松本清張 「点と線」
今から、ほぼ半世紀前に書かれたこの小説について、最近、二つの面白い話を聞き込んだ。
一つは、ミュンヘン五輪(一九七二年)で日本男子バレーボールを世界の頂点に導いた、あの鮮やかな「時間差攻撃」が、この『点と線』のトリックから誕生したという話だ。バレーボールと、この推理小説が一体、どんな線で結ばれているのか? 取材は、時間差攻撃を編み出した男、日本バレーボール協会の松平康隆・名誉会長を訪ねることからはじまった。
東京・渋谷のカフェ。カプチーノを前に松平氏は、話しはじめた。
「東京五輪以来、日本男子バレーは、背丈の高い欧米選手のブロックに苦戦していた。厚く高い壁だった。そんな時、たまたま『点と線』を読んだ。冒頭の東京駅のシーンにハッとした。ラッシュアワーの東京駅で男が、連れの女二人に、仲むつまじく列車に乗り込む男女を目撃させる。十三番ホームから十五番ホームが見渡せるわずか四分間の空白を使って…」「そのときひらめいた。水平のホームを縦にしたら、バレーに応用できるのではないかと。東京駅の“四分間の空白”のように、相手のブロックを空白にする時間をつくればいいと」
おとりの選手がジャンプすることで、相手のブロックのタイミングを外し、別の選手がその空白の一秒間にスパイクを打ち込む―。時間差攻撃は、意外にも、この小説から生み出されていた。
もう一つの話は、福岡に住む中国人留学生からもたらされた。「母国では『点と線』は警察官の参考書です」と言った。本当だろうか? 半信半疑で、北京の首都師範大学の王成助教授(日本文学専攻)に国際電話を入れた。王氏の返事は、そのことを裏付けた。「『点と線』は、一九七八年に中国に紹介された。出版したのは警察官向けの出版物を出す群衆出版社。殺人を心中に偽装する手口、難攻不落のアリバイを持つ犯人を追い詰めてゆく刑事の執念が、まず、この小説を警官の実用書として普及させた」
『点と線』は、日本の社会派推理小説の原点といわれる作品である。一九五七(昭和三十二)年から一年間、日本交通公社(当時)発行の月刊誌「旅」に連載された。物語は、冬の寒い朝、福岡市の香椎海岸で一組の男女の死体が発見されることから展開する。男は贈収賄事件の渦中にある中央官庁の課長補佐で、女はかっぽう料亭の仲居。二人は一週間前、東京駅十五番ホームで博多行き寝台列車「あさかぜ」に乗り込むところが目撃されていることもあり、警察は情死事件として処理しつつあった。しかし、細部に疑問を持った地元の古参刑事と警視庁の若手刑事が事件を追跡、やがてある容疑者にたどりつく。が、彼には鉄壁のアリバイがある―。
手に汗握るのは、時刻表を駆使し、九州、東京、北海道にまで張り巡らせた容疑者の周到なアリバイ工作を、刑事たちが突き崩していく過程である。それに、人物に圧倒的なリアリティーがある。特に、容疑者の病妻が情死偽装に加担していく、暗く切ない情念の描写は精緻(せいち)を極める。
北九州市立松本清張記念館の学芸担当・中川里志氏は「捜査権を発動させないための偽装情死、東京駅ホームの四分間の空白などのトリックに加え、全編に漂う旅情、事件の背景に汚職事件という社会性を盛り込んだ新しさなど、数々の魅力が『点と線』を彩っている」と語る。それが、多くの評者をして、この作品を「トリックと人間を描くことを融合させ、日本の推理小説に新しい地平を開いた作品」と言わしめる所以(ゆえん)であろう。
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松本清張は、この作品に関して興味深いことを語っている。要約してみる。…自分は昭和二十八年暮れ、朝日新聞西部本社から東京本社に転任し、家族を残してしばらく荻窪の親せきの家に下宿し通勤していた。夕方、中央線のホームに立つと、九州行きの列車が見える日があった。あの列車に乗れば、明日の昼ごろには小倉の家族に会えるという感傷があった…。
そうだったのだ。この作品の奥底には、単身赴任していた清張の郷愁が流れているのだ。清張は、その郷愁を旅情に昇華させ、高度成長期に向かって目まぐるしく変化する昭和三十年代初頭の世相や、上級役人を支えるため官僚組織の中で翻弄(ほんろう)される下級官僚の悲劇もこの小説に書き込んだ。そして、常識の盲点を突き、虚線に隠された実線をあばく、この小説は出版後、一挙にベストセラーに躍り出た。
取材の最後に、夕刻の東京駅に立った。コートを着て家路を急ぐ無数の人々が、それぞれ孤独な「点」に見えた。私も、また、「点」となって、九州行きの寝台特急に乗り込んだ。
(文=経済部・藤田中、写真=東京支社・百合直巳)
(2006年1月15日・西日本新聞朝刊)
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▼まつもと・せいちょう 1909(明治42)年12月21日、福岡県企救郡板櫃村(現・北九州市小倉北区)生まれ。50年、朝日新聞西部本社広告部に勤務する傍ら書いた小説「西郷札」が週刊朝日の懸賞で3等入選。53年「或る『小倉日記』伝」で第28回芥川賞受賞。同年11月上京。56年から作家活動に専念し、「点と線」「眼の壁」などで社会派推理小説という新分野を開拓。創作活動は、歴史小説、古代史・現代史研究など多岐にわたり、代表作に「砂の器」「ゼロの焦点」「かげろう絵図」「古代史疑」「日本の黒い霧」「昭和史発掘」など。92年8月4日死去。
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●私の推薦文=官僚機構の暗部えぐる 上田喜久雄さん(63)=「清張の会」事務局長 『点と線』は大好きな作品の一つで、昨年の寝台特急「あさかぜ」(東京―下関)の廃止のときは、「ラストランに乗らんことには会の存在価値が問われる」と、会員二十人が東京駅から乗車しました。乗車の前には、小説の冒頭に登場するビア・レストラン「レバンテ」で懇親会も行い、清張論に花を咲かせました。
『点と線』は、読者の旅心をかき立てながら、官民癒着や官僚機構の暗部をえぐったところがすごいと思います。社会の表層だけでなく深部にも筆が届いているので、古びた感じはありません。ただ、小説の現場の香椎海岸は埋め立てられ、犯人がアリバイに使った青函連絡船も廃止され、昭和が遠くなったと感じます。清張の、この名作もそのうち、注釈がいる時代がくるかもしれません。
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