「レイテ戦の名将」出版 竹野の細田さん 2002/08/15 日本側だけで約五十万人の戦没者が出たフィリピン。南部のレイテ島は、日米陸海軍が死闘を繰り広げた激戦地だった。当時、陸軍士官学校生だった竹野町轟の元教諭、細田昌さん(77)が、レイテ戦で陸軍第一師団を率いた城崎町出身の故片岡薫(ただす)中将の半生をつづった「レイテ戦の名将 片岡薫」を出版した。生存率3%の戦いから復員し、戦死した仲間の慰霊に努めた晩年までを描き、戦争の悲惨さを訴える。きょう十五日は終戦記念日―。 片岡中将は一八九四年、城崎温泉街のしにせ旅館「三木屋」の四男として生まれた。陸軍大学、東大法学部の聴講派遣を経て、満州に赴任後、南方に向かった。 レイテ島は緒戦で日本軍が制圧したが、連合軍が攻勢に転じ、一九四四年十月、マッカーサーが上陸を始めた。翌月、片岡中将も上陸し、第一師団の一万三千人を率いたが、その後の攻防戦で約一万人を失い、ゲリラ戦に入った。終戦を知って降伏、生き残ったのは約四百人だった。 細田さんは、郷土から戦地に赴いた片岡中将に興味を持ち、生前から付き合いを持った。七年前から執筆を始め、関係者にも取材した。 著書では、部下に残虐行為を厳しく戒める一方、自作の手巻きたばこを与えたり、太平洋戦で唯一、正式な降伏式を行った律儀さを描いている。片岡中将は戦犯に問われず復員し、晩年、豊岡市内の証券会社に勤めながら、戦没者の遺族に手紙を送ったり、戦記などを記した。六三年、六十九歳で亡くなった。 細田さんは「当時の日本は視野が狭く、泥沼の戦いに身を投じたが、選択肢がない中で、真摯(しんし)に生きた将兵がいたことを知ってほしい」と話している。 A5判、二百六十四ページ。実費で頒布する。細田さんTEL0796・47・1348 [ 閉じる ]
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