続きということに一応なる。

前回のエントリならびに今回のエントリは、id:i-Agへの応答ということになるのだけど、前回と今回ではやや性質が異なる。ので、そのことをまず書いておく。

前回のエントリに関していえば、Agさんの言っていることには基本的に首肯しつつも、同じ事態に対して別の方向からも見ることができるよ、ということを示したくて書いた。その点で、応答としては間接的なものとなっている。

さらにいえば、Agさんの件のエントリは、id:Muichkine「小学生はガンガン犯行予告とかすればいいと思うよ」に対する応答だったのだけど、僕のエントリはMuichkineのエントリに対する応答にはなっていない*1


さて、今回は、Agさんから

素朴に疑問なのです。

「犯行予告の乱立を実際に見てみたい」の本気度はどれくらいですか?

実際に、って、本気ですか?

http://d.hatena.ne.jp/i-Ag/20080307/p1

と問いかけられたので、それに対して答えたいと思う。


既にエントリのタイトルで答えているのだけど、本気なんだよ。

2004年の6月に、2ちゃんねるで小学生を襲うという書き込みがなされ、その書き込みをした男が、威力業務妨害で逮捕されている。

僕はその当時、はてなではないところでブログを書いていたのだが、その頃のログが残っていた。

逮捕された男は容疑を認めているらしいのだが、

この事件はなかなかヤバイと僕は思っている。

ネタとベタの違いが分かりにくくなっている、ということは

いくらネタだと言ったって、逮捕されることがあるかもしれないということだ

2004年06月28日)

2ちゃんねる、ないしWEB上の書き込みに対して、威力業務妨害が適用されるというのは、これはよくないことだと僕は思っている。

今回の小学生による犯行予告にいたっては、どうもニコニコ動画コメント欄でなされたらしいのだけど、それが取り締まられたというわけだ。

このような取り締まりは、はっきりいって馬鹿馬鹿しい。

正直、ネットで犯行予告する奴は単なる馬鹿だと思うのだけど、そんな馬鹿をわざわざ捕まえてくるのは、それに輪をかけて馬鹿馬鹿しいことだと思うのだ。

こんな馬鹿馬鹿しい社会は、はっきりいって僕は嫌だ。

しかし問題は、その馬鹿馬鹿しさをいかに批判し、そしていかに変えていくことができるか、だ。

こういう話をするのも何だかなーと思うのだが、当時の僕は、実際に自分で犯行予告ができないかということも考えていたのだ。

逮捕されるようなインパクトをもつ犯行予告でありながら、かつ、逮捕されたとしても、明らかに悪意がなかったことを証しだてることができるような犯行予告*2

しかし、これはかなり難しい。というか、不可能のように思えた。

そういうこともあって、僕はこの件に関してはしばらく忘れていた。

ところが、「小学生はガンガン犯行予告とかすればいいと思うよ」を読むと、

ここには、その馬鹿馬鹿しさを変えていくことのできる方策が書かれていたわけである。

このエントリに対して、僕が素朴に感動した、というのはそういうわけだ。

つまり、社会というのは*3変えられるのである。

僕が一人でこそこそつまらん犯行予告計画をたてても社会はこれっぽっちも変わらない。

しかし、「小学生がガンガン犯行予告」をすると、社会は変わるかもしれないのだ。

だから実際に、本気で見てみたいのだ。


Agさんのエントリには

「本論が難しいのに、結論はわかりやすくキャッチーに書かれていて、わかりやすい言葉で危険な煽りが小学生に対して向けられていること」に反発を覚えました。

とも書いてある。

これは、煽る人間の性質に拠ってしまうところが大きい。

社会を変えるためには多くの人間を煽って動員する必要がある。その時、煽る側の人間はその目的と手段を正確に理解しておく必要があるが、煽られる人間に対してそれを懇切丁寧に伝えておく必要は必ずしもない。

ただ、そうした運動は瓦解する可能性も結構高いし、煽る人間の精神的強度も必要とされる。

それから、小学生が一人か二人、ぽつぽつと犯行予告するだけではダメで、一気に多人数が行うことがここでは求められている。

それを読み取れずに、これに煽られて犯行予告をしてしまうような奴は、単なる馬鹿でしかない。

しかし僕が言いたいのは、そういう馬鹿をわざわざ捕まなきゃいけないような社会の方が、よっぽど馬鹿らしいということだ。


こういうことをいうと、また無用な反発を受けたりしてしまいかねないんだけど、

僕は、モラルよりも自由の方をより重視するということだ。

前回のエントリと今回のエントリは、直接は結びつかないのだけど、しかし一応結びつけておくと

罵倒語のゲームないし犯行予告のゲームが、その馬鹿馬鹿しい取り締まりによってできない、というのはどうなのよ、ということだ。

そういう取り締まりによっていくつかのゲームができなくなる社会よりも、様々なゲームが自由にできる社会の方が望ましいと、僕は思っている。


もちろん、色々なゲームができたとしても、

(前回のエントリの言葉を使うのならば)異なる文化の人間がいることに配慮して、「死ね」という言葉を使わないようにする、あるいは犯行予告なんてしないようにする、というのが大人というものだ。

その点では僕も、Agさんの「冗談でもそういうこと言うなよ、と思うときがあるんだ。」には同意する。

しかし、だからといって、そういう意味で「大人」ではない人間を取り締まることには、同意できない。

そして、そういった取り締まりに対する批判と、そういった取り締まりを行う社会を変える方法として、「小学生がガンガン犯行予告」をすることが有用であるならば、僕は「本気で」それが行われればいいと思う。


追記

らいたーずのーとのコメント欄に対して、ちょっとコメントしてみる。

Muichkine

「犯行予告」は犯行ではなく、それ以前の文章であるということにかかってる。

(中略)

俺は「殺人」は悪いことだと思うけど「犯行予告」は悪いことだと思っていない。

僕が、犯行予告を取り締まるのは馬鹿馬鹿しいと思うのも、まさにこのように思っているから。

殺人を取り締まることは、全く馬鹿馬鹿しくない。

犯行予告を取り締まりの対象とすべきか否かは、おそらくボーダーラインの事象で、どのような社会を理想的なものとして思い描くかで、人によって答えが変わってくるのではないかと思う。



Muichkine

まあ、犯行が起こった上で、どこかに2chに犯行予告があったってのが見つかればアホな市民は反発するわな。まあでもそれって無視できるし。今現在余裕で無視されてるし。

アホ市民からの反発を回避するために小学生を取り締まってるわけではない。別の理由があると考えるのが妥当だ。


SuzuTamaki

反発を回避するために取り締まっているわけではない、と主張されて、はあ、そうなのかあ、と思いつつ、しかし実際にではどういうほかの理由で取り締まっているのだろうと疑問に思っています。ここは単に自分の不勉強でしかないのですが、上記の記事を書いたうえでの自分の中での前提は、やはり市民の反発への対処としての警察行動でした。それ以外の理由を考えるのが妥当であるとは思えませんでした。

警察は、市民のために行動している組織と理解するのは、正直危ういことだと思う。

個々の警察官はともかくとして、警察という組織が必ずしも市民のために行動しているかというと、それはなかなか言い難いところだと思う。

2ちゃんねるなどウェブでの書き込みを取り締まっているのは、それが技術的に可能になった、ということが大きいように思う。


Muichkine

犯行予告ってなんでやるんだっていったら、目立ちたいからで、みんながやりだしたら目立たなくなるから犯行予告なんて面白くなくなるって指摘は面白い。確かにそういう所もあるかもしれない。

あと、いくらフィルタリングしても勝手に遊び場を見つけるだろうという予測も、まあ分からなくないね。それでいいっちゃいいけど、俺が子供だったらやだなってだけの話よ、俺がフィルタリングに反対するのは。

別のゲームが始まる可能性はある、と思う。

そういう別のゲームが果たして面白いのか、実際行われたとしてどうなのか、という点はさておく。フィルタリングは、別のゲームの可能性を予め塞いでしまうので、あまり好ましくないと思う。

実際に別のゲームをするかどうかは、また別問題になってくるのだが、別のゲームがありうるという可能性を思うだけでも、僕は楽しくなってくる*4

ところで、僕は前回のエントリで「かっこいい犯行予告を競い合う」というようなことを書いた。

犯行予告というと、基本的なフォーマットは、新聞の切り抜きを貼りつける奴だと思う。

あのフォーマットは、犯行予告を想起させるが、犯行予告以外のデザインにも多く使われている。

あれが最初に使われたのが、実際に犯行予告なのかどうかは、僕には定かではない。

コラージュ技法を想起させるので、ダダイズムないしシュールレアリスムあたりに起源がありそうだと思う。

なにぶん、ダダのことなので、芸術ではなく本当に犯行予告として使った可能性も否定はできないと思う。ダダでなかったとしても、ダダから左翼運動に伝わってという経路も十分想像できる。

ここらへんのことは、僕が不意に思いついただけのことなので、何一つ裏付けはないが。

このエントリの注釈で、チャタレー裁判赤瀬川原平のことにも触れているが、現代アートと犯罪というのも結構ボーダーなことが多い。

「別のゲームがありうるという可能性を思うだけでも、僕は楽しくなってくる(ないし心が豊かになる)」と述べたが、それはそのような現代アートの存在意義にも関わってくることなんじゃなかろうか、などとも思った。

Muichkineのエントリを読んだときに現代アートのことまで考えていたわけではないけれど、大量の犯行予告が飛び交うという情景には、確かに現代アートっぽさを感じてしまうところがある。

犯行予告がガンガン出てくるのって面白い、と僕が感じたときの感覚と

わけの分からない現代アートを見て面白い、と感じるときの感覚は、多分どこか似ている。

*1:その点、昨日SuzuTamakiと直接話したとき、ゲーム的罵倒の話は犯行予告の話とは話がずれてると指摘された

*2:これは要するに、裁判になったときに、チャタレー裁判とか赤瀬川原平の偽札裁判になるような感じにさせるということ

*3:このエントリでは均衡という語が使われている

*4:心が豊かになる、と言い換えたっていい