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愛の旅人

「イエスの方舟」

千石剛賢とまさ子

2007年11月17日

 口開けのビールの小瓶を飲み干したころ、もみしだかれた足の裏から生ぬるい気だるさが這(は)いあがり、仕事で高ぶっていた神経はなおさら弛緩(しかん)させられた。カウンター席に腰かけたとたん、靴を脱いだ足元に埋めこまれたマッサージ器を作動させてくれたのだ。

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夜がふけたころ、「シオンの娘」の女たちは合唱する。客をもてなすのも、千石の教えの伝道になる=福岡市・中洲で

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「方舟」が93年に自力で建てた会堂で、「おっちゃん」の復活を説く千石まさ子さん=福岡県古賀市で

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中洲の人形小路。ひしめく雑居ビルの谷間にある

相関図

  

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千石剛賢

 二十数人が座れる馬蹄(ばてい)形のカウンターは常連客でほぼ満席である。内側に姿勢よく座って酔客の話し相手になっている十数人の女たちは、けっして視線をそらさず、微笑を絶やさず、うわの空の受け答えをしない。

 かつて宗教学者の島田裕巳さんが、その光景から、寮生活で礼儀作法をウエートレスに厳しくしつけたことで知られた、いまはなき東京の名喫茶「談話室滝沢」を連想していたことが納得できる。深紅のじゅうたんが敷きつめられて、時代がかったその空間には、人を慰撫(いぶ)する奇妙なバイブレーションが満ちあふれているようだった。

 クラブ「シオンの娘」が福岡市の中洲で開店してから、四半世紀が過ぎた。密集した雑居ビルの送風口から吐き出される臭気が、欲望のため息のようによどんだ歓楽街の片隅に埋没してしまいそうな店構えだが、そこが「イエスの方舟(はこぶね)」の店だと知る常連客をいまだにひきつけてやまないようだ。

 千石剛賢(せんごく・たけよし)に率いられたキリスト教信仰集団の「イエスの方舟」は70年代後半まで、東京で26人の会員がつましく共同生活しながら聖書研究に没頭していた。ところが、悲嘆にくれた母親の手記が「方舟」を不穏なスキャンダルの渦中に投げこんだのだった。

 79年の暮れ、「千石イエスよ、わが娘を返せ」と題して「婦人公論」に掲載されたその手記は、こつぜんと失踪(しっそう)した娘が「方舟」に監禁されており、その非道を糾弾された「方舟」は、かどわかした娘たちを道連れにして全国を逃亡している、と訴えかけていた。

 これが発端となり、消息をかき消していた「方舟」を、淫(みだ)らなハーレムや邪教集団などと非難するマスメディアのバッシング禍が襲った。災厄から逃れるように、「方舟」は福岡にたどり着くまでの2年余り、転々と流浪していたが、結局、「サンデー毎日」のスクープでついに真相が語られ、集団妄想と化した誤解が解けたのだった。

 つまり、悩める娘たちは千石の難色を押し切って、親の了解なく「方舟」に居つき、俗世にはありえないはずの安息を手放そうとしなかったのだ。

 福岡に住み着いた会員が働き、日々の糧を得る術(すべ)とした「シオンの娘」は健在だが、「おっちゃん」と慕われた千石は01年に78歳で他界した。カリスマの引力を失った「方舟」は、ふたたび漂流しかけていないのか。しかし、三女の恵さんはこう語るのだ。

 「肉体は滅びても、おっちゃんは生き続けています。私たちを置き去りにせず、より一層、一体になっている」

 復活譚(たん)にしばし聴き入ってみた。

差別なきユートピアだった

 いまわの際の床にあって、千石剛賢は口伝えに三つの遺言を会員たちに託していたという。

 「仲良くすること」「健康に気をつけること」「聖書の研究を続けること」

 俗人には拍子抜けしそうなメッセージだが、「イエスの方舟」の会員たちにとっては深遠な箴言(しんげん)だったのだそうだ。とりわけ、「仲良くせよ」という戒めには格別の重みがあるらしい。

 「方舟」がまだ、「極東キリスト集会」と称していた63年に、東京で最初に生活も共にする会員となった大沢捷子さんは、高校生のころから通った集会で「他人のない生活」という未知の体験に胸を打たれたのだという。その甘美な打撃は、ことあるごとに「仲良くしなさい。それがいちばん大事なことだ」と千石に諭されて研ぎ澄まされていったというのだが、「他人がない」とは、どういう意味なのか。

♪  ♪  ♪

 大阪から上京した3家族が寄り集まった会員たちは当時、東京・国分寺で3LDKの旧米軍ハウスを借りて暮らしていた。聖書の聖句を読み解く集会や日曜学校を開きながら、多摩一帯の家々を一軒ずつ訪ねて注文を取る刃物研ぎで細々と生活資金を稼いでいた。

 千石はそれぞれの家族の子どもたちが血縁で差別されないよう、実の子に「お父さん」と呼ばせなかった。だから「おっちゃん」なのである。部外者には「責任者」と紹介された。

 大沢さんにとっても「千石さん」ではなく「私のおっちゃん」だった。

 「誰がおっちゃんの実の子で誰が奥さんなのかも分かりませんでした。いうなれば、区別はあるが差別のない世界。私が悩んでいれば、おっちゃんは実の子を放ったらかして、夜を徹してでも、とことん話を聴いてくれた」

 東京脱出の前年、高卒後に就職した銀行を辞めて、「方舟」の共同生活に加わった長戸正子さんは、家庭や仕事上の人間関係に耐えがたいあつれきが生じて逃避したわけではないという。

 「家でも勤め先でも、見かけは平穏を取りつくろっていながら、えもいわれぬ疎外感に苛(さいな)まれたりしましたが、『方舟』にはそんな不安がみじんもなかった。赤の他人の娘である私が分け隔てなく、おっちゃんの実の子のように大切に思われ、心配してもらえた。まさにここがユートピアなのか、と強烈に目を見開かせてくれました」

 生前の発言や著書を読むと、千石の教えの根底には「汝(なんじ)の隣人を汝自身の如(ごと)く愛すべし」という聖句がある。それを厳格に敷衍(ふえん)して、親子、兄弟姉妹の絆(きずな)などというものは幻想である、真実、一体化する人間関係に眼(め)をつけよ、と唱えていた。それが誤解の火種になって、ひそかに家族崩壊の予兆におののきつつあった、一億総中流化した日本人の集団被害妄想を途方もなく膨張させてしまったようだ。

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 「サンデー毎日」は、会員の親たちの糾弾を逃れて78年から2年余りも逃避行を続けていた「方舟」と極秘に接触してかくまい、千石の弁明や、誘拐・監禁されたといわれていた会員の反論をスクープにした。当時、サンデー毎日記者で「方舟」を担当していたノンフィクション作家の山本茂さん(70)は、千石の印象を忍耐強い医師のようだったと言う。

 「彼のリーダーシップは凸型ではなく凹型。自我の悩みを矢継ぎ早に問いかける会員たちと粘り強く対話を続けながら、『それは、お前の感受性がええちゅうことや』と悩みそのものを肯定して、ほめた。よい意味で、天性の『人たらし』の磁場を発していた」

 宗教団体ではない「方舟」は合議制で運営され、金銭などは共有財産で、「シオンの娘」のほか、男性会員が工務店を経営して生計を支えている。三女の恵さんによると、漂流時代の26人の会員はほとんど脱落していない。福岡に住み着いた後で加わった会員も3人いるが、騒動のころは子どもだった世代だという。夫婦も6組いる。

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 「主幹」の肩書で、いま「方舟」の代表者となっているのは、千石の妻だったまさ子さん(84)だ。共同生活の世話役に黙々と徹していたが、千石亡き後、集会を主宰し、「シオンの娘」で客をもてなしている。不思議なことに、会員や常連客は彼女に「おっちゃん」と呼びかけるのである。

 「なぜ、『寿命』と書くのか、ご存じですか。めでたい命へ転換するからです。たとえ死んでも、おっちゃんの命の実質は、とこしえにここにある。それを、私たちは復活の事実といいます。だから、心配いらないのです」

 「シオンの娘」の名物の歌と踊りのショーが始まると、「おっちゃん」はやおらステージに立ち、演歌の大音量のメロディーに負けじと、和太鼓を高らかに打ち鳴らすのだった。

文・保科龍朗、写真・岩崎央

〈ふたり〉

 兵庫県加西市の豪農の家に生まれた千石剛賢(写真は93年撮影)は51年に刃物工場の経営に失敗、レストランの支配人の職にありついた神戸でキリスト教会に通い始めた。翌年、最初の妻と離婚し、まさ子さんと再婚すると、大阪で聖書研究会に夫婦で参加するようになった。3家族を中心とした研究会の会員10人が60年に上京、東京都国分寺市に廃材で小屋を建てて「極東キリスト集会」と名乗ったのが「イエスの方舟」の母体である。

 まさ子さんとは後に形式的に離婚し、古参会員の娘らを次々と養女にしたが、会員との関係を対等にする方便だったという。千石の没後は、まさ子さんが代表者の主幹に、三女の恵さんと養子の雄太さんが副主幹になり、「方舟」をまとめている。

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